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144000人とは誰の事か

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2017年 7月17日(月)04時13分27秒
  144000人とは誰の事か

聖書の最終章のヨハネの黙示録には144000人という人々が現れます。これはいったい誰の事であるかという論争が今までたまさかに起こっていました。まずは読んでみましょう。

ヨハネの黙示録14:1なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。 14:2またわたしは、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のような声が、天から出るのを聞いた。わたしの聞いたその声は、琴をひく人が立琴をひく音のようでもあった。 14:3彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。 14:4彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。

今までいろいろな解釈が144000人についてなされてきましたが、最後に救われる人の数、最後に救われるメシアニックのユダヤ人の数、いろいろあります。上の聖句から見る限り、これは歴史の最後の局面でキリストの再臨が起こり、その時点で生きてキリストにまみえる人の数であるとわかります。女に振れたことのない者というのは清いということを意味しているのであって妻帯者を排除しているわけではありませんが、少なくとも女性は数えられていません。救われる人の全数が144000人だけというわけではないでしょう。

黙示録21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。 21:11その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。 21:12それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。 21:13東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。

黙示録7:1 この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。 7:2また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、 7:3「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。 7:4わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
7:5ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、
ルベンの部族のうち、一万二千人、
ガドの部族のうち、一万二千人、
7:6アセルの部族のうち、一万二千人、
ナフタリの部族のうち、一万二千人、
マナセの部族のうち、一万二千人、
7:7シメオンの部族のうち、一万二千人、
レビの部族のうち、一万二千人、
イサカルの部族のうち、一万二千人、
7:8ゼブルンの部族のうち、一万二千人、
ヨセフの部族のうち、一万二千人、
ベニヤミンの部族のうち、
一万二千人が印をおされた。


黙示録6:15 地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくした。 6:16そして、山と岩とにむかって言った、「さあ、われわれをおおって、御座にいますかたの御顔と小羊の怒りとから、かくまってくれ。 6:17御怒りの大いなる日が、すでにきたのだ。だれが、その前に立つことができようか」。

キリストの再臨があって多くの人が逃げ惑う中、彼らはキリストに遭うのです。この人たちは誰でしょうか。ユダヤ人でしょうか。キリスト教会のメンバーでしょうか。

ローマ2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。 2:29かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。

この聖句はユダヤ人の意味を再確認しています。血統によるユダヤ人だけをユダヤ人としているのではなく、アブラハムが信仰によって選ばれたように、信仰によって神を選んで従うことを決意した人たちがユダヤ人であると教えています。

3:27キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。 3:28もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。 3:29もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

キリストを信じ、その偉大なる贖いの御業の前に屈服し、この世を捨てて神につく決心をしてバプテスマを受けた人は、ユダヤ人も異邦人もなくアブラハムの子であると言う訳です。さらに、

イザヤ58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、
わが聖日にあなたの楽しみをなさず、
安息日を喜びの日と呼び、
主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、
これを尊んで、おのが道を行わず、
おのが楽しみを求めず、
むなしい言葉を語らないならば、
58:14その時あなたは主によって喜びを得、
わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、
あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、
あなたを養う」。
これは主の口から語られたものである。

ヤコブの嗣業をもって養われるのはヤコブの子孫です。神の安息日を守るものはヤコブの子孫、十二人の息子の家族とみなされるということです。肉によるユダヤ人よりもユダヤ人であると言うことになります。

黙示録21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。

一方、ヤコブの12人の息子というのは必ずしも穏やかで平和な問題のない人たちではありませんでした。父の妻と姦淫したルベンから始まって、ヨセフを殺そうとした他の兄弟まで多くの奇人変人がいます。その12人の息子たちの名前が天の都の門の入り口に記念して名前が書かれると言うのは変だと思う人はありませんか。しかし、

黙示録21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
黙示録2:7 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい。勝利を得る者には、神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べることをゆるそう』。

ヨセフの兄弟たちは罪に対して勝利できた人たちだったと考えられます。

黙示録22:14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
歴史の最後の時点で、自分の着物を子羊の血で洗い清め、門をくぐることのできる人たちが144000人であると言えるでしょう。

最後に、下の引用の聖句は、ヤコブの臨終の床での12部族の預言です。最後に天の門に入るのは、それぞれのヤコブの息子の性質に近いものが集められるのかもしれません。あなたはどの門から入りますか。

創世記49:1 ヤコブはその子らを呼んで言った、「集まりなさい。後の日に、あなたがたの上に起ることを、告げましょう、
49:2ヤコブの子らよ、集まって聞け。
父イスラエルのことばを聞け。
49:3ルベンよ、あなたはわが長子、
わが勢い、わが力のはじめ、
威光のすぐれた者、権力のすぐれた者。
49:4しかし、沸き立つ水のようだから、
もはや、すぐれた者ではあり得ない。
あなたは父の床に上って汚した。
ああ、あなたはわが寝床に上った。
49:5シメオンとレビとは兄弟。
彼らのつるぎは暴虐の武器。
49:6わが魂よ、彼らの会議に臨むな。
わが栄えよ、彼らのつどいに連なるな。
彼らは怒りに任せて人を殺し、
ほしいままに雄牛の足の筋を切った。
49:7彼らの怒りは、激しいゆえにのろわれ、

彼らの憤りは、はなはだしいゆえにのろわれる。
わたしは彼らをヤコブのうちに分け、
イスラエルのうちに散らそう。
49:8ユダよ、兄弟たちはあなたをほめる。
あなたの手は敵のくびを押え、
父の子らはあなたの前に身をかがめるであろう。
49:9ユダは、ししの子。
わが子よ、あなたは獲物をもって上って来る。
彼は雄じしのようにうずくまり、
雌じしのように身を伏せる。
だれがこれを起すことができよう。
49:10つえはユダを離れず、
立法者のつえはその足の間を離れることなく、
シロの来る時までに及ぶであろう。
もろもろの民は彼に従う。
49:11彼はそのろばの子をぶどうの木につなぎ、
その雌ろばの子を良きぶどうの木につなぐ。
彼はその衣服をぶどう酒で洗い、
その着物をぶどうの汁で洗うであろう。
49:12その目はぶどう酒によって赤く、
その歯は乳によって白い。
49:13ゼブルンは海べに住み、
舟の泊まる港となって、
その境はシドンに及ぶであろう。
49:14イッサカルはたくましいろば、
彼は羊のおりの間に伏している。
49:15彼は定住の地を見て良しとし、
その国を見て楽しとした。
彼はその肩を下げてにない、
奴隷となって追い使われる。
49:16ダンはおのれの民をさばくであろう、
イスラエルのほかの部族のように。
49:17ダンは道のかたわらのへび、
道のほとりのまむし。
馬のかかとをかんで、
乗る者をうしろに落すであろう。
49:18主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。
49:19ガドには略奪者が迫る。
しかし彼はかえって敵のかかとに迫るであろう。
49:20アセルはその食物がゆたかで、
王の美味をいだすであろう。
49:21ナフタリは放たれた雌じか、
彼は美しい子じかを生むであろう。
49:22ヨセフは実を結ぶ若木、
泉のほとりの実を結ぶ若木。
その枝は、かきねを越えるであろう。
49:23射る者は彼を激しく攻め、
彼を射、彼をいたく悩ました。
49:24しかし彼の弓はなお強く、
彼の腕は素早い。
これはヤコブの全能者の手により、
イスラエルの岩なる牧者の名により、
49:25あなたを助ける父の神により、
また上なる天の祝福、
下に横たわる淵の祝福、
乳ぶさと胎の祝福をもって、
あなたを恵まれる全能者による。
49:26あなたの父の祝福は永遠の山の祝福にまさり、
永久の丘の賜物にまさる。
これらの祝福はヨセフのかしらに帰し、
その兄弟たちの君たる者の頭の頂に帰する。
49:27ベニヤミンはかき裂くおおかみ、
朝にその獲物を食らい、
夕にその分捕物を分けるであろう」。
 

罪と裸の恥

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2017年 7月16日(日)08時36分51秒
  裸の恥とはなんであるかと考え、そこからキリストの
必要を学んでみましょう。まず黙示録には次のように
あります。

黙示録16:15 (見よ、わたしは盗人のように来る。裸のままで歩かないように、また、裸の恥を見られないように、目をさまし着物を身に着けている者は、さいわいである。)

裸でいることが恥ずかしい事であると言うのはわかり
ますが、それは罪なのでしょうか。創世記のはじめに
人がエデンの園でどうしていたでしょうか。

2:25  人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、恥ずかしいとは思わなかった

アダムとエバは裸でいたのに何も恥ずかしいと思いませ
んでした。しかし、その状況は罪を犯すことによって一
変しました。

2:15  主なる神は人を連れて行ってエデンの園に置き、これを耕させ、これを守らせられた。 2:16主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。 2:17しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

神はただ一つエデンの園の一本の木から実を食べること
を禁じられました。これは些細な事だったのでしょうか。
それはまた別項で説明します。

アダムとエバはこうして神のいいつけに背いて神から離
れてしまいました。木の実を食べたというところに問題
があるのではなく、神への信頼を自ら傷つけたという所
に罪の本質があります。

創世記3:6  女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。 3:7すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。

なんと罪を犯した結果、自分の裸が恥ずかしいと思うよう
になってしまいました。それでイチジクの葉を寄せ集めて
局部に巻きました。前は恥ずかしいと思わなかったのにど
うして急にそう思うようになってしまったのでしょうか。
羞恥心がなかったのが、木の実を食べて突然羞恥心に芽生
えたのでしょうか。聖書はそれについて何か説明をしてい
るでしょうか。

詩篇8:5  ただ少しく人を神よりも低く造って、
栄えと誉とをこうむらせ、
8:6これにみ手のわざを治めさせ、
よろずの物をその足の下におかれました。

詩篇によると、人間は神に創られて、神の栄光と誉をまと
っていたと示唆しています。

詩篇104:1  わがたましいよ、主をほめよ。
わが神、主よ、あなたはいとも大いにして
誉と威厳とを着、
104:2光を衣のようにまとい、天を幕のように張り、

それは詩篇記者の証によると、光のように神の栄光が人間
を覆っていたとしています。つまり神の栄光が裸の人間を
覆っていたので、恥ずかしいと言うことは何もなかったと
いうことになります。人間が罪を犯した瞬間に、その神の
光の栄光が取り去られ、神の栄光のない肉体がいかに惨め
て恥ずかしいものであるかに気が付いたのです。

結果、アダムとエバはエデンの園から退去させられました
が、神は彼らを裸のまま追い出しましたでしょうか。

創世記3:21  主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。

皮の着物とは何でしょう。動物の皮です。まだ創造されて動
物が一匹もころされていなかったときに神はある動物をほふ
ってその皮を人間に着せたのです。それが羊の皮衣であった
ことは間もなく聖書を読み進めて行くとわかります。羊を殺
して、人の罪を覆う衣にしたというのは、キリストをほふら
れて、人間の罪を覆うという神の救済のご計画の始まりがこ
こにあります。

詩篇11:4  主はその聖なる宮にいまし、主のみくらは天にあり、
その目は人の子らをみそなわし、
そのまぶたは人の子らを調べられる。

ヘブル9:22  こうして、ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。

神の栄光を失った人間を覆うために、罪のない獣の血を流さ
せ、その皮を剥いで人の衣として覆われたのです。何人もこ
の神のはからいによらなければ救われる道はありません。

黙示録 7:14  わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。

我々の罪を覆う衣とは神の栄光、すなわちキリストの血で贖
われた衣です。子羊の血によってのみ清められ、覆われるの
です。

黙示録14:7  大声で言った、「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたからである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」。

黙示録14:17  また、もうひとりの御使が、天の聖所から出てきたが、彼もまた鋭いかまを持っていた。 14:18さらに、もうひとりの御使で、火を支配する権威を持っている者が、祭壇から出てきて、鋭いかまを持つ御使にむかい、大声で言った、「その鋭いかまを地に入れて、地のぶどうのふさを刈り集めなさい。ぶどうの実がすでに熟しているから」。 14:19そこで、御使はそのかまを地に投げ入れて、地のぶどうを刈り集め、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ込んだ。 14:20そして、その酒ぶねが都の外で踏まれた。すると、血が酒ぶねから流れ出て、馬のくつわにとどくほどになり、一千六百丁にわたってひろがった。
 

原罪説に関して

 投稿者:谷川鹿男メール  投稿日:2017年 3月 8日(水)17時21分2秒
  罪と本能 本能と正常な感覚 は密接に関わりがある 例えば 女性と 楽しく話をする という 事があるとして 女性と楽しく話をすると言うことは 正常な 精神ですが ある部分だけ精製すると罪になります。正常な精神には肉の本能は含まれていますから誘惑されることは理解できますが精製しないと言うのが罪のない状態と言うことではないかと思います これらは 本能や潜在意識をコントロールできないと原罪は無いと言えないのではないでしょうか?ローマ8:3で肉の罪の様と書いてあるのは女性と楽しく話をすると言うことは 正常で あるが 神性のゆえに精製しない ということではないでしょうか だから 罪の様と書いてあるのではないでしょうか  

キリストの人性について  5

 投稿者:  投稿日:2016年 7月18日(月)03時19分1秒
  ここまで学んできた教会内にある“キリストの人性”の見解を、覚えやすくするため
に、まとめます。


見解  キリストの人性論     罪とは?    強調点       完全?
①   全体的:アダムの堕落前  原罪       救い主イエス    不可能

②   全体的:アダムの堕落後  律法を破ること イエスの模範:
                       罪からの完全な勝利 可能
③A
  肉体的・知的:アダムの堕落後
  霊的:アダムの堕落前    律法を破ること イエスの模範:   可能
                       神に 100%委ねて頼りきる。
                       罪からの完全な勝利は、その結果。
 B
  肉体的・知的:アダムの堕落後
  霊的:アダムの堕落前    原罪      救い主イエス     不可能


かつてのユダヤ教会には、パリサイ派とサドカイ派の神学者たちがいました。今ふう
に言えば、パリサイ派は保守的で、サドカイ派はリベラルでした。彼らの説く教えの
多くはお互いに異なっていたためによくぶつかり合いましたが、教えは両サイドとも
真理とは異なるものでした。サタンは、神の民が右側の溝に落ちようと、左側の溝に
落ちようと、一向に構いません。両側とも、イエスさまが教えられた中央にある“真
理の道”から外れていることを知っているからです。現代でも、キリストの人性に関
するいろいろな教えがあります。そのような状況下にあっても、私たちは、聖書の真
理を自分たちでしっかりと見極めておく必要があります。聖書は、「おおよそ人を頼
みとし肉なる者を自分の腕とし、その心が主を離れている人は、のろわれる。… お
およそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである。」と私たちに忠告していま
す(エレミヤ 17:5、7)。私たちは本当に主を頼みとしているのか、それとも知らない
うちに「人を頼みとし肉なる者を自分の腕と」しているのではないか…という問いを、
私たちは常に自分自身に投げかける必要があるように思います。その意味においても、
この学びで、「キリストの人性」についての誤謬と真理の糸が絡み合っているのを、
少しずつほどいていければと願っています。

 

キリストの人性について  4

 投稿者:  投稿日:2016年 7月18日(月)03時10分18秒
  “全体的な相続”と“部分的な相続”

②と③Aは共に【やがて、私たちの中にキリストに似た完全な品性が反映され、私た
ちは神の律法をすべて守ることが、再臨前に可能だ】という同じ結論を掲げています
が、キリストが取られた人性については異なっていますので、ここからはその部分に
焦点を当てましょう。説明を分りやすくするために、【イエス・キリストは、私たちと
100%同じ性質を相続された】という②の見解を“全体的な相続”と呼びます。一方、
【イエス・キリストは、肉体的・知的には私たちと同じ性質を相続されたが、霊的に
はアダムが罪を犯す前の、罪への傾向をもたない性質を相続された】という③Aの見
解を、“部分的な相続”と呼びます。

②の“全体的な相続”を最も声を大にして主張してきたのが、デニス・プリビー先生
ですので、彼についてもう少し述べておきます。日本では、サンライズ発行の〔アン
カー〕誌などで彼の論文が掲載されたことがありますので、ご存知の方々もおられる
と思います。私たちも、二度ほど彼のセミナーに出席したことがあり、また彼の本や
カセットテープも持っています。プリビー先生が説く聖所などについての学びはとて
も分かりやすく、また、彼はとても雄弁で説得力があり、温厚な性格の素晴らしいス
ピーカーです。

プリビー先生は、デスモンド・フォードと同じ頃、PUC で教授として教えておられまし
た。当時、天の聖所などについて、SDA の基本教理を否定するようなリベラルな教えを
説いていたフォードとは異なり、プリビー先生の教えは、アメリカの多くの保守的な
信徒たちから支持を得ました。彼は、11 年間 PUC で教えた後、有名な自給伝道ミニス
トリーAmazing Facts でリバイバル・スピーカーとして 30 年働き、長年に渡って多く
の保守派に引き続き支持されてきました。また彼は個人のウェブサイトも立ち上げて
いて、今でも保守的なグループが主催する講演会で伝道を続けておられるようです。

プリビー先生の教えを、彼個人のウェブサイトにある資料や、最近の講義録音から簡
単にまとめますと、下記のようになります。

“キリストの人性”に関するデニス・プリビー先生の教え:
《イエス・キリストは、アダムが罪を犯した後の性質を、そっくりそのまま相続して
生まれたのであって、肉体的にも、知的にも、霊的にも例外なく、すべてにおいて私
たち人間と全く同じ状態の性質を所有されていた。つまりキリストは、人間の肉体や
知的能力だけという部分的な相続ではなく、霊的にも、人間の性質を完全に相続した。
イエス・キリストは、私たちと同じ生まれつきの堕落した罪深い傾向を相続すること
13
を免れなかった。ただ私たちと唯一違うのは、罪深い傾向を心に抱いて品性に組み入
れることはされず、一度も罪を犯されなかったことである。イエス・キリストは、私
たちと同じように食欲の誘惑と共に、利己的な罪の誘惑や、女性に対する性的な情欲
の誘惑にも遭われたが、決して罪を犯されなかった。だからこそ、イエス・キリスト
は私たちの模範であられる。人間も、キリストと同じようにすべての誘惑に勝利し、
完全な品性を持つことができる。これこそが、贖いの目的である。》

まず、プリビー先生が主張している論争点は、キリストの人性は“全体的”に私たち
と同じであったのか、或いは“部分的”に同じであったのかという点です。ただ彼は、
AとB二つに分かれている③の見解を一緒にしたまま、“部分的な相続”という③の
見解を丸ごと拒否していますので、大きな混乱が生じていると思われます。アメリカ
人は真理と誤謬を一緒にしていることに対して、よく“Don't throw out the baby
with the bathwater!(たらいのお風呂のお湯と一緒に、赤ちゃんを投げ出さないよう
に!)”と注意します。つまり、“お風呂のお湯”に入れた“赤ちゃん”という大切
な真理を、誤謬のお湯を捨てる時に、お湯と一緒に“真理の赤ちゃん”を投げ出さな
いように!という訴えです。今回の場合も、私たちが③の“部分的な相続”はAとB
に分かれているということをしっかり認識していないと、大切な“真理の赤ちゃん”
を知らないうちに投げ捨ててしまう…という、大変な間違いを犯してしまう危険があ
ります。

プリビー先生は、②の見解にある【罪は律法を破ることであり、私たちは再臨前に罪
に完全に勝利し、神の律法をすべて守ることが可能である】と説いていますが、同じ
②の見解を支持するサンライズや SOSTV とは大きく異なる点が一つあります。それは
《イエス・キリストは、私たちと同じ生まれつきの堕落した罪深い傾向を相続するこ
とを免れなかった。》という点です(“The Human Nature of Christ--Revisited”
by Dennis Priebe 8~9 頁を参照)。更に、《キリストは罪深い傾向を相続されたから
こそ、私たちと同じように食欲の誘惑と共に、利己的な罪の誘惑や、女性に対する性
的な情欲の誘惑にも遭われた》という、非常にユニークで驚くような見解を説いてい
ます。もちろん、プリビー先生は《ただ私たちと唯一違うのは、罪深い傾向を心に抱
いて品性に組み入れることはされず、一度も罪を犯されなかった》ことを強調します。
しかし、《キリストは、私たちと同じ生まれつきの堕落した罪深い傾向を相続するこ
とを免れなかった。》という部分を見た時は、さすがに自分の目を疑いました。何故
ならば、この見解は「彼(キリスト)の内には、一瞬たりとも悪の傾向がなかった」
と書かれている通称“ベーカーへの書簡”と呼ばれている証の書と矛盾しているから
です(Bible Commentary 5 巻 1128~1129 頁、スタディーバイブル新約 207~208 頁)。
14
“キリストの誘惑”については、第 3 部で詳しく検証していきますので、ここでは、
“ベーカーへの書簡”について見ておきます。

プリビー先生の教えに対してよく投げかけられる質問は、彼の“The Baker Letter
(ベーカーへの書簡)”の解釈についてです。彼の教えは証の書と矛盾していること
について、彼はどのように説明しているのでしょうか? それを、彼自身が青年むけの
プレゼンテーションで語った言葉をそのまま書き取って貼っておきます。これは、彼
が、2008年8月30日カリフォルニア州パイン・スプリングス・ランチで開催された青年
向けのカンファレンスで語ったときのものです。

《これ[ベーカーへの書簡]は、出版することを意図して書かれたものではありません。
この人物が抱えていた問題は彼個人の問題であって、私たちはその問題が何であった
か分りません。私たちがその問題を分析しようとすることは、私たちが過去にさかの
ぼって探偵するようなものです。 “It [Baker letter] was never intended for
publication; it was a personal problem that this man had that we don't know
what it was; we're doing detective work backward to try to sort it out.”
(Transcribed from“How Did Christ Live?” By Dennis Priebe, 52 minutes into
presentation. Southwest Youth Conference at Pine Springs Ranch, California
August 30, 2008) 》

政治、ビジネス、宗教など、どんな分野でもそうですが、私たちは討論などを聞いて
おりますと、それぞれの道のプロが話すことには、どの論にも“なるほど”と頷かさ
れることがよくあります。こうした“なるほど”と納得することが積み重なっていく
うちに、良きにつけ悪しきにつけ、私たちは段々と影響を受けていくのではないかと
思います。この書簡のケースでも、《なるほど、ホワイト夫人は多くの本や勧告の他
にも、私生活の中で個人的な手紙も当然お書きになられたはずですから、プリビー先
生が言われているようにプライベートな書簡は、証の書にはふくめないということは、
たしかに道理にかなっていますよね。》と、プリビー先生の言うことに納得する人た
ちが多くいると思います。それらを私たちがそのまま鵜呑みにするか、それとも検証
するかで、結果が大きく違ってきます。では、“ベーカーへの書簡”から抜粋された
引用文をまず読んで、そしてプリビー先生の言われていることを検証してみましょう。

Bible Commentary 5 巻 1128~1129 頁、スタディーバイブル新約 207~208 頁
「注意しなさい。キリストの人性について考える場合、ことのほか注意しなさい。罪
の傾向を持った人として、彼を人々に示さないようにしなさい。彼[イエス]は第二の
アダムである。第一のアダム[アダム本人]は、罪の汚れを帯びていない、純潔で罪の
ない者として創造され、神に似る者であった。彼には堕落する可能性があり、事実、
罪を犯して堕落した。罪の故に彼の子孫は、生来の不従順の傾向をもって生まれてき
15
た。しかしイエス・キリストは、神のひとり子であられた。彼は人性をその身に負わ
れ、人としてあらゆる点で誘惑を受けられた。罪を犯して堕落する可能性はあったが、
彼の内には、一瞬たりとも悪の傾向がなかった。エデンでアダムが攻撃されたように、
彼は荒野において誘惑を受けられた。… キリストが道徳的腐敗のしみ、あるいはそ
の傾向を帯びていたとか、何らかのかたちででも腐敗に屈したとかいうような印象を、
たとえ少しでも人の心に残してはならない。人と同様、あらゆる点で誘惑を受けられ
たにもかかわらず、彼は『かの聖なる者』と呼ばれているのである。キリストは我々
と同じようにすべての点で誘惑を受けることができたにもかかわらず、なおも罪がな
かったというのは、死すべき人間に説明されていない神秘(奥義)である。キリスト
の受肉はこれまでも神秘であり、またこれからもそうであろう。現されたことは長く
我々と我々の子孫に属するが、キリストをちょうど我々のように全くの人にしてしま
うことについて、すべての人間に警告しなさい。それはあり得ないからである。」

この“ベーカーへの書簡”の中でホワイト夫人は、キリストには“悪の傾向”は一切
なかったことを3度も繰り返されて強調されています。

① 「キリストの人性について考える場合、ことのほか注意しなさい。罪の傾向を持っ
た人として、彼を人々に示さないようにしなさい。」

② 「キリストは罪を犯して堕落する可能性はあったが、彼の内には、一瞬たりとも悪
の傾向がなかった」

③ 「キリストが道徳的腐敗のしみ、あるいはその傾向を帯びていたとか、何らかのか
たちででも腐敗に屈したとかいうような印象を、たとえ少しでも人の心に残しては
ならない。」

この書簡について、プリビー先生が《この人物が抱えていた問題は彼個人の問題であ
って、私たちはその問題が何であったか分りません。》と主張されているわけですが、
実はそれを聞いた時、てっきり聞き間違いだと思い、繰り返し聞いて確認をしたほど
です。何故ならば、オーストラリアのSDA教会で働いていたW.L.H. Bakerという牧師が
“抱えていた問題”は、プライベートなものではなく、“Adoptionism(養子的キリス
ト論)”という異端の教えに感化されたという神学的な問題であったからです。その
ことが、教会の信者たちにも悪影響を及ぼす可能性があるというような非常に危険な
問題だったことが、当時の資料から分ります。つまり、この問題は、セブンスデーの
教団内で、ずっと以前から知られていたのです。“Adoptionism(養子的キリスト論)”
というのは、2世紀から3世紀頃にかけて説かれ始めたキリスト論で、《キリストは確
かに処女から生まれたが、普通の人間と同じ“人の子”として生まれて育ち、清い聖
なる人生を送った。そして“ある時点”で父なる神の“養子”として“神の子”にな
16
り、神性と人性が統合した。》というものです。この“ある時点”が何時なのか…の
一致はなく、《バプテスマの時》《復活の時》《昇天の時》などの異なった見解があ
ります。これに憂慮されたホワイト夫人は、ベーカー牧師に勧告の書簡を書きます。
これが、後に“ベーカーへの書簡”と呼ばれるようになりました。

そして、もう一つのプリビー先生の見解である《これ[ベーカーへの書簡]は、出版す
ることを意図して書かれたものではありません。》という衝撃的な言葉ですが、ホワ
イト夫人が書かれた多くの個人への書簡は、彼女がまだ生きておられる頃から「教会
への勧告」などで、実名を伏せて数多く出版されています。実際“ベーカーへの書簡”
も、1953年に出版されたSDAバイブル・コメンタリー(SDA Bible Commentary 第5巻)
に含まれていますし、昨年の安息日学校聖書研究ガイド・2015年4月18日第3課「イエ
ス・キリストは何者か」金曜日のセクションにも、この“ベーカーへの書簡”から抜
粋したものが掲載されていましたので、皆さんもこの書簡の一部を一度は目にされた
ことがあるはずです。ですから、White Estate(ホワイト・エステイト)という世界
総会の機関で、厳密な審査を経て上程されたものが証の書として世界の言語に訳され
て出版されていますが、それを否定するようなプリビー先生の言動は、不思議に思え
てなりません。

プリビー先生と似た②の見解《キリストは、アダムが罪を犯した後の人性を全体的に
相続された》を説いている神学者たちの中でも、キリストは悪への傾向を持っておら
れたか否か...と言う点で、プリビー先生とは同意していない人たちも多くいます。た
とえば、Ralph Larson(ラルフ・ラーソン)という神学者もその一人です。ラーソン先
生とプリビー先生とは全く同じキリスト論を説いておられると思い違いをしている人
たちがいますが、そうではありません。ラーソン先生が1986年に出版された“The
Word Was Made Flesh(言葉は肉体となり)”で、《キリストは、アダムが罪を犯した
後の人性を全体的に相続された》という②の立場を365ページに渡って展開しています。
しかし、その本の中でラーソン先生は、ホワイト夫人が用いられた“passions(情熱、
激情、情欲)や propensities(傾向)”などの単語を辞書で引いたり、文法の説明を
加え、証の書からの引用文と混ぜ合わせて細かく分析しながら、《キリストは、私た
ちと全く同じ性質を全体的に相続されたが、悪への傾向は一切なかった。》とはっき
りプリビー先生とは違った理論を展開しています(22~28頁を参照)。

いろいろな神学者たちが書いた本などを読む時によく思うのですが、神学者たちが説
き続けている持論が、聖句や証の書と矛盾していることを問われますと、彼らは率直
に説明するのではなく、そういった箇所を遠回しにヘブル語の語源などを駆使しなが
ら非常に曲がりくねった複雑な説明をして彼らの論を正当化しようとする傾向がある
17
ように思います。その場合、それらの説明は多くの読者には非常に解り難いものにな
っており、《学者の書いたものは難しい》という印象をますます与えてしまっている
ように思います。また、多くの神学者たちは、他の著名な神学者が書いた文章を引用
して自分の説をサポートしようとする傾向もあるように思います。私たちが土台とす
るべきものは聖書と証の書という霊感の書で、サタンの誤謬から守られる貴重な真理
で溢れています。私たちセブンスデー・アドベンチストに与えられたこれらの豊かな
主のお恵みを、心より賛美致します。ですから、著名な神学者や先生方が書かれたも
のは参考にはなりますが、「主はこう言われている」と霊感の書と常に比較すること
が大切だと思っています。繰り返しますが、この聖書研究も鵜呑みにされるのではな
く、ベレヤにいたユダヤ人たちのように「果してそのとおりかどうかを知ろうとして、
日々聖書を調べて」くださることを願っています(使徒行伝17:11)。

プリビー先生を始めとするキリストの“全体的な相続派”が、“部分的な相続派”に
対して必ず突いてくるポイントがあります。これは信徒よりも、神学を学んだ牧師か
らよく聞かれます。これを質問3とします。

質問3:【キリストが、人間の性質を部分的に相続された…という見解は、カトリック
教会の Immaculate Conception(無原罪懐胎説)と同じです。何故ならば、カトリック
教会は、キリストの母親マリヤを罪から免れた“聖女”と定めて、キリストは人間の
性質を完全に相続しなかったと説いているからです。従って、キリストは人間の性質
を部分的にだけ相続した…という見解は、カトリックの Immaculate Conception(無原
罪懐胎説)が巧みに化けて、セブンスデー・アドベンチスト教会に侵入してきた教え
なのです。そのことをどのように説明されますか?】

まず、カトリック教会の Immaculate Conception(無原罪懐胎説)を簡単に説明します。
カトリック教会は、アダムの子孫はすべて、人類が最初に犯した罪を持つ罪人として
生まれるという“原罪”を教えています。そうすると、人間である母マリヤを持つキ
リストは、罪人として生まれることになってしまいます。それでは困るので、カトリ
ック教会は、母マリヤを罪なき“聖女”とし、キリストは罪人として生まれなかった、
人間の罪深さを相続しなかった、と説いています。言い換えれば、キリストは人間の
肉体的な性質を母親から相続したが、マリヤは罪なき聖母であったため、キリストは
罪のない霊的な性質を相続した…というのです。つまり、プリビー先生たちは、キリ
ストの“部分的な相続”は“巧みに化けたカトリック教会の教え”であると強く反論
しているのです。しかし、もうすでに見たように、これは“原罪”を説く③Bの見解
に対する議論だということです。罪を正しく定義する③Aは、その対照にならないは
18
ずなのですが、③のAとBを一緒にしているため、この点についても混乱が生じてい
ます。
質問3の答え: “部分的な相続”を説く③は、AとBに分かれていることを忘れては
なりません。たしかに、③Bの見解は“原罪”を教えているため、“巧みに化けたカ
トリックの Immaculate Conception(無原罪懐胎説)”と言えます。しかし、③Aの見
解は、カトリックの Immaculate Conception(無原罪懐胎説)ではありません。何故な
らば、“原罪”ではなく、正しく罪を定義しているからです。③Aと③Bの違いをし
っかり理解しておかないと、このように貴重な真理を否定することになり、非常に危
険です。

日本でも、③の見解がAとB二つに分かれていることを理解しないまま“キリストの
人性”が説かれています。アメリカで自給伝道ミニストリーとして SOSTV を創立した
デビッド・カン先生も、SDA 教会内にこのカトリックの神学が侵入してきたことへの懸
念を述べられていて、それが日本語に訳されて SOSTV ジャパンから発せられています。
下記に引用した箇所の前後は真理が語られていますが、“キリストの人性論”では、
③の見解がAとBに仕分けされてなく、一緒になっていることが分ります。

「イエスは、私たちの堕落した性質を取られました。罪深い性質をご自身の身におわ
れました。多くのクリスチャンはそのことを信じておりません。イエス・キリストは
特別だったと。神様だから。ただ単に神様が人間の形を取られたと。100%人間ではな
かったと。罪のないお方だった。堕落していない性質を取られたんだと。ほとんどの
クリスチャンはその様に信じています。これこそローマ・カトリック教の神学なので
す。そして堕落したプロテスタントの神学も同様になっていきました。これが誤謬で
ある“原罪”の教えなのです。多くのセブンスデー・アドベンチストも信じていま
す。」(デビッド・カン シリーズ#18 2011 年 9 月「どのようにして聖霊を受ける
か?」より)

これは、先ほど記したプリビー先生が主張している論争点、つまり、キリストの人性
は“部分的”ではなく、“全体的”に私たちと同様であったいう結論と同じです。そ
して、デビッド・カン先生もプリビー先生と同じように、③Aと③Bの見解を一緒に
して“部分的な相続”という③の見解を丸ごと拒否されています。


では、“部分的な相続”という教えが説いている“部分的”というのは、一体どの部
分を示しているかを見ていきます。

19
質問4:【もしキリストが私たちと同じ性質を“部分的に相続”されたのならば、具体
的にどの部分を相続されたのでしょうか?】

教育 4~5 ページには、「アダムが創造主のみ手によってつくられたとき、彼の肉体と
知能と霊性は、神のみかたちをそなえていた。… 人類を創造された神の御目的が実
現されるように、人の中に創造主のみかたちを回復し、人を創造当初の完全な姿にも
どし、知、徳、体の発達を促すこと、これが救済の働きとなるべきであった。これが
教育の目的であり、人生の大目的である。」とあります。この“知、徳、体”こそが
“三育教育”の真髄なのですが、ここで最も興味深いことは、証の書は人間を三つの
部分に分けていることです。


【その三つの部分のうち、キリストのどの部分が私たちと同じで、どの部分が異なっ
ていたのでしょうか?】

聖書には「そして言は肉体となり…」と書かれていて、“言”であられるキリストは
字義通りの人間の肉体を取られたことが分ります(ヨハネ 1:14)。その肉体は、どの
ような肉体だったのでしょうか?それは「すなわち、御子を、罪の肉の様(新共同訳:
罪深い肉と同じ姿)で罪のためにつかわし…」と、キリストはアダムが罪を犯した後
の肉体を取られたことが明確に記されています(ローマ 8:3)。このことは、第 1 部で
すでにご紹介した証の書でも確認できます。ホワイト夫人は更に、キリストが私たち
と同一の“身体”と“頭脳”を取られたこと、その人間の身体と頭脳を更に“骨、脳
と筋肉”と、下記で分かりやすく細かくリストされています。

Manuscript Release 16 181 頁
「彼[キリスト]は、天使の性質さえも取られずに、人間として私たちと完全に同一の
性質を取られた。ただ唯一の例外は、そこに一点の罪の汚れもなかったことである。
人間特有の性質がすべて備わっている身体と頭脳、つまり[キリストは]人間の骨、脳
と筋肉そのものであった。私たち人間と同じ、弱点だらけの肉体を携えた人であっ
た。」
“ He had not taken on Him even the nature of the angels, but humanity,
perfectly identical with our own nature, except without the taint of sin. A
human body, a human mind, with all the peculiar properties, He was bone,
brain, and muscle. A man of our flesh, He was compassed with the weakness of
humanity.”

20
キリストは、“人間として私たちと完全に同一の性質”である“弱点だらけの肉体”
と“頭脳”を取られたことがはっきりと解ります。別の引用文も見ておきましょう。

Bible Commentary 第 5 巻 1130 頁、スタディバイブル新約 208 頁
「イエスが人性を取られて人の様になられたとき、彼は人の生体組織をすべて所有さ
れておられた。」


頭脳を含む“生体組織すべて”を所有されておられたキリストは、全知全能の“神の
頭脳”ではなく、また人間よりはるかに優れた“天使の頭脳”でもなく、私たちと同
じ“人間の頭脳”を持って来られました。聖書にも「KJV 訳:確かに、キリストは天使
の性質をとらずに、アブラハムの子孫の性質をとった。」とあります(ヘブル 2:16)。
つまり、肉体的だけでなく、知力的にも、私たちと同じ土俵におられたということで
す。しかし、私たちとの最も大きな違いは、「一点の罪の汚れ」もなかったことです。
すなわち、肉体と知能の部分においては私たちと全く同一でしたが、霊的な部分では
私たちと全く異なった“一点の罪の汚れもない”潔白な神性を持っておられたのです。

ホワイト夫人は別の引用文で、私たちと同じ性質を単に“人性”と呼ばれていますが、
これはあくまでも肉体的・知的な部分です。そして、私たちとは異なる部分を“霊的
性質”と呼ばれ、二つの部分をはっきり分けておられます。


Bible Commentary 5 巻 1104 頁、スタディーバイブル新約 91 頁
「キリストの人性は我々のと同じ様であり、彼はいっそう鋭く苦痛をお感じになられ
た。彼の霊的性質は、罪の汚点が全くなかったからである。」


第 1 部では、「思いと感情が結合されたものが、心の品性である」(5T 330 頁)ことを
学びました。一点の罪もなかったイエスさまは、「わたしは悲しみのあまり死ぬほど
である。… わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去
らせてください。」と、イエスさまは究極的に追い詰められてその苦しみを言葉で発
せられました(マタイ 26:38、39)。「しかし、わたしの思いのままにではなく、みこ
ころのままになさって下さい」と、どんなに辛い思いをされても、イエスさまは父な
る神のみこころを優先され、すべてを委ねられました。だからイエスさまは、たとえ
敵に囲まれて虐げられても、頭に思い浮ぶ思いや心の感情そのものには、自分本位の
怒りや苛立ちなどの罪は一切なく、霊的には一点の罪の汚れもない神性なる品性の潔
白さを、人性の中で保たれたのです。「イエスは罪に同意されなかった。一つの思い
21
においてさえ、彼は試みに負けたまわなかった。」とあり、更に「われわれもそうな
れるのである。」という素晴らしいお約束が与えられています(各時代の希望上 135
頁)。聖書も、「すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ」るように教えて
います(2 コリント 10:5)。私たちが思いや感情においてキリストと一つになること
が焦点であり、その結果として、イエスさまのような心の品性を持つことが実現する
のです。

キリストが取られた二つの部分、つまり肉体的・知的な側面と、霊的な側面を識別す
る目的は、密接に一つとなっている神性と人性を分離してしまうことではありません。
そうではなく、キリストの性質を語る時には“肉体的な人性”の部分と“霊的な神性”
の部分をはっきり識別することが、証の書を正しく解釈する上で重要な鍵となるから
です。そうでないと、読んでいて非常に混乱してきます。その例を、実際に頂いた質
問メールの“お問い合わせ”をここに貼って、そこから具体的にご説明します。

問い合わせ:
《ホワイト夫人は「キリストは人性、すなわち天の性質に劣る性質をご自分の身に負
われた。これほど神のすばらしいへりくだりを示すものはない」と書かれています
(Bible Commentary 第 5 巻 1130 頁・スタディバイブル新約 210 頁)。これは、イエス
様は、アダムが堕落する前の性質ではなく、“天の性質に劣る性質”つまりアダムが
堕落した後の性質を全体的に取られた、という意味だと思いますが、どうなのでしょ
うか?》

“肉体的・知的な人性”と“霊的な神性”という二つの部分がきちんと識別できれば、
ここにある“天の性質に劣るキリストの人性”とは、人間の “肉体的・知的な部分”
であることは容易に理解できます。そのことは、上記の引用文のすぐ後に続く文章で
確認できます。この文章の中でホワイト夫人は、ヘブル 2 章 14 節を引用して説明され
ています。「キリストは人性を取るふりをされたのではなく、本当にそれを取られた
のであった。彼は現実に人性を有された。『このように、子たちは血と肉と共にあず
かっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。』彼はマリヤの
子であった。」ここで解ることは、“天の性質に劣る性質”とは、人間誰もが持って
いる血と肉でできた“肉体的な部分”だということなのです。つまり、神や天使が持
っている“天の性質”と、それに劣る血と肉で構成されている“人間の性質”とがこ
こで比較されているのです。けれども、二つの部分を識別しないで読むと“アダムが
堕落する前”と“アダムが堕落する後”が比較されていると勘違いし、《イエスさま
は、天の性質であるアダムの堕落する前の人性ではなく、それよりも劣ったアダムの
堕落した後の人性を全体的に取られたのだ》という結論を出していると思われます。
22
この引用文の焦点は、たとえ創造主キリストが、創造された天使の性質をおとりにな
られることですら、とてつもないへりくだりであるのに、その“天使の性質”よりも
はるかに劣っている血と肉でできた“人間の性質”をとられた…という、私たちの想
像を超えたイエスさまの愛とへりくだりです。ですから、《キリストは、アダムの堕
落する前の人性よりも劣ったアダムの堕落した後の人性を全体的に取られた》という
ようなことを述べているのではありません。

このように同じ証の書の箇所を読んでも、自分たちが信じている教えによって違った
解釈をしてしまう危険があるのです。ホワイト夫人が言われる“キリストの人性”と
は、常に人間の頭脳が含まれる“肉体的な部分”を指しており、“キリストの神性”
とは、常に“霊的な心の品性”を示しています。この神性と人性が、見事に一つに結
合したお悪への傾向は一切なかったが、方がイエス・キリストご自身で、聖書が言うと
ころの“奥義”でもあります。これは、“奥義”だから全く理解できないという意味
ではなく、先ほどの“ベーカーへの書簡”で「キリストの受肉はこれまでも神秘であ
り、またこれからもそうであろう。現されたことは長く我々と我々の子孫に属する…」
とあったように、救いに必要な光は、聖書と証の書をとおして私たちに現されている
ということです。

質問4の答え: キリストは、人間の肉体的な部分と知的な部分を相続されましたが、
霊的な部分は相続されませんでした。つまり、キリストは私たちと同一の身体と頭脳
を取られましたが、私たちとは異なる霊的な性質を取られ、思いと感情で構成されて
いるご品性においては一点の罪も犯されませんでした。そして、私たちもキリストと
一つになることで、キリストに似た品性をいただくようになれるという素晴らしいお
約束が与えられているのです。

ホワイト夫人が生きておられたパイオニア時代には、キリストの人性に関する大きな
議論はほとんどなく、①や②の見解があったり、③がAとBに分かれている…という
ようなことはなかったのです。聖書と証の書にある真理である③Aの見解で一致して
いました。しかし、いろいろな神学者が、異なる見解の論文をそれぞれ発表していく
うちに、キリストの人性に関する貴重な真理は、数々の誤謬の間で埋もれてしまった
ように思えます。
 

キリストの人性について  3

 投稿者:  投稿日:2016年 7月18日(月)03時07分7秒
  アドベンチストの信仰 151 頁
「a.罪の定義 罪の聖書的定義は次のことがらを含みます。『律法を破ること』(I
ヨハネ 3・4、KJV)『なすべき善を知りながら行わ』(ヤコブ 4・17)ないこと、『す
べて信仰によらないこと』(ローマ 14・23)などです。広義の罪の定義は『神が特別
に命じられたことを行なわなかったり、神が特別に禁じられたことを行なったりする
ことなど、知られている神の意思から』逸脱すること』です。」

また、第 1 部の冒頭でふれたラウル・デドレン先生もこの③Aの立場です。日本教団
の牧師会セミナーの講義の中で、キリストの人性を“physical(肉体的)、mental
8
(知的)、moral(道徳的)”と三つに分けていて、“霊的(spiritual)”という言
葉の代わりに“道徳的(moral)”という言葉を用いておられます。そして、キリスト
は肉体的と知的には、私たちと全く同じ人性を取られたが、“道徳的”には異なる人
性を取られたと、③Aの見解を、聖書を用いて何度も繰り返し説かれています。また、
罪の定義も③Aと同じ“律法を破ることである”と説かれています。

沖縄牧師会・長老会はどの立場なのでしょうか?

『SDA の現在の信仰理解』(文責:金城健佑、2008 年)の「キリストの人性」によりま
すと、〈このテーマのまとめ〉のところに、世界総会が発行して日本語に全訳した
『アドベンチストの信仰』の 76 ページから 77 ページまでの1ページ近くある説明文
をそのまま抜粋して載せています。ここはとても重要なことですので、どなたにも分
かりやすいように、このあたりを沖縄牧師会のレジメから抜粋しておきます。ただ、
彼らが引用している文章は長いので、ここではその後半部分だけを掲載しておきます
ので、詳しくは『SDA の現在の信仰理解』の方をお読みください。

「…イエスの『霊的な性質』は、堕落した人類のそれとは違って、清く、聖であり、
『すべての罪のけがれを免れていました。』イエスを、わたしたちと『まったく同じ
人間』であると考えるなら、それは誤りです。イエスは、第二のアダムであり、神の
かけがえのないみ子であられます。わたしたちは、イエスを、罪の傾向をもった人と
考えるべきでもありません。イエスの人間性は、人間性が試みられるあらゆる点で試
みられましたが、イエスは決して敗北されませんでした。決して罪を犯されませんで
した。イエスには悪への傾向はまったくありませんでした。」(沖縄牧師会が『SDA の
現在の信仰理解』(文責:金城健佑、2008 年)のレジメで引用している世界総会の日本
語版『アドベンチストの信仰』の 77 頁)
ここで解ることは、沖縄の牧師会・長老会は、世界総会と同じ見解ですので、当然世
界総会と同じ③Aの立場のはずです。ところが、驚くことに、沖縄の牧師会・長老会
は、罪を何と“原罪”と定義しているのです! つまり、罪については、彼らは“原罪”
を否定している世界総会とは、違った立場をとっているのです。

「人間がどういう者であり、どういう性質を持っているかを知ることが、救済論にお
いて大切である。その理解がないと、キリストにある「救い」の問題を正しく論じる
ことができないばかりか、救いを確信することも困難になってくる。人は皆罪人とし
て生まれてくる。そのことを疑問に持っている人は誰もいないであろう。人は遺伝に
よって、アダムの原罪を持って生まれてくるからである。原罪とは、『自発的に罪を
犯した我々人類の両親が自然の法則によって子孫に遺伝させた悪い性癖(傾向)を受
9
けたこと』(ジョン・アルフレッド・フョルクナー) 『人類の始祖(アダム)が犯
した罪が、子孫である人間全体に帰せられるという教説』(キリスト教大辞典)」
(沖縄牧師会『SDA の現在の信仰理解』Ⅳ.原罪[Original Sin]より)

この「Ⅳ. 原罪(Original Sin)」のセクションには、証の書からの引用文もいくつ
かありますが、その中には、証の書が日本語に誤訳されている文章が一つあります。
これは彼らによる誤訳ではなくて、原文が最初に翻訳された時に、誤訳されたと思わ
れます。それは「キリストへの道」からの大切な箇所ですので、誤訳と原文とを記し
ておきます。

キリストへの道 81、82 頁
「罪に陥る前、アダムは神のおきてに服従することによって、正しい品性をつくりあ
げることができましたが、かれはこれに失敗し、かれの罪のために、私どもは生まれ
ながら罪あるものとなり、自分の力で義となることはできなくなりました。」

誤訳:「かれの罪のために、わたしどもは生まれながら罪あるものとなり、」
原文:「and because of his sin our natures are fallen(かれの罪のために、わたし
どもの性質は堕落したものとなり、)」

誤訳では「わたしどもは生まれながら罪あるものとなり、」と訳され、私たちは生ま
れた時から罪人であるという“原罪論”となっていて、原文の意味と違っています。
ホワイト夫人は、アダムの罪のために私たちは堕落した性質、つまり“悪への傾向”
を持って生まれるので、自分の力では義となれないことを語っておられるのであって、
“原罪”を説かれているのではありません。


罪という定義が間違っていますと、その上に積み上げた教理もどんどん間違ったもの
になっていきます。以下はその好例です。

「完全と無罪性についてのエレン・ホワイトの見解:SDA の中で、時々「罪なき完全」
を強調する人たちがいるが、この見解の根拠はエレン・ホワイトの証の書に負うとこ
ろが大である。上記に示したように、聖書は「罪なき完全」を肯定していない。エレ
ン・ホワイトは「罪がない」という言葉を使っているが「絶対に罪がない」と言って
いるのではない。証の書が霊感の書であれば、聖書と一致するはずである。」(『SDA
の現在の信仰理解』Ⅶ. 我々の完全・罪なき性質より)

そして、「VII. 我々の完全・罪なき性質」<このテーマの要約>の最後の部分には、
「しかし、我々の意思(wills)や態度(attitudes)が神との調和において完全であ
10
っても我々の体(body)や精神(mind)は無意識の罪や間違いを犯すのである(ロー
マ7:7-25)。非の打ちどころのない絶対的完全で罪なき状態は、再臨の時に我々の
汚れた体がキリストの栄光の体のように換えられるまで待たなければならない(ピリピ
3:20、21; cf.コリント 1・15:44、50-54)」という結論を出しています。

罪の定義を“原罪”とした結果、沖縄牧師会・長老会の「キリストの人性論」は、③
Aではなくて③Bの方の立場になってしまっています。繰り返しになりますが、『SDA
の現在の信仰理解』の「キリストの人性」のところでは、すべての文章が世界総会の
「アドベンチストの信仰」からの抜粋なのです。しかし、「Ⅳ. 原罪(Original
Sin)」のセクションのところでは、独自というか、いろいろな人の文献などを引用し
ながら展開しています。つまり、日本教団の信徒に対して、同じ SDA 教団組織の中に
ある世界総会と沖縄牧師会・長老会から、異なった教えが同時に説かれているのです。
更に日本では、自給伝道ミニストリーであるサンライズの今帰仁教会や SOSTV から、
教団とは異なった教えが説かれているのです。ですから、信徒は困惑するばかりで、
第1部の冒頭でご紹介したメールにあったように、《日本には真理と誤謬のはざまで
まだ路頭に迷っている信者さんはたくさんいる》という悲痛な叫び声と求めが理解で
きます。

ここまでは、③Aと③Bを比較してきましたが、今度は②と③の見解を比べて見まし
ょう。②の見解を説く保守的な神学者たちの中には、③の見解を“ハイブリッド”と
呼び、《もしキリストが私たちと同じ性質を部分的にしか相続されなかったというな
らば、神は不公平だということになる!》と主張します。いくつか寄せられてきた質
問を読んでいくうちに、③の見解がAとBの二つに分かれていることが全く理解され
ていないということが分ってきました。そこで、ひと目で分かるようにもう一度、②
と、③Aの見解をここでも貼って、まず共通点と相違点にスポットを当てましょう。

②【キリストは、アダムが罪を犯した後の性質を、完全に相続された。キリストは、
私たちと 100%同じ人性をとられたからこそ、私たちの模範であられる。罪は律法を破
るという自由意志の選択であるため、私たちもキリストの模範に従って成長し、罪に
完全に勝利できる。やがて、私たちの中にキリストに似た完全な品性が反映され、私
たちは神の律法をすべて守ることが、再臨前に可能となる。】

③A:【キリストは、肉体的・知的には、アダムが罪を犯した後の性質を相続されたが、
霊的には、アダムが罪を犯す前の性質を相続された。キリストが聖霊によってお生ま
れになったと同様に、私たちも聖霊による霊的な生まれ変わりを経験する時、キリス
トと同じ霊的な性質にあずかる者として成長していく。罪は律法を破るという自由意
11
志の選択であるため、私たちも神の力にすべてを委ねて頼るというキリストの模範に
従い、罪に完全に勝利できる。やがて、私たちの中にキリストに似た完全な品性が反
映され、私たちは神の律法をすべて守ることが、再臨前に可能となる。】

②と③Aの共通点:
両者とも、罪を正しく定義し、【やがて、私たちの中にキリストに似た完全な品性が
反映され、私たちは神の律法をすべて守ることが、再臨前に可能だ】と、同じ結論に
達している。

②と③Aの相違点:
キリストの人性についての見解は、以下のように異なる。

②の場合:
【キリストは、アダムが罪を犯した後の性質を、完全に相続された。】

③Aの場合:
【キリストは、肉体的・知的にはアダムが罪を犯した後の性質を相続されたが、霊的
には、アダムが罪を犯す前の性質を相続された】


このように②と③Aの見解は、それぞれに異なる“キリストの人性”から始まります
が、両者とも【やがて、私たちの中にキリストに似た完全な品性が反映され、私たち
は神の律法をすべて守ることが、再臨前に可能となる。】という同じ結論に達してい
ます。結論が同じなのだから、どちらでも構わないのでは?と思えるかも知れません。
しかし、決してそうではないことが、これから聖書と証の書を用いて検証していくう
ちに明確に解ってくると思います。②をサポートしている人たちの間では、③の解釈
があることに気付かれていない人たちが非常に多いように思います。昨年(2015 年)
お送りした私たちの聖書研究『キリストの神性と人性』を読まれた幾人かの方々から
も《「キリストの人性」についての見解は、①か②との二つの見解のどちらかと思っ
ていましたが、もう一つの見解もあったのですね。考えてもみなかったです。》《な
るほど、中間もありなのですね。初めて聞きました》というようなコメントをいただ
き、この“肉体的・知的”と、“霊的”に分かれることは、案外と信徒の間では知ら
れていないことが分ります。また③Aと③Bを混同して《それはハイブリッド的解釈
です!》と③全体を否定し、②の見解を支持しているコメントもありました。
 

キリストの人性について  2

 投稿者:  投稿日:2016年 7月18日(月)03時05分24秒
  ①【キリストは、アダムが罪を犯す前の性質を、完全に相続された。アダムから引き
継がれた罪を相続して罪人として生まれる私たちは、キリストとは全く異なるため、
罪からの完全な勝利は再臨が起こるまでない。従って、私たちの中にキリストに似た
完全な品性が反映され、私たちが神の律法をすべて守ることなど、再臨前は不可能で
ある。】

この解釈はキリスト教の神学用語で、“prelapsarian position(アダムとイブが堕落
する前の立場)”と呼ばれている教えで、《キリストは、アダムが創造された時の性
質、つまりアダムが罪を犯す前の性質、をお取りになられたのであるからこそ、キリ
ストは私たちの救い主であられるのだ! だから私たちがキリストのように完全に罪に
勝利し、再臨の前に罪のない生活を送ることなど不可能である》と、“救い主”とし
てのキリストを強調します。

一般的には、プロテスタント教派のほとんどが、この①の立場をとっていると言われ
ています。この誤謬は、セブンスデー・アドベンチスト教会にも 1950 年代頃から入っ
てきて、1970 年代あたりからリベラルな神学者によって浸透していきました。アメリ
カでは、最近はこの①の見解を採るセブンスデーの神学者は少なくなり、それに代わ
って③Bの見解を支持するリベラルな神学者が増えている傾向にあるように見えます。
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一方、保守派は、①と③の解釈に対して反発して、次の②の教えを強く支持していま
す。現在アメリカの SDA の中では、保守派が支持するこの②の見解と、リベラル派が
支持する③Bの見解の間での論争が目立っているように思います。

②【キリストは、アダムが罪を犯した後の性質を、完全に相続された。キリストは、
私たちと 100%同じ人性をとられたからこそ、私たちの模範であられる。罪は律法を破
るという自由意志の選択であるため、私たちもキリストの模範に従って成長し、罪に
完全に勝利できる。やがて、私たちの中にキリストに似た完全な品性が反映され、私
たちは神の律法をすべて守ることが、再臨前に可能となる。】

この解釈は、神学用語で“postlapsarian position(アダムとイブが堕落した後の立
場)”と呼ばれている教えで、保守派の多くがこの見解をサポートしています。彼ら
は《①と③の教えでは、キリストは私たちよりも有利な立場で来られたことになり、
イエスさまは私たちの模範になりえないので、それは聖書的でない!》と①と③に強
く反発します。そして《イエス・キリストは、私たちと全く同じ性質を相続されたか
らこそ、私たちの模範であられるのだ!》と、“模範”としてのキリストを強調しま
す。

この②の教えの第一人者は、何と言ってもデニス・プリビー先生でしょう。プリビー先
生の教えについては、後ほど詳しく比較検証をしていきます。日本の自給伝道ミニス
トリーであるサンライズ・ミニストリーや SOSTV ジャパンミッションは、詳細にいた
っては異なる部分が結構ありますが、大筋ではこの②の立場をとっています。この②
の見解では、神の律法について【再臨前に、私たちが神の律法を完全に守ることは、
可能である】と説いています。ただ、サンライズ・ミニストリーの金城重博先生は、
罪の定義に関してロバート・ブリンズミードの教えである“原罪”をずっと説いてお
られますので、罪の定義を【罪とは、人間が持って生まれる悪の状態が原因となって、
律法を破ることである】としているプリビー先生や SOSTV ジャパンミッションとは、
そこで違っています。更に複雑にしているのは、サンライズ・ミニストリーが《原罪
は、後の雨で除去され、再臨前に完全になれる》というブリンズミードの更なる見解
が入り交ざったユニークな教えを説いているため、同じ原罪論を説いている沖縄牧師
会の《原罪は再臨まで残り、再臨前にこの地上では完全になれない》という見解とも
異なっていることです(金城重博著「論点」26~31 頁を参照)。サンライズ・ミニス
トリーは、【罪は、キリストの血によってのみ除去される】という真理からかけ離れ
て、《罪は、聖霊なる神によって除去される》という聖書にも証の書にも書かれてい
ない非常にユニークな解釈を説いています。(詳しくは『真夜中の叫び・第 5 部 8 章』
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「罪の除去」などをご参照ください。)このように、冒頭でもふれた“罪とは何か?”
を正しく理解しておくことが、いかに重要かがお解かりになられると思います。
③【キリストは、肉体的・知的には、アダムが罪を犯した後の性質を相続されたが、
霊的には、アダムが罪を犯す前の性質を相続された。】

A:【キリストが聖霊によってお生まれになったと同様に、私たちも聖霊による霊的な
生まれ変わりを経験する時、キリストと同じ霊的な性質にあずかる者として成長して
いく。罪は律法を破るという自由意志の選択であるため、私たちも神の力にすべてを
委ねて頼るというキリストの模範に従い、罪に完全に勝利できる。やがて、私たちの
中にキリストに似た完全な品性が反映され、私たちは神の律法をすべて守ることが、
再臨前に可能となる。】

B:【確かにキリストは、肉体的・知的には私たちと同じだが、霊的にはアダムが罪を
犯す前の性質を相続されたため、アダムから引き継がれた罪を相続して罪人として生
まれる私たちに、罪からの完全な勝利は再臨が起こるまでない。従って、私たちの中
にキリストに似た完全な品性が反映され、私たちが神の律法をすべて守ることなど、
再臨前は不可能である。】
二つに分かれている③の見解AとBは、同じキリストの性質で始まっていますが、全
く正反対の結論に辿りついています。この③Aと③Bの異なった見解があることを知
っている日本の信徒は非常に少ないように思います。③Aと③Bの異なった見解を知
っておかないと、総体的な“キリスト論”は正しく語れないことになります。おそら
くこの二つの違いをしっかりと理解していないことで、多くの人がキリストの人性に
関して困惑しているのではないかと思われます。どのような混乱が生じているかにつ
いては、後ほど具体的に例を挙げながら更に検証していきますが、ここでは、③Aと
③Bとの違いを、しっかり把握します。


まず、AとBの共通点と相違点を見ておきましょう。

③Aと③Bの共通点:
キリストの人性について、③Aと③B両方とも【キリストは、肉体的・知的にはアダ
ムが罪を犯した後の性質を相続されたが、霊的には、アダムが罪を犯す前の性質を相
続された】という同じ見解で始まっている。

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③Aと③Bの相違点:
「罪とは何か?」という“罪の定義”が違っているため、結論が異なる。

③Aの場合: 【罪とは、人間が持って生まれる悪の状態が原因となって、律法を破る
ことである】と、罪を定義している。そして【私たちの中にキリストに似た完全な品
性が反映され、私たちは神の律法をすべて守ることが、再臨前に可能だ】という結論
に辿りついている。

③Bの場合:【罪とは、私たち誰もが持って生まれる悪の状態である】と、罪を“原罪”
として定義している。そのため【私たちの中にキリストに似た完全な品性が反映され、
私たちが神の律法をすべて守ることなど、再臨前は不可能だ】という結論に達する。

第 1 部でふれた質問《キリストは私たちと全く同じ人性を取られたはずなのに、何故
“悪への傾向”という霊的な部分だけが私たちと違うのですか?》という問いに対し
て、②の見解を支持する人たちは、そのことが説明できないので《それは、ミステリ
ー(奥義)なのです》と答えます。その一方で、この質問に対して納得できる説明をし
ているのがこの③Aの見解です。《キリストは、肉体・知的には私たちと全く同じ人
性を取られましたが、霊的にはアダムが堕落する前の性質を取られました。だからイ
エスさまには悪への傾向がなかったのです。私たちは、霊的にはイエスさまとは異な
る性質を持って生まれましたが、聖霊の力によって霊的に新しく生まれ変わり、成長
していくことによってイエスさまに似た品性が与えられるのです。》この③Aの立場
を公式に採っているのが、セブンスデー・アドベンチスト教団です。 27 の基本教理を
世界総会がまとめた本 “Seventh-day Adventist Believe”の 46 から 49 ページ(日
本語版「アドベンチストの信仰」の 70~77 頁)には、③Aと同一の“キリストの人性
論”が、聖書とホワイト夫人の引用文を用いて明確に説かれています。また、89 ペー
ジ(日本語版「アドベンチストの信仰」の 151~152 頁)には、③Aと同じ“罪の定義”
がはっきりと記されていて、“原罪”は説かれていません。
 

キリストの人性について 1

 投稿者:  投稿日:2016年 7月18日(月)03時03分36秒
  では、ここからは教会内で吹き荒れている“キリストの人性に関する教理の風”を見
ていきますが、検証していくうえで大切なことがあります。それは、どれが真理でど
れが誤謬であるかを見極める基準は、聖書と証の書だけということです。それには、
聖句や引用文の前後関係や文脈、また他の真理との繋がりなどをしっかり見極める必
要があります。でないと、聖書と証の書から自分の見解に合う部分だけを入れ混ぜな
がら、持論を“証明”することも可能だからです。これらのことは、今皆さんが読ん
でいるこの聖書研究にも当てはまります。キリストの人性について、どれが真理でど
れが誤謬か…という結論を、一人ひとりがみ言葉を深く掘り下げ、どうか祈りのうち
に出されることを切に願っています。

セブンスデー・アドベンチストの神学者たちは、“キリストの人性”に関する見解を、
三つに分けています: ①キリストは、アダムが罪を犯す前の性質を、完全に相続され
た。②キリストは、アダムが罪を犯した後の性質を、完全に相続された。③キリスト
は、肉体的・知的には、アダムが罪を犯した後の性質を相続されたが、霊的には、ア
ダムが罪を犯す前の性質を相続された(“Ellen White on the Human Nature of
Christ ”by Denis Fortin Lecture Outline GSEM534 を参照)。

ところが“キリストの人性論”は、“罪とは?”“キリストの模範とは?”“人間は
いつ完全になれるか?”など、他のセブンスデーの教理に深く絡んでおり、込み入っ
たものになっています。また、異なった見解の中には、幾人かの神学者の見解を横断
的に混ぜ合わせたユニークな教えなどもあります。今回のこの聖書研究では、“罪の
定義”や“完全論”などに深く関連した“キリストの人性論”を検証していきます。
これらの見解も大きく分けると、下記の三つに分類されますが、最後の一つは更にA
とBに分かれています。

① キリストは、アダムが罪を犯す前の性質を、完全に相続された。アダムから引き継
がれた罪を相続して罪人として生まれる私たちは、キリストとは全く異なるため、
罪からの完全な勝利は再臨が起こるまでない。従って、私たちの中にキリストに似
た完全な品性が反映され、私たちが神の律法をすべて守ることなど、再臨前は不可
能である。

② キリストは、アダムが罪を犯した後の性質を、完全に相続された。キリストは、私
たちと 100%同じ人性をとられたからこそ、私たちの模範であられる。罪は律法を
破るという自由意志の選択であるため、私たちもキリストの模範に従って成長し、
罪に完全に勝利できる。やがて、私たちの中にキリストに似た完全な品性が反映さ
れ、私たちは神の律法をすべて守ることが、再臨前に可能となる。
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③ キリストは、肉体的・知的には、アダムが罪を犯した後の性質を相続されたが、
霊的には、アダムが罪を犯す前の性質を相続された。

A: キリストが聖霊によってお生まれになったと同様に、私たちも聖霊による霊
的な生まれ変わりを経験する時、キリストと同じ霊的な性質にあずかる者として成
長していく。罪は律法を破るという自由意志の選択であるため、私たちも神の力に
すべてを委ねて頼るというキリストの模範に従い、罪に完全に勝利できる。やがて、
私たちの中にキリストに似た完全な品性が反映され、私たちは神の律法をすべて守
ることが、再臨前に可能となる。

B: 確かにキリストは、肉体的・知的には私たちと同じだが、霊的にはアダムが
罪を犯す前の性質を相続されたため、アダムから引き継がれた罪を相続して罪人と
して生まれる私たちに、罪からの完全な勝利は再臨が起こるまでない。従って、私
たちの中にキリストに似た完全な品性が反映され、私たちが神の律法をすべて守る
ことなど、再臨前は不可能である。

では、それぞれの見解を、もう少し詳しく見ていきましょう。
 

隠れ場 第三章 女性按手礼について

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2015年12月21日(月)08時29分42秒
  第 3 章: アロンの杖と女性按手礼問題
第 1 章では、いくつかの聖句を基に、天における至聖所が私たちにとっての祈りの密 室であり、安全な隠れ場であることを学びました。その聖句の一つが、詩篇 27 篇 4 節 ~5 節でした。同じ 27 篇でダビデは、「主よ、あなたの道をわたしに教え、わたしのあ だのゆえに、わたしを平らかな道に導いてください。」と、「あなたの道」を教えてく れるように切に求めています(詩篇 27:11)。この「あなたの道」とは、どこにある道 なのでしょうか?   詩篇 77:13 「神よ、あなたの道は聖である。われらの神のように大いなる神はだれか。」 KJV: “Thy way, O God, is in the sanctuary: who is so great a God as our God?”
正しい訳:「神よ、あなたの道は聖所にある。われらの神のように大いなる神はだれ か。」
「あなたの道は聖所にある」というこの聖句は、聖書研究に熱心なアメリカ人たちの 間ではよく知られています。それは、セブンスデー・アドベンチスト教会だけに与え られた特別な現代の真理・聖所の教理こそが、「あなたの道・神の道」だからです。イ エスさまは「わたしは道であり…」と語られ、“イエス・キリスト”という道を通らな ければ、「父のみもとに行く」ことはできないことを教えられました(ヨハネ 14:6)。 そのイエスさまが、罪人をお救いになるために自ら築かれた道を、最も明瞭に分かり やすく説明しているのが聖所における働きです。聖所に置かれている品物や、そこで 行なわれたことすべてがイエス・キリストを象徴していて、救済計画の全貌を象徴的 に、見事に描いています。ダビデは、神のご計画がよく理解できず、栄える悪し き者たちを妬み、彼らの最後がどのようになるのか分かりませんでした(詩篇 73:1~ 15 を参照)。「しかし、わたしがこれを知ろうと思いめぐらしたとき、これはめんどう な仕事に思われた。わたしが神の聖所に行って、彼らの最後を悟り得たまではそうで あった。」と、聖所に行った時に、悪人たちは神の裁きを受け、最終的に滅ぼされるこ とをやっと悟ることができたと記しています(詩篇 73:16~17、18~28 節を参照)。私 たちも“神の聖所に行く”ことによって、神の救いのご計画をもっと深く悟るこ とが可能となるのです。また使徒パウロは、イエスさまはご自分の肉体から流された 血によって「新しい生きた道」を開いて下さり、その道をとおって聖所にはいること ができることを記しています。そして、大祭司として為されている聖所の働きによっ て、私たちの心は清められ、父のみまえに近づくことができることも教えています。
ヘブル 10:19~22 「兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることな く聖所にはいることができ、  彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて 下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、 神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、 からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近 づこうではないか。」
言い換えれば、イエスさまが十字架の血によって築いて下さった「新しい生きた道」 をとおるということは、「はばかることなく聖所にはいる」ことなのです。そして、聖 所の奥へと続く道を歩むことによって、私たちの心は「信仰の確信に満たされつつ」 神の御前に近づく祝福にあずかることができるのです。
現在、イエス・キリストは至聖所において執り成しの働きを成されておられます。私 たちもイエスさまについていき、神の聖所の一番奥にある最も神聖で清い場所至聖所 に「はばかることなく」はいることができます。そして、ダビデが「神の聖所に行っ て」更なる光が与えられて悟ったように、私たちもイエスさまがおられる至聖所に行 くことによって、今までよく理解できなかった真理を、更に深く悟ることが可能とな るのです。
その至聖所には、アロンの杖が神の律法の石版と一緒にあったのです。何故でしょう か?それは、律法の石板が“十戒を忘れることがないように…”という教訓のしるし であると同じように、アロンの杖は、“コラの反逆を忘れることがないように…”とい う教訓のしるしであるからです。両方とも、愛する民を何とかして救いたい!という 慈しみに溢れた神の恵みのしるしでもあります。この第 3 章では、今まであまり論じ られてこなかった至聖所に納められている“アロンの杖”という視点から、女性按手 礼問題を検証していき、神の御心を探っていきたいと思います。
第 2 章では、レビ記 16 章と 17 章に記されている「反逆の歴史は、繰り返されつつあ り、時が終わるまで繰り返されるであろう」ということに触れました(Last Day Events 173 頁)。 【では、コラたちの反逆は、どのように現代も繰り返されているのでしょうか?】
古代イスラエルの反逆者たちの不満の焦点は「祭司職の地位」でしたが、旧約時代の「祭司職」とは今で言う“牧師職”です。コラとその支持者たちの主張とまるでそっ くりな声が、現在のセブンスデー・アドベンチスト教団の中に聞かれます。それは、 《私たちは神のもとに男女の性別を問われることなく、すべての者が平等であるのに、 何故、男性だけが牧師として任命され按手礼を与えられるのか。それは古い慣習にし ばられた不公平極まりないものです。女性にも按手礼が与えられてしかるべきで す!》というような抗議の声です。
今回のこの聖書研究『隠れ場』は、“女性按手礼問題”が主要テーマではありませんが、 実は、“女性按手礼問題”は至聖所に収められている「アロンの杖」と深く関わってい るのです。
折しも、今年(2015 年)7 月に、第 60 回世界総会本会議が、アメリカのテキサス州サ ンアントニオで開催されました。この世界総会で最も注目されたのは、この“女性按 手礼問題”でした。この問題は、現代のセブンスデー・アドベンチスト教会の中で、 過去何十年にも渡って熱い論争が繰り広げられ、非常に大きな問題となっています。5 年に一度行なわれる世界総会において、女性按手礼問題は 1990 年に一度否決されまし たが、次の 1995 年にも再び提出され、またもや否決されました。この二度の総会で提 出されたのは、【世界総会として女性按手礼に賛成か反対か】、というものでした。そ れから 20 年後となる今年 2015 年に提出されたのは、【女性按手礼は各支部にまかせて それぞれの支部が決めるようにする】、という異例の妥協案でしたが、再び否決となっ たのです。そして総会が終わった今でも、この問題はここアメリカの指導者や信徒の 間でくすぶり続けています。
このようにセブンスデー・アドベンチスト教団では、この問題で分裂の危機があると さえ言われており、多くの指導者たちによっていろいろな議論がインターネット上に も投稿されていました。日本でも、この問題が今回の総会で大きな論争点となってい て結局否決されたことなどが報じられていました。日本の指導者からは《それぞれの 支部にまかせるという案》に好意的な感じの発言が多かったように思います。ただ残 念なのは、日本では、聖書のみ言葉に基づく説明がほとんどなかったように思います。 良い機会ですので、この第 3 章では、聖書を深く掘り下げて、至聖所の契約の箱の中 に納められていたアーモンドの実を結んだ「アロンの杖」と、この「女性按手礼の問 題」の密接な関係を見ていきます。この学びの終りには、「アロンの杖」に秘められて いる驚く真理の光が見えてくると思います。
女性按手礼は、このコラの反逆の出来事と原則的には同じ問題だということが、聖書 をとおしてはっきりと見えてきます。聖書によりますと、旧約時代も新約時代も、神が聖職者として任命されたのは男性だけで、女性には聖職者の地位は与えられて いませんでした。何故なのでしょうか?聖書はどのようにそのことを説明しているの でしょうか?これらのことを、まず見ておきましょう。
神が定められた神と人間、そして男性と女性の関係についていくつか聖句を見て いきますが、それらの多くは、アメリカから YouTube などにアップロードされた女性 按手礼問題の日本語吹き替えなどで、すでに見聞きされてきた方もおられるかと思い ます。それでも、これらの聖句は、女性按手礼問題を理解する上で、聖書に記されて いる非常に重要なポイントとなりますので、ここでもう一度、これらの基本的な聖句 のいくつかを、検証することから始めたいと思います。そうすることで、案外と今ま で気が付かなかった貴重な真理が見えてくるのではないかと思います。では、新約聖 書から見ていきましょう。
第 1 コリント 11:3 「しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであ り、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。」
この聖句にある「かしら」という言葉ですが、KJV では“head”となっていて、アメリ カの保守的なセブンスデー・アドベンチストの多くは“女性按手礼問題”の根元は、 “headship issue”、つまり“指導的地位の問題”であると認識しています。
では、上記の聖句で定められている“headship・指導的地位”を、分かりやすく略記 してみます。
父なる神 → キリスト → 男 → 女
この順位は、アメリカではよく“gospel order・福音の秩序”と呼ばれています。そ れは、家庭内において「女のかしらは男」であることは、福音を宣べ伝えるために組 織化された教会内でも同じだからです。女性が聖職者として任命され、教会の運営に 携わることは、聖書の“gospel order・福音の秩序”を変えてしまうことになってし まうのです。
さらに聖書を見ていきますと、「女のかしらは男」という原則は、人類の歴史の始めに 神が自ら定められたものであることも分かります。
エペソ 5:22~25、30~31 「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のかしらである。 そして教会がキリストに仕えるように、妻もすべてのことにおいて、夫に仕えるべき である。夫たる者よ。キリストが教会を愛してそのためにご自身をささげられたよう に、妻を愛しなさい。… わたしたちは、キリストのからだの肢体なのである。『それ ゆえに、人は父母を離れてその妻と結ばれ、ふたりの者は一体となるべきである』こ の奥義は大きい。それは、キリストと教会とをさしている。」
使徒パウロは罪が侵入する以前の創世記 2 章 24 節を引用して、男女の結婚をキリスト と教会の関係に譬えています。言うまでもありませんが、この「夫は妻のかしらであ る」というのは、もちろん“亭主関白”などということではなく、「キリストが教会を 愛してそのためにご自身をささげられたように、妻を愛し」、彼女をいたわって守りな がら霊的指導者としてリードしていくという意味です。その一方で、妻は「教会が主 に仕えるように」、愛をもって夫に従うことが求められています。それは、むやみに従 うことではなく、神の御心にかなうように従うということです。この男女が結ばれて 築く“家庭”という制度は、人類の歴史が始まった時、七日目の安息日と共に、神さ まが定められたものです。すなわち、家庭における秩序は、時代の移り変わりに関係 なく、永続的なものであることが分かります。その制度の中で、人を決して分け隔て されない神は、男性も女性も同じようにことごとく愛され、ご自分の子供たちと して同等に見なされておられます。
神の子供たちとして男女は同等ですが、それぞれに与えられた役目や責任は異なりま す。
神は、最初に創造されたアダムに、“エデンの園を耕して守るように、善悪を知る 木を食べないように”と命じられ、また動物たちや妻の名付け親として男性を霊的指 導者という位置に立てられました(創世記 2:15~23)。その霊的指導者にふさわしい 「助け手」として後から創造されたのが、女性です。また、エバが最初に罪を犯した にも関わらず、その責任は霊的指導者であるアダムにあると見なされた神は、ま ず先にアダムを譴責されました(3:11~12)。
証の書は、婚姻関係に関する神の原則について、次のように記しています。
人類のあけぼの上 21 頁 「神ご自身が、アダムに伴侶をお与えになった。神は、『彼にふさわしい助け手』すな わち、彼にちょうど合った助け手、彼の伴侶となるにふさわしく、彼と一つになって、 愛し、同情することができる者をお与えになった。エバは、アダムのわきから取られ たあばら骨によって創造された。このことは、彼女がかしらになって彼を支配するのでもなければ、彼よりは劣った者として彼の足の下に踏みつけられるものでもなく、 同等のものとして、彼のかたわらに立ち、彼に愛され、守られるものであることを示 している。」
上記にある「彼女がかしらになって彼を支配するものでもなければ…」という言葉か ら分かることは、女性が男性のかしらになることは、罪が侵入する以前から、神のご 計画には全くなかったことです。ですから「女のかしらは男」という原則は、人類の 歴史が始まって以来、神が定められた秩序であることがここで確認できます。そ れと同時に、女性は男性より劣った者ではなく、同等な者であり、霊的指導者にふさ わしい助け手として男性のかたわらに立つことが、神の御心でした。
男性が女性の霊的指導者であることは、罪が侵入した後も変わりませんでした。けれ ども神は、最初に罪を犯したエバに対して、「 あなたは夫を慕い、彼はあなたを治 めるであろう。」と宣言されました(3:16)。そのことについて、証の書には次のよう に説明をしています。
人類のあけぼの上 47~48 頁 「神は創造のときに、彼女をアダムと等しいものに造られた。もし彼らが神に従って、 その偉大な戒めに調和していたならば、彼らは、互いに調和しあってきたはずであっ た。しかし、罪が調和を破った。だから、一方が他方に従属することによって彼らの 一致と調和が保たれるようになった。エバは最初に罪を犯した。彼女は、神の命令に 反して、夫のそばを離れたために、誘惑に陥った。また、アダムは、彼女のすすめに よって罪を犯した。そこで、彼女は、夫に従う立場におかれた。神の律法が命じてい るこの原則を、堕落した人類が守っていたならば、この宣告は、罪の結果によるもの であったとは言え、彼らにとって、祝福となったことであろう。ところが、こうして 与えられた優位を男が乱用したために、女の運命は非常に苦しく、彼女の人生は重荷 となった。」
罪が侵入する前、アダムは霊的指導者としてエバを愛し、エバも助け手としてアダム を愛し、二人の間には完全な一致と調和がありました。ところが、罪によってその調 和が破られてしまいました。このことは、神がアダムを譴責された時、彼は「あ の女が…」と、自分が犯した罪を妻のせいにしたことからも分かります。罪が存在す る限り、一方が他方に従属しなければ、夫婦間の不和や争いは絶え間なく続き、家庭 が破滅してしまいます。では、どちらがどちらに従属するのか?その答えが「あなた は夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう。」という宣告にあります。
罪が侵入する前も、その後も、男性が女性のかしら・霊的指導者であることには変わ りありません。それは、罪が入る前アダムは妻を「女」と名づけましたが、罪を犯した後も「妻の名をエバと名づけた」と、名付け親として霊的指導者の位置を保ってい たことからも分かります。(創世記 2:23、3:20)。 けれども、神が妻を「夫に従う 立場」に置かれたのは、家庭の一致と調和を保つためだったのです。これは、使徒パ ウロが記した「妻たる者よ。主に仕えるように自分の夫に仕えなさい。キリストが教 会のかしらであって、自らは、からだなる教会の救主であられるように、夫は妻のか しらである。」という原則と全く同じです(エペソ 5:22~23)。そしてこれは、上記の 引用文にあったように、「神の律法が命じているこの原則」でもあります。この原則を 守ってさえいれば、罪深い人間も祝福されるのです。
神に造られた人間は、男女を問わずにあくまでも同等で、キリストにあって一つです。 しかし神は、「無秩序の神ではなく平和の神」であられます(第 1 コリント 14:33)。 その神は、男女が調和しあって家庭の秩序を保ち、祝福されるように…と、男女 それぞれの立場、役割、責任を定められたのです。ただ残念なのは、先程の引用文に あったように、男性が霊的指導者としての優位を乱用したために、女性の人生が非常 に苦しく、重荷となったことです。これは、神のご計画ではありません。だから パウロは、「もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もな い。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。」と宣言している のです(ガラテヤ 3:28)。
証の書も「女性は神が最初に彼女のために計画された地位を、すなわち夫と同等の者 としての地位を占めなければならない。」と記していますが、そのすぐ後に「女性の義 務は男性の義務よりも神聖できよいといっても言いすぎではない。女性は自分の仕事 の神聖さを認めて、神の力、神を恐れる念をもってその生涯の使命を果たさなければ ならない。」(アドベンチストホーム 253 頁)とあり、たとえ男女は同等であっても、 異なる義務や仕事、また使命が与えられていることが分かります。更に、「王座にすわ っている王でも、母親より高貴な仕事は持っていない。母親は家庭の女王である。子 供たちをより高い永遠の生活にはいるにふさわしい者となるように彼らの品性を形成 する仕事が彼女の手中にある。天使ですらそれ以上高貴な仕事を求めることはできな かった。なぜならこの仕事をすることによって、彼女は神に奉仕しているからである と、女性に勇気を与える言葉も記されています。」(アドベンチストホーム 254 頁)。神 さまの目から見た「高貴な仕事」と、人間の目から見たものには、大きな価値観の相 違があります。妻と母親に与えられた仕事は、夫の義務よりも神聖で清く、王座を占 める者や天使さえよりも高貴なものであり、それは神への奉仕でもあるのです。
ここまでの学びの中で最も重要なポイントは、どんなに社会的や文化的な環境が変わ ろうとも、神が“週の七日目が安息日”と決められたと同じように、「女のかしらは男」と決められたのは、神ご自身だということです。この真理は、聖書の始め から終りまで矛盾することなく一貫して記されています。例えば、旧約時代ではイス ラエルの 12 部族の長、長老、祭司、王など、指導者として任命された者たちは全員男 性でした。新約時代に移っても、12 弟子や使徒、長老など、神が選ばれた霊的指 導者は全員男性でした。そして、キリスト教会が設立されてから約二千年間、この原 則はずっと守られてきました。この六千年もの長い間守られてきた教会の秩序をくつ がえす運動が勢力を増してきたのは、ごく近年です。
事の発端をたどっていきますと、ルーテル教会、メソジスト教会、聖公会、長老教会 といった主要な教派が、女性按手礼にまつわる神学体系を変えたことから始まり、そ の結果、これらの教派では内部分裂が起こって教会員の数が減少、現在では同性愛者 までが聖職者に任じられるようにまでなったと言われています。他のプロテスタント 教派から押し寄せてきた“女性按手礼の波”は、私たちのセブンスデー・アドベンチ スト教会にもすでに深く浸透しています。民数記 16 章と 17 章に記されているように、 神は三度にわたって古代イスラエルに警告を発せられました。そして、現代の霊 的イスラエルの私たちにも、25 年間にわたる世界総会で三度も否決されました。それ でも、この問題は多くの信徒や指導者の間で、いまだにくすぶり続けています。セブ ンスデー・アドベンチスト教会は、これからどのような道を辿っていくのでしょうか。 その答えのヒントも、聖書に記されています。
列王記上 12 章 25 節から 33 節には、北の国イスラエルの初代王・ヤラベアムが、自分 の地位や権力を維持するためにとった政治的な運動が記されています。ここからも私 たちは貴重な教訓を学ぶことができます。
① まず最初にヤラベアム王がとった行動は、“イスラエル教会の繁栄”のためにエジ プトから学んだ「金の子牛」を取り入れて、礼拝のスタイルを変えることでした (28~30 節)。 現代のセブンスデー・アドベンチスト教会の中にも、“繁栄”のため にと、若者たちや世の中の人々が好む音楽やメッセージを他の教派から取り入れて、 礼拝のスタイルなどを変えていこうという考えがあります。その一つが、“メガチ ャーチ”です。
② 次に、ヤラベムは「レビの子孫ではない一般の民(KJV:lowest of the people・最 も低い民)を祭司に任命」しました(31 節)。すなわち、ヤラベムは神が定め られた祭司職に関する原則に背いて、自分で勝手に選んだ民を祭司職に任命したの です。神が命じられたことを無視し、人間が選ぶ人を祭司職に任命する…。 現在の女性や、同性愛者への按手礼に似ていないでしょうか?
③ 最後にヤラベムは、「ユダで行なう祭りと同じ祭りを八月十五日に定め」ました (32 節)。「これは彼が自分で勝手に考えついた月であった」とあります(33 節)。 レビ記 23 章 34 節によりますと、神が定めたれた仮庵の祭りは、「七月十五日」 でしたから、ヤラベムはまたもや神に背き、今度は何と礼拝の日まで変更してしま ったのです。《現代の私たちセブンスデー・アドベンチストが礼拝の日を変えると いうことは、さすがにないでしょう!》と思う人たちがいるかも知れませんが、証 の書には、日曜休業令が出た後、何と、セブンスデー・アドベンチストの牧師たち の中には、週の第一日目を守る必要がある…と人々を駆り立てて日曜礼拝を勧める ようになることが預言されています。これは聖書研究に熱心なアメリカ人の間では よく知られている引用文です。
Review and Herald 1884 年 3 月 18 日 「安息日を厳守することに不注意な人たちは、大きな損失に苦しむでしょう。この終 末時代、主は、神を信じると公言している人々に異議を唱えておられます。...牧師た ちは、教会や野外での大きな集会で、週の第一日目を守る必要性を、人々に強く推進 するでしょう。」 “Those who are careless in their observance of the Sabbath will suffer great loss.  The Lord has a controversy with his professed people in these last days. … In churches and in large gatherings in the open air, ministers will urge upon the people the necessity of keeping the first day of the week. ”
何ということでしょうか!ヤラベムの時代と同じように、神を信じると公言する人々 によって、礼拝の日まで変えようと牧師が推進するというのです。第 2 章ですでに見 た「これらの事が彼らに起こったのは、他に対する警告としてであって、それが書か れたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。」という聖句 が、ここで再び思い出されます (第1コリント 10:11)。
下記の引用文は、日曜休業令によってふるわれる時、多くの神の民が信仰を棄て敵側 に加わってしまうことを預言しています。
各時代の大争闘下 378 頁 「あらしが迫って来るとき、第三天使の使命を信じると公言していながら、真理に従 うことによって清められていなかった多くの者が、その信仰を棄てて反対の側に加わ る。彼らは、世俗と結合し、その精神を抱くことによって、ほとんど同じ見方で物事 を見るようになっている。そして試練(原語:test・テスト)が来ると、彼らはすぐに、 安易で一般うけのする側を選ぶのである。かつては真理を喜んだところの、才能ある 雄弁な人々は、その力を用いて他の人々を欺き迷わす。」
私たちのセブンスデー・アドベンチスト教会では、数十年にわたって女性按手礼が大 きな焦点となってきましたが、この問題はもっと根深いところにあります。それは、 女性按手令を容認することによって、教会の牧師職や指導者たちの地位に、同性愛者 を就けることへの道筋が出来上がっていくからです。他の主だったキリスト教派が女 性を聖職者の地位に容認したことによって、その中には今では同性愛者までを聖職者 に任じている教派があるのを見れば、セブンスデー・アドベンチスト教会においても 同じことが起こる可能性は大いにあります。「第三天使の使命を信じると公言していな がら、真理に従うことによって清められて」いない多くのセブンスデー・アドベンチ ストたちは、世俗と同じ精神を抱くようになり、女性や同性愛者の聖職者についても、 “日曜日礼拝”についても、「ほとんど同じ見方で物事を見るようになって」しまうの です。
聖書には、同性愛者についての記述がいくつかありますが、その中で有名なのがソド ムとゴモラに関するものです。神は、嫌悪すべき罪を犯し続けて深く堕落した国や町 に対する裁きとして、敵国の攻撃や疫病などを用いて滅ぼすことが多くありました。 しかし、ソドムとゴモラは、神自らが火と硫黄を天から降らせて滅ぼされたのです。 それほどに、神の目から見れば、同性愛が罪深いものであることが分かります。 エデンの園で、男性と女性の間に神自ら定められた“結婚”は最も密接で神聖な絆で あり、その聖なる絆を人間が変えてしまうことは、私たちが思っている以上に恐ろし いことなのです。それは、エデンの園で神自ら定められたもう一つの制度、神聖なる “安息日”を、人間が変えてしまうことと同じです。人間がこの二つの神聖なる制度 を勝手に変更することは、神ご自身に対する反逆そのものです。
この頃、西欧諸国や日本でも同性愛者が世間ですっかり認知されるようになってきま した。また、同性婚も、2000 年 12 月にオランダで成立したのをはじめとし、多くの 国々で認められるようになりました。私たちは、目の前で、神が定められた聖な る結婚の制度が破壊されていくのを、現在進行形で見ているのです。私たちのセブン スデー・アドベンチスト教会でも、指導者たちによる同性愛者を認める動きが教団の 中ですでに始まっています。このように、女性按手礼問題は、同性愛者問題と密接に 関連しているのです。
同性愛者の結婚を認める法律に続くサタンのもくろみは、同じく法律で日曜日を聖な る日として守らせるための“日曜休業令”を成立させることによって、神の律法を変 えることです。こうして、罪が侵入する前に、人間を祝福されるために神自ら定 められた“結婚”と“安息日”という二つの聖なる制度を、サタンが究極的に破壊し ようとしていること、そしてその時を目前にしていることに、私たちは気付かなければなりません。
女性按手礼を支持するセブンスデー・アドベンチストの神学者たちは、自分たちの立 場が正しことを、聖書を用いて説明していますので、それらの説明を聞く人たちの中 には賛同する人たちも多くいます。しかし、これは、プロテスタント教派が、《七日目 の安息日は日曜日に変わった》ことを“証明”するために、自分たちに都合のよい聖 句を選んで議論することと非常に似ているように思えます。例えば、《聖書には女性の 預言者が登場します。女性を預言者として任命された神は、同じように、女性を 牧師に任命されることを望んでおられます!》という議論がありますが、一見なるほ ど…と思えなくもありません。しかし、果たしてそうでしょうか?
預言者は、あくまでも神のメッセンジャーであり、神からのメッセージを正 確に人々に伝え、神の代理人として警告、譴責、懇願、助言、教えることが役目 です。しかし、預言者の役割と、人々の上に立って教会組織を運営する指導者とは異 なります。エレン・ホワイトとも、神のメッセンジャーとしての任務を果たしました が、教会組織を運営する長としての責任を負ったのは、あくまでも牧師として任命さ れた夫のジェームス・ホワイトでした。
女性按手礼問題の学びとして、最後にもう一つ旧約聖書から見て終わりたいと思いま す。それは、出エジプト記に記されているモーセの姉ミリアムに起こったある出来事 です。ここにも、神に任命されていない者が指導者になることに対する神か らの厳しい警告が記されています。これは、とても重要な教訓を、現代の私たちにも 与えています。
モーセの姉ミリアムは、「女預言者」でした(出エジプト記 15:20)。彼女は、自分はモ ーセと同じ地位と権威が与えられていると勝手に思い込み、モーセに対して妬みを抱 きました(民数記 12:1~2、人類のあけぼの上 458~462 頁を参照)。ミリアムと、彼女 に同情したアロンに対して、「主は彼らにむかい怒りを発して去られた」時、ミリアム はらい病となり、七日の間も宿営の外で閉じ込められたのです(民数記 12:9~15)。女 性は、たとえ預言者であっても、組織の上に立つ指導者になることは、決して許され ていないことがこの出来事でよく分かります。すでに与えられた任務に満足せず、不 満を持って権威や地位を欲求することは、神が怒りを発して去られるほど、恐ろしい ことなのです。証の書には、「天で初めに不和をもたらした同じ罪悪がミリアムの心に 起こり、その不満にすぐ同情した者があった。」とあります。ミリアムと同情者の不満 や欲望は、天で反逆を起こしたルシファーと同じものだというのです(人類のあけぼ の上 458 頁)。

第 2 章ではコラの反逆について詳しく学びましたが、それも、天における反逆と同じ 精神であったこと、そしてそれと同じ悪が、何と、現在も存在していることが下記に 記されているのです。
人類のあけぼの上 488 頁 「天においてサタンを反逆させたのと同じ精神が、小規模ではあったが、コラの反逆 のなかに見られたのである。神の統治に対する不満をルシファーにいだかせ、天の秩 序をくつがえそうとさせたのは、誇りと野心であった。サタンは堕落以来、この同じ ねたみと不満、地位や名誉に対する野心を人間の心に植えつけようとしてきた。こう して、彼は、コラ、ダタン、アビラムの心を動かし、自己高揚心を起こさせ、ねたみ、 不信、反逆の精神をかきたてたのである。サタンは彼らに、神の任命された人々を拒 ませて、彼らの指導者であられる神を拒否させたのである。彼らは、モーセとアロン に向かってつぶやき、神を冒涜していながらも、なお、自分たちは正しく、彼らの罪 を忠実に譴責した人々をサタンに動かされているとみなすほどに欺かれていた。コラ の滅亡の根底に横たわっていた同じ悪が、なお、存在しているのではなかろうか。誇 りと野心は広く人の心を支配している。そして、この精神は、ねたみと、最高の地位 を求める心を起こさせる。魂は神から離れ去って、無意識のうちにサタンの側に引か れるのである。多くの者、また、キリストの従者であると公言する者でさえ、自分を 高めるために熱心に考え、計画し、努力している。」
ルシファーは、「わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果 てなる集会の山に座し、雲のいただきにのぼり、いと高き者のようになろう」と、神 さまが定められた「天の秩序」をくつがえそうとしました(イザヤ 14:13~14)。神さ まに与えられた地位より高く昇ろうとしたルシファーの試みは、教会の秩序をくつが えそうとしたコラやミリアムだけでなく、家庭の秩序をくつがえそうとしたエバによ って試みられたこと、そして、「落ちつきを失った現代のエバたち」によって試みられ ていることが、下記の引用文で見えてきます。
人類のあけぼの上 48 頁  「エバは、エデンの家庭で、夫のそばにいて、完全な幸福を味わっていた。しかし、 落ちつきを失った現代のエバたちと同様に、彼女は、神がお定めになったところより、 もっと高い身分になりたいと望むようにそそのかされた。彼女は、初めに置かれた地 位より高く昇ろうとして、それよりはるか下に落ちた。神のご計画に従って、実生活 の義務を快く果たそうとしない者は、みな同様となる。神がお与えにならなかった地 位を得ようと努めて彼らが祝福となることのできる場所をあけるものが多い。高い身 分を望んで、女性の尊厳と品性の気高さを犠牲にし、天が特に彼らに与えた働きを怠 る者が多いのである。」
これらの引用文から読みとれることは、コラたちやミリアム、そしてエバや女性按手
礼を促進している「現代のエバたち」は、皆ルシファーと同じ妬みと不満、野心と反 逆の精神を持っているということです。
多くの人々は、“女性按手礼”というテーマは、単に文化的・社会的な問題だと考えて いるようですが、決してそうではないことを、コラたちやミリアムの出来事を通して 神は現代の私たちにも語りかけておられます。これは、神が自ら定められた祭司 職・牧師職に関する光に従うか、それとも背くか…という、深刻な問題なのです。ア ーモンドの実を結んだ枝は、古代イスラエルが“牧師職”における神に対する反逆を 起こしたコラたちへの警告の「しるし」であり、また、私たち霊的イスラエルによっ てその歴史が“女性按手礼問題”として、終末時代に再び繰り返されていることへの 神からの厳粛な勧告なのです。そして第 2 章で学んだように、神からの警告と愛 の「しるし」として契約の箱に保存されているアロンの杖は、時の終わりまで神の民 が繰り返すつぶやきや反逆をやめさせ、彼らを悔い改めに導いて死からお救いになる という神のお約束の証拠でもあります。だからこそアロンの杖も神聖な至聖所に納め られているのです。そして、至聖所にある贖罪所と契約の箱が、私たちが守られる唯 一の“隠れ場”である…という意義が、更に明瞭になるのです。
《女性も牧師として按手礼を受けるべきである》ことを望んでいる「現代のエバたち」 と、彼女たちに同情する人々が、神自ら定められた原則に戻り、もう一度真理を 見つめ直してくださることを、切に祈って願うばかりです。
更に聖書を探っていきますと、至聖所にある契約の箱に納められている「アロンの杖」 が示す女性按手礼問題は、ほんの“氷山の一角”だけではないか…ということが、見 えてきます。それは、エレミヤ書にも「アーモンドの枝(口語訳:あめんどうの枝)」 が登場し、エレミヤの時代に生きた古代イスラエルの反逆が記されているからです。 次の第 4 章では、そこにあるとても興味深いテーマに触れ、エレミヤの時代と終末時 代の結びつきを見ていきます。
 

隠れ場 第四章 その1 (転載)

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2015年12月21日(月)00時34分0秒
  第 4 章: アーモンドの枝と煮え立っている鍋
第 3 章では、至聖所に納められた「アロンの杖」が示す女性按手礼問題は、ほんの入
口に過ぎず、実はその奥にはサタンが仕掛けた大きな罠がある事を学びました。この
第 4 章では、エレミヤ書の中から、サタンが一体どの様に神の民を滅びの罠に誘
導して行ったかを具体的に見る事によって、サタンが同じ様に終末時代に生きる
民を、滅びの罠に誘い込もうとしているかが明確に分かってきます。私達セブンス
デー・アドベンチストは、2015 年第 4 四半期の安息日学校聖書研究ガイドでちょうど
エレミヤ書を学んでいます。そして、このエレミヤ書にも「アーモンドの枝(口語訳:
あめんどうの枝)」が登場し、エレミヤの時代に生きた古代イスラエルの反逆が記され
ているのです。例えば、エレミヤ 6 章 28 節には「彼らはみな、強情な反逆者であって、
歩きまわって人をそしる。彼らは青銅や鉄であって、みな卑しい事を行う。」とあり、
当時の神の民がどんな深い背教に陥り、神に対して反逆していたかが伺えます。 この
歴史にはとても大切な真理が埋まっていて、エレミヤの時代と終末時代が、どれほど
深く結びついているかが見えてきます。神がエレミヤの時代に叫ばれた警告は、
終末時代の私達への更なる警告でもあり、それを正確に見極める事は、終末時代
に生きる者にとっては死活問題となります。

まず最初に、聖書の預言者たちが記したみ言葉は、彼らの時代に生きた人々よりも、
主に、終末時代に生きる私達のために書かれているという基礎的な事実をしっかり
と証の書の引用文から確認しておきます。下記の引用文は、“The Bible Prophets
Wrote for Our Time・聖書の預言者たちは、私達の時代のために記した”というタ
イトルのセクションからの抜粋です。
 Selected Messages 第 3 巻 338 頁
 「古代預言者たちは、彼らの時代のために少なく語り、私達の時代のために、より
 多くを語っているので、彼らの預言は、私達に当てはまって効力がある。(第 1 コリ
 ント 10:11 と第 1 ペテロ 1:12 を引用)」

この引用文の次のページを見ますと、聖書には、最後の世代のための宝が積もり積も
っていて、旧約聖書の重大な出来事や厳粛な歴史は、終末時代の教会によって繰り返
されている事なども記されています(同 339 頁)。つまり、古代イスラエルの歴史は、
霊的イスラエルであるセブンスデー・アドベンチスト教会によって繰り返されていて、
モーセ、イザヤ、エレミヤなどの預言者たちが記したみ言葉は、当時の人々よりも、
再臨直前に生きる私達のために書かれたものなのです。そして、預言者モーセの時
代のコラの反逆が、現在セブンスデー・アドベンチスト教会によって繰り返されてい
るように、預言者エレミヤの時代の南王国ユダの反逆も、セブンスデー・アドベンチ
スト教会によって繰り返されている事が、この学びを通して見えてきます。更に、
至聖所に納められている「アロンの杖」は、女性按手礼問題だけでなく、セブンスデ
ー・アドベンチスト教会の中に潜んでいる根深い反逆に対する、神の愛と警
告の「しるし」である事が分かってくると思います。

預言者エレミヤは、二つの幻を見せられます(エレミヤ1章)。その一つ目が11節と12
節にある「アーモンドの枝」の幻です。安息日学校聖書研究ガイド(2015年10月1日第
1課木曜日)には《エレミヤ書全体の中心的メッセージは11 節と12 節に見いだせる、
と言う事ができます。》とありました。つまり、エレミヤ書の中心的なメッセージ
は、この「アーモンドの枝」の幻に秘められているというのです。
 エレミヤ 1:11~12
 「主の言葉がまたわたしに臨んで言う、『エレミヤよ、あなたは何を見るか』。わたし
 は答えた、『あめんどうの枝(新共同訳、KJV 訳:アーモンドの枝)を見ます』。 主は
 わたしに言われた、『あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を行おうとして見張
 っているのだ』。」

【ここでエレミヤが見せられた「アーモンドの枝」には、どの様な意義が含まれて
いるのでしょうか?】
まず、安息日学校聖書研究ガイドにあった説明を見ておきましょう。
《たいていの聖書は、11 節のへブライ語の表現を「アーモンドの枝」 と訳していま
す。 しかしこのような訳では、ここでのヘブライ語の言葉遊びを見逃す事になりま
す。「アーモンド」と訳されている言葉は、主が御自分の言葉を成し遂げようと「見
張っている」とおっしゃっている12節に登場する「見張る」という動詞と同じ語根な
のです。… 神の言葉は成し遂げられるでしょう。 いつの日かすべての人が、神のお
っしゃったとおりに物事が起きるのを目にします。 神は恵みと赦しを提供してこられ
ましたが、だれであれ無理に従わせたり、いやしたりはなさいません。もし神の民が
神の言葉に応答しないなら、 イスラエルに対する神の言葉がエレミヤ書の中で成就し
たように、 神の裁きと罰の言葉は確実に成し遂げられるのです。》(安息日学校聖書
研究ガイド 2015年10月1日木曜日)

ここで聖書研究ガイドは、《神の言葉は成し遂げられる》というポイントを三度も繰り
返して、神はご自分の言葉が必ず成し遂げられるように見張っておられる…とい
う事が「アーモンドの枝」の意義である事を強調しています。確かに「アーモン
ド」と訳されているヘブル語は、“to be wakeful(目覚めている), to be alert(注意
を払っている), to be on the lookout(見張っている), hasten(急ぐ)”という語根
からきています(Strong's Concordance H8247,H8245)。アーモンドの木は、春に一
番早く花を咲かせる木として知られていて、“wakeful tree(起きている木)”とか
“wake-tree(目覚めた木)”と呼ばれています(Seventh-day Adventist Bible
Dictionary 29~30 頁を参照)。これが、上記のガイドでの著者の説明にあった《ヘ
ブライ語の言葉遊び》ではないかと思われます。言い換えれば、「アーモンドの枝」
は、「目覚めていて」「注意を払っていて」、《御自分の言葉を成し遂げようと「見張っ
ている」神》を表している、としています。神はご自分の言葉が必ず成し遂
げられるように見張っておられる…というメッセージは、神の究極的な力と主権、そ
して絶対的な権威を教えていて、確かにその事はエレミヤ書全体に流れています。
しかし、この「アーモンドの枝」を、抽象的な意義だけに限定してしまってよいので
しょうか?何故ならば、聖書には「エレミヤよ、あなたは何を見るか」という神ご自
身の問いに対して、エレミヤは「あめんどうの枝(新共同訳、KJV 訳:アーモンドの枝)
を見ます。」と答え、更に神は「あなたの見たとおりだ。」と、実際に「アーモン
ドの枝」という物体を見た事が書かれているからです。ここで分かる事は、「アー
モンドの枝」は《御自分の言葉を成し遂げようと「見張っている」神》という抽
象的な意味だけでなく、神は字義通りの「アーモンドの枝」を実際にエレミヤに
見せられた事が分かります。そして証の書には、「エレミヤはレビ族の祭司の一人
であったので、幼少の時から聖職のために訓練を受けていた」とあります(国と指導
者下 29 頁)ので、神は、祭司であったエレミヤに、字義通りの「アーモンドの枝」
を見せられ、それを実物教訓として用いられたと思われます。

そもそもアーモンドの木は、聖所との深い関連がありました。第一の部屋にあった純
金の燭台には、アーモンドの花の形をした萼と節と花弁が付けられていました(出エ
ジプト記 25:31~34、37:17~20)。春一番に咲くアーモンドの花は、ユダヤ人たちに
とって新しい命のシンボルであり、罪人に新しい命をお与えになられるイエス・キリ
ストを指し示していました。そして至聖所にある契約の箱には、コラの反逆の後に収
められたアーモンドの実を結んだアロンの杖がありました。祭司であったエレミヤが
アーモンドの枝を見た時、彼は至聖所に納められている「アロンの杖」との結び付き
を思ったのではないでしょうか。何故ならば、エレミヤは南王国ユダが神に反逆し、
破滅的な背教の道を歩んでいる事を熟知していたからです。そのような反逆者たち
に対する使者として召されたエレミヤは、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にす
ぎず、どの様に語ってよいか知りません」と、自分の無価値さに圧倒されて躊躇し
ました(エレミヤ 1:6)。けれども神は、「彼らを恐れてはならない」と二度も繰り
返して、エレミヤを励まして勇気づけられ、「わたしがあなたと共にいて、あなたを救
う」事をお約束されました(8 節、17~19 節)。『隠れ場』第 2 章では、至聖所に納
められている「アーモンドの枝」は、「後世への証拠として」保存され、コラたちの
「反逆の歴史は、繰り返されつつあり、時が終わるまで繰り返される」事を学びま
した(人類のあけぼの上 487 頁、Last Day Events 173 頁)。神は、反逆者に対
する警告と愛の「しるし」である「アーモンドの枝」を、祭司だったエレミヤに見せ
る事で、コラの反逆を思い起こさせ、ユダ国の「強情な反逆者」たちに悔い改めの
メッセージを伝える事が、彼の使命である事をお示しになったのです。

「後世への証拠として」保存された「アーモンドの枝」は、ユダ国ばかりでなく、「時
が終わるまで繰り返される」反逆に対する神からの警告と愛の「しるし」です。そし
て、どの時代にも存在する「強情な反逆者」たちを、悔い改めに導いて死からお救い
になるという神の愛のお約束の証拠でもあります。エレミヤ書全体に、何度も、何度
も繰り返されているメッセージは、“悔い改めて神に帰れ”という悲痛な叫び声です。
これがエレミヤ書全体の中心的なメッセージなのです。

更に、この「アーモンドの枝」の幻の最後には、とても興味深い言葉が記されていま
す(12 節)。日本語聖書では「見張る」となっていますが、KJV(欽定訳)では「急い
で」と訳されています。
  エレミヤ 1:12
 ・口語訳:「主はわたしに言われた、『あなたの見たとおりだ。わたしは自分の言葉を
 行おうとして見張っているのだ』。」
 ・KJV:“Then said the Lord unto me, Thou hast well seen: for I will hasten my
 Word to perform it.” 「主はわたしに言われた、『あなたの見たとおりだ。だからわ
 たしは急いで自分の言葉を行なう。』」

【神が急いで行なおうとされている事とは、一体何でしょうか?】
その答えは、二つ目の幻にあります。
 エレミヤ 1:13~14
 「主の言葉がふたたびわたしに臨んで言う、『あなたは何を見るか』。わたしは答えた、
 『煮え立っているなべを見ます。北からこちらに向かっています』。主はわたしに言わ
 れた、『災いが北から起って、この地に住むすべての者の上に臨む』。」

北からこちらに向かっている「煮え立っているなべ」は、北から起こる災いを象徴し
ていました。つまり「煮え立っているなべ」は、新しく世界勢力となったバビロンが
北から攻めてくる事を象徴しているのです。12 節にあった“神が急いで行なわ
れようとされている事”とは、神からの勧告に耳を傾けず、強情に反逆を犯し
続ける民に対する裁きでした。そして、その裁きとは、バビロンによるエルサレムの
破滅だったのです。この事は、後に続く 15 節から 16 節に書かれています。
 エレミヤ 1:15~16
 「主は言われる、「見よ、わたしは北の国々のすべての民を呼ぶ。彼らは来て、エルサ
 レムの門の入口と、周囲のすべての城壁、およびユダのすべての町々に向かって、お
 のおのその座を設ける。わたしは、彼らがわたしを捨てて、すべての悪事を行ったゆ
 えに、わたしのさばきを彼らに告げる。彼らは他の神々に香をたき、自分の手で作っ
 た物を拝したのである。」

神は、「アーモンドの枝」と「煮え立っているなべ」の二つの幻をエレミヤにお見
せになったうえで、「あなたは何を見るか」とエレミヤがそれぞれの幻で見たものにつ
いて、同じ問いをされました。これらの二つの幻は、エレミヤに与えられた使命を表
しています。煮え立っているなべとは、なべが今にも吹きこぼれてしまう光景です。
台所で煮えたぎっているなべが吹きそうになるのをみれば、私達はどうするでしょ
うか?

私達が生きている現在も、「煮え立っているなべ」が「北からこちらに向かって」い
て、北から起こる災いがもう目の前に迫っている事を愛の神は私達に警告し
てくださっているのです。エレミヤの時代には、バビロンの王ネブカデネザルが北か
らユダ国を攻撃してきました。そのように、終末時代には、ダニエル 11 章に登場する
「北の王」・復活した法王制ローマが、神の民に対する攻撃を起こそうとしている事
への警告なのです。なべはすでに煮え立っています。目の前のなべが吹きこぼれてし
まう前に、北からの災いが起こる前に、悔い改めて神に立ち返れ!という切羽詰った
メッセージが、今、預言者エレミヤを通して私達セブンスデー・アドベンチスト
に叫ばれているのです。このように神は、エレミヤの時代の歴史を通して、終末
時代に大きな光を投げかけておられるのです。これを決して見逃してはなりません!
その神からの愛の警告に、私達が耳を傾けるか否か、それは、セブンスデー・
アドベンチストの誰もが下さなければならない決断なのです。

【エレミヤ 11 章 9 節には、「主はまたわたしに言われた、『ユダの人々とエルサレムに
住む者のうちに反逆の事がある。』」と記されていますが、どの様な「反逆の事」が
起こっていたのでしょうか?】
「反逆の事」という言葉は、KJV では、“conspiracy・陰謀”と訳されていて、ユダ国
の反逆は徒党を組んだものであった事が伺えます。

国と指導者下 58~59 ページには、サタンがその当時の状態を利用して、「エルサレム
とバビロンの両方において、偽の預言者たちを起こさせた」と記されています。これ
こそが、いにしえから終末に至るまで、サタンが用いる手法なのです。これまで、何
と多くの人々が、このサタンの手法で滅びの罠に引きずり込まれた事でしょうか!

その偽預言者の中で有名な人物が、エレミヤ 28 章に登場するハナニヤでした。ハナニ
ヤは、ユダ国の人々に対して、《神は、バビロンをわずか二年の内に砕いてくださ
る。》と、神からの急速な救済を期待するように人々に教えていました。そのハナニヤ
の教えは、神の哀れみとお恵みに満ちた素晴らしい福音のメッセージのように聞
えませんか?では、そのハナニヤのメッセージをエレミヤ書から見てみましょう。
 エレミヤ 28:2~3、11
 「2~3 節: 万軍の主、イスラエルの神はこう仰せられる、わたしはバビロンの王の
 くびきを砕いた。二年の内に、バビロンの王ネブカデネザルが、この所から取ってバ
 ビロンに携えて行った主の宮の器を、皆この所に帰らせる。 11 節: そしてハナニヤ
 は、すべての民の前で語り、「主はこう仰せられる、『わたしは二年のうちに、このよ
 うに、万国民の首からバビロンの王ネブカデネザルのくびきを離して砕く』と言った。」
ここでハナニヤのメッセージは、「主はこう仰せられる…」と、彼のメッセージがあた
かも“神の名”によって語られた言葉として、《神はバビロンを二年の内に砕いて
下さる。》と説いているのです。しかし、聖書をよく読んでみると、神はエレミ
ヤを通して“バビロンでの捕囚は 70 年間続く”と言われており、ハナニヤのメッセ
ージは真理からかけ離れた偽りの教えだという事が分かります。
 エレミヤ 25:11~12
 「この地はみな滅ぼされて荒れ地となる。そしてこの国々は七十年の間バビロンの王
 に仕える。主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、
 カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする。」

 エレミヤ 29:10
 「主はこう言われる、バビロンで七十年が満ちるならば、わたしはあなたがたを顧み、
 わたしの約束を果し、あなたがたをこの所に導き帰る。」

神はすべての人々に、バビロンの王に服従し、征服者の一時的支配に静かに従う
ように勧告されましたが、ハナニヤのような偽預言者たちは、エレミヤの言葉を疑う
ように人々を扇動したばかりでなく、神の勧告に反して行動するように人々をそその
かし、真の預言者の働きに真っ向から反対しようとしたのでした。(国と指導者下 58~
64 頁を参照)。

偽預言者ハナニヤは、真理ではなく、偽りを人々に信じさせたため、神からの裁きを
受けましたが、それは、どんな裁きだったでしょうか?
 エレミヤ 28:15~17
 「預言者エレミヤはまた預言者ハナニヤに言った、『ハナニヤよ、聞きなさい。主があ
 なたをつかわされたのではない。あなたはこの民に偽りを信じさせた。それゆえ主は
 仰せられる、『わたしはあなたを地のおもてから除く。あなたは主に対する反逆を語っ
 たので、今年のうちに死ぬのだ』と」。預言者ハナニヤはその年の七月に死んだ。」

この出来事から学べるもう一つの重要な真理は、人々に「偽りを信じさせた」事は、
「主に対する反逆を語った」事と、同一の罪であるという事です。

更に覚えておきたい事は、このような反逆は、指導者や教師だけの問題ではなく、
偽預言者たちの楽天的な偽りの教えに心を引かれ、そのようなメッセージを好んで聞
いていた人々にも重大な連帯自己責任があります。エレミヤ 5 章 31 節には「預言者は偽
って預言し、祭司は自分の手によって治め、わが民はこのようにする事を愛してい
る。しかしあなたがたは、その終わりにはどうするつもりか。」とあります。

《皆さん、決して恐れる事はありません。エレミヤが語っているバビロンでの捕囚
は 70 年もの間続く…などという教えには、愛がありません。愛の神は、私達を
たったの 2 年で救って下さるのです!》という「平和を預言する預言者(エレミヤ
28:9)」の教えを信じる事を、人々は好んで選んでしまったのです。

聖書には「偽りを預言している」となっていて、この二人はハナニヤと同じ偽預言者
であったのですが、証の書は「バビロンにおける偽教師たちの中に、その生活は腐敗
していたにもかかわらず、自分たちは清いと主張する人がふたりあった」と、彼たち
を“偽教師”とも呼んでいます(国と指導者下 59 頁)。つまり、聖書時代の“預言者”
は、神の民にとっては“教師”でもあったのです。このアハブとゼデキヤという二人
の偽教師は、「イスラエルのうちで愚かな事をし、隣の妻と不義を行い、わたしが命じ
たのでない偽りの言葉を、わたしの名によって語った」ため、人々の目の前でバビロ
ンの王に火に焼かれるという非常に厳しい裁きを受けました(エレミヤ 29:20~23 を
参照)。

更に、ユダ国に対する神の警告はこれで終わっていません。神は預言者エゼ
キエルを召され、エレミヤがユダのエルサレムにおいて語ったと同じメッセージを、
捕囚先のバビロンで語らせます。下記の聖句で神は、エゼキエルを通してイスラ
エルの民を「反逆の家」と何度も繰り返して呼ばれています(エゼキエル 3:9、26、27、
12:2 も合わせて参照)。ユダ国の反逆が、どれほど根深いものであったかが伺えます。
 エゼキエル 2:3~7
 「彼はわたしに言われた、『人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの民、すなわちわ
 たしにそむいた反逆の民につかわす。彼らもその先祖も、わたしにそむいて今日に及
 んでいる。彼らは厚顔で強情な者たちである。わたしはあなたを彼らにつかわす。あ
 なたは彼らに『主なる神はこう言われる』と言いなさい。彼らは聞いても、拒んでも、
 (彼らは反逆の家だから)彼らの中に預言者がいた事を知るであろう。人の子よ、
 彼らを恐れてはならない。彼らの言葉をも恐れてはならない。たといあざみといばら
 があなたと一緒にあっても、またあなたが、さそりの中に住んでも、彼らの言葉を恐
 れてはならない。彼らの顔をはばかってはならない。彼らは反逆の家である。彼らが
 聞いても、拒んでも、あなたはただわたしの言葉を彼らに語らなければならない。彼
 らは反逆の家だから。」
エレミヤの時代、多くの偽預言者たちが神に対して反逆を起こしましたが、イエス
ご自身も「また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。」と、終末
時代にも多くの偽預言者たちが現れる事を預言されました。これほどまでに神が警告を与
えてこられた事を、私達は深刻に受け止めなければなりません。私達はあまり
にもぬるま湯に慣れてしまっているのではないでしょうか!

終末時代に生きる私達は、エレミヤの時代のように、セブンスデー・アドベンチス
ト教会の内においても、教会の外においても、「様々な教えの風に吹きまわされたり、
もてあそばれたり(エペソ 4:14)」する異端の教えの危険にさらされています。教会内
に持ち込まれる偽りについては、これまで私達の聖書研究でも何度も取り扱ってき
ました。そして、これからも折りにふれ、偽りの教えに対して聖書の真理をかかげて
いくでしょう。それは、サタンがこれらの「滅びに至らせる異端をひそかに持ち込」
む事を決して止める事はせず、終末時代の民をひとりでも多く滅びの渦に誘いこ
もうと狙っているからです。サタンがルシファーと呼ばれていた頃でさえ、数え切れ
ないほどの天使たちのうち、三分の一を騙して彼の側につける事に成功したのです。
今でもサタンは、偽りの教えに誘い込むために懸命になっています。第 3 章ですでに
見たように、サタンはまず女性按手礼を認めさせ、次には同性愛者を認めさせて神自
ら定められた結婚制度を破壊し、最後には日曜日を安息日と認めさせて、神の律法を
変えてしまおうと企んでいるのです。全世界の人々が日曜休業令に従う事によって、
神に対するこの世で一番最後の反逆が起るのです。今私達は、そのような危機が起
る直前に生きています。もし私達が神の御声に従う事を拒むなら、この人類最後
の反逆に自ら加わってしまう危険が多いにあります。

3 章 22 節:「背信の子どもたちよ、帰れ。わたしはあなたがたの背信をいやす。」
30 章 17 節:「主は言われる、わたしはあなたの健康を回復させ、あなたの傷をいやす。」
33 章 8 節:「わたしは彼らがわたしに向かって犯したすべてのとがを清め、彼らがわた
しに向かって犯した罪と反逆のすべてのとがをゆるす。」
エレミヤの時代の古代イスラエルのように、終末時代の霊的イスラエルも、真の悔い
改めを経験して神に帰れば、必ず私達の罪や反逆は赦され、背信から癒されるとい
う希望が与えられています。神の恩恵がある今なら、まだ間に合います。

モーセの時代に記された預言は、
エレミヤの時代に生きていた人々によって一旦成就しましたが、モーセが記した預言
も、エレミヤが記した預言も、究極的にはこの地球に生きる最後の世代によって完全
に成就される事が分ってきます。そして、安全な「隠れ場」に留まる事こ
そが、これから起る出来事に対する最も大切な備えである事を改めて確認します。

神はエレミヤに、木のくびきを作ってそれを自分の首につけ、異国の王たちがバ
ビロンの王に降伏して仕えれば、もうすぐやってくる滅びを免れる事ができる…と
いう、その当時の万国民に対する哀れみに溢れた救いのメッセージを伝えるように命
じられました(エレミヤ 27:1~11, 28:12~13 を参照)。エレミヤのくびきは、バビロ
ンの支配下に置かれる国々が経験する屈辱のシンボルであり、神はこの実物教訓
を用いて警告のメッセージを発せられたのです。哀れみ深い神は、バビロンに服
従する事で、人々に課せられる罰を最も軽くされようとしておられました。さらに、
この木のくびきには、私達にとって尊い聖なる光が秘められています。それには後
ほど触れます。

まずここで興味深いのは、神が異国の使者たちに語られたお言葉です。
 エレミヤ 27:5~7
 「わたしは大いなる力と伸べた腕とをもって、地と地の上にいる人と獣とをつくった
 者である。そして心のままに地を人に与える。いまわたしはこのすべての国を、わた
 しのしもべであるバビロンの王ネブカデネザルの手に与え、また野の獣をも彼に与え
 て彼に仕えさせた。彼の地に時がくるまで、万国民は彼とその子とその孫に仕える。」
この聖句は、地と地の上にあるものを造られた創造主は、地球のすべての国々の統治
者であられる事、そして「心のままに地を人に与える」事がお出来になる全知全
能の神であられる事を宣言しています。この地球上に存在するあらゆる勢力の浮き
沈み、また諸国の紛争や戦争は人間が勝手に行なっているように見えますが、しかし、
人類の歴史におけるあらゆる出来事は、「時と季節とを変じ、王を廃し、王を立て、知
者に知恵を与え、賢者に知識を授けられる」神の統治下にあるのです(ダニエル
2:21)。だからこそ神は、ネブカデネザル王を「わたしのしもべ」とお呼びになり、
バビロンに降伏して仕える事は、真の王であられる創造主に仕える事である…と
いう意味のメッセージをすべての国々に伝えられたのです。神がご自分の計画を
全うされる手段に、悪に染まった残酷な国の王でさえも「わたしのしもべ」として用
いられた事を見ると、選民に限らず、異邦人の中から一人でも多くの魂を救おうと
される神の、とてつもなく広くて深い愛を感じる事ができます。

バビロンの国に降伏して仕える事は、バビロンの偽りの神々を拝する事では決し
てありません。人間が拝すべき神は、唯一創造主であられる真の神のみです。イエス
さまも、「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。」と、国家と宗
教を切り離すように教えられました(マタイ 22:21)。これが、正教分離です。パウロ
も同じ原則を説いています。
 ローマ 13:1~2、7、9
 「すべての人は、上に立つ権威に従うべきである。なぜなら、神によらない権威はな
 く、おおよそ存在している権威は、すべて神によって立てられたものだからである。
 したがって、権威に逆らう者は、神の定めにそむく者である。そむく者は、自分の身
 にさばきを招く事になる。7 節: あなたがたは、彼らすべてに対して、義務を果し
 なさい。すなわち、貢を納むべき者には貢を納め、税を納むべき者には税を納め、恐
 るべき者は恐れ、敬うべき者は敬いなさい。9 節:『姦淫するな、殺すな、盗むな、む
 さぼるな』など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局『自分を愛するようにあ
 なたの隣り人を愛せよ』というこの言葉に帰する。」
この聖句にある重要なポイントは、「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、
十戒の第 5 条から 10 条にある隣人に対する掟はリストされていますが、第 1 条から第
4 条にある神に対する掟は含まれていない事です。何故ならば、神を信じて拝するこ
とは、一人ひとり良心の呵責の問題であって、国家がそれを法的に規制する権限は与
えられていないからです。

この事は、若くしてバビロンに捕らわれていったダニエルたちの証からも分ります。
彼らはネブカデネザル王に忠実に仕えましたが、バビロンの掟と神の掟が対立した時
は、神への忠誠を妥協する事は決してありませんでした。そしてダニエルたちは、
「… わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしが
あなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせた
そのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。」というお約束を心から信
じ、神の栄光を現す証人として、この預言が成就されるのをバビロンで忍耐強く待ち
ました(エレミヤ 29:14、ダニエル 9:2 を参照)。更に、彼らの証によってネブカデネ
ザル王にも、真の神を知って救いにあずかる機会が与えられたのです。何という神さ
まの愛でしょう!

では、エレミヤの時代に発せられた救いのメッセージは、終末時代の私達に何を示
しているのでしょうか?真の王であられる創造主に仕えて拝せよという意味のメッセ
ージは、第一天使が叫ぶ「神をおそれ、神に栄光を帰せよ。神のさばきの時がきたか
らである。天と地と海と水の源とを造られたかたを、伏し拝め」と同じです。「永遠の
福音」は、聖書の始めから終りまで変わる事なく発せられていて、神はどの時
代でも「あらゆる国民、部族、国語、民族」に救いの手を差し伸ばしてこられました
(黙示録 14:6~7)。ダニエルたちがバビロンで捕らわれていたように、私達もこの
地球上で捕らわれの身として再臨のお約束を待ち続けています。創造主を心から拝し
て御心に従う者たちは皆、万国から集められ、天のカナンにおられる神のもとへ帰る
事ができるのです。それまでは、証人として世の人々に神の栄光を現す使命が私た
ちに与えられています。そして、ダニエルの時代のように、この世の掟と神の掟が対
立した時は、創造主であられる真の神への忠誠が求められます。

更に神は、木のくびきをはめたエレミヤを、ゼデキヤ王の所に来た異国からの使
者だけでなく、ユダ国の祭司や人々にも送り、定められた期間の間バビロンの王に降
伏するようにと、同じ救いのメッセージを発せられました(27:16~17)。しかし偽預
言者ハナニヤは、裁きと破滅の《悪い知らせ》を、平和と恵みの《良い知らせ》に勝
手にすり替えたのです。証の書には「ハナニヤは王と宮廷の寵愛を得ようとして反対
の声をあげ、神が彼にユダヤ人に対する激励の言葉をお与えになったと言ったのであ
る。」と記されています(国と指導者下 61~62 頁)。言い換えれば、ハナニヤは偽りの
福音を、神からの「激励の言葉」として人々に教えたのでした。聖書の始めから終り
まで綿々と流れている永遠の福音に反した教えを説く事は、その教師に死を招くほ
ど、神に対する恐るべき反逆なのです。

《神は、バビロンをわずか二年の内に砕いて下さる。》と教えたハナニヤに対し
て、エレミヤは「平和を預言する預言者は、その預言者の言葉が成就するとき、真実
に主がその預言者をつかわされたのである事が知られるのだ。」と宣言しました(エ
レミヤ 28:9)。これについて証の書には、「将来の事態の進展によって、どちらが真の
預言者であるかが決定的に判明するのである。」とあります(国と指導者下 62 頁)。別
の証の書には、このエレミヤの言葉を聞いたハナニヤは、ひどく立腹した事が書か
れています(Testimonies For the Church 第 4 巻 171 頁)。真理に対して怒りを発す
る事は、偽預言者が持つ特有の精神である事がここで分ります。

【では、エレミヤの言葉に怒った偽預言者ハナニヤは、どんな行動をとったでしょうか?】
 エレミヤ 28:10
 「そこで預言者ハナニヤは預言者エレミヤの首から、くびきを取って、それを砕いた。」
ハナニヤは、何と神の命令で作られたくびきをエレミヤから取って、自らの手で
砕いてしまったのです!エレミヤは沈黙のまま争闘の場から去ってしまいますが、し
ばらくして、主のみ言葉がエレミヤに臨んで、主はハナニヤに対してある事を告げます。
 エレミヤ 28:13
 「行って、ハナニヤに告げなさい、『主はこう仰せられる、あなたは木のくびきを砕い
 たが、わたしはそれに替えて鉄のくびきを作ろう。』」
ユダの人々に対して神は、木のくびきをはめるのが嫌ならば、つまり主の御心に
従って 70 年間バビロンに降伏するのが嫌ならば、もっと重い刑罰を受けて鉄のくびき
をはめる事になると宣言されたのです。ここで興味深いのは、鉄のくびきです。実
は、神の民にはめられる鉄のくびきは、すでにモーセの時代に預言されていたのです。
それは申命記にあります。神は、約束のカナンの地へ入る前の民たちに、「しかし、
あなたの神、主の声に聞き従わず、きょう、わたしが命じるすべての戒めと定めとを
守り行わないならば、このもろもろののろいがあなたに臨み、あなたに及ぶであろう。」
と勧告されました(申命記 28:15)。その呪いの一つが、敵に鉄のくびきをかけられて
しまう事である事が、同じ章の後半に書かれています。
 申命記 28:47~52
 「あなたがすべての物に豊かになり、あなたの神、主に心から喜び楽しんで仕えない
 ので、あなたは飢え、かわき、裸になり、すべての物に乏しくなって、主があなたに
 つかわされる敵に仕えるであろう。敵は鉄のくびきをあなたのくびにかけ、ついにあ
 なたを滅ぼすであろう。すなわち主は遠い所から、地のはてから一つの民を、はげた
 か(新共同訳と KJV とも:鷲・eagle)が飛びかけるように、あなたに攻めきたらせら
 れるであろう。これはあなたがその言葉を知らない民、顔の恐ろしい民であって、彼
 らは老人の身を顧みず、幼い者をあわれまず、あなたの家畜が産むものや、地の産物
 を食って、あなたを滅ぼし、穀物をも、酒をも、油をも、牛の子をも、羊の子をも、
 あなたの所に残さず、ついにあなたを全く滅ぼすであろう。その民は全国ですべての
 町を攻め囲み、ついにあなたが頼みとする、堅固な高い石がきを事ごとく撃ちくず
 し、あなたの神、主が賜わった国のうちのすべての町々を攻め囲むであろう。」
カナンの地に辿りついた古代イスラエルは、「主の声に聞き従わず、きょう、わたしが
命じるすべての戒めと定めとを守り行わない」という事をずっと繰り返してきまし
た。しかしエレミヤの時代のユダ国は、ついにこの鉄のくびきを首にかけられるまで
霊的に衰退してしまったのです。神は、エレミヤの時代の民に対して、「あなたが
たは、バビロンの王のくびきを自分の首に負って、彼とその民とに仕え、そして生き
なさい。… あなたがたはバビロンの王に仕える事はないとあなたがたに告げる預
言者の言葉を聞いてはならない。彼らがあなたがたに預言している事は偽りである
からだ。」と何度も何度も繰り返されました(エレミヤ 27:12、14)。神に反逆して死ぬ
のではなく、神に仕えて生きる事が神の御心だったからです。それでもまだユダ国
の民はハナニヤの偽りの福音を信じて反逆したために、主の御心に従うという木のく
びきではなく、バビロンの勢力によって滅ぼされる鉄のくびきをとうとう背負う羽目
になってしまったのでした。

モーセの預言は、エレミヤの時代に一旦成就されました。けれども、モーセの勧告は、
天のカナンに入るのを目前に生きている私達への勧告でもあります。エレミヤの時
代に生きた古代イスラエルの民にとって、鉄のくびきはネブカデネザル王が率いるバ
ビロンの勢力にしえたげられて苦しめられ、最後には完全に滅ぼされてしまう事で
した(申命記 28:33、51~52 を参照)。

【では終末時代に生きる人々にとっての鉄のくびきとは、一体何でしょうか?モーセ
の時代とエレミヤの時代に記された預言は、終末時代の私達にどんな光を投げかけ
ているのでしょうか?】
そのヒントは、先程の申命記 28 章にあった①「49 節:はげたか(KJV と新共同
訳:eagle・鷲)②「50 節:顔の恐ろしい民」③「48 節:鉄のくびき」という三つのシン
ボルにあります。私達がこれらのシンボルを理解する事で、モーセの預言とエレ
ミヤの預言が、どの様に終末時代に起こる出来事と結びついているかが見えてきます。
① 「鷲」= バビロンの勢力
ダニエル書 7 章 4 節には、「第一のものは、ししのようで、わしの翼をもっていた」と
あります。この第一の獣がバビロンだという事は、セブンスデー・アドベンチスト
は知っています。ちなみに、日曜教会でも同じ解釈をしているところは多くあります。
また、申命記にあった「遠い所から、地のはてから一つの民を、鷲が飛びかけるよう
に」ユダ国の民を事ごとく撃ちくずした敵は、バビロンの勢力であった事も、私
たちはダニエル書の学びからよく理解しています。では、エレミヤ書の方はどうでし
ょうか?エレミヤ書 50 章 17 節には、「イスラエルは、ししに追われて散った羊である。
初めにアッスリヤの王がこれを食い、そして今はついにバビロンの王ネブカデレザル
がその骨をかじった。」とあります。このように、モーセ、エレミヤ、ダニエルたちは、
バビロンの勢力を“ししや鷲”で表しており、預言の一貫性がここにも見られます。
ししのように強い古代バビロンは、アッシリアを倒し、鷲のような猛スピードで新勢
力として現れ、神の民を攻撃して支配しました。聖書は更に、終末時代にもバビロン
の勢力が現れ、神の民を攻撃して支配しようとする事を預言しています。

黙示録 17 章 5 節には、「その額には、一つの名がしるされていた。それは奥義であっ
て、『大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母』というのであった。」
と記されています。私達はこれまでの聖書研究で、聖書の預言にある“女”は教会
を表していて、“淫婦”で象徴されているバビロンの勢力は宗教的な勢力を意味してい
る事、そして 「大いなるバビロン」という名が額に記されている大淫婦は、“母”
である法王制ローマ、その娘たちである「淫婦ども」は、プロテスタント教会を表し
ている事をすでにしっかりと学んできました。(是非、別の聖書研究『黙示録 17 章』
などを参照ください。)

“淫婦の額”は、エレミヤ書にも記されていますので、今度はそれを見ておきましょ
う。ここでエレミヤ書と黙示録との深い繋がりが解ります。
 エレミヤ 3:1~3
 「もし人がその妻を離婚し、女が彼のもとを去って、他人の妻となるなら、その人は
 ふたたび彼女に帰るであろうか。その地は大いに汚れないであろうか。あなたは多く
 の恋人と姦淫を行った。しかもわたしに帰ろうというのか』と主は言われる。『目をあ
 げてもろもろの裸の山を見よ、姦淫を行わなかった所がどこにあるか。荒野にいるア
 ラビヤびとがするように、あなたは道のかたわらに座して恋人を待った。あなたは姦
 淫の悪事をもって、この地を汚した。それゆえ雨はとどめられ、春の雨は降らなかっ
 た。しかもあなたには遊女の額があり、少しも恥じようとはしない。」
エレミヤの時代、ユダ国の人々は夫であるはずの真の神から離れて、「恋人」たち、つ
まり異国の神々を拝んで姦淫を犯していました。この聖句は、現在の私達にも貴重
な教訓を与えています。サタンは、終末時代のバビロンの勢力・プロテスタント教会
から女性按手礼を含む様々な偽りの教えを、霊的イスラエル・セブンスデー・アドベ
ンチスト教会の中に持ち込んでいます。第二天使が警告しているように、バビロンの
偽りの教えを信じる事は、バビロンの姦淫のぶどう酒を飲んで酔いしれる事、つ
まり霊的な姦淫を意味します(黙示録 14:8、17:2、18:2~3 を参照)。

更に上記の聖句は、プロテスタント教会からの偽りの教理を信じて霊的な姦淫を行え
ば、「春の雨」、すなわち後の雨を受ける事ができなくなる事をエレミヤは警告し
ています。
 エレミヤ 5:23~25
 「ところが、この民には強情な、そむく心があり、彼らはわき道にそれて、去ってし
 まった。彼らは『われわれに雨を与え、秋の雨と春の雨を時にしたがって降らせ、わ
 れわれのために刈入れの時を定められたわれわれの神、主を恐れよう』とその心のう
 ちに言わないのだ。あなたがたのとがは、これらの事をしりぞけ、あなたがたの罪は、
 良い物があなたがたに来るのをさまたげた。
 

隠れ場 第四章 その2 (転載)

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2015年12月20日(日)23時54分27秒
  【では①のシンボル:終末時代における「鷲・しし=バビロンの勢力」とは、どんな
勢力でしょうか?】

答え: 終末時代における①「鷲・しし=バビロンの勢力」とは、復活した法王制ロー
マとプロテスタント教会で構成される宗教的な勢力です。


②「顔の恐ろしい民」= ローマの勢力
モーセが記した「顔の恐ろしい民」は、ダニエル書の預言にも登場します。

ダニエル書 8:23~24
「彼らの国の終りの時になり、罪びとの罪が満ちるに及んで、ひとりの王が起るでし
ょう。その顔は猛悪(KJV: king of fierce countenance・顔の恐ろしい王)で、彼はな
ぞを解き、その勢力は盛んであって、恐ろしい破壊をなし、そのなすところ成功して、
有力な人々と、聖徒である民を滅ぼすでしょう。」

「彼らの国の終りの時」の「彼ら」とは、この聖句の前節である 21 節から 22 節に記
されている「ギリシャの王」ですから、ギリシャの勢力が衰えた時となります。ギリ
47
シャの次の勢力はローマです。従ってこの猛悪で「恐ろしい顔の民」は、当時の世界
を支配した“異教ローマ帝国”と“法王制ローマ”の勢力です。そして、終末時代に
おいては、再び全世界を支配する“復活した法王制ローマ”の勢力です。

同じダニエル書 8 章 25 節では、「彼(ローマの勢力)は悪知恵をもって、偽りをその
手におこない遂げ、みずから心に高ぶり、不意に多くの人を(KJV: by peace・平和に
よって)打ち滅ぼし、また君の君たる者に敵するでしょう。しかし、ついに彼は人手
によらずに滅ぼされるでしょう。」と記されています。KJV にある「平和によって」と
いう言葉は、口語訳・新改訳とも全く抜けていますが、新共同訳では「平然として多
くのひとを滅ぼす」と訳されています。KJV 訳の「不意に多くの人を平和によって打ち
滅ぼし」という聖句から読みとれることは、終末時代に復活する法王制ローマの勢力
は、偽りの平和のメッセージを掲げて人々を欺き、「君の君たる者」であられるイエ
ス・キリストに反逆することです。この手法は、エレミヤ書に登場したハナニヤが用
いたのと非常に似ていませんか?そして、反キリスト・復活した法王制ローマの勢力
は、反逆を教えたハナニヤのように、人手ではなく、神によって滅ぼされることが分
ります。

私たちセブンスデー・アドベンチストは、まもなく全世界の人々が欺かれて、復活し
た法王制ローマを拝むこと、つまり日曜休業令に従ってしまうことを知っています。
その時、「致命的な傷が癒された」復活した法王制ローマを拝むように実際に先頭に立
って働くのは、地から上って来るもう一つの獣・アメリカであることが下記の聖句で
分かります。言い換えれば、アメリカは、かつての古代ローマが法王制ローマの強い
影響下に置かれたように、復活した法王制ローマの強い影響下に置かれます。そのア
メリカは、混乱した国を何とか治めようと、法王制ローマが「持つすべての権力」を
利用して法王制ローマと強く結びつき、日曜休業令などを発令することで、神に反逆
行為を犯すのです。

黙示録 13:11~15
「わたしはまた、ほかの獣が地から上って来るのを見た。それには小羊のような角が
二つあって、龍のように物を言った。そして、先の獣の持つすべての権力をその前で
働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。
また、大いなるしるしを行って、人々の前で火を天から地に降らせることさえした。
さらに、先の獣の前で行うのを許されたしるしで、地に住む人々を惑わし、かつ、つ
るぎの傷を受けてもなお生きている先の獣の像を造ることを、地に住む人々に命じた。
それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるよう
にし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。」

48
この聖句は、私たちセブンスデー・アドベンチストがよく用いる箇所で、「ほかの獣が
地から上ってくるのを見た」とある“獣”というのは“アメリカ”を表していること
はよく知っています。ところが、牧師を含む多くのセブンスデー・アドベンチストが
誤解していると思われることがあります。それは、アメリカを《小羊のような獣》と
多くの人が間違って呼んでいることです。アメリカの安息日学校クラスや黙示録のセ
ミナーなどでも、この箇所にあるアメリカを《lamblike beast・小羊のような獣》と
教えているのが度々見られることに、ある人たちは注意を喚起しているほどです。正
確には「小羊のような角を二つ持った獣」なのです。《小羊のような獣》と「小羊のよ
うな角」では大きく異なります。つまり獣と角の違いは非常に重要です。何故ならば、
獣が持っている二つの角には、大きな意義があるからです。

証の書には「小羊のような角は、若々しさと無垢と温順さを示す」とあります(大争
闘下 160 頁)。そして、一つの角は、Republicanism・共和主義 、もう一つの角は
Protestantism・プロテスタント主義を表していて、この二つがアメリカ国家の根本原
則となったことが記されています(Spirit of Prophecy 第 4 巻 277 頁、大争闘下 161
頁)。すなわち、二つの角は、国家と宗教の二つの勢力を表しているのです。そして、
二つの角が分かれているように、アメリカにおける政教分離の原則は、今まで常に守
られてきました。しかし、アメリカの国家と宗教が結合してサタンに用いられる時が
まもなく来るのです。「龍のように物を言う」ことは、国家が物を言うことで、その立
法および司法権の活動を意味し、かつての法王制ローマと同じ迫害の精神を持つこと
を予告しています(大争闘下 161 頁を参照)。つまり、奇跡やしるしを行なって人々を
惑わすのはアメリカの宗教的勢力である背教したプロテスタント教であり、日曜休業
を法令として強制するのは、アメリカの国家的勢力です。この時、「小羊のような角を
持つ獣」、すなわち神の小羊であられるキリストのような「無垢と温順さ」を持つアメ
リカは、ついに「巨大な龍」と呼ばれるサタン(黙示録 12:9)のような性質に完全に
変身してしまうのです。


【エレミヤの時代、偽りの教えを人々に信じさせた偽預言者ハナニヤは、終末時代の
誰を象徴しているのでしょうか?】

次の聖句では、汚れた悪霊、つまり心霊術によって偽りの福音を信じさせられた全世
界の宗教と国家が召集され、いよいよこの地上における最後の霊的な戦いに挑むこと
が預言されています。この聖句でアメリカは、ハナニヤのように「にせ預言者」と呼
ばれています。

49
黙示録 16:13
「また見ると、龍の口から、獣の口から、にせ預言者の口から、かえるのような三つ
の汚れた霊が出てきた。これらは、しるしを行う悪霊の霊であって、全世界の王たち
のところに行き、彼らを召集したが、それは、全能なる神の大いなる日に、戦いをす
るためであった。」

これもセブンスデー・アドベンチストの間ではよく用いられる聖句で、終末時代に汚
れた悪霊の力によって結束する世界の三つの宗教的勢力がここで描かれています。(詳
しくは、『ダニエル 11 章 40~45 の研究』第 2 部、『黙示録 17 章』第 2 部を参照。)
・龍:Paganism・異教(キリスト教以外のすべての宗教)
・獣:Catholicism・カトリック教
・偽預言者:Apostate Protestantism in USA・アメリカの背教したプロテスタント教


答え: 偽預言者ハナニヤは、神を信じると公言しながらみ言葉とは異なる教えを
人々に信じさせるアメリカの背教したプロテスタント教を象徴しています。この宗教
的勢力は、汚れた悪霊・スピリチュアリズムの力で奇跡やしるしを行い、人々を惑わ
して“復活した法王制ローマ”を拝むように、すなわち日曜日を聖日とするように強
制します。神の十戒を変えることによって、神に対するこの世最後の大いなる反逆が
起こるのです。

スピリチュアリズムの力を用いて語られる偽りの福音は、エレミヤ書にも記されてい
ます。神さまは、「それで、あなたがたの預言者、占い師、夢みる者、法術師、魔法使
が、『あなたがたはバビロンの王に仕えることはない』と言っても、聞いてはならない。
彼らはあなたがたに偽りを預言して、あなたがたを自分の国から遠く離れさせ、わた
しに、あなたがたを追い出してあなたがたを滅ぼさせるのである。」と、預言者エレミ
ヤをとおして万国民に勧告され、偽預言者の偽りを聞かないように…と繰り返し警告
されました(エレミヤ 27:9~10、14~16 を参照)。

聖書は、スピリチュアリズムを用いて語られる偽りの福音が、終末時代にも蔓延する
ことを預言しています(第 1 テモテ 4:1、第 2 テサロニケ 2:9~12 など)。だからこそ、
エレミヤの時代と同じ警告が、第二天使の「倒れた、大いなるバビロンは倒れた。そ
の不品行に対する激しい怒りのぶどう酒を、あらゆる国民に飲ませた者」というメッ
セージによって今まで繰り返し叫ばれてきたのです。そして最後には、“第四天使の叫
び”とも呼ばれている“大いなる叫び”によって、「わたしの民よ。彼女から離れ去っ
て、その罪にあずからないようにし、その災害に巻き込まれないようにせよ。」と、全
世界の人々に最後の警告が再び発せられます(黙示録 18:4)。第二天使と第四天使のメ
50
ッセージはエレミヤ書でも何度も叫ばれていて、エレミヤの時代と終末時代がどんな
に密接に繋がっているかが、更にはっきりと見えてきます。下記の聖句は、バビロン
の国がメデヤ人の王に滅ぼされること(エレミヤ 51:11)を警告するメッセージの一部
です。

エレミヤ 50:8
「バビロンのうちから逃げよ。カルデヤびとの地から出よ。群れの前に行く雄やぎの
ようにせよ。」

エレミヤ 51:6、44~45
「バビロンのうちからのがれ出て、おのおのその命を救え。その罰にまきこまれて断
ち滅ぼされてはならない。今は主があだを返される時だから、それに報復をされるの
である。… 44~45 節: わたしはバビロンでベルを罰し、そののみこんだものを口か
ら取り出す。国々が川のように彼に流れ入ることはなくなる。バビロンの城壁は倒れ
た。わが民よ、あなたがたはその中から出て、おのおの主の激しい怒りを免れ、その
命を救え。」


来年 2016 年、私たちセブンスデー・アドベンチストは、第 1 四半期の安息日学校聖書
研究ガイドで「反逆と贖い」というテーマで学ぶことになっています。3 ヶ月もかけて
再び反逆に対する神さまの贖いの計画を学ぶのですが、これは、私たちを哀れむ神さ
まの摂理としか思えません。「バビロンのうちからのがれ出て、おのおのその命を救
え。」という警告は、最後の反逆に対する最後の救いのメッセージであり、まもなく私
たちセブンスデー・アドベンチストが全世界に発信すべき“大いなる叫び”でもある
からです。しかし、古代イスラエルの根深い反逆が治まらなかったように、霊的イス
ラエル・セブンスデー・アドベンチスト教会の根深い反逆が治まる気配は見られませ
ん。何故ならば、「預言者の偽りを聞いてはならない」「バビロンのうちからのがれ出
て、おのおのその命を救え」という神さまからの警告とは裏腹に、背教したプロテス
タント教から Spiritual Formation・スピリチャル・フォーメーション、Emerging
Church・エマージング・チャーチ、The One Project・一つになるためのプロジェクト
など、現代のスピリチュアリズムが、すでにセブンスデー・アドベンチスト教会に浸
透しているからです。証の書は、現代のスピリチュアリズムは「不都合な点を隠して」
キリスト教に変装し、聖書を用いて神の愛ばかりを強調して神の義や律法を無視する
最も危険な偽りの福音であることを警告しています(大争闘下 312~313 頁を参照)。
詳しくは、別の聖書研究『キリストの神性と人性』の「変装した心霊術」のセクショ
ンをご参照ください。このような偽りの福音は、偽預言者ハナニヤが説いた《平和と
恵みの福音》と同じです。やがて世界の宗教をすべて結集させるエキュメニカル・ム
51
ーブメントは、このキリスト教に変装したスピリチュアリズムによってどんどん加速
していくことでしょう。

【では②のシンボル:終末時代における「顔の恐ろしい民・ローマの勢力」とは、ど
んな勢力でしょうか?】

偽預言者ハナニヤは、アメリカの背教したプロテスタント教を象徴していますが、宗
教的勢力は法的拘束力を持っていません。日曜遵守を強要するには、政治と司法の国
家権力が必須となります。「この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもでき
ないように」する経済制裁を行なうにも(黙示録 13:17)、また、法令に従わない人た
ちを捕えて投獄したりするには警察が、そして大勢の人たちを抑えるには軍隊が必要
とされます。世の中が、次々と起こる大災害やテロ事件、そして財政危機などに見舞
われた時、神が怒っておられると信じる背教したプロテスタント教は、一丸となって
巨大な宗教勢力となり、アメリカの国政を変えようとします。彼らは自分たちの主義
主張を取り入れてくれる政治家や企業を強力に支持します。こうして、サタンは彼ら
を利用して、国の政治的・経済的・軍事的な権力を手にし、サタンのかつてからの目
的を果たそうとします。証の書には、「人気と支援を確実に獲得するために、国会議員
は日曜休業令の要求に応じる」とあります(Testimonies For the Church 第 5 巻 451
頁)。政治家たちは、国民の投票を確保しようとして、肥大化した宗教勢力の《神に戻
って日曜日を厳守しなければならない!》という強い要求を満たそうとするのです。
すでにアメリカの多くのセブンスデー・アドベンチストは、刻々と変化する世界状況
と合わせて、来年 2016 年の大統領選挙に向けての動きを注意深く見守っています。

答え: 終末時代における「顔の恐ろしい民・ローマの勢力」とは、“復活した法王制
ローマ”のもとに結集したアメリカの背教したプロテスタント教(偽預言者)が、政
治的・経済的・軍事的な権力を持つ、アメリカの国家権力と手を結んだ勢力を示して
います。


③「鉄のくびき」= ローマ勢力による支配
ダニエル書は、第四の国・ローマ勢力を、鉄というシンボルを用いて描写しています。

ダニエル 7:7
「その後わたしが夜の幻のうちに見た第四の獣は、恐ろしい、ものすごい、非常に強
いもので、大きな鉄の歯があり、食らい、かつ、かみ砕いて、その残りを足で踏みつ
けた。これは、その前に出たすべての獣と違って、十の角を持っていた。」

52
ダニエル 2:32~33、40~42
「その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、すねは鉄、足の一部は
鉄、一部は粘土です。40~42 節: 第四の国は鉄のように強いでしょう。鉄はよくすべ
ての物をこわし砕くからです。鉄がこれらをことごとく打ち砕くように、その国はこ
わし砕くでしょう。あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の
粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘
土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。その足の
指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでし
ょう。」

「陶器師の粘土」は、神の民・教会のシンボルです(イザヤ 64:8、エレミヤ 18:6 を参
照)。

【では、鉄は何のシンボルでしょうか?】

鉄と粘土でできた足の指について、証の書は大変重要な光を投げかけています。

Bible Commentary 第 4 巻 1168~1169 頁・スタディバイブル旧約 1151~1152 頁
「鉄と粘土の混じった教会と政治―神聖な神のみ業が鉄と汚い粘土の混じった足で表
されている時代に、我々は突入している。… 教会と政治の混合が、鉄と粘土によっ
て表されている。この合同が、諸教会の力をことごとく弱めている。教会に政府の権
力を帯びさせることは、悪い結果をもたらすであろう。」


答え: ダニエル書の預言における鉄は、政府・政治を表しています。すなわち、政
治的、経済的、軍事的な権力を持っている国家勢力です。アメリカの二つの角である
共和主義とプロテスタント主義が統合する時は、教会が国家権力を享受する時です。
その時、いよいよ日曜休業令が強制され、獣の刻印を受けるか否か…という決断が全
世界の人々によって下されるのです。


【では、終末時代における③の「鉄のくびきを負うこと」とは、つまり法王制ローマ
勢力による支配の下に置かれることは、どのようなことなのでしょうか?】

黙示録 14:9~12
「ほかの第三の御使が彼らに続いてきて、大声で言った、『おおよそ、獣とその像とを
拝み、額や手に刻印を受ける者は、神の怒りの杯に混ぜものなしに盛られた、神の激
しい怒りのぶどう酒を飲み、聖なる御使たちと小羊との前で、火と硫黄とで苦しめら
53
れる。その苦しみの煙は世々限りなく立ちのぼり、そして、獣とその像とを拝む者、
また、だれでもその名の刻印を受けている者は、昼も夜も休みが得られない。ここに、
神の戒めを守り、イエスを信じる信仰を持ちつづける聖徒の忍耐がある』。」

答え: 終末時代における「鉄のくびきを負うこと」、つまり法王制ローマ勢力による支
配の下に置かれることは、アメリカから始まる国家権力の圧力に負けて、獣の刻印を
受けることです。鉄のくびきを負う人々、つまり獣の刻印を受ける者たちが経験する
苦しみは、「昼も夜も休みが得られない」ことです。この警告こそが、第三天使のメッ
セージです。

ここで、モーセの時代とエレミヤの時代に記された預言が、終末時代の私たちに投げ
かけている大いなる光を一旦まとめます。


・「鷲・しし=バビロンの勢力」:
復活した法王制ローマと背教したプロテスタント教会で構成される宗教的な勢力。

・「顔の恐ろしい民・ローマの勢力」:
“復活した法王制ローマ”のもとに結集したアメリカの背教したプロテスタント教の
勢力(偽預言者)と、政治的・経済的・軍事的な権力を持つアメリカの国家権力とが、
手を結んだ勢力。

・「鉄のくびきを負うこと」:
アメリカの国家権力と巨大な宗教勢力が結合する時、日曜休業令が強制される。「鉄の
くびきを負うこと」は、アメリカから始まる国家権力の圧力に負けて、獣の刻印を受
けることである。


神さまが示された木のくびきを拒否し、鉄のくびきを負うことを選ぶ人々は、魂の休
みを得ることは決してできません。その一方で、主の御心に従って木のくびきを負う
ことを選ぶ人々は、神の戒めを守りぬくイエスの信仰が与えられ、魂の休みを経験す
ることができるのです。これらのことを熟慮しながら、誰もが知っているはずのイエ
スさま自ら語られた素晴らしいお約束を見てみましょう。

マタイ 11:28~30
「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休
54
ませてあげよう。わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを
負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであ
ろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。」

イエスさまのもとに行って主のくびきを負えば、魂の休みを得ることができることを
イエスさまは約束されておられます。証の書は上記の聖句について、「くびきは奉仕の
道具である。… 奉仕にむすびつけるくびきは神の律法である」と記して、「われわれ
はキリストと共に働く者となるために、キリストのくびきを身に負うのである」と説
明しています(各時代の希望中 49 頁)。

だからこそ、永遠の福音である三天使の使命をすべて受け入れる人は、キリストのく
びきを負ってキリストと共に働く者となり、神の律法を守りぬくことができるのです。
イエスさまの“負いやすいくびき”をはめることは、イエスさまのもとで学び、柔和
でへりくだった心を与えていただくことです。そして、十戒の第 4 条である安息日を
忠実に守り、真の安息を心奥深くで経験することができます。


イエスさまが「わたしのくびきは負いやすく…」と言われた理由は、キリストは私た
ちの身代わりとして、屈辱のシンボルである十字架をすでに負って下さったからです。
どんなにしえたげられても、ほふり場に惹かれて行く小羊のように、イエスさまは黙
ったまま懲らしめを受けられたからこそ、私たちは罪の傷から癒され、心には平安が
与えられるのです(イザヤ 53:5、7 を参照)。これは、《イエスさまが私たちの代わり
に十字架に掛かって下さったのだから、私たちはもう何もしなくて良い》ということ
ではありません。イエスさまは「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を
捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」と命じられました(ル
カ 9:23)。私たちも、自我を捨てて主の御心に従うという十字架を負い、人類が犯す反
逆の責任をすべて負ってくださったイエスさまについていくことが求められています。

木のくびきを負うことを選ぶ人は、イエスさまのもとで心が砕かれ、柔和でへりくだ
った心が与えられます。そして、癒しと平安が与えられます。しかし、鉄のくびきを
選ぶ人の心は荒い狂った海のようになり、平安は与えられません。預言者イザヤも、
「…『わたしは高く、聖なる所に住み、また心砕けて、へりくだる者と共に住み、へ
りくだる者の霊をいかし、砕ける者の心をいかす。… 遠い者にも近い者にも平安あ
れ、平安あれ、わたしは彼をいやそう』と主は言われる。しかし悪しき者は波の荒い
海のようだ。静まることができないで、その水はついに泥と汚物とを出す。」と記して
います(イザヤ 57:15、19~20)。
55

【では、エレミヤ書にあった木のくびきには、どんな尊い聖なる光が秘められている
のでしょうか?】

答え: 木のくびきとは、「わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって
下さい」と、すべてを父なる神に委ねられたイエス・キリストの十字架を指しています。
エレミヤの時代、偽預言者ハナニヤが怒りを発して木のくびきを打ち砕いた時、彼は
イエス・キリストの十字架を打ち砕き、永遠の福音を拒絶したのと同然のことをした
のです。


魂の安息を得よ…という勧告は、エレミヤ書にも記されています。神さまはユダ国の
人々に対して、「あなたがたはわかれ道に立って、よく見、いにしえの道につき、良い
道がどれかを尋ねて、その道に歩み、そしてあなたがたの魂のために、安息を得よ。」
と言われました(エレミヤ 6:16)。古代イスラエルにとっての「いにしえの道」とは、
モーセの時代、神さまがユダ国の先祖に示された真理の道です。「しかし彼らは答えて、
『われわれはその道に歩まない』と言った。」とあります(同)。彼らが下した決断は、
神さまのみ心にどんなに深い悲しみと苦しみをもたらしたことでしょう。預言者エレ
ミヤは、「ユダは悩みのゆえに、また激しい苦役のゆえに、のがれて行って、もろもろ
の国民のうちに住んでいるが、安息を得ず、これを追う者がみな追いついてみると、
悩みのうちにあった。」と、彼らの悲しい結末を嘆いています(哀歌 1:3)。子供が苦
しむのを見た時、親も同じ苦しみを感じると同じように、神の民の苦しみは、人間に
は計り知れないほどの深い苦しみを神さまの心にもたらすのです。

私たちも、今、分かれ道に立っています。神さまが、旧約時代、新約時代、そしてパ
イオニア時代に生きた私たちの先祖に示された“いにしえの良い道”が、どの道であ
るか尋ねて見極め、その道に進むことを選ぶか…。その一方で《真理は漸進している
のです!ユライヤ・スミスたちが説いた“古い教理”の道でなく、漸進してきた“新
しい教理”の道に進みましょう!》と、ユダの人々のように神さまが示された“いに
しえの良い道”を拒絶する選択もあります。自我を捨てて木のくびきを負い“いにし
えの良い道”に進んで魂の安息を得るか、或いは自我を捨てきれないまま鉄のくびき
を負い、昼も夜も魂の休みが得られない破滅への道を進むか…の決断が、私たちセブ
ンスデー・アドベンチスト一人ひとりに迫られています。時には先が真っ暗でよく見
えず、不安と恐れに駆られてしまうこともあるでしょう。そのような時、神さまがモ
ーセに与えられた「わたし自身が一緒に行くであろう。そしてあなたに安息を与える
であろう」というお約束を心から信じることによって、前へ一歩、またもう一歩と、
56
信仰によって「いにしえの道」を進むことができます(出エジプト記 33:14)。


では最後に…。
今年 2015 年7月セブンスデー・アドベンチスト教会の世界総理として再選されたテッ
ド・ウィルソン総理が語った最初の説教「Cross the Jordan. Don't Retreat・ヨルダ
ン川を渡れ。後退するな」は、インターネットなどでも取り上げられ話題となりまし
た。特に、《今、私たちは目の前に立ちはだかるヨルダン川の岸に立っています。今に
も氾濫しそうなヨルダン川を恐れて後退するのではなく、私たちは神の力によって前
へと前進しましょう!》のくだりは、天のカナンを目前にした人々への力強い激励の
メッセージとして、多くのセブンスデー・アドベンチストの心を打ちました。私たち
がこの聖書研究『隠れ場』で学んできた契約の箱が、このヨルダン川にでてきます。
今年最後のこの聖書研究の終りに、私たちも古代イスラエルの民がヨルダン川を渡っ
た時のことを、契約の箱のシーンに焦点を置いて思いをめぐらしたいと思います。

古代イスラエルの人々が約束の地カナンに入る直前、目の前に立ちはだかったのは、
岸一面にあふれるヨルダン川でした。神さまは祭司たちに、契約の箱を担いで民の先
頭に立って進み、すべての人々が向こう岸に渡るまで川の中で立ち止まるように命じ
られました。契約の箱を担いだ祭司たちの足が水際に浸ると、流れてくる水は全く絶
たれ、すべての民は無事、川床を渡り終えることができました(ヨシュア 3:14~17)。
私たちがこの聖書研究の最後に注目したいのは、次の点です。契約の箱が川の中に留
まっている限り人々は恐れずにヨルダン川を渡れたことです。つまり、私たち霊的イ
スラエルも、契約の箱に収められている三つのお約束に焦点をおいて『隠れ場』に留
まっている限り、再臨前に氾濫するヨルダン川を無事渡り終えることができるのです。

溢れるヨルダン川は、エレミヤ書にも出てきます。しかし残念ながら、日本語聖書で
は、口語訳、新共同訳、新改訳も、「ヨルダンの密林・森林」と訳されていて、KJV 訳
にある「溢れるヨルダン」とは異なっています。

エレミヤ 12:5
「『もしあなたが、徒歩の人と競争して疲れるなら、どうして騎馬の人と競うことがで
きようか。もし安全な地で、あなたが倒れるなら、ヨルダンの密林(KJV:swelling of
Jordan・溢れるヨルダン)では、どうするつもりか。』」

今私たちは、安全で平和な世の中で穏やかな日々を送っています。それでも私たちは、
何か問題が起こるとすぐに《あぁー、もうダメだ…》と、疲れて倒れそうになります。
57
もしそのような霊的状態のままならば、ヨルダン川が氾濫した時、つまり悩みの期間
に突入した時、あなたは一体どうするつもりか…と、神さまは哀れみを持って私たち
を譴責されています。

エレミヤの時代と現代を結びつけた下記の引用文では、偽教師の言葉を好む人々は悩
みの日がやってきた時、避難所、つまり安全な“隠れ場”を持たないまま神さまに助
けてもらえないことが記されています。

国と指導者下 56 頁
「エレミヤを迫害して投獄するに至った譴責に対する反感の精神は、今日も残ってい
る。多くの者は繰り返して与えられる警告に耳を傾けることを拒み、彼らの虚栄心に
へつらい、彼らの悪行を見ても見ぬふりする偽教師たちの言葉を聞くほうを好むので
ある。このような人々は、悩みの日に確実な避難所を持たず、天からの助けもないの
である。」

その悩みの日について神さまは、「悲しいかな、その日は大いなる日であって、それに
比べるべき日はない。 それはヤコブの悩みの時である。」と嘆いておられますが、そ
の後すぐに、「しかし彼はそれから救い出される。」と、素晴らしいお約束も記されて
います(エレミヤ 30:7)。

現在、“北からこちらに向かっている煮え立つなべ”は、今にも吹きこぼれそうな状態
です。そして、ヨルダン川も、今にも氾濫しそうな状態です。復活した法王制ローマ
の下で、アメリカの国家と宗教が今にも結束しようとしています。わたしたちは、ロ
ーマ法王の動きを、ただセンセーショナルな出来事として追うだけでなく、アメリカ
の宗教的・国家的な動きにもよく注意を払う必要があります。そして、「アーモンドの
枝」が警告するコラの反逆とユダ国の反逆が示す教訓を、しっかりと学ぶことが求め
られています。エレミヤをとおして繰り返される“悔い改めて神に立ち返れ!という
切羽詰った主からのメッセージに、私たちセブンスデー・アドベンチストの各自がど
う反応するかが問われているのではないでしょうか。

どうか私たち一人ひとりが、天の至聖所に備えられた『隠れ場』に、常に留まる経験
を日々することができますことを、心より祈っています。


 

心霊術の津波が来る前に聖句で武装してください

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2015年 3月 2日(月)02時02分17秒
編集済
  Joh 11:11  These things said he: and after that he saith unto them, Our friend Lazarus sleepeth; but I go, that I may awake him out of sleep.
Joh 11:12  Then said his disciples, Lord, if he sleep, he shall do well.
Joh 11:13  Howbeit Jesus spake of his death: but they thought that he had spoken of taking of rest in sleep.
Joh 11:14  Then said Jesus unto them plainly, Lazarus is dead.
11:11 そう言われたが、それからまた、彼らに言われた、「わたしたちの友ラザロが眠っている。わたしは彼を起しに行く」。
11:12 すると弟子たちは言った、「主よ、眠っているのでしたら、助かるでしょう」。
11:13 イエスはラザロが死んだことを言われたのであるが、弟子たちは、眠って休んでいることをさして言われたのだと思った。
11:14 するとイエスは、あからさまに彼らに言われた、「ラザロは死んだのだ。


1Th 4:15  For this we say unto you by the word of the Lord, that we which are alive and remain unto the coming of the Lord shall not prevent them which are asleep.
1Th 4:16  For the Lord himself shall descend from heaven with a shout, with the voice of the archangel, and with the trump of God: and the dead in Christ shall rise first:
4:14 わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。
4:15 わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。


Joh 5:28  Marvel not at this: for the hour is coming, in the which all that are in the graves shall hear his voice,
Joh 5:29  And shall come forth; they that have done good, unto the resurrection of life; and they that have done evil, unto the resurrection of damnation.
5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。


Gen 2:17  But of the tree of the knowledge of good and evil, thou shalt not eat of it: for in the day that thou eatest thereof thou shalt surely die.
Gen 2:18  And the LORD God said, It is not good that the man should be alone; I will make him an help meet for him.
2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。
2:18 また主なる神は言われた、「人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう」。

Ecc 12:7  Then shall the dust return to the earth as it was: and the spirit shall return unto God who gave it.
12:7 ちりは、もとのように土に帰り、霊はこれを授けた神に帰る。


Job 27:3  All the while my breath is in me, and the spirit of God is in my nostrils;
27:3 わたしの息がわたしのうちにあり、神の息がわたしの鼻にある間、


Psa 146:3  Put not your trust in princes, nor in the son of man, in whom there is no help.
Psa 146:4  His breath goeth forth, he returneth to his earth; in that very day his thoughts perish.
146:3 もろもろの君に信頼してはならない。人の子に信頼してはならない。彼らには助けがない。
146:4 その息が出ていけば彼は土に帰る。その日には彼のもろもろの計画は滅びる。


1Ti 6:16  Who only hath immortality, dwelling in the light which no man can approach unto; whom no man hath seen, nor can see: to whom be honour and power everlasting. Amen.
6:16 神はただひとり不死を保ち、近づきがたい光の中に住み、人間の中でだれも見た者がなく、見ることもできないかたである。ほまれと永遠の支配とが、神にあるように、アァメン。


Rom 2:7  To them who by patient continuance in well doing seek for glory and honour and immortality, eternal life:
2:7 すなわち、一方では、耐え忍んで善を行って、光栄とほまれと朽ちぬものとを求める人に、永遠のいのちが与えられ、


1Co 15:51  Behold, I shew you a mystery; We shall not all sleep, but we shall all be changed,
1Co 15:52  In a moment, in the twinkling of an eye, at the last trump: for the trumpet shall sound, and the dead shall be raised incorruptible, and we shall be changed.
1Co 15:53  For this corruptible must put on incorruption, and this mortal must put on immortality.
1Co 15:54  So when this corruptible shall have put on incorruption, and this mortal shall have put on immortality, then shall be brought to pass the saying that is written, Death is swallowed up in victory.
15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。


Psa 115:17  The dead praise not the LORD, neither any that go down into silence.
115:17 死んだ者も、音なき所に下る者も、主をほめたたえることはない。


Act 2:34  For David is not ascended into the heavens: but he saith himself, The LORD said unto my Lord, Sit thou on my right hand,
2:34 ダビデが天に昇ったのではない。彼自身がこう言っている。・・・


Psa 6:5  For in death there is no remembrance of thee: in the grave who shall give thee thanks?
6:5 死においては、あなたを覚えるものはなく、陰府においては、だれがあなたをほめたたえることができましょうか。


Ecc 9:5  For the living know that they shall die: but the dead know not any thing, neither have they any more a reward; for the memory of them is forgotten.
9:5 生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。


Job 19:25  For I know that my redeemer liveth, and that he shall stand at the latter day upon the earth:
Job 19:26  And though after my skin worms destroy this body, yet in my flesh shall I see God:
19:25 わたしは知る、わたしをあがなう者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。
19:26 わたしの皮がこのように滅ぼされたのち、わたしは肉を離れて神を見るであろう。


Eze 18:4  Behold, all souls are mine; as the soul of the father, so also the soul of the son is mine: the soul that sinneth, it shall die.
18:4 見よ、すべての魂はわたしのものである。父の魂も子の魂もわたしのものである。罪を犯した魂は必ず死ぬ。


Rom 6:23  For the wages of sin is death; but the gift of God is eternal life through Jesus Christ our Lord.
6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。


2Ti 4:7  I have fought a good fight, I have finished my course, I have kept the faith:
2Ti 4:8  Henceforth there is laid up for me a crown of righteousness, which the Lord, the righteous judge, shall give me at that day: and not to me only, but unto all them also that love his appearing.
4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
4:8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。


Rev 22:12  And, behold, I come quickly; and my reward is with me, to give every man according as his work shall be.
22:12 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
 

これは教会員必読

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2014年11月30日(日)23時04分29秒
  https://drive.google.com/file/d/0B7HlPL7IoeyMWnRkbHVDTWJ1V1NidHQwSlZjaVA5UThveGRN/view

特に前半部分を時間を掛けて理解できるまで読んでください。
 

ミシガン聖書研究講座表

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2014年 3月 5日(水)19時37分43秒
   

聖所を今こそ徹底的に理解する必要について

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2013年12月31日(火)05時51分12秒
  次のような勧告があります。「聖所と調査審判の問題は、神の民によってはっきりと理
解されねばならない」(「各時代の大争闘」下巻222ページ)。これには、単に問題を知
識として理解すること以上の意味があります。この知識なくしては、教会員はやがて自
らの魂を失うことになる、とエレンホワイトは断言しています。「すべての者は、自分
たちの大いなる大祭司キリストの立場と働きについて、自分で知っている必要がある。
そうしてなければ、この時代にあって必要な信仰を働かせることも、神が彼らのために
計画しておられる立場を占めることもできなくなる」(同)。エレンホワイトがこれほ
ど恐ろしい警告を発された聖書中の主題は他にありません。

 どうして彼女は、これほどまではっきりと断言したのでしょうか。聖所の教えの一体
何が、セブンスデーアドベンチスト教会の使命と責任を正しく理解するうえで、不可欠
な基礎となるのでしょうか。しかも一般のキリスト教会のみならず、アドベンチストの
説教壇さえもこの教えを語ろうとしないのはなぜでしょうか。教会員一人一人にとって
とりわけ1844年以降には、その霊性にそれほど重要であるにも関わらず、アドベンチス
ト信者の間で、聖所の教理が退屈なものとなってしまうのはなぜでしょうか。

その一つの簡単な答えは、聖所の教理に表されるイエスの働きについての奥義が理解さ
れるのを、サタンが望まないからです。教会員が、什一献金を納め、安息日を神の聖日
として覚え、大きな病院や学校を建てようとも、サタンにとって問題ではありません。
「罪を許してください」「主よ、早くおいでになってください」と日々、祈りが捧げら
れてもサタンは大して動揺しません。同じようなことをしていた人々が、かつてイエス
を十字架につけたのですからね。しかしサタンは、「贖罪の犠牲と全能の仲保者を明ら
かにする大真理を憎んで、イエスと彼の心理から人々の心をそらすことに、万事がかか
っていることを、彼は知って」(同221ページ)います。ですから、「サタンは、数
え切れない多くの策略を考え出して我々の心を捕らえ、我々が最もよく知っているべき
働きそのものについて、我々に考えさせまいと」(同)するのです。

 つまり、サタンは救いの計画において、二つの中心的真理について混乱か無関心を来
らしさえすれば、私たちがその他どれほどの知識を持とうが、行動を起こそうが、あま
り問題にしないというのです。この二つの中心的真理とは「贖罪の犠牲」「全能の仲
保者」
です。イエスが私たちのためにしてくださったことと、私たちの内になそうとし
ておられることとは、切っても切れない関係にあります。

 キリスト教宣教の昔から抱えてきた大きな問題は、イエスがなされた事と、私たちの
内になされようとしている事、のどちらか一方語られて焦点が合ってこなかったことで
す。これら二つの考えがバランスよく説かれた事は希だったということを強調したいと
思います。これは重大な問題です。例えばイエスの贖いの犠牲が強調されると、聖霊の
働きが軽視され、融通のきかない教理至上主義的な宗教へと発展しました。一方、知識
偏重に反発するクリスチャンは、全能なる中保者を強調するようになると、キリスト教
信仰を過度に内面化させてきました。歴史を経てきた神の言葉と客観的証の事実が強調
されず、人の心の問題にされて有耶無耶にされています。これが日曜教会と一部中途半
端なSDAの現状です。そして信仰が、創造主であり贖い主であられる神への服従による
応答というよりも、単なるフィーリングや単なる霊的経験の思い出という方向へ傾いて
しまっています。それは聖書が教える信仰の目標ではありません。ですから聖所を正し
く理解しないクリスチャンは福音理解に行き着かないのです。

 聖所の教えの基礎的な真理を理解すると、知識に頼り過ぎる誤りと、感情に頼り過ぎ
るもう一つの誤りの両方から教会員を守ります。偏った強調によって、真理の半分しか
伝えていない空論に惑わされることから私たちを守るのです。例えば、正しく理解され
ないままに「行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです」とだけ叫
んでも、逆に「信仰によるのではありません。だれも誇ることのないためです」と反撃
されるにちがいありません。

 これら二種の誤りは、今この時になされている救いの計画の真意、つまり罪の完全な
除去という信仰の作業を完璧に見落としています。聖所の教えを正しく理解することに
よって、これらの葛藤の中に含まれている真理が理解され、調和ある救いの計画を見る
ことができるのです。

 サタンが最も恐れているのは、何時の日か人々が真剣に神に応じ、その声に注意深く
耳を傾けることなのです。セブンスデーアドベンチストが、神の言葉を額面通りに受け
止め、神に協力することによって罪の習慣を捨て去るのをサタンは恐れています。アド
ベンチストが、「イエスの信仰」(黙示録14:12)によって、神の戒めを守ること
に心を配るようになるのを恐れています。「イエスの信仰」が心から求める人が、イエ
スの品性を身につけるようになることを恐れているのです。内住する神の力にすがり、
信仰によってイエスの品性を自らの品性とする人々が現れることによって、自分の誤り
が全宇宙の前に暴露されてしまうことをサタンは恐れているのです。それまでは聖所の
理解は曖昧であれば曖昧であるほど、いろいろな異なる考えや解釈があればあるほどサ
タンにとっては都合が良いのです。

 かつては打ちのめされていた人々、自分中心であったり霊的挫折を味わったりした人
々が、神の指示に字義通り従う生き方こそ最も幸せで素晴らしく、心身共に健やかにし
てくれる生き方であることを証明するのです。このように神の戒めを守る人々の快活で
魅力にあふれる品性によって再臨が早められることを、そして自分の滅びが早められる
ことをサタンは恐れます。「キリストは、ご自分の教会の中に、ご自身を現わそうと熱
望しておられる。キリストの品性が完全にキリストの民の中に再現された時に、彼らを
ご自分のところに迎えるために、主は来られるのである」(「キリストの実物教訓」47
ページ)と記されているのをサタンは知っているのです。

 人々が聖所について学ぶ時に、これらの素晴らしい可能性が明らかにされるのをサタ
ンは恐れます。たとえ教会員が、天と地の間に上げられたもう主の十字架に目を注いで
いても、もし彼らがキリストについて天の聖所にまで入っていき、なぜキリストがあの
ような生き方、そして死に方をなさったのかを見出すことさえしなければ、サタンは満
足です。また私たちが惜しみなく献金を捧げて益々その額が増え、世界中に最も勝れた
教育あるいは医療の機関を作り、充実したラジオやテレビの番組、禁煙講習会などを開
催して皆から賞賛されてもサタンは一向に構いません。これらすべての輝かしい活動が、
実は神の恵みの内にある発展なのではなく、神にとっての切り札として民を聖別する生
活へと神の民を引き上げ、罪の問題を解決する唯一の方法となるのでなければ、サタン
は安心なのです。

 神は単に私たちの罪を許すばかりでなく、それ以上のことをなさろうと望んでおられ
ます。そのことを明らかにする要素が聖所の教えには盛り込まれていますが、それらに
ついてはこれから学んでいきましょう。そうすれば、「信仰による義」の教えが聖所の
真理と密接につながっているばかりか、聖所にその端を発していることがわかります。
そして聖所を学ぶことによって明らかにされた真理を体験すことが、すなわちイエスの
おいでを早める鍵になっていることがわかるのです。
 
    (管理人) これは前書きです。  

復旧しました

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2013年11月26日(火)12時29分26秒
  嵯峨野教会聖書研究室が復旧しました。

ここは皆さんの意見を書くところではなく、聖書研究の資料を提供する場として設
定されています。よろしくご利用ください。昔はSDAはプロテスタントの中で最も
熱心に深く聖書を研究するキリスト教教派として有名でしたが、その伝統は今まで
40年間の違法教団運営の歴史の中で失われてきました。今こそ、私達は共に聖書
を研究して、SDA教会のアイデンティティを激しく、容赦なく、取り戻して教会を
40年前の日本人総理が立った以前の霊的状況に再生しましょう。嵯峨野教会は屈
しません。
 

【重要】マリアの物語は福音の金字塔

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2013年 4月30日(火)20時24分39秒
  世が決して忘れることができない女性
マルコの福音書の中に、ある一つの話があります。その話は、大変美しい話です。
不細工な粘土の壺に飾られている貴重な宝石のように、その話は二つの最悪な話の
間に挿入されています。それは十字架のキリストが、2人のよこしまな泥棒の間に
いたようなものです。

最初の醜い話は「祭司長たちや律法学者たち」が、どのようにして、イエスを殺そ
うと決めたか、という話です。3番目の話は、イエスの弟子のひとりであるイスカ
リオテのユダの、まったく恥ずべき行いの話です。ユダは、イエスを死に渡す裏切
りをするために、自分自身を悪魔に売り渡してしまいました。そして、この2つの
醜い話の間に、私達が決して忘れることのできない、ある一人の女性についての、
この上なくすばらしい話があるのです。

この女性がやったようなことをした女性は、未だかつていません。イエスは「全世
界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語ら
れるであろう(マルコによる福音書14章9節)」とおっしゃいました。このこと
は、ヨハネの黙示録14章に出てくる3人の天使によって宣べ伝えられる「永遠の
福音」の重要な一部にすらなっている、ということを意味するのです。ですから、
この聖書の勉強のシリーズの中に、彼女のことについての特別な課を、入れなけれ
ばいけないのです。彼女の話は、ほぼ二千年の間まったく輝きを失わず、光り輝い
ていますが、多くの人々は、未だその話を知りません。

すべての4つの福音書の書き手は、この話のできごとについて述べていますが、そ
れぞれが、違う点について詳しく述べています。また、最近、古い記録が、発見さ
れ、今まで知られていなかったことが、分かってくるようになりました。


この女性は、無能な者でした。
1.マルコによる福音書14章1-9節を読んでください。この女性は、どんな贈
り物を、イエスに持ってきましたか。
(                           )

その価値はお金にすると、いくらでしたか。
(           )デナリ

デナリとは、1枚の銀のコインのことで、1日の人の給料に相当します。マタイに
よる福音書20章2節を参照してください。


2.イエスは、どれほどこの女性を称賛されましたか。
マルコによる福音書14章6,8節

(         )に(          )をしてくれたのだ。
この女は(                  )をしたのだ。すなわち、
わたしのからだに油を注いで、あらかじめ(        )の(        )
をしてくれたのである。

「よい事」の「よい」の原語は、素敵な、素晴らしい、ワンダフルな、最高の、ま
ったく申し分のない、という意味です。いつか、イエスがあなたや私について、あ
なたがたはできることをやってきたとおっしゃるのなら、それは、最高の称賛です。
イエスは、「全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では(マルコによる福
音書14章9節;マタイによる福音書26章13節)」、マリアの話を話すように、
私たちに命じられます。つまり、福音を明らかにする何かが、その話の中にあるの
です。


3.彼女は、どんな、思いがけない妨害にあいましたか。
マルコによる福音書14章4,5節

、、、ある人々が(         )互に言った、、、


この「ある人々」とは誰だったのでしょうか。マタイによる福音書26章8節によ
ると、「ある人々」というのは、(               )です。

ヨハネによる福音書12章4,5節では、この「憤り」のもともとの始まりについ
て、どのようにいっていますか。

その憤りを起こした者は、(                 )でした。

ユダは、11人の弟子たちをだまして、ユダがこの女性を非難するのは正しいこと
だと思うようにさせました。彼らは、霊的な識別力に欠けていました。彼らは、ユ
ダがどんなに悪い者か、あるいはこの女性はどんなに良い者かなどとは、微塵にも
思いませんでした。終わりのときには、私たちは、彼らがその時に持っていた以上
の、霊的な識別力が必要です。


4.イエスに油を注ぎ、イエスからそのようにすばらしい称賛を得たその女性は、
たいした女性でしたが、彼女は、どのような恥ずべき過去をもっていましたか。

マルコによる福音書16章9節;ルカによる福音書8章2節;ヨハネによる
福音書12章3節

彼女の名前は(                   )でした。
彼女は7つの(        )をもっていました。これは、ひどい堕落状態だった
ことをあらわしていました。

マタイによる福音書26章7節、マルコによる福音書14章3節、そしてルカによる
福音書7章37節にでてくる、イエスに油を注いだ「女」は、ヨハネによる福音書
12章3節で「マリア」と呼ばれている女と、同じ女です。すべての福音書の記者
たちは、福音書の中に、イエスが命じられたように、この女がイエスに油を注いだ
話を入れています。

ルカによる福音書では、この女は「罪の女」だといっています。これは、彼女が道
徳的な評判を失ったことをよくいいあらわしています。(マタイによる福音書21章
31節と、ルカによる福音書15章1,2節を参照してください。)ルカは、この
話のある部分を、きめこまかく記しています。(ルカによる福音書7章36-50節)
ここでは、いくつかの驚くべき事実が示されています。パリサイ人のシモンは、自
分の心の中をあらわすことで、マリアについて、個人的な、親密的なことを知って
いることを、私たちに知らせています。そして、シモンはこの女よりも10倍悪い
と、イエスは、明らかにしておられるので、イエスは、シモンがもともと彼女をそ
そのかし、彼女の人生をだいなしにしたのであること、示しています。

しばしば、自尊心のある女性がそのような不幸に経験するとき、生活がみだれ、精
神的にだめになってしまいます。マリアは、彼女を助けてくれる精神科医を見つけ
ることができませんでした。踏みにじられ、汚されたという思いをいつももってい
て、彼女は、絶望の中で逃げ出し、自暴自棄の深淵へ、急速に落ち込みました。悪
霊が、彼女の心と思いをとらえてしまうために、入ってきました。これは、希望の
無い人、ただ絶望のみの人に、おこることです。


マリアは、イエスに会えました!!
5.彼女は、罪、けがれ、また絶望の中で、失われていたにもかかわらず、イエ
スは、彼女のために何をなさいましたか。
マルコによる福音書16章9節;ルカによる福音書8章2節

イエスは以前に、この女(マグダラのマリヤ)から(               )
を追い出された。


イエスが、誰かをサタンの虜から救い出すために祈られたとき、どのように祈られ
ましたか。ヘブル人への手紙5章7節

キリストは、その肉の生活の時には、(                   )と
をもって、、、祈と願いとをささげ、、、

1回や2回だけではありません。イエスは、7回、悪霊にとりつかれて、おちぶれ
てしまったこの人のために、祈りの中で、イエスの魂を注ぎだされました。人間性
についての専門家は、イエスによって、最後に「追い出された」7番目の悪霊は、
マリアの魂を汚し、人生を台無しにした男への深い恨みだったであろうと、言って
います。性的暴行、近親相姦の被害を経験した女性は、当然のこととして、その女
性を虐待した者に対して、深い恨み、つまり、良心の表面下でくすぶる悲痛を、心
にいだくようになります。

その最後の憎しみの根が抜きあげられたとき、マリアの救いは完全となりました。
多くの人々は、憎しみに満ちた恨みという傷を、心の奥底にもっています。「激し
い叫びと涙」でもってのイエスの声だけが、その傷を癒すことができるのです。神
が私たちを許してくださったということを知り感謝することが、私たちに悪いこと
をした人や、私たちを深く傷つけた人を許すことを可能にするのです。マリアは、
遂に心の恨みが癒されたのを知ったので、彼女は、どうにかして、「ありがとう」
を言いたかったのでした。


6.イエスの死が間近に迫っていることを、イエスから聞いて(イエスの弟子たち
は、理解が鈍く、このことを聞くことができませんでした。)、「私の魂を救って
くださり、ありがとうございます。」と言う方法として、どんないい考えが、この
女性に浮かんできましたか。

マルコによる福音書14章8節
イエスの(         )に油を注いで、あらかじめ(        )
の用意をする考え。


(a) 彼女は、どのような価値の香油を買いましたか。マルコ14:3

非常に(        )で純粋なナルドの香油

(b) そのために、どれだけのお金をつかいましたか。マルコ14:5

(       )デナリ

(c) 彼女は、イエスに、香油をどのようにして注ぎましたか。マルコ14:3

ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持って
きて、それを(        )、香油をイエスの頭に(           )。
(足にも注ぎました。ルカによる福音書7章38,46節;ヨハネによる福音書
12章3節を参照してください。)

(d) タオルのかわりに、彼女は、イエスの足を何でふきましたか。
ルカ7:38,44-46;ヨハネ12:3
(                  )

バーゲンセールの香油は、マリアの計画には、ふさわしくありませんでした。貧乏
な人への香油や、貴族への香油さえも、ふさわしくありませんでした。この香油は
皇帝にふさわしいものでした。香油のために、300デナリをつかったことを考え
てみてください。300デナリというのは、当時の高給取りの1年間の労働賃金な
のです。それよりも遥かに貧しいマリアは、そんなことは全く気にしませんでした。
地獄から彼女の魂を救ってくださったお方に費やされるもので、高価すぎるという
ものはありませんでした。

マリアは、シモンが食事会をすることを知りました。そこで素晴らしい計画を思い
つきました。もしも、マリアが、イエスが亡くなるのを待っていたら、イエスは、
彼女の深い感謝の念について何も知ることはできません。シモンの食事会の招待客
のリストにはマリアの名前はありませんでしたが、招かれていなくても行って、そ
こでイエスに香油を注ごうと思いました。彼女のやろうとしていることには、重要
な意味があるなどと、微塵にも思っていませんでした。

マリアの心の中で、閉じ込められていた泉が、突然、湧き出ました。激しく流れ落
ちる涙は、救い主の足を濡らしました。そして、その「罪人」は、ひざまづいて、
彼女の長い髪で、救い主の足をふきました。ここで、悔い改めた罪人によって、最
高のことが行われました。しかし、心のかたくななユダと、心の鈍い11人の弟子
たちは、彼らの目の前で行われていることの真価を、理解することができませんで
した。


7.イエスは、この女性がやったことを、ほめられました。マルコによる福音書
14章6-9節。
イエスから、この女性について、大変すばらしいお言葉があったのは、どのような
理由からでしょうか。

イエスは、弟子たちには見えないものが、見えました。
(a)ナルドの香油のつぼが割れるとき、イエスは、すぐに、私たちのために裂かれ
るからだの象徴を見られました。

(b)床に、無駄に流れていく高価な香油をみて、イエスは、ほんとうに僅かの人し
か価値を評価しないだろうとも、地球上の何億人という罪人のすべての人を救うた
めに、十分な血を流されるのを見られました。

(c)マリアが、このような行いをしたのは、自己中心な思いからではないのを見ら
れて、私たちのためにもうすぐ死のうとなさるイエスの動機は、愛から出たもので
あることから、その愛の反映をマリアの行いの中に見られました。この女性の唯一
の希望は、すでに少しは経験していた地獄から、救ってくださったことへの、感謝
の念をあらわすことでした。そのように、イエスも、ご自分への報酬のためなどと
いう考えは全く無く、私たちを贖ってくださいました。イエスは、私たちのために、
イエスの犠牲のなかで、希望のまったくない「第2の死」と同等の「死まで、魂を
そそぎだして」くださいました。(イザヤ書53章12節;ヘブル人への手紙2章
9節を参照してください。)

(d)買える限りの、最も高価な香油を買ったマリアの自己犠牲をみて、イエスは、
私たちのために、持っておられるすべてを与えられることを見られました。ひとり
の悔い改めた罪人が、十字架に向かう神の子の魂に、油を注ぎました。

(e)イエスの足まで、香油のすべてを注ぐという、人からは狂気じみた浪費とみえ
るマリアの行いは、イエスを感動させました。そのように、一杯だけでも十分に人
の心をとらえるに違いないけれども、イエスも、文字通り滝の流れのような、愛で
満ち満ちた犠牲の血を流さなくてはいけません。その犠牲の供え物というのは、浪
費とも考えられるほどの贅沢なものなのです。なぜならば、アガペの愛は、最高の
ものだけを与えることができるからです。イエスは、イエスを十字架で張りつけに
することだけを望んだ世のために、ご自身をいけにえとしてささげなくてはいけま
せん。


イスカリオテのユダが言ったことに同意しますか。
8.マリアがやったことに、ユダが腹を立てた理由として、ユダが、どんな気高い
目的を与えましたか。ヨハネによる福音書12章4,5節

なぜこの香油を三百デナリに売って、(              )に、施さ
なかったのか。


300デナリのうちのいくらを、貧しい人たちにあげようとしていましたか。
ヨハネによる福音書12章6節
(                                    )

・11人の弟子たちは、ユダがお金を盗んでいたことを知っていましたか。
(                                    )

ユダの理屈は、論理的にきこえますし、また、貧しい人々へ、食事を与えたり、着
物を与えたりするようにイエスがおっしゃったことと、明らかに、一致しています。
もし、私たちがそこにいたなら、ユダの冷静な「義からくる憤慨」に対して、11
人の弟子たちと一緒になって、心から「アーメン!」とか「その通りだ!」と言っ
ていたのではありませんか。

私たちも、盲目で、心がかたくなな者ではありませんか。神さまのもっておられる
最大の問題というのは、現代の「収税人や売春婦」についてではなく、むしろ、ア
ガペの愛をみても、その愛をさげすむ、信仰者と告白する者についてではないでし
ょうか。現代の「ラオデキア(ヨハネの黙示録3章14-21節)」の霊的な状態
は、ユダに、盲目的にだまされていた11人の弟子たちの霊的な状態のようです。
キリストに従う者だと告白する人々は、なんと、しばしば、黙示録でいっている
「目薬」に欠乏していたことでしょう。そして、あと数日でカルバリの十字架が迫
っているということを目の前にしていた弟子たちのように、識別力に欠けていたの
でした。驚くべきことに、そのような者たちが、按手礼を受けた牧師や使徒、つま
り教会の指導者だったのでした。


冷淡で、悔い改めの心のないシモン
イエスは、彼のことも、愛しました。

9.どんな病気が、パリサイ人シモンを襲っていましたか。
マルコによる福音書14章3節;マタイによる福音書26章6節
(                                    )

・シモンは、イエスはどのような方と考えましたか。ルカによる福音書7章39節

シモンは、イエスは(              )ではないと思いました。


シモンは、救い主が癒されたらい病人のひとりでした。「私を癒してくださり、あ
りがとうございます。」という言葉ではなくて、この心に思ったこと(ルカ7:39)
が、シモンの高慢な、もったいぶった、パリサイ人風のやり方をあらわしていまし
た。シモンが、イエスがマリアのささげ物を受け入れておられるのを見て、イエス
は救い主だと告白することで、自分自身が物笑いにならなかったことを、喜ばしく
思いました。

もし、マリアが「7つの悪霊」で苦しんでいたのなら、シモンはもっとマリアより
もひどい者でした。なぜならば、彼は、8つ目の問題で苦しんでいたからです。そ
れは、高慢と、アガペの愛が示唆する信仰への軽蔑でした。


10.どんな、気転のきいた方法で、イエスは、シモンに、彼の真の霊的な必要性
を示されましたか。
ルカによる福音書7章40-46節

シモンは、単に(      )デナリを借りていたのではなく、(      )
デナリを借りていた人でした。


11.罪と許しの間の割合(比率)はどれだけですか。
ルカによる福音書7章47節

(      )の罪がゆるされた者は、(      )愛す。少しだけゆる
された者は、少しだけしか愛さない。


私たちは、マリアが愛したように、愛すことを学ぶために、自分自身の身を悪魔
に投げ出して、「たくさんの罪」を犯さなくてはいけない、というのが、イエス
のおっしゃったポイントではありません。(地獄から、戻ってくる道を、二度と、
見つけだせなくなるかもしれません。)私たちが悟らなければいけないのは、私
たちは「たくさんの罪」について有罪であるので、ただ50デナリだけ借りてい
る者ではなく、500デナリを借りている者であるということです。他の人の罪
は、私たちの罪でもあり、キリストの恵みだけが私たちの望みなのです。生来、
私たちのうちの誰も、他の人よりも、勝っている者はひとりもいません。マルチ
ン・ルーターが言ったように、私たちは皆、同じド土くれのかたまりからできて
いるのです。心からの深い悔恨と謙虚さを通してのみ、私たちはその8つ目の悪
霊を追い出すことができるのです。


12.神学者や説教者は、「信仰」の意味は何かと、長い間、討論をしています。
イエスは、これについて簡単に説明をしてくださいました。
ルカによる福音書7章50節

(       )が持っていたのは、本物で純粋の信仰でした。
つまり、それは(          )の愛に対する、心からの感謝です。


13.すばらしい本である、聖書の勉強の中で、今まで学ばれたことについて、心か
らの感謝の念でいっぱいですか。
(                                      )
 

【重要】聖所の清め

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2013年 1月22日(火)04時37分39秒
  聖所の清め:
キリストの期待を裏切ってはいけない!


今回の課題は罪よりも強い恵みについてです。この恵みは、天の聖所の清めというユニークな大祭司の務めに一層満ち溢れています。最初にダニエル書の8章13‐14節を読んでみたいと思います。ここにアドベンチスト教会の基があります。私たちの教会の基は安息日でも、健康改革でも、キリストの再臨でもないのです。私たちの教会の基は天の聖所の清めなのです。この聖句が明らかにしているのは、13節、「それから、わたしはひとりの聖者が語っているのを聞いた。またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、…幻であらわれたことは、いつまでだろうか。」私はこの言葉に慰められます。天使たちがこの罪の支配と苦難はいつまで続くのだろうか、と気に掛けていることです。天では地上の罪の問題について話の持ちきりです。いつまでサタンが勝ち誇っているように見える状態が続くのか?いつまでこのような酷いことが続くのか?これはあなたにも関心事ですか?そういうふうに見えるかどうか定かではありません。あなたがたはキリストの再臨を早まらせるという目的を失っているのだと思います。再臨の前にまだ何年もあると考えて将来を計画しています。私にはそう見えます。しかし天使たちは気に掛けています。いつまでこの幻に出てくるこの地上を荒らす二つの権力が支配するのであろうか?一つは長々と続く無秩序の異教であります。これはアドベンチストの開拓者たちが理解したことであります。もう一つはさらに地上を荒らす憎むべきもの、小さな角の教皇の権力です。いつまでこの二つの悪が神の計画を足で踏みつけ、救いの計画を妨げているように見えるのか?そして14節にその答えはあります。良き知らせです。「彼は言った、二千三百の夕と朝の間である。そして聖所は清められて、その正しい状態に復する。」ダニエルは、この聖句で、地上にある聖所は救いと直接の因果関係が無いことを理解しました。地上の聖所は天の聖所の小さな模型であって、天の聖所の真の働きを象徴しているのに過ぎないということです。ダニエルの時代の異邦人にさえ天の聖所の存在を知っている人たちもいました。それだから、天使がダニエルにこのすばらしい知らせを伝えたときに、ダニエルはすぐに天の聖所のことだと悟ったのだと思います。昔のヘブライの日付で言うと贖いの日は第十の月の七日にあります。この贖いの日は、救いの計画が終結する宇宙の贖いの日を象徴しているものなのです。

ダニエルの8章を黙示録の10章と比べてみましょう。それは美しい言葉と希望に満ちて私たちを励まします。黙示録10章、5-7節、「海と地の上に立っているわたしが見たあの御使は、天に向けて手を上げ、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造り、世々限りなく生きておられるかたをさして誓った、「もう時が無い」」。この「時」というのは原語のギリシャ語でクロノスと言い、限られた時間のことを意味します。つまり、天使が言ったのは、1844年からはもう時間の猶予は無いということなのです。クロノスは終わったのです。それで次の節の七節では、「第七の御使いが吹き鳴らすラッパの音がする時には、神がその僕、預言者たちにお告げになったとおり、神の奥義は成就される。」それで、天使の質問で「いつまで続くのですか?」に対する答えは、第七の御使いが声を響かせて神の奥義が成就されるときなのです。黙示録の11章の15節、「第七の御使いが、ラッパを吹き鳴らした。大きな声々が天に起こって言った、「この世の国は、われらの主とそのキリストとの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう」」そしてこの聖句の内容は、この時に大祭司が聖所から至聖所に移られることをはっきりと示しています。そこの至聖所で人の心のうちに恵みの働きを完成させるためです。そこで恵みの働きがどんなにすばらしいものか、思い返してみてください。恵みは私たちのすべての罪を足したものよりも大きく、放縦、不道徳、憎しみ、疎遠孤独に満ちた今日の世界よりも恵みはそれよりもさらに満ちているのです。恵みが満ち満ちたのであるから、私とあなたは高慢な心をへりくだらせこの恵みに乾きを感じる必要があります。

そして私たちの教会は単なるもう一つの宗派ではないのです。カリフォルニア州の街で、一マイルの行列の車があるところがありまして、そこを一マイル歩いて色んな車が並んでいるのが見れることが出来ます。トヨタ、ホンダ、メルセデス、フォード、などたくさんの種類の車が並んでいます。すべての車には四つ車輪があり、操縦ハンドルがついています。どれをとっても、皆ほとんど同じです。それでどれを選ぼうと、そこの町の飛行場まで運転可能です。このように、ある人たちは、アドベンチスト教会は単なる教会の一つに過ぎないととんでもない思い込みを持っています。若い人たちがどんどんアドベンチストの教会を去って他の教会に行っています。それは、上なる存在を信じてさえいれば良い、と彼らは考えているからです。これらの若い人たちはアドベンチストの教理の特別で固有さを見失ったのです。彼らにとって私たちのアドベンチスト教理は道理にかないません。それは彼らは聖所の清めの真理を見失ったからです。このすべての事柄は、増し加わる恵みのメッセージに入っています。

テトス2章の11節から15節にアドベンチストの教理と聖所の清めについてあります。それで、12節はNIV訳のほうがギリシャ語に近いのでその節だけそっちを使わせてもらいます。NIV訳が一番良いと言っているわけではないのですが、NIVでは聖所の清めのことが理解不可能です。一番頼りがいのある訳はKing James Versionです。NKJも悪くないのですが、完全でもありません。早い話、どの聖書も完全な訳はないのです。でもそれで落胆することはありません。神様は目を二つくださったので、色んな角度からみることができるのです。一種類以上の聖書を持ってもいいです。ただし、King James Versionは絶対に捨てないでください。とにかく、二つの訳をまとめてみました(12節以外は口語訳にしました)。「すべての人を救う神の恵みが現れた。」この恵みは私たちにもったいないほどの好意であり、神はすべての人を愛されるゆえに、すべての人に救いを持ってこられ、すべての人の手に持たせてくださったのです。すべての人には量りに応じた恵みと信仰が与えられています。太陽がすべての人を等しく照らすようにです。そして、失われる人は罪の故ではないのです。だれも罪を犯したために失われる魂はありません。イエス様は明確に言われています。この世に来た光があって、光よりも暗やみを愛するがゆえの裁きなのです。魂が失われる罪とは、神の恵みを拒否して抵抗し続けることなのです。キリストはすべての人の罪の刑罰を払われて、すべての人に救いの贈り物をくださいました。それを受けて、大事に守りなさい。それを愛しなさい。胸の中にとって置きなさい。

さて、NIVの12節、「それは私たちに、不信心とこの世の情欲に対してノーと言えるように教える」。ここの訳は私は好きです。誰かが一度子羊クラブに来て、私たちにポルトガルの歌を教えてくれました。子供たちと私にポルトガル語の発音を教えてくれて、私たちはポルトガル語で歌を歌いました。そのように、神の恵みも、私たちにやさしく忍耐強く時間を掛けて、大人たちもまだ覚え切れていない大事な言葉を教えてくださいます。それは二文字の言葉、NOです。どうやってこの罪深い性質から生まれる自己の欲望に対してノーと言えるのか?それでどうやら私たちには、この情欲を成就させないといけないような考えがあるのです。そして時々、私たちは律法主義的な考えがあって、歯を喰いしばり、こぶしを握って、これは害あるから応じないぞ、と言ったりします。とても大変で難しいことなのです。しかし、聖書はこれを楽な仕事だと言っています。それは恵みがあなたにノーという言葉を教えるからです。続いて、神の恵みは私たちをこの世において慎み深く、正しく、信心深くなるように教えます。神の計画は、あなたをアメリカや今住んでいる場所から取り去るようなことではありません。

私は時々人にこう質問します。もし神様があなたにこう言われたとします。「あなたのことを本当に本当に気に入って、わたしたちにとって本当に特別な存在だと思う。それでエリヤに送ったように、あなたにもタクシーを送って天に連れて行く」。あなたは行きますか?ここの先生は、行きます、と言っています。 先生、私たちを残して集会を全部私たちに任せるつもりですか?いいえ、それは神のご計画ではありません。彼は私たちをここに残して去るのですよ、ね、先生。彼は私たちより先には行きはしません。ま、神様はあなたも試すかもしれないですよ。アンドレアソンは,ピリピの手紙の一章でパウロが言っていることに考えがありました。パウロが、「わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。キリストと共に世を去って行くことか肉体にとどまっているかどうかを。あなたがたのためにここにいよう」と言っているところで、長老アンドレアソンは、もしかしたらパウロは神様から昇天のオファーがあったのではないかと考えました。そしてパウロはアガペの愛によってそのオファーを断ったのです。それで私たちの主は言われます、「今ここにいるところで、この現在の世において、慎み深く、正しく、信心深く生きなさい」レーリーさんが質問してきました。じゃあなんでエリヤは昇天したのか、と。彼には特別な務めがあったのですよ、レーリーさん。主をキリストの時代に慰めるための特別な務めがあったのです。神様が私にオファーをしたとき、どうやって私には特別な務めがあるかないかがわかるのかって?そうですね。でも、パウロは世に残る道を選んだのです。私はあなたがたと共にいたい、あなたに魂の救う方法を教えたい、あなたがたに主の再臨に備えることが出来るように手伝いたい、と。これがアガペの愛の表れです。

テトスの2章の13節に、ここにアドベンチストの真理があります、「祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。」そしてパウロという人は、必ず話しの最後にはキリストの十字架を持ち出してきます。それで14節に、「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられた」と書いてあるのです。恵みはこうして働くのです。彼が私たちのために十字架上で身をささげられたことに対する感謝を通してです。そしてこの恵みが私たちをすべての罪悪から贖うのです。この罪悪というのは表面上で見えるものだけではなく、深いところに浸透しているものです。少し前に、私はある問題を抱えている男性と話しました。彼は幼い女の子の何人かを暴行して捕まりました。彼はその行為はとても残酷なものでしたと涙ながらに自白しました。彼はこう言いました、「私は自分をどうしていいのかわからないのです。幼い頃、私は兄に七年間暴行されたことがありました。それは私の心の奥底の深いところからくるものなのです。」そして私たちも子供時代に遡るほどの根深い罪を心底に持っています。それでもう少し言わせてもらいますが、私たちの生まれたときまでに遡るほど根深い罪もあります。そして親の時代まで遡る深い罪もあります。ヘロイン中毒の母親はヘロイン中毒の子供を生みます。それで人々は、自分はどうしてこんなことをしたりしなかったりするのだろうか、どうしてこんなに孤独や恐怖を感じるのか、と思うのです。そしてこのキリストの十字架で現された神のすばらしい恵みと私たちにつねに語りかけてくださる方、十字架で死なれたキリストご自身、私たちの気持ちと弱さをよく理解し、現代の時代にあっても私たちのために涙を流すことを知っておられ、同情してくださるかた、彼の恵みは私たちをすべての不法から、根深い罪などから、贖うためには十分足りています。そして彼のために良い行いに熱心な選びの民を、ご自分のものとして聖別するためです。

何人かの人が私に文句を言いにきました、「先生、あなたは恵みとキリストの十字架のことばかり話しています。もう少し、良い行いのことについて語ってもらえませんか」と、そういう注文でした。神の恵みはあなたを良い行いに熱心にさせます。それは、千個の伝道計画でも成すことのできないようなものであります。その行いとは、あなたを再臨にそなえる準備をしてくれます。千個の伝道のプログラムよりも。そして他の人たちも再臨への準備させることができます。これは聖所の清めという偉大な働きにすべて含まれているものです。さて、使徒パウロも、人々が彼のメッセージに対して文句を言っていたという問題が彼の時代にもありました。ガラテヤ2章を開いてください。ところで、今のアドベンチスト教会の最新の情報を手に入れたいのなら、Adventist Reviewの雑誌がお勧めです。しかし、ごく最新の情報は手に入りませんね。ごく最新のアドベンチスト教会の情報を手に入れるためには、パウロのガラテヤ人への手紙を読んだほうが手っ取り早いですね。それは明日のことを予告しています。そして今日も私たちには戦いがあります。そりゃ、神の恵みはありがたいですし、信仰もとても良いのですが、もっと何か必要だと思いますがね。これに対してパウロは、いいえ、違います、と言っています。二十節に彼は、わたしの自己はキリストと共に十字架につけられた。生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしのうちにいきておられるのである。しかし、わたしが今肉にあって生きているのは、良い行いのプログラムではなく、イエスキリストの信仰によって生きているのである。ここで、また十字架が出てきます。彼はその話なしではやってられません。それは、パウロが説教のノートに、ここで十字架の話しをする、と忘れないように書き込んでいるからではないのです。それは、十字架が彼の頭に植え付けられていて、自然に語らないでいられなくなるのです。20節にまた戻りまして、「わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子」。それで、21節では、「わたしは神の恵みを無にはしない。もし義が行い行事のあれこれのみによって得られるとするならば、キリストの死は無駄であったことになる。」私はパウロの肩を持ちます。いずれはどっちかの側につかなければならないですし。私もまた神の恵みを無にしたくはありません。これこそがすべての良い行いを生み出すものです。そしてそれは決して失望に終わることはありません。

さて聖所の清めはアドベンチストメッセージの中核です。ホワイト夫人が書いてあることを少し読みたいと思います。ここのところあまり彼女の書物を読んでいないのですが、決して彼女の書物に疑いを感じたことはありません。彼女は聖霊に導かれた神の預言者だと信じています。ただ、聖書について説教するのに忙しくて彼女の書物を調べる時間はありませんでした。牧師として、私はあまりホワイト夫人の書物を使いません。それは、アドベンチスト以外の訪問客が教会に訪れることが常にあるからです。安息日の礼拝は、教会の中で一番効率の良い伝道だと私は思っています。それで安息日の朝は、聖書を基づいた説教をします。でもホワイト夫人の書物は信じていないわけではありません。それはともかく、ホワイト夫人は、「聖所と調査審判の問題は、神の民によってはっきり理解されねばならない。すべての者は、自分たちの大いなる大祭司キリストの立場と働きについて、自分で知っている必要がある。」ここでPosition(立場あるいは場所)という言葉に注目してください。キリストが何処におられるのかが大事なのです。聖所にいるのかあるいは至聖所にいるのか。それをはっきりさせなければ、信仰による義は理解できません。ホワイト夫人が書いた通りに読んでいくと、「そうしなければ、この時代にあって必要な信仰を働かせることも、神が彼らのために計画しておられる立場を占めることもできなくなる。…天の聖所のためのキリストのお働きの中心そのものである。」(大争闘下の222ページ)。すなわち、信仰による義です。聖所は神の信仰による義の働きの中心なのです。「それは、贖罪の計画を明らかにし、われわれをまさに時の終わりへと至らせて、義と罪との戦いの最後の勝利を示してくれる。」また彼女は、「天の聖所における奉仕を正しく理解することは、われわれの信仰の基礎である」(教会への勧告下 435ページ)。安息日は聖所の真理から出ました。健康改革や服装の改革も聖所の真理から出たものです。私たちの持っているすべての真理の中心がこの美しい真理なのです。

Evangelism221ページにあります。「神の民は今日の時代、天の聖所に向けられなければならない。我々の大祭司が民のために仲保者となる最後の裁きの働きが前進するからである。」その他に最終時代におけるサタンの働きのことも書いてあります。その前にここで少し聖所について復習したいと思います。その前にちょっと質問しますが、皆さんは教会でこの一年の間で聖所についてのお説教を聴きましたか?少しの方たちが手を上げていますね。でも手を上げていない方のほうが多いですね。聖所について全く聞いたこともない人もいます。でもこれが最も美しく重要な真理であります。聖所には二つの部屋があり、地上の聖所は天の聖所の模型のようなものでした。聖所の構造とか壁は何でできているとかそういう細かなことは置いといて、一番大事なことはその聖所の中で何が起こっていたかです。最初の部屋には香をたく祭壇があり、これは二番目の部屋にも関係するものです。ほかには、供えのパンを置いたテーブルがあり、パンは土曜日毎朝新しく焼いて、安息日の朝礼拝を取り仕切る人は必ず焼きたてのパンを人々の前に置かなければなりませんでした。私はちょっと食事に関してはうるさいほうで、冷めたごはんは食べたくないものです。やっぱり温かいごはんがいいですね。焼きたてのパンみたいなのが。たまには古い説教台詞とかを全部捨ててしまって新しく作り直しても良いものではないかと思いませんか。少し拡大解釈したかもしれませんが、新鮮なパンを人々の前に土曜日毎朝出すというのは良いことだと思います。備えのパンのテーブルの近くには燭台もおいてありまして、その灯りは日夜消えることはありませんでした。この第一の部屋では大祭司が毎日奉仕するのです。でも第七の月の十日の日にだけ第二の部屋に入りました。贖罪の日はそれはとても特別な日でした。レビ記の23章に開いてみてその日になにが起こったかを見てみましょう。レビ記23の24節、七月一日をあなたがたの安息の日とし、ラッパを吹き鳴らして…労働もしてはならない,  とここで27節に入るのですが、ところで、アドベンチストの開拓者たちは、ウイリアムミラーが1831年から働きを始めてから、1844年のメッセージのまでに前触れのラッパがあったことを理解していました。

さて、27節には、「特にその七月の十日は贖罪の日である。あなたがたは聖会を開き」と書いてあります。聖会とは皆で集会のように集まることですね。この終わりの時代に、神の民が各地に散らばることは神の御心ではありません。神の民は互いに集うことが御心です。私たちは一つの体です。体とは、目がこっち、耳と鼻があっち、胃袋がさらにそのむこう、とばらばら状態なものではありません。体とは調和して働く細胞の集まりです。それぞれの細胞が一体となるのです。そしてキリストが頭で、私たち一人一人が彼の体の一部なのです。ホワイト夫人は繰り返し、互いに集い合うように勧めています。あなたが集会から離れ小島になっているのに気づいたら、要注意です。悪魔の手のうちにいるからです。そういうことにならないように、キリストの体とともにいることが大切です。特に最終時代は呼び集められるときです。

聖句の続きに、「身を悩まし」とありますが、これはどういう意味なのでしょうか。これは自分の肉体を打って修行をするということではありません。「身を悩ます」というのは一つの断食するという表現です。主の前で魂を祈りとへりくだりをもって断食をするのです。これが身を悩ますことなのです。しかしこれは恐怖の動機でによるものではありません。私たちの動機が恐怖からきているのであれば、裁きが怖いから、あるいはテストを通過できないのではないかという恐怖からくるのであれば、使徒パウロによれば、我々は律法の下にあるのです。しかし私たちが恵みの下にあるならば、新しい動機の支配下にあるのです。私たちはどうやって裁きを通過して、かろうじて真珠の門をすり抜けることができるかというようなことで心配することはなくなります。むしろ、私たちがどうしたら救い主に栄光と名誉を帰することができるかが心がかりになるのです。大争闘の本は今日は持って来ませんでしたが、その中の章で、神の民は恵みの期間が閉じた後も身を悩ますと書いてあります。私はその箇所を読んだとき、ああ、恵みの期間が終わっても神の民は自分の救いのために恐怖に悩まされているんだな、と思いました。でも私はふと思いました。ホワイト夫人はそのように言うでしょうか?それで私はこの段落をもう一度良く読み直すことにしました。すると、良く見れば、ホワイト夫人は、彼らの悩みは実は彼らの救い主の名に恥じをもたらすのではないかということだと説明してあります。それが私たちの心がかりの題であります。昔私はいつもこう祈っていました、「神様、今日は安らかに眠らせてください。そして私の魂をお守りしてください」。しかし、今はこう祈ります。「神様、どうかあなたに栄光を帰することができるように助けてください」。一度私はひざまづいてこう祈りました、「神様、お願いがあります。どうか私がキリストの名に恥をもたらす前に私を死なせて土に埋めてください」。それで七月の十日には特別な準備があり、28節から、「どのような仕事もしてはならない。これはあなたがたのために、あなたがたの神、主の前にあがないをなすべき贖罪の日だからである。すべてその日に身を悩まさない者は、民のうちから断たれるであろう。またすべての日にどのような仕事をしても、その人をわたしは民のうちから滅ぼし去るであろう。」これはどういう意味でしょうか。

ここで大胆に言わせてもらってもよろしいでしょうか。つまりこういうことです。アブラハムの時代のような過去までは、精一杯働いて世的な資産を儲けることは結構なことでした。アブラハムも相当な大金持ちでありましたし、いわゆる億万長者を目指すということでしょうか。しかし、1844年、つまり大宇宙の贖いの日が始まって以来、神の民には役目があり、その役目とは、信仰により大祭司の後をついて行き、彼の成す務めに共感することです。だからといって、仕事をしてはいけないと言っているわけではありません。キリストが再臨されるまで家でゴロゴロすることを勧めていません。ただ、億万長者を目指す時代は終わったと言いたいのです。今している仕事は、家族のために食料があるほど、最低の支払いは済ませることができるほどのお金を稼ぐのが十分であって、世の中のように贅沢に過ごすことは今の時代にはふさわしくありません。私たちは今非常時に住んでいるのです。皆さんの中で第二次世界大戦の記憶がある人は少ないと思いますが、私はかなり年配なので記憶はばっちりあります。その頃、私は若い牧師でしたが、今の若い人たちは信じがたい事実だと思いますが、戦争中は一人で自由に車にガソリンを入れることはできませんでした。クーポン券がなければガソリンも変えませんでした。私はその頃に、自由に自分の39年のシボレーのためにタイヤも買いにいけませんでした。まずそれができるためには配給係の人のところにいってクーポン券を貰ってからやっと自分の39年のシボレーにタイヤを買うことができるのです。その頃は非常時であったので、私がそこで配給係りの人を騙して勝手にガソリンやタイヤを買ったとしたら、とても不忠で国を裏切る行為であったでしょう。私は皆と一緒に戦争の状況に協力しなければなりませんでした。さて、1844年の前は、この世を居心地の良い住居と思っても全くよろしかったのです。しかし、1844年のあとは私たちは非常時に生きているのです。そして今日天でもその非常時のために準備整えています。皆さん、これはいつもの日常的なことではありません。快楽を求める時間はありません。心を謙遜にし、キリストの天の聖所での奉仕を感謝し、彼と共に最終恵みの務めに協力し、この世に対する責務を彼と共に背負うべきときです。天国に行くことが決して一番重要なことではないんですよね。

私はよく人から聞かれます、「先生、私は取引がしたいのです。真珠の門にかろうじて入れる最小限の犠牲とはなんでしょう。ぎりぎり天国に入ることさえできればいいのです。それだけ叶えばいいと思っているんです、先生」と。私は言います、見苦しい。神様とのやり取りはバナナの叩き売りのように値段を裁いていくようなものではありませんよ。最低限にやらなければならないことはなんでしょう?安息日を守る? はい、それはできます。什一を払う?ま、いいでしょう。週に一度教会に行く?教会の席はちゃんとすわり心地良いからな、それはしますよ。そうそう集会にも時々出るんでしょう?そうですね、集会は友達と過ごせるから楽しいですし。あと他は?皆さん、こうあるべきではありません。キリストのアガペの愛は私たちを力強く抱き、命を捨てられた救い主のためにすべてを献身できるように促すのです。 あなたのすべてのお金、土地、家、財産、時間、精神、体力をもです。私は最初の日に皆さんにここで言いましたが、私の説教の目的は皆さんを養うことではないのです。私の目的は皆さんのお腹をすかせることです。私は皆さんが信仰による義について乾きお腹をすかせることを望んでいます。そうすれば、この日から後、皆さんは聖書を調べるように促されるでしょう。そしてその動機は義務的な仕事による恐れからではなく、御言葉に乾いて、誰かのために自分を通して愛を流すことができるようになりたいという気持ちが湧き出るからです。その動機は冠に星をつけることでもありません。それは本当に見苦しい動機です。あなたがこの地上であれこれの行事をやるのは、いつか天国に行ったら、そこで自慢げに立ちながら天使さんから、「この人は特別に優等生ですよ。見なさい、彼の冠の星の数を。」とお褒めの言葉を貰うからでしょうか。皆さん、それは違います。イエス様の重荷を少しでも軽くして差し上げるのが私たちの動機であるべきです。そして天使の「いつまでだろうか」という質問にも答えが与えられるようにも。そして神の奥義が成就するためにも。贖罪の日に身を悩ますということはヘブライ人にとっては断食という意味でした。神は一年の中でこの贖罪の日にだけ民に断食を要求されたことを知っていますか。その日だけです。さて、贖罪の時代というからと言って、私たちの生涯断食するというわけにはいきません。しかし、この最終時代、私たちは生きるために食べるのです。食べるために生きるのではありません。食欲も神の恵みによって支配されます。それは神の恵みは私たちにNOという難しい言葉を口に出すのを助けてくださるからです。そして健康改革も、贖罪の日に身を悩ますという思想から始まったものです。

健康改革があるのはあなたが七年も長生きできるということではありません。統計では一般のアドベンチストはすばらしい健康改革のメッセージのおかげで他の人よりも七年長生きすると言われています。私自身もその恩恵に携わっています。もし私が若い頃に酒やタバコでもしていたらとっくの昔にもう死んでいると思います。祖父はアルコール中毒であったので、私も中毒に簡単になれたでしょう。メッセージがなければ今頃私はお墓の中だと思います。しかしながら、長生きをするのは、あともう七年旅行を楽しんだり、あともう少し長くテレビを見ることができるとか、あと七回夏にこの集会に出られるとかではありません。健康改革の本当の目的は、私たちの頭がはっきりとして贖罪と天の聖所でなにが起こっているかを理解してその価値のありがたさを思えるためです。イスラエルの人々は一年の間いつでもお酒を飲むことは許されていました。これは、少し皆さんには驚かれるかもしれませんが、聖書の事実です。ただし、酔っ払うことは許されていません。ほどほどに飲むことはできました。しかし、贖罪の日にはアルコールは一滴も許されません。それであるから、私たちは今日お酒を飲まないのです。数年か前に、アドベンチストレビューの記事でアドベンチストの中でのお酒の問題というものがありました。アドベンチストの大学の中でも寮の中でもお酒のビンなどを発見することもしばしばなどといろいろありまして、アドベンチストの開拓者たちが聞いたら墓の中から出てきそうなほど酷い話でした。記事ではアドベンチストの学校の45%の男子がアルコールを飲むという統計が出ていました。これは聖所の清めについての真理を隠しないがしろにした直接な結果でしょう。人々はなぜ私たちが健康についてのメッセージがあるのかもわからないのです。

ところで、アドベンチストはなぜ禁酒しているのかという理由で贖罪の日と書いてある本は我々の出版したもので一冊だけです。その本のある章の中で聖所の清めがアルコール中毒をやめることのできる理由として説明されています。そして、一年中イスラエルの人々は身にアクセサリーをつけることができました。それを否定することはできません。旧約聖書にははっきりと様子が書かれています。しかし、贖罪の日がくると、アクセサリーは禁止です。その日は身を悩ますときです。それで、私たちがアクセサリーをつけることをしないのは、大祭司と共に最後の贖罪の働きに協力するからです。そして身を悩ますとは自分に罰を与えるような苦行のようなものではありません。

へりくだり、悔恨、と真の悔い改めがイエス様の働きに対するふさわしいふるまいです。ああ、私は天使がもし雲を掻き分けてわたしたちが天の聖所で起こっていることを見ることができたらどんなに良いだろうか、とおもうのです。そして天使たちの心がかりなことを見ることができたら、と。イエス様の心がかりなことも。彼の世に対する重荷を。それで終わりに、天の聖所の清めは私たちの仕事でないことを神に感謝します。その働きは大祭司のすることです。そして彼はそれを確実に成し遂げるでしょう。あなたの働きは彼と共に協力することです。
 

聖書研究第五課

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 9月 3日(月)04時24分46秒
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  素晴らしい知らせ   5
イエスから愛をこめて

アガペ:本物の愛


前回の課では、私たちはどれだけ本物の愛が大切かを学びました。
(1)私たちは自分ではだれも新約聖書が言っている本当の愛を持っていません。
(2)私たちが共通に持っているものは、生まれつきのエロスの愛です。それは、
私たちによくしてくれるから、あるいは、相手が美しいから、私たちにとって価値
があるからという理由で人を愛する愛です。
(3)聖書が「神は愛です」という時、それは「神はアガペです」という意味です。
この愛は、かわいくない者、また敵さえも愛します。この考えは、聖書からの助け
がない限り、私たちの思う愛と余りにも隔った考え方であって理解ができません。
(4)聖書は、もし私たちがアガペをもっていないなら、たとえ「御使たちの言葉
を語っても」鐘を叩いているだけで、私たちは無意味であるとすら言っています。
たとえ、私たちが「あらゆる奥義」を理解していても、また山を動かすほどの信仰
があっても、アガペを持っていないのなら、私たちは無です。私たちが貧しい人た
ちに持ち物のすべてをささげても、また焼かれるために体をささげても、この素晴
らしいアガペがないなら、すべては無益です。
(5)すべての人間が共通して持っている特徴的感情は恐れです。しかし、アガペ
はその恐れを取り除き、投げ捨てます。だれもまだその素晴らしいアガペの愛を持
っている人はいないとここで気が付きませんか。
(6)私たち共通に持つ愛(エロス)は相手の美しさや良さ、美点に向けられます
が、アガペはそのようなことにとらわれず、自由です。ですからアガペは悪い人、
敵さえも愛すことができます。
(7)エロスは自分の必要性に向けられます。それに対して、アガペは無限に富ん
でいるので、何も必要としません。またアガペは、報酬に対する欲求無しで愛しま
す。何という宝物でしょう。アガペは私たちの生活が価値あるものとするのです。


アガペの愛なしで幸せになることができるでしょうか。

1.アガペは私たち人間にとって生まれつきのものではありませんが、私たちがそれを得ることは可能ですか? ヨハネによる福音書13章34節

わたしは、新しいいましめを(      )に(    )、互に(アガペの愛で)
(          )。わたしがあなたがたを(アガペの愛で)(        )、
あなたがたも互に(アガペの愛で)(         )。



2.いつ、この世は、最終的に誰が神の本当の人々であると分かるのでしょうか。
ヨハネによる福音書13章35節

(アガペの愛で)(             )ならば、それによって、あなたがたが
わたしの弟子であることを、(         )が認めるであろう。


3.コリント人への第1の手紙13章4-8節を読んでください。ここにでてくるアガペの
愛の7つの特徴の中で、どれがあなたに必要なものですか。



4.もしある人が、自己中心からおこる恐れ、あるいは良い報酬を得たいという希望からという理由よりも、神のアガペの愛に対しての真の感謝からキリストに従っているなら、あなたは、その人は将来、神から離れていくことはあると思いますか。
コリント人への第1の手紙13章8節とヨハネによる福音書10章27節から29節



イエスの弟子たちは、どんな理由でイエスに従っていくのでしょうか。それは、罰
を恐れたり、あるいは永遠の報酬を得ることからではありません。イエスの弟子た
ちは、救い主の無比のアガペの愛(matchless love)がイエスの生活にあらわされ
るのを見ます。そしてイエスの目に引き付けられていくのです。そのイエスのアガ
ペの愛が人の心を和らげ、人の心がイエスに従いたいという思いにさせるのです。
アガペの愛は見る人の心に不思議なことを起こします。彼らの心に愛の気持ちを起
こさせます。そして彼らはイエスの声を聞き、イエスに従います。


アガペとエロスの違い(つづき)

(3)人間は、価値をはかって、どのように愛するかを決めます。
私たちは、お互いに、人を分類わけをします。その人の家柄、学歴、経歴、職業、
階級などを通して人を分類わけします。ごみ収集トラックの運転手を大統領への対
応と同じくらいに礼儀正しく対応する人はほとんどいません。


5.マタイによる福音書5章46,47節で、イエスは何とおっしゃいましたか。

あなたがたが(         )を愛したからとて、なんの報いがあろうか。
そのようなことは取税人でもするではないか。(         )にあいさつ
をしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人
でもしているではないか。


詩篇49章18節には「みずから幸な時に、人々から称賛され」るとあります。私たち
はみな本当に自分本位です。

それに対してアガペの愛は完全に異なります。それは相手の価値を計るのでなく、
相手の中に価値を創っていくのです。
私が手の中にざらざらした石をもっていると想定してください。私はそれを野原で
拾いました。もし私がその石を売ろうとするなら、だれも一円たりとも私にお金を
くれないでしょう。その石はもともとものすごく悪いからという理由ではなく、そ
れは余りにもありふれた、価値のない物だからです。
さて、今度は、私がこのごつごつした石を、まるで母親が赤ん坊を愛するように、
腕の中で抱いていると想定してください。それから私の愛が陶器師のように働いて、
その石を宝石に変えたと想像してください。私の状況は今は大きく違います。大金
持ちです。

これがアガペの愛が何をするのかという例です。私たち自身の中では、体を構成し
ている化学的物質の価値以外、何の価値もありません。しかし神の愛は私たちを、
神ご自身の子イエスの価値と同等の価値にかえるのです。


6.神の愛が私たちに何をするといっているのか、イザヤ書13章12節を読んでみましょう。
(新共同訳)
わたしは、人を(    )よりもまれなものとし、(            )よ
りも得難いものとする。



(4)人間の愛(エロス)は、神を探し求めなくてはいけないと考えます。
すべての異教の宗教は、癌を治療する特効薬を見つけられないのと同様に、神に出
会うことは困難だという考えをもっています。人々は、神は人を避けて、神自身を
人間から隠している、と思っています。ただ賢い人、利口な人、特別な恩寵を受け
た人だけが、隠れている神を見つけることができると教えています。そこで多くの
人たちが、神を求めて、メッカだのローマだのエルサレム、四国のお遍路、あるい
は他の聖堂、宮、社などにむかって、巡礼の長い旅をします。古代ギリシャ人は壮
大な大理石の神殿を建て、その神殿の中で、彼らが神を捜し求めなくてはいけない
と感じるようにしていました。


7.ところが、アガペはそれとは全く逆です。人間が神を捜し求めるのではなく、
神が人間を捜し求めるのです。
ルカによる福音書19章10節を読んでみてください。

(      )がきたのは、失われたものを(         )救うためである。

羊飼いは安全な99匹の羊を残して、迷子の1匹の羊を探すために命をかけました。
一人の女はろうそくをともして、一枚のなくなったコインが見つかるまで家を探し
回りました。聖霊は放蕩息子の心を探し求めて、彼を家に連れて帰りました。迷っ
た羊が彼の羊飼いを見つけに行かなくてはいけないという話は、聖書のどこにもあ
りません。

使徒パウロはローマ人への手紙の中で、このようにいっています。
信仰による義は、こう言っている、「あなたは心のうちで、だれが天に上るであろ
うかと言うな。それは、キリストを引き降ろすことである。また、だれが底知れぬ
所に下るであろうかと言うな。それは、キリストを死人の中から引き上げることで
ある。では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあ
り、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
(10章6-8節)

ここにある「信仰の言葉」というのは、アガペの愛ととても関係があります。信仰
とは、このすばらしいアガペが明らかにされたとき、そのアガペに対する、罪を悔
いている人間の心の応答です。パウロの言いたい要点は、この「言葉はあなたの近
くにある」です。つまり、神はあなたが隠れていたところで、すでにあなたを探し
ていた、ということです。よい羊飼いはいつも荒地で私たちを探しておられます。


しかし、聖書は、「主にお会いすることのできるうちに、主を尋ね」るのは、私た
ちだ、といっている、と質問なさるでしょう。(イザヤ書55章6節)そうです。し
かしその聖句を続けて読むと、神が遠くにではなく、近くにおられることを強調
していることが分かります。ここにある「捜し求める(seek)」のヘブル語
(dharash)の意味は、「質問する」ということであり、「選択」の意味を含みま
す。イザヤ書は続けて、「近くおられるうちに呼び求めよ。」といっています。こ
れは神が私たちの大変近くにおられることをあらわしています。

8.使徒行伝17章27節を読んでください。

こうして、人々が熱心に追い求めて捜しさえすれば、神を見いだせるようにして下さった。
事実、(  )はわれわれひとりびとりから(               )。

問題は私たちにあり、私たちが神がどんなに近くにおられるかを理解していない点
にあります。この考えは人々をひどく驚かせました。


(5)人間の愛(エロス)は常に、高く上がっていくことを求めています。
どの小学校1年生の子供も2年生になりたいと思います。6歳の子は「ぼくは(私は)
もうすぐ7歳になるよ。」と言います。誰も降格よりも昇格を求めます。おそらく
どの上院議員もいつかはホワイトハウスへの夢を持っているでしょう。学校の中
でも、政治の世界でも、仕事の中でも、教会の中でさえも、私たちは高く上がっ
ていくことを望むのです。

大統領が村の使用人になるために、自主的に辞職するのを今まで聞いたことがある
でしょうか。プラトンの哲学の主張する愛には、そのようなことは想像の範疇にも
ありません。私たちさえも、そのようなことは考えたこともありません。


9.この高く上がっていきたいと望む利己の愛はどこからきているのでしょうか。
イザヤ書14章12-14節
答(         )

わたしは天にのぼり、
わたしの王座を高く神の星の上におき、
北の果なる集会の山に座し、
雲のいただきにのぼり、
いと高き者のようになろう。

I will ascend into heaven,
I will exalt my throne above the stars of God;
I will also sit on the mount of the congregation on the farthest sides of the north;
I will ascend above the heights of the clouds,
I will be like the Most High.



10.高く上がっていくことを求める人間の愛(エロス)とは対照に、アガペはど
れだけ低く降りるでしょうか。ピリピ人への手紙2章5-8節
(ルシファーの野望と比較して、低く降りていくためにキリストが取った7つのステップに注目してください。)

アガペを私たちにあらわすために、ピリピ人の手紙2章5-8節から、キリストがとった7つの下降のステップをたどることができます。

<1>キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事
とは思われなかった。
私たちは政治の世界、職場で、また教会内でも、昇格していくと、私たち人間は、
いつ下降していくのかと心配をするのが常です。しかし神の子であられるキリスト
は、アガペに動かされて、自発的に王冠を捨てられました。

<2>キリストは、おのれをむなしくされた。
He “emptied himself” (KJV), or “made himself of no reputation” (NKJV).
私たち人間の中は名誉や後世の評判のために死を選ぶ人もあるでしょう。しかしそ
のような勇気ある行動は、キリストがなさった「おのれをむなしくされた」のとは
全く違います。なぜなら人は「自分のからだを焼かれるために渡」すことはできて
も、アガペが欠けているということがあるからです(コリント人への第1の手紙13
章3節)。パウロがキリストは「おのれをむなしくされた」と言う時、彼は、今ま
で持っていたすべてを、永遠に渡って自発的に引き渡したことを言っているので
す。アガペ以外には、誰も何も、そういうことができません。

<3>キリストは、下僕のかたちをとられた。
無報酬で、あるいは誰からも感謝されることなく、常に働かされることほど悲惨な
生活はありません。天使は、私たち人間に「仕える霊」として僕となるように言わ
れました(ヘブル人への手紙1章14節)。もしも神の子キリストが、そのような天
使のようになられたことがあるのなら、それだけでも十分な謙遜です。なぜなら
ばキリストは天使たちに仕えたからです。しかし、キリストはさらにもっと低くな
られました。

<4>キリストは、人間の姿になられた。
詩篇8章5節には「御使いよりも低く」と書いてあります。キリストは、創世記に書
かれている、荘厳な輝きの中で神に創られたアダムのような人間ではなく、罪に落
ちて堕落した人間となられました。それはギリシャローマの時代の人々と共通な実
にひどい堕落だったのです。歴史上、これほどまでに人が堕落した時はありません
でした。しかし神の子は人々がいるところでその人たちに届くためにその人たちと
同じになられたのです。
そのアガペが私たちの心を捉えたなら、いつも心にある「あなたよりも私はすばら
しい、ましだ」という思いは、アガペの前に、解かされます。そして私たちも人々
の心に届くことが可能であることが分かるのです。私たちはキリストが他の人を祝
福するために使う器になるのです。

<5>その有様は人と異ならず、おのれを低くされた。
キリストは裕福な階級の中で生まれませんでした。シーザーやヘロデの宮殿で生ま
れませんでした。母親は獣臭い家畜小屋でキリストを産み、ぼろきれでその赤んぼ
うをくるみ、ロバの飼い葉おけに寝かせる他ありませんでした。キリストはいつも
苦労の耐えない貧民になられました。しかしこれでもまだ十分ではありませんでした。

<6>キリストは、死に至るまで、従順であられた。
この意味深長な言葉は自殺者がよくもつ衝動とは違うものです。どんな自殺でさえ
も「死に至るまで従順」ではありません。というよりも非従順であり、現実から逃
げたいというものです。キリストが「従順」であられた死は、責任からの回避では
ありませんでした。毒を飲んだ自己中心のソクラテスのようでもありませんでした。
それは、正義の要求の前に立つ、人間のひとつひとつの細胞の生々しい、有罪の意
識でした。有罪宣告の中でキリストがとった7つ目の下降のステップは、キリスト
の自己の品格を完全に落とすのには十分なものです。

<7>しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
十字架刑と言うのは人間が発明したもっとも残酷なものであるだけでなく、また、
歓楽の目で人の苦悩を傍観するあざけりの群衆の前に裸で陳列されるという、も
っとも恥ずかしいものでした。しかし、そればかりではなく十字架の死は、それ
らすべてのことよりもっと深い、体に埋め込まれている恐怖です。それは、天が
あなたを呪ったという意味でした。つまり黙示録でいっている「第2の死」、つい
に完全に望みのない絶望の中で終わるべき失われる者の死です。キリストは絶望の
中で、大声で叫ばれました。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになっ
たのですか」(マタイによる福音書27章46節)。

キリストが味わわれたその死について、静かに考えてみてください。もしもキリス
トが私たちの行くべき道を取られず、私たちとして、そして私たちのために、私た
ちの第2の死を死んで下さらなかったら、あなたも私もその死を経験しなければな
らないのです。


11.イエスキリストの十字架における彼の犠牲とは何を意味していたのでしょうか。

イエスの苦悩は、殉教者の苦悩のような肉体的な拷問よりも大きかったのです。聖
書は「主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた」といっています
(イザヤ書53章6節)。これはどんな殉教者にもあてはまりません。

「不義」というのは、神から分離し、魂を絶望的なまでに、ただひとりにし、すべ
ての安全の感覚を破滅させます(イザヤ書59章2節)。これは、私たちが知ることの
できる何者よりもひどい自責の念、孤独感、不安そして絶望感を、神が神の上にお
かれたことを意味しています。キリストが彼の父なる神から離されたのは、これな
のです。

ペテロは、ペテロの第1の手紙2章24節で「十字架にかかって、わたしたちの罪をご
自分の身に負われた。」といっています。イエスが絶えがたい重荷を負われたのは、
イエス自身の神経の中、心と魂の中なのでした。パウロは次のように、もっと分か
りやすく言っています。「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪と
された。」(コリント人への第2の手紙5章21節)

キリストは罪びとではありません。キリストは罪を犯さなかったからです。しかし
キリストは、「わたしたちのために罪を負い、呪いとなって、わたしたちを律法の
呪いからあがない出して下さった。聖書に、『木にかけられる者は、すべて呪われ
る』と書いてある。」(ガラテヤ人への手紙3章13節)。「罪」と「のろい」はこ
こでは全く同一の意味です。

聖書には2種類の死があるといっています。ひとつは眠りで(ヨハネによる福音書
11章11,13節)、私たちが一般に言う死です。もう一つの死は、本当の死で、第二
の死と呼ばれています(黙示録2章11節、20章6節、21章8節)。後者は神からの永
遠の分離、消滅、命ある存在からの恒久的別離です。

これが、キリストが「神の恵みによって、すべての人のために死を味わわれる」よ
うになった理由です(ヘブル人への手紙2章9節)。私たちが一般に「死」と呼んで
いる状態は、キリストが味わわれた死とは同じではありません。なぜなら、「すべ
ての人」は眠りである死を味わうからです。イエスが味わわれたのは完全な消滅そ
のものでした。そうすることで、私たちがそれを自ら経験しなくてもよいようにな
るためなのです。このことを理解するとき、私たちの心は絶えることのない感謝の
気持ちで一杯になります。


12.キリストの十字架の本当の意味が以前よりも明らかになりましたか。(   )
 

聖書研究第四課

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 9月 3日(月)04時07分53秒
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  素晴らしい知らせ   4
イエスから愛をこめて

全く異なる2つの愛

 私たちは日本語で「愛」という言葉を使います。その言葉は、神の愛を表すとき
に使われたり、恋愛や、芸能人のゴシップ、一般の映画の中に出てくる風俗的なこ
とをあらわす時も使われます。「愛」という言葉はそれほど大変あいまいで、殆ど
何の意味も成さないほどです。しかし、この言葉ほど、正しく理解しなくてはなら
ない重要な言葉はありません。

 イエスの弟子たちが新約聖書を書いたとき、彼らの言語は現代の私たちの言語よ
り豊富な語彙を持っていました。まず、エロス(Eros)と言葉が愛をあらわす日常
的言葉でした。それは夫が妻に、あるいは妻が夫に対する愛、親が子に対する、あ
るいは子が親に対する愛、友人同士の愛、また高貴で美しいものの愛を意味してい
ます。霊的エロスは、プラト(Plato)という人のアイデアからきているもので、
向上的で霊的な愛、つまり単なる官能的なものとは相対するものです。

 イエスの弟子であったヨハネが「神は愛なり」という素晴らしい言葉を書くため
にペンを取ったとき、「神はエロスです」と書きませんでした。ヨハネは「神はア
ガペ(Agape)です」と言いました。イエスの弟子たちと同年代の哲学者たちはこ
の言葉を聞いて不愉快に思いました。「なぜ私たちの良く使う言葉を使って『神
はエロスです』と言わないのか?」それからというもの、約2000年の間、愛に対
する、それら二つの全く違う考え方が争いあっています。実のところ、それら二
つの言葉は、神についてどう考えるのかという全く異なる二つの概念をあらわして
いるのです。それらは昼と夜ほどの違いです。この世にいるすべての男、女、子供
がいつか自分の生活の理想として、それら二つのどちらかを選ぶことになるのです。


この第四課では、愛(love)あるいはKing James Versionに出てくるcharityとい
う言葉を使わずに、アガペ”agape”という言葉を使います。”agape”がイエスの
弟子たちが使ったもともとの言葉だからです。


1.もし心にアガペの愛がなかったら、話す言葉は、どんなに無意味だと言ってい
ますか?  コリント人への第1の手紙 13章1節

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もしアガペがなければ、
わたしは、(       )や(       )と同じである。


2.もしアガペがなければ、あなたの知識も信仰も、どれだけ無意味ですか。
コリント人への第1の手紙 13章2節

たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ
ていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もしアガペがなければ、
(            )。

3.貧しい人にすべてをささげても、また殉教の死をとげても、もしアガペも持っ
ていないのなら、どのようになりますか。コリント人への第1の手紙 13章3節

たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼
かれるために渡しても、もしアガペがなければ、(           )。


4.世界中にはクリスチャンと呼ばれる人たちがたくさんいますが、誰が本当に神
を知っていますか。ヨハネの第1の手紙4章7,8節

アガペは、(  )から出たものなのである。すべて(アガペの愛で)(      )
は、神から生れた者であって、神を知っている。
(アガペの愛で)(       )は、神を知らない。(  )はアガペである。


5.もし人がアガペを持っていたら、裁きの日にはどうであるといっていますか。
ヨハネの第1の手紙4章17節

わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に(        )立つことができる。
そのことによって、アガペがわたしたちに全うされているのである。



6.考えてみてください!完全な確信で持って、聖なる天使の前を通り越して、神
の目の前を堂々と歩いている姿を。これは驚くべきことです。生まれながらに裁き
を恐れる私たちに、アガペは何をしますか。ヨハネの第1の手紙4章18節

アガペには(   )がない。完全なアガペは(          )。


7.人がアガペを持ちつつ、神の聖なる戒め(十戒)を犯し続けることは可能ですか。
ローマ人への手紙13章10節

アガペは律法を(     )するものである。


 イエスの弟子であるヤコブは「律法をことごとく守ったとしても、その一つの点
にでも落ち度があれば、全体を犯したことになる」(ヤコブの手紙2章10節)と言
っています。ヨハネは、終わりの日には、主の教会は神の律法にすべて従ってい
るかどうかで見分けられると言っています(ヨハネの黙示録12章17節、14章12節)。
これはショッキングなことです。多くの人々は自分たちが本当のクリスチャンであ
ると思っています。なぜなら彼らはどのように愛するかを知っていると思っている
からです。しかし最後には主から、「申し訳ないがあなた方を全く知りません。」
(マタイによる福音書7章22,23節)と言われるでしょう。彼らが持っていたのは
エロスで、アガペではありません。彼らはその2つの違いを知らなかったのです。




全く異なる2つの愛:人間の愛(エロス)とアガペ


(1)私たち人間の愛は、相手の美しさや、よさ、美点に向けられます。
私たちは私たちに良くしてくれる人、私たちを喜ばせてくれる人を友達として選び
ます。私たちは美しい人、いつも喜んでいる人、知的な人、魅力的な人に恋に落ち
ますが、醜い人、意地悪な人、不機嫌な人、知性のない人、あるいは攻撃的な人か
らは遠ざかります。

しかしアガペは相手の美しさや良さ、美点によって、動かされることはありません。
アガペは何ににも頼ることはありません。ですから、アガペは悪い人、また敵さえ
も自然に愛することができるのです。過去において、どんな人さえも、このような
愛について、考えたこともありませんでした。

8.私たち人間がもともと持っている愛は、どんなことをするのが簡単ですか。
マタイによる福音書5章46,47節

あなたがたが(              )、なんの報いがあろうか。そのよ
うなことは取税人でもするではないか。
(                )、なんのすぐれた事をしているだろうか。
そのようなことは異邦人でもしているではないか。


9.アガペは、人間の愛とは対照的に、私たちにどのようなことをするでしょうか。
ローマ人への手紙5章7,8節

正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ
者もあるいはいるであろう。
しかし、まだ(      )であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下
さったことによって、神はわたしたちに対する(  )(アガペ)を示されたのである。


(2)人間の愛は、自分の必要に向けられます。
人は何かが足りないと感じるとき、相手に対して、足りないものを埋めてもらう必
要を感じます。夫は妻を愛します。なぜなら夫は妻を必要としているからです。ま
た妻も夫を愛するのは同じ理由です。2人の友達はお互いに愛し合いますが、それ
はお互がお互いを必要だからです。だれもが、相手がなければ、空っぽな、そし
て一人ぼっちな気がします。

しかし無限に豊かに富んでいるアガペは、そのようなものを何も必要としません。


10. イエスの弟子たちは次のように言っています。神が私たちを愛するのは、神が
私たちを必要としているからではなく、神がアガペだからだと。コリント人への
第2の手紙8章9節を読んでみてください。

主は(             )のに、(      )のために(    )な
られた。



私たちは「自分の利益を求めない」(コリント人への第1の手紙13章5節)という愛
の考えに驚きます。なぜなら、神を信じると言う教会ですら神の愛を神のもつ欲求
本能を基にした愛、つまり自らの利益を求めるものとしての愛として理解している
ようであるからです。それは神が私たちの中にある価値を求めて、それによって神
が私たちによいことをしてくださるという、「バーゲン」(取引)をしているのだ
という考えです。もちろん、それは聖書的な考えではありません。

人間も、バーゲンの考えで神を礼拝しています。多くの人は、良い取引条件を求め
て「神」を礼拝しています。そのようなご利益宗教は、魂の欲求をただ満たすもの
です。人間が欲求するものとは「天国」とかよい報酬です。その場合自分の為に利
益を求める思いが神を礼拝する動機となっているのです。しかし、アガペの愛はこ
のような人間の自己中心的な思いを打ち砕きました。このアガペがイエスの弟子た
ちを変えていったのです。




11.あなたは「神さま、アガペの愛をありがとう」という気持ちですか。
(     )
 

聖書研究第三課

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 9月 3日(月)03時58分12秒
編集済
  素晴らしい知らせ   3
イエスから愛をこめて



大きな確信:
救い主は近くにおられる





イエスを見てください
私たちと同じように弱く、また誘惑にあわれました
しかし、罪を犯されなかったのです


キリスト教会の人たちは皆、キリストはこの世を救うために来られた事に同意してい
ます。ではなぜ一般に犯罪や悪がこの世に蔓延しているのでしょうか。例えば、イス
ラム教や仏教徒は、なぜ「キリスト教」の国は大変自己中心で不道徳なのかと尋ねま
す。キリストの福音には、嘘はありません。しかし。問題は、「敵」(サタン)が、
イエスのまわりに煙幕をかけて、イエスを良く見えないように隠していることなので
す。そして何世紀もサタンはこのようなことを教会内でも実行してきました。

この煙幕の一部として、「罪への誘惑は神への召しよりも強くて、それに対して「No」
といって断りきれる望みがない」という考えがあります。それで、多くの人々が誘
惑に陥ったままになっています。彼らは、救い主イエスの力強さを十分に理解して
いません。なぜなら彼らは、「イエスは自分ちとは違い、自分たちの試みがどんな
に強いかを理解できない」と思っているからです。または、イエスは自分たちの本
当の必要には無関係のステンドグラスの窓の大教会堂に閉じこもっている、と思っ
ています。しかし、それは本当ではありません。罪や悪は、イエスには難しすぎて
対決も征服もできないのでしょうか。その答えは、完全に「No」です。

この課には、素晴らしい良い知らせがあります。高さの理解では、キリストは神で
あり、深さの理解では、キリストは人間になられたのです。イエスはあなたの救い
主です。あなたが考える以上に、キリストはあなたの近く、大変近くにいらっしゃ
います。


1.マタイによる福音書1章21-23節を読んでください。この聖書の箇所から、イエ
スがこの世にいらしたときに、どんな預言が成就しましたか。
イザヤ書7章14節

見よ、おとめがみごもって(       )を産む。その名は(          )ととなえられる。





イエスは本当に神ですか。

2.この特別な名前「インマヌエル」はどういう意味でしょうか。
マタイによる福音書1章23節

その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは、「(    )」という意味である。


3.父なる神はイエスについて、イエスのバプテスマ時に、何とおっしゃいましたか。
マタイによる福音書3章16-17節

「これは(               )、わたしの心にかなう者である」。


4.イエスを一番よく知っていたイエスの弟子たちは、イエスについて何と言いましたか。
マタイによる福音書16章13-16節;ヨハネによる福音書20章27,28節

あなたこそ、(        )(        )です。
トマスはイエスに答えて言った、「(        )、(        )」。


5.十字架上でのイエスの苦しみが、ほとんど耐えられないほどになったときに、イ
エスはどのようにして神の愛を示されましたか。
ルカによる福音書23章34節;ペテロによる第1の手紙2章20-23節

人々が十字架にイエスを釘で打ちつけていたとき、イエスは、
「父よ、(               )。」とおっしゃった。
ののしられても、(            )、苦しめられても、(             )、(              )に、いっさいをゆだねておられた。

この非利己的な愛は、イエスが神の子であることを証明する、一番大きな奇跡です。


6.イエスは、完全なる神であられながらも、本当に、完全なる人間になられましたか。
ヘブル人への手紙2章14-18節

子たちは(         )とに共にあずかっているので、イエスもまた(    )に、それらを(                )。

イエスは私たちと共に住むために来られ、神は私たちの試練をご存知であり、また
私たちの深い悲しみに同情し私たちを慰めて下さいます。それを私たちは知ってい
ます。私たちの創造主はすべて私たち罪びとの友であることを知るでしょう。この
地上での救い主の生活を見て、私たちは「神が私たちと共におられる」ことを学び
ます。私たちが知っている苦悩あるいは虐待のなかで、イエスが経験なされなかっ
たものは、一つもありません。

7.イエスは私たちにどれだけ近くにいらっしゃいましたか。
ローマ人への手紙8章3,4節

神は、「御子を、(        )の様で、、、、」つかわされた。
神がそうなさったのは、「律法の要求が、、、、、(       )において、(        )ため」でした。

イエスは罪の影響を受けた肉体を取られました。しかし、ここで覚なければならな
い事があります。イエスは罪の肉体を取られましたが、心は罪で満ちたようにはな
られませんでした。イエスの肉体が罪の影響下にあったとしても心は罪で満ちてい
たと言う訳では決してありません。イエスの肉は私たちと同じでした。しかし、イ
エスは、神の心を持ったのです。それは利己的でない天の愛です。イエス・キリス
トにあって、神の心が私たち人間にもたらされます。(これは奇跡です。)そして、
罪は征服されます。サタンは、肉を通して心に近づきます。神は心を通して、肉に
近づきます。


8.イエスは、私たちの弱さについて、どのように感じておられますか。イエスは、
このようにおっしゃいます。「私はあなたの弱さを知っています。私はあなたの悲
しみをすでに経験したし、あなたの悩みをすでに負いました。ですから、あなたが
罪に負かされる必要など何もないのですよ。私の方に視線を向けてください。私は
あなたを罪から救い、あなたを罪から自由にします。」
ヘブル人への手紙2章18節;4章14-16節を読んでください。

主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、(    )の中にある者たちを(       )ことができるのである。
イエスは、「(            )を(        )ことのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、(                )に(    )に会われたのである。」

イエスは神でありましたが、また完全に人でもありました。この聖句は、「すべて
のことについて、わたしたちと同じように試練にあわれた」とあります。つまり、
食欲、性、人間関係などあらゆることにおいて、試練に遭われたということなので
す、しかし、罪は犯されなかったのです。イエスは、私たちが試練に遭うとき、ど
のように感じるのかをご存知です。イエスは完全に神であられましたが、神の持つ
有利な点を利用せず、私たちが人間として戦わなければいけない戦いを戦われまし
た。イエスはどうやって、サタンとの戦いに勝利なさったのでしょうか。神の言葉
によって、信仰を通してです。「イエスが人となられたのも、人間の必要に応ずる
ことができるためでありました。(Happiness Digest、3ページ)」

何か悪いことをするように力強く動かされるときに、神の力に堅く寄りすがって、
信仰によってその誘惑に抵抗できると信じて、誘惑に打ち勝てるのです。これが、
イエスが経験されたことでした。もしも、イエスが神だからと言う理由ではじめか
ら誘惑に陥る可能性などなかったら、私たちが誘惑されても勝利できる希望はあり
ません。十字架にかかられるイエスの最後の時まで、イエスは、罪に抵抗するとき
に私たち人間が経験することをすべて経験なさいました。イエスは、罪に屈服する
ことによって、人間がどれだけ悪くなっていくかを、実感されました。イエスは、
神の律法をおかすことからくる恐ろしい結果を十分に理解されました。なぜなら、
全世界の人々の罪が、イエスの上に置かれたからです。

9.罪は私たちに何をしますか。
ヤコブの手紙1章14,15節;ローマ人への手紙6章23節

、、、罪が熟して(   )を生み出す。
罪の支払う報酬は(   )である。

もし、神が愛であり、またもし罪が死を生み出すのであるなら、神の大きな関心は、
罪から私たちを解放することに向けられていると理解できますか。神は罪を見て見
ぬふりはできません。なぜならば、それは私たちを殺すからです。罪の支払う報酬
は死なのです。


10.十字架のことを調べてみましょう。そこでは実際に何が起こったのか、マタイ
による福音書27章39-46節を読んで考えてみて下さい。イエスは、父なる神が本当
にイエスをお見捨てになったかのように、実際に感じられたと思いますか。

(         )


もし私たちが「いいえ」と答えるなら、私たちはイエスを、実際には感じていない
ことを演技した役者、いい格好しただけの嘘つきと見なすことになります。ただ一
つの正しい答えは「はい」です。イエスは、父なる神から見捨てられたと感じられ
ましたが、神から見捨てられたのだと感じる私たちを救うために、その苦悩を耐え
られたのでした。信仰によって、イエスは、その暗い深い隔たりの溝に、私たちの
ために架け橋を渡してくださったのです。


11.イエスが、人間になるために、神の力を放棄されたとき、私たちが持つように、
イエスは、苦闘するイエス自身の意思を持たれましたか。
ヨハネによる福音書5章30節;ルカによる福音書22章42節

(            )でするのではなく、わたしをつかわされた(    )の、(     )を(         )からである。

これは、イエスが信仰によって完全な生活を生きられたとき、その生活は、私たちの
生き方も同じようになる、ということを意味しています。 実に、信仰によって義
(正しい行い)となるという私たちの模範です。しかし、それ以上に、イエスは私
たちの救い主です。イエスは、私たちに一つの模範を示してくださった以上のお方
です。つまり、イエスは私たち命の救いのために完全な生活を生きられ、そして、
私たちがイエスを本当に信じるとき、イエスが、私たちの中で、そのイエスの完全
な生涯を生きてくださいます。

「信仰によってあなたはキリストのものになりました。すると、信仰によって、キ
リストのうちに成長するようになるのです。これは、与え、また受けることによっ
てです。あなたは、神のご要求に従うために、あなた自身、つまり、あなたの心、
意思、そして奉仕、すべてを神にささげるようになります。また、あなたは、服従
するためにあなたに力を与える『すべて』を受けなければなりません。その『すべ
て』とは『キリスト』です。すべての恵みに満ちあふれておられるキリストが、あ
なたの心に住んでくださり、あなたの力、義、そして永遠の助け主となってくださ
るからです。(Happiness Digest、33ページ)」


12.イエスは、私たちを救うために、ご自身をどれだけ明け渡されましたか。
マタイによる福音書26章39節;ローマ人への手紙15章3節

(             )のままにではなく、(         )のままになさって下さい」。
キリストさえ、ご自身を(        )ことは(           )。

アダムが罪を犯して堕落する前は、彼はに耐えねばならない苦悩はありませんでし
た。彼が神に従わない自己を否定する必要などありませんでした。つまり自己の罪
を清算するための十字架を負う必要などなかったのです。かたや、イエスはアダム
や私たちと同じ人性をとられました。そして、父なる神の意思に従うために、イエ
スご自身の肉の意思に対して「NO!」と言ったのです。あなたのもともと持つ自己
中心的な意思に対して「NO!」と言うのは難しいことだ、と思われますか。イエスを
見てください!あなたに栄光ある勝利を与えるために、イエスの恵みは十分です。


13.この真理は、イエスがあなたの大変近くにいらっしゃるということを信じる励ましになりますか。
(           )

 

聖書研究第二課

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 8月16日(木)11時42分37秒
  素晴らしい知らせ   2
イエスから愛をこめて


神は私たちの悩みを本当に気にかけて下さっているのですか?


 神は全能です。ですから神と呼ばれます。しかしこの世には、たくさんの問題、
悲嘆、悲痛、また惨事があります。神は何故それらの悲しい出来事について何かを
なさらないのでしょうか。

例えば、キリストは「偉大なる医者」と呼ばれているのに、なぜ、キリストは、多
くの人々が癌のために苦しんだり死ぬままにしておられるのでしょうか。なぜ、そ
れを止められないのでしょうか。キリストはまた「平和の王子」とも呼ばれている
のに、なぜ、何千という罪のない人々、小さな子供まで、戦争や拷問の恐怖と苦し
みの犠牲になっているのでしょうか。キリストはまた、「わたしがきたのは、羊に
命を得させ、豊かに得させるためである。」(ヨハネによる福音書10章10節)とお
っしゃいましが、ではなぜ、キリストは、何百万という人々を終わりのない貧困で
苦しむままにしておかれるのでしょうか。これらは心地の良い質問とはいえないか
もしれませんが、多くの人はその答えがほしいと思っています。

聖書はこれらの質問から逃げていません。聖書が何と言っているかみてみましょう。
神は人間を本来完全に聖なる者、また幸福な者として創られました。そこに苦悩や
死がもたらされたのは、神の律法、つまり愛の律法を犯した事件から由来していま
す。しかし、罪の結果もたらされた苦しみの真っ只中にでさえ、神の愛は私たちに
啓示されているのです。

悪いことが良い人に起こるとき、神は気にかけてくださっていますか?


1.主は、何でもできると、主張なさっていますか。
創世記18章14節;エレミヤ書32章17節

主は、「主にとって(       )なことがありましょうか。」とおっしゃいます。
あなたのできないことは、(      )ありません。



2.ではなぜ、私たちは、あちらでもこちらでも、不正なこと、残酷なこと、また苦
しみを見るのでしょうか。
詩篇10章1節

主よ、なにゆえ(        )立たれるのですか。なにゆえ(    )の時に身を(       )のですか。



3.あなたは、神が本当にひとりひとりの人を気にかけてくださっているという確信
がありますか。
テモテへの第1の手紙2章3,4,6節;ヨハネの福音書3章16節

神は、(     )の人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
神はそのひとり子を賜わったほどに、(      )を愛して下さった。



4.神が、神が造られたものすべてを気にかけてくださっているという例を、どこで
見ることができるでしょうか。
マタイによる福音書6章26節(マタイによる福音書10章29-31節も参照してください。)

(      )を見るがよい。まくことも、刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。それだのに、あなたがたの天の父は彼らを(               )。

小さな鳥は生計をたてるために働いているでしょうか。いいえ。しかし、私たちの
天の父は彼らを養っておられます。私たちの仕事は、神が天の父であること、そし
て、私たちを気にかけてくださっていることを信じることです。



世界の問題の本当の原因は何でしょうか?


5.イエスは、すべての私たち人間の問題の原因は誰だとおっしゃていますか。
マタイによる福音書13章24-28節

主人は言った、『それは(   )のしわざだ』。


6.この「敵」とは誰なのでしょうか。
マタイによる福音書13章38,39節

それをまいた敵は(     )である。


7.その悪魔はどこから来たのでしょうか。
ヨハネによる黙示録12章7-9節;ルカによる福音書10章18節

(      )


8.その悪魔は、もともとどのような者だったのでしょうか。
エゼキエル書28章14,15節

あなたは(          )日から、あなたの中に(    )が見いだされた日までは、そのおこないが(     )であった。

罪は、天で、天使の一人であったルシファーの心から始まりました(ルシファーは
サタンになりました。イザヤ書14章12節)。だれも、どうして完全な者から罪が始
まったのか説明できません。それは「不法の秘密」(”the mystery of iniquity”)
なのです(テサロニケへの第2の手紙2:7)。 私たちは、どのようにして罪が始ま
ったのかは説明できませんが、どのようにしてその罪の力が終わるのかを知ってい
ます。それは、キリストの犠牲によってです。


9.何が、ルシファーの罪と反乱へと導いたのでしょうか。
エゼキエル書28章16,17節

あなたは自分の(      )のために心高ぶり、、、


10.何がルシファー自身にとっての最終目標だったでしょうか。
イザヤ書14章12-14節(英語では、すべて ”I” が付いていることに注目してください。)

わたしは天にのぼり、
わたしの王座を高く神の星の上におき、
北の果なる集会の山に座し、
雲のいただきにのぼり、
(              )のようになろう。

I will ascend into heaven,
I will exalt my throne above the stars of God;
I will sit also upon the mount of the congregation, in the sides of the north:
I will ascend above the heights of the clouds;
I will be like the most High.


ルシファーの罪は、自己高揚でした。ですから、自己への愛が、罪の根本的な基礎
を成しています。  これは愛を基礎におく神の統治の原則とは全く正反対です(ヨ
ハネの第1の手紙4章7,8節)。罪とは、神に対する反抗です。利己心が、あらゆる
罪の中心にあります。天で、ルシファー(サタンになったルシファー)は、キリス
トの座を切望しました。ですから、そのためにキリストを殺害することを強く望み
ました。そうすればルシファー(サタン)はキリストをその座から引きおろすこと
ができると思ったからです。(ヨハネによる福音書8章44節)


11.サタンの反乱が危機的状態にまでなったとき、何が起こりましたか。
ヨハネによる黙示録12章7-9節

この巨大な龍、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれ、(       )を惑わす年を経たへびは、(   )に投げ落され、(         )も、もろともに(          )。



12.サタンの惑わしの力から、何が私たちを守るのでしょうか。
ヨハネによる福音書8章32、36節

また(    )を(    )であろう。そして(     )は、あなたがたに(     )を得させるであろう。


聖書が何を言っているのかを知ることは、サタンの働きの性質を私たちに明らかに
します。サタンの働きは、ほとんどの人たちには知られていません。聖書を知るこ
とは、また、神の愛がどれだけ働いているのかを知らせ、そして最終的な勝利につ
いても明らかにします。サタンがキリストを十字架に付けた事によって彼の働きの
悪の本質が人々の前に明らかになりました。これよりも明瞭にサタンの欺瞞が明ら
かにされ、罪による結果を終わらせることは出来ませんでした。この方法だけが、
神が、全世界の人たちから、心から神に従いたいという気持ちを取り戻すことがで
きたのです。神はこの戦いに、力によってではなく、愛によって勝利されました。


神は私たちを助けるために、今何をなさっているでしょうか。


13.悪は「すべての人」にやってきたということを、私たちは知っています。しか
し、神はいかにして、いつも邪悪なサタンがやったことを元に戻そうとしていますか。
ローマ人への手紙5章20,21,18節

罪の増し加わったところには、(   )も(                 )。
それは、罪が(   )によって支配するに至ったように、(    )もまた義によって(     )、、、
いのちを得させる義が(         )に及ぶのである。
  The free gift came upon all men unto justification of life.


世の中の人々はまだ気がついていないかもしれませんが、彼らが楽しんでいるすべ
ての恵みや良いものは、神からのものなのです。神は「命を得させる義」という「無
償のプレゼント」(free gift)を人間のすべての人に与えてくださいました。もし
キリストが私たちのために死んでくださらなかったら私たちの命を押しつぶしてい
たはずの恐ろしい罪の結果を私たちの心から取り去ってくださったのです。


14.神は、実際に、福音であるこの「よい知らせ」を、ひとりとして無視されずに、すべての人に送る仕事をしておられますか。
ローマ人への手紙10章12,13,17,18節

主は「(    )の主であって、彼を呼び求める(        )を豊かに恵んで下さる。」
よい知らせは「彼らには聞えなかったのであろうか。否、むしろ、その声は(     )にひびきわたり、その言葉は(    )の(    )にまで及んだ」。


「神は、その大きななだめの供え物のゆえに、私どもを愛したもうたのではなく、
私どもを愛するがゆえに、なだめの供え物を与えたもうたのであります。キリスト
は罪に落ちた世界に神の限りない愛を注ぎたもう仲介者でありました。『神はキリ
ストにおいて世をご自分に和解させ』(コリント第II 5:19)とあります。神
はみ子と共にお苦しみになりました。ゲッセマネの苦しみ、カルバリーの死を通し
限りない愛を持ちたもう神は私どものあがないの価をお払いになったのでありま
す。」(Happiness Digest、3,4ページ)

サタンが働いているところはどこでも、そこではキリストがサタンの力を無効にす
るために聖霊によって働いています。ある人は神を嫌い、神を再び十字架にかける
ことを望んでいるかもしれません。しかし、その人は命も、また持っているものす
べても、イエスが十字架にかかって死んでくださったときに、その人のためにして
くださったことのお陰なのです。


15.保存効果のために、塩が浸透し、浸出しなくてはいけないように、私たちはこの世の人々に対して、どのような者になるとよいでしょうか。
マタイによる福音書5章13,16節

ここに出てくる塩とは、心の中にあるイエスの愛、生活の中に浸透しているキリス
トの義をあらわしています。「イエスを愛するならば、人類の祝福と向上のために
イエスが働きたもうたように、働きたいと望むようになります。そして、天の父の
保護のもとにあるすべての造られたものをやさしく愛し、同情するようになります。」
(Happiness Digest、37ページ)


16.他の人を助けるために、あなたは、神がなさっている働きに協力したいと思われますか。

(     )

 

聖書研究第一課

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 8月13日(月)00時25分37秒
編集済
  素晴らしい知らせ  1
イエスから愛をこめて

来て、イエスに会ってください!


 道に迷っている! それが私たちの状態です。私たちは行くべき道に迷っただけで
なく、その住所もなくしている状態です。
私たちは、駅の手荷物預かりの所で、籠の中に座っている悲しい一人ぼっちの迷子犬
のようです。見知らぬ人が通りかかり、尋ねました。「この犬は一体どうしたのです
か?」 「それがね、」と駅の職員が話し始めました。「あの犬は到着先のラベルを
かじり取ってしまったので、今あの犬はどこからきて、どこへ行くのか分かりません。」
 あなたはどこへ行くのかご存知でいますか。あなたの人生は空虚に感じませんか。
頭の中はニュートラル・ギア状態で全く動かず、意味もなくテレビをつけて、悶々
として、あなたを楽しませるはずのショーにもうんざりしながら、ただ漫然とテレビ
を見ていませんか。あなたの将来は灰色の雲の多い空のようですか。
あなただけではなく、世界中の50億以上の人々の殆どの人は、同様に到着地の分から
ないバスに乗っているように感じています。すべての人ではないとしても、殆どの人
がそうなのです。しかし、多くの人には地図を読んで、今どこにいるのかを見つける
チャンスがあります。更にその中の何人かは、この世界が進む方向を示す霊感を受け
た「地図」を見つけました。

その地図とは、聖書とよばれる本です。彼らは、人生のページを開ける鍵、そして、
希望と喜びの宝物をあらわす鍵を、その中に見出だしました。彼らの目には光があり
ます。なぜならば天の光が彼らの心を照らしているからです。彼らはその光を聖書の
中に見つけました。

この「本」は世界中のどの本とも違います。その本では、「主はこう言われる」とあ
り、「人はこう考えるべきだ」とか「人は常識としてこのように予想します」とは言
っていません。ある時は聖書のメッセージから、私たちはやさしい愛情のような、慰
めを感じます。またある時は聖書は鋭い刀のように、心を刺します。聖書が、善悪の
違いをはっきりと示すとき、それは鋼鉄のように硬く、また、聖書が、罪が赦され、
新しい人になるということをあなたに保証するとき、それは毛皮のように柔らかに感
じられましょう。

この「本」はキリストをありのまま、あなたに表します。もしあなたが見出そうと探
すなら、神が聖霊を通してそれを示されます。


聖書の学びをする前に、少し立ち止まり、お祈りを次のようにしてください。「天の
父なる神様、あなたの下さる聖書を学べる事を感謝します。聖書が私にはっきり分か
るようになるために、聖霊の神様を送ってくださりますように。私はあなたのことを
もっと知りたいと思います。そして私はあなたの意志を行うことを選びます。イエス
のお名前によってお祈りします。アーメン。」このお祈りは必ずきかれます。



イエスをあらわしている「本」

1.幸福への唯一の真実なる道は何ですか。
ヨハネによる福音書14章6節

イエスは、「わたしは(  )であり、(   )であり、(  )ある。」とおっ
しゃいました。



2.イエスはみんなから自分を隠しておられますか。
ヨハネによる福音書1章4節、9節

この言(イエス)に(   )があった。そしてこの命は人の(   )であった。
(        )を(     )まことの光があって、世にきた。



3.あなたがどんな人であろうとも、あるいは、あなたがどんな間違いを過去におか
していようとも、もしあなたがイエスのところに来るなら、イエスはどんなことはな
さらないとおっしゃいましたか。
ヨハネによる福音書6章37節

「わたしに来る者を(                 )。」

どんな人であろうとも、私には望みはないということはありません。その人はキリス
トにあって救いを見つけることができます。
「もし、自らの罪深きことに気づいたならば、自分でよくしようなどと思って待って
いてはなりません。自分はキリストの許に行くにはふさわしくない、と思っている人
がなんと多いことでしょう。自分の力でよくなれるとでも思っているのでしょうか。
『エチオピヤびとはその皮膚を変えることができようか。ひょうはその斑点を変える
ことができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなたがたも、善を行うこ
とができる。(エレミヤ書13章23節)』とあります。私どもを助けてくださるのは神
のみであります。もっと強い確信、もっといい機会、あるいは、もっときよめられた
性質を持つまでなどど待ってはなりません。私どもは自分の力では何もできないので
すから、あるのままでキリストに行くほかはないのです。」(Happiness Digest13ページ)

神は、「私は私に来る者を誰も決して拒みません。」(ヨハネによる福音書6章37節)
とおっしゃっています。


4.イエスは、イエスご自身のところに来るものに、どんな約束をなさいましたか。
マタイによる福音書11章28,29節

イエスは、(    )をくださいます。
イエスは、「私に(          )。」とおっしゃいました。

この休みとは、すべての人々が熱望していますが、この世の中では決して見つけられ
ない、心の真の平安のことです。あなたがこの聖書の学びをしたいと望んでいらっし
ゃること自体、あなたは実際に、もうイエスのところに行くことを選ばれたという証
拠です。今、イエスは、「私に学びなさい。」とおっしゃっています。イエスの「学
校」の生徒になってください。イエスは、実に良い教師ですので、イエスから学びた
いと望んでいる人はみな、この「学校」での成績は「A」(永遠の命)になります。



イエスは最近の不安な時代について、何とおっしゃっていますか?


5.イエスは、今の私たちの時代が、何に似ているとおっしゃっていますか。
マタイによる福音書 24章37節

(             )のも、ちょうど(    )の時のようであろう。


6.「ノアの時」の人々のことが書いてある創世記の話のところを開いてみましょう。
今日の私たちの時代に似た、ノアの時代の人々が持っていた問題とは、何でしたか。
創世記6章1節

人が地のおもてに(    )始めて、、、

20世紀は人口16億人で始まり、約70億人で終わりました。今や人々に食べ物を供給す
ることが、人々が月に着陸することよりも難しくなりました。今から200年後は、
1500億人の人々が休み場を求めて、ひしめき合うようになるでしょう。アルフレッド・
レウインケル(Alfred M. Rehwinkel)は、彼の著書「洪水」(The Flood)の中で、
ノアの時代の人口は、ほぼ今日の人口と同等だったろうといっています。


7.ノアの時代には、どんな道徳的な問題が、その世の中を腐敗させていましたか。
創世記6章2節

自分の(        )を(  )にめとった。

結婚することは悪いことではありません。結婚は、神の計画であって、神が設定され
た最初の制度の一つでした。神は、結婚制度について特別な指示を与え、結婚制度を
高潔と美でおおわれました。しかし、それらの指示は忘れられ、そして、結婚制度は
悪用されて、自己中心主義と好色の情欲のために使われるようになりました。

主はアダムに一人の妻を与えました。しかし、彼らが罪に落ちてから、人々は自らの
欲望に従うようになりました。そして結果的に、犯罪や悲惨な事件が急激に増えまし
た。結婚も所有の権利も重んじられませんでした。隣人の妻や所有物を求める人は力
ずくで取り上げて、人々は暴力行為で自分を高めました。現代の世界は、そういうノ
アの時代のようになっています。


8.ノアの時代では、人々はどんなことを考えていることで、頭が一杯でしたか。
創世記6章5節

すべてその心に思いはかることが、いつも(      )ばかりである、、、。

神は、洪水が起こる前に、人々に多くの豊かな贈り物を与えておられました。しかし、
彼らは、それらを自分中心の目的のために使用しました。彼らは、それらを下さった
神を礼拝するよりも、その贈り物を拝むことによって、自らに災いをもたらしました。
彼らは自分たちのための宮殿に、純金や銀、貴重な宝石、えり抜きの木材を使いまし
た。そして最高の腕前で、彼らの住居を美しくするために、お互いにしのぎを削って
いました。彼らは、快楽と邪悪の状況の中で享楽にふけっていました。彼らが神から
もらった知恵について、神に感謝するどころか、神の存在を拒否しました。彼らは、
神が創られた自然の中で、神を拝せず自然を崇拝しました。彼らは人間の才能を称賛
し、彼らの手で作ったものを礼拝し、彼らの子供たちに彫った像に頭を下げるように
と教えました。イエスは、私たちの時代はノアの洪水の前の時代に似ているとおっし
ゃっています。


9.ノアの時代の人々は、公害問題があったと思いますか。
創世記6章11節

時に世は神の前に(      )、(     )が地に満ちた。

毎年、アメリカは何百万トンという紙やプラスチックを投げ捨てています。驚くこと
に、このごみ収集のために何十億ドルというお金がかかります。多くの科学者は、こ
の惑星はきっと滅びるだろうと警告をしています。ある人は「これが最後の10年間に
なるのか」と尋ねます。加えて20世紀は、世界史の中で最も血なまぐさい世紀でも
ありました。9000万人以上の人が戦争で亡くなりました。1000人の人々は路頭に迷い、
毎日自殺しています。自殺未遂者を含むともっと多くの人になります。最年、殺人、
強姦、暴行そして強盗事件の発生率が驚くほど増加しています。


10.神がかつて美しく創造された地球が人々によって汚されているのを見られて、今、
神はどのように思われていますか。
ヨハネによる黙示録11章18節

諸国民が「(       )」います。それで神は、ついに「(       )
者どもを滅ぼ」す必要があることを思われます。


11.イエスがノアの時代の人々についておっしゃったことを、見ましょう。彼らの生
活の中に何が欠けていましたか。
マタイによる福音書24章37-39節

洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は(   )、(   )、
(    )、(    )などしていた。、、、そして洪水が襲ってきて、いっさ
いのものをさらって行くまで、彼らは(            )。

彼らに欠けていたものは真理の知識でした。現代の真理は、イエスがもうすぐ戻って
こられること、そしてイエスがその出来事のために人々を用意してくださっているこ
とです。



12.ノアの洪水の前に、神は、そんな暗黒悲惨な時代にいたノアの同時代の人々に、
どのようにして神の愛を証明されましたか。
創世記6章3節

神の霊は(     )年間、人の中にとどまった。

メトセラ、ノア、そして多くの者が、本当の神の知識が保たれるために、また道徳的
悪をなくすために働きました。ノアの洪水の前の120年間、神はノアに神の目的を話
され、ノアに箱舟を作るように指示されました。ノアは、神が邪悪な人々を滅ぼす
ために地球上に洪水をもたらされるという説教をすることになりました。それを信
じて悔い改め、改心して用意したいと思う者は、救われたのです。


13.神はどのようにして、今日、あなたや私に神の愛を証明されますか。
ヨハネによる福音書12章32節

イエスは、彼の霊によって、(      )人を、イエスのところに引きよせています。


「イエスは『わたしがこの地上から上げられる時には、すべての人をわたしのところ
に引きよせるであろう』(ヨハネ12:32)と仰せになりました。キリストは世の罪の
ために死に渡された救い主として罪人の前に示さなければなりません。カリバリーの
十字架にかけられた神の小羊をながめる時、はじめて説明することのできない贖罪の
神秘が私どもの心にも理解され、神の恵み深きことが私どもを悔い改めへと導くのあ
ります。キリストは罪人のために死にたもうて、はかり知れぬ愛をあらわしたまいま
した。罪人がこの愛を知るとき、深い感銘を受けて心はやわらげられ、悔い改めへと
導かれるのです。

罪人はこの愛を拒み、キリストに引かれることを拒む事もできますが、逆らいさえし
なければ自然にイエスに引き寄せられるのです。そして救いの計画を知るようになる
と、自分の罪が神の愛するみ子をこのように苦しめたことを悔いて、十字架のもとに
ひざまずくのです。

あなた方のうちで、この世の与えるものよりもさらに良いものを心の中で求めておら
れる方は、その心の願いが魂へ呼びかける神のみ声であることにお気づきになるでし
ょう。どうか、そのときは神が悔い改めの心を与えてくださり、そして限りない愛に
あふれ全く純粋そのものの姿のキリストを示されるように祈っていただきたいのです。」

(Happiness Digest 13ページ)


14.この課の学びは役に立ちましたか。(    )


 
    (管理人) この聖書研究の連載はしばらく続きます。
これは教会牧師の意見の発表ではなく、聖書研究のやり直しを共にしてゆくプロジェクトです。
もちろん求道者の方に配布されても構いません。ご利用下さい。
 

三位一体の聖書的根拠を出してみませんか

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 8月12日(日)10時29分42秒
  本年7月9日に嵯峨野教会理事会掲示板では、みなさんにさりげなく宿題を出させ
ていただきました。「三位一体」は聖書のどこに書かれているかということです。
あれから1ヶ月を経過しました。お考えになって下さっている方もおられると思い
ます。「三位一体など聖書のどこにも書いていない」と2chのSDAスレッドで放言
する人があり、これでは話にならないなと思っていましたので(あなたはずっと監
視されていますよ、かもめ石松さん。そのうち実名を出そうと思っていますが
)、
そういう人に惑わされないように我々も聖書のみ言葉で武装を固めて欲しいと願っ
ています。では、今からゆっくりですが、三位一体の聖書的根拠を出し合ってゆき
ませんか。
 

聖書研究室は24/7営業中

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 8月11日(土)19時35分35秒
  教会員必読の資料を常時展示中です。
思慮のない人の遠吠えを気にせずご利用ください。
 

七つの封印 続

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 3月17日(土)21時29分55秒
  七つの封印の続きをパワーポイントで用意しました。ここの掲示板で紹介するにはファイルが大きすぎるので興味のある方はk_chinen@craftek.usまでメール下さい。キリストの再臨を待ち望んでおられる方達にとって必ず大きな祝福をもたらすものとなるでしょう。  
    (牧師) Thank you.  

七つの封印 2

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 2月13日(月)00時40分41秒
  先にラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が

この同じ表現は黙示録1章10-12節もでてきました。一章でヨハネはキリストの声を聞き、キリストのお姿を見ます。よってここでもラッパのような声で呼びかけるのはキリストである事がわかります。

ラッパのような声  - とはどのような意味をもつのでしょうか?

? ヨハネは黙示録の幻はキリストの御再臨に関するものである事を示されていました。(黙示録1章)
? イスラエルの象徴的な儀式の中で秋に行なわれた祭りはキリストの再臨に関する諸事件に関連するものであった。(大争闘下 106頁)
? 秋の祭りはラッパの祭りで始まります。
? このラッパのような声が象徴しているのは、秋の祭りの到来を告げるラッパの祭りと関係しているといえないでしょうか?

古代イスラエルにとってラッパの祭りは、大いなる贖罪の日への最後の備えの警告を意味していました。ユダヤ人はラッパの祭りを生ける者の裁きの始まりと理解しています。それは恩恵の最後の期間の到来を告げるものであると同時に、救済と清めがまもなく完成することへの確証でもあります。

黙示録1章と4章にでてくるラッパ(ヘブライ語shofar)は裁きが始まる事への警告として出てきます。
1. 一章 - 教会の指導者への警告
2. 二章 - すべての教会への警告

生ける者の裁きは黙示録11章1節にも出てきます。「さあ立って、神の聖所と祭壇とそこで礼拝している人々とを、測りなさい。」

? 生ける者の裁きに続く3年半(42ヶ月)の迫害 黙示録11:2
? そして3年半(1260日)の期間の二人の証人による証 黙示録11:3
? ラッパは恩恵期間が終了する前の神の最後の警告とみなすことが出来ます。

“定められた時“で学んだダニエル書12章の預言はこの期間に言及しています。
 

七つの封印 1

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 2月11日(土)23時32分11秒
  七つの封印の学びに入る前に、まず黙示録の書全体は預言の文であり特に最後の時代に起こる事に焦点があてられている事を理解して頂きたいと思います。

黙示録1:1
イエス・キリストの黙示。この黙示は、神が、すぐにも起こるべき事をその僕たちに示すためキリストに与え、そして、キリストが、御使いをつかわして、僕ヨハネに伝えられたものである。

? すぐにも起こるべき事とはどのような事でしょうか?

黙示録1:3
この預言の言葉を朗読する者と、これを聞いて、その中に書かれている事を守る者達とは、幸いである。時が近づいているからである。

? 何の時が近づいているのでしょうか?

黙示録1:7
見よ、彼は雲に乗ってこられる。すべての人の目、ことに、彼を刺し通した者達は、彼を仰ぎみるであろう。また地上の諸族はみな、彼のゆえに胸を打って嘆くであろう。しかり、アーメン。

? 彼(キリスト)が雲に乗ってこられる時はまぎれもなく御再臨の時を示しています。

よって、黙示録はキリストの御再臨の時期を示し、その直前に起こる事を予告し、神の民が何をしなければならないかを明示するものです。ダニエル書と並んで黙示録の学びはきわめて重大であり、これらの預言書に示されている事の理解なしに主の御再臨に備える事は不可能です。わたしはよく、預言を学ぶ前にキリストについて学んだ方が良いというような意見を耳にします。そのような事をすこしでも思っておられる方は黙示録の一章を良くお読みになって頂きたいと願います。3節と19節をのぞくすべての節でなんらかのキリスト特長を描写しています。実に黙示録の学びにこそキリストについての学びがあるのです。しかも神様のご臨在を物理的に感じられた旧約時代、またキリスト自ら人として歩まれた新約時代、過去のどの時代にもましてこの最後の時代を生きる我々にキリストはご自身をあらわされると黙示録には書かれています。なんという特権でしょうか。黙示録にこそキリストに関する最高にして最大の情報、そして経験が約束されているのです。

この学びでは4章から始まる7つの封印から始めたいと思いますので、2章、3章の7つの教会に関する学びは別の時に譲りたいと思います。

天の門が開かれる:開かれた天の門から始まる旅
黙示録4:1
その後(七つの教会の幻を見せられそれを書きとめた後)私がみていると、見よ、開いた門が天にあった。そして、先にラッパのような声でわたしに呼びかけるのを聞いた初めの声が、「ここに上がってきなさい。そうしたら、これから後に起こるべきことを、見せてあげよう」と言った。

ここにある“開かれた門”は3:8でフィラデルフィヤ教会に開かれた門と同じ門です。その門は開けばだれも閉じることの出来ない門とあります。4章からはその門の向こう側にあるものが何であるか示されます。開かれた門の向こう側には天の至聖所があります。1844年のメッセージを受け入れたSDAならばだれもこの事に反論する方はおられないと思います。
ここでご留意頂きたい事は門はすでに開かれていたという事です。それは4章以降に示される預言は3章7節―13節までのフィラデルフィヤ教会のメッセージの続きであるという事がわかります。

“開かれた門”は初期の再臨運動を導いたものでした。
「この門は1844年に天の聖所におけるイエスの第一の部屋でのとりなしの働きが終わるまでは開かれなかった。その時イエスは立ち上がって、聖所の第一の部屋の門と閉じ、至聖所の門を開き、第二の幕の中に入られた。今イエスはイスラエルの信仰が届く契約の箱のそばに立っておられる。
イエスが聖所の第一の部屋への門を閉じられたので、だれもそれを開けることは出来ない。また彼が至聖所への門を開かれたので、だれもそれを閉じることが出来ないことを、私は見た。(黙示録3:7,8)そしてイエスが、箱のある至聖所の門を開いて、戒めが神の民に対して輝き出ているので彼らは安息日問題によって試みられていることを、わたしはみた。
          (初代文集105,106頁)

よって、7つの封印が始まる黙示録4章の背景は1844年から始まり、我々を地上歴史の最後まで導くものです。
 
    (牧師) アーメン。私も青年時代にSDA教会に接し、求道者としてダニエル書の預言研究から聖書に入ってゆきました。おかげで聖書の教えるキリストの愛の理解で日曜教会のしているような偏見を受けずに学ぶことが出来ました。キリスト教の愛はみんなで手をつないで天国に行くことを教えるような軟弱なものではありません。この世の人に伝道するにはダニエル、黙示録の警告の使命からはいってゆくのがSDAの伝道の正道であるかもしれません。なぜなら旧約の預言者も同じようにして人を導いたからです。旧約時代も現代も人間は何も変わっていないではありませんか。  

7つの災い

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 2月 7日(火)23時54分56秒
  7つの災いを取り上げるには黙示録の7つの封印、7つのラッパを先に学ぶ必要があると思います。これらの主題は私も今勉強中です。理解を得次第是非ご紹介したいと考えています。少しお時間を下さい。英語で宜しければhttp://www.endtimeissues.com/のサイトのBooksのページに行かれるとそこに”Seven Seals of Revelation"そして"Strange work" of the Seven trumpetsというタイトルで本が紹介されています。そこを是非ご覧になって下さい。  
    (牧師) 上に紹介されているリンクの記事は、聖書を真剣に学ぶ人の為に有益で、誰にでも薦められます。
英語が不自由なく読める人はこれを用いて聖書研究を始めてください。
 

催促するようで申し訳ありませんが

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 2月 6日(月)22時14分20秒
  谷川を慕いあえぐ鹿 様

七つの災いについての聖書研究記事の掲載(連載)を要請していいですか。
私の家内も期待して待っております。
 

約束された経験 6 最終

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月28日(土)23時31分8秒
  いと聖なる者に油を注ぐためです “To anoint the most Holy”

物理的な油を注ぐという行為はイスラエルで深い霊的な意味と目的を持っていました。

1. 祭司の任命 出エジプト28:41, 40:10-15
2. 王の任命 サムエル記上9:16
3. 清める 出エジプト29:36、40:9
4. 聖別する 出エジプト30:26
5. 解放、救出 詩篇18:50,20:6,28:8、105:15
6. 知的、霊的理解が与えられる、目が開かれる ヨハネ9:6-11, 黙示録3:18

イスラエルの聖所における奉仕の為にレビ族が分かたれアロンとその子孫に油を注がれ祭司職に任ぜられました。また聖所の建造物が完成したあとに聖所で使われるすべての器具に特別な注ぎ油が注がれ清め聖別されました。
イスラエルをバビロンの捕囚から解放したクロスはその生まれる約100年以上も前に神様によって解放者という特別な使命の為に召される事が預言されていました。「わたしはわが受膏者(油注がれた者)クロスの右の手をとって、もろもろの国をその前に従わせ、もろもろの王の腰を解き、とびらをその前に開かせて、門を閉じさせない、と言われる主はその受膏者(油注がれた者)クロスにこう言われる」(イザヤ45:1)
クロスの軍隊がバビロンに侵入した時いつもなら厳重に硬く閉じられているはず門が不思議にも閂は外されていて戦う事なしに城内入る事が出来たとあります。実にその侵入方法まで預言されていたとは驚きです。イスラエルの解放者として召されたクロス「わたしは義をもってクロスを起こした。わたしは彼のすべての道をまっすぐにしよう。彼はわが町を建て、わが捕囚を価の為でなく、また報いのためでもなく解き放つ」と万軍の主は言われる。(イザヤ45:13)はまた罪びとを悪の縄目から解放するキリストを予表していました。

「主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を述べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心の痛める者をいやし、捕らわれ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、」イザヤ61:1

「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
ルカ4:18,19

キリストはそのご生涯と十字架の死によって、初めアダムとエバ約束され、アブラハムに与えられた契約が正式に承認され、法的権限を備え“新しい契約”と呼ばれるようになりました。罪の刑罰はキリストによって支払われました。

“この契約はアダムに与えられ、アブラハムに対して更新されたが、正式に承認され、法的権限を備える事が出来たのはキリストの死によってであった。最初に贖いの計画が与えられた時からそれは神の約束として存在し、人は信仰によってそれを受けた。キリストによってそれが批准された時、それは新しい契約と呼ばれた。この契約は神の律法に基づくものであり、人を神のご意思と調和させ、神の律法に従い得るようにする協定である。”  レビューアンドヘラルド 1907年10月17日

ダニエル書10章1-9節はまだmareh幻の続きであり、9章の幻は70年捕囚の最後の3年半の開始する時に(539BC)に与えられていましたが10章はクロスによるイスラエル解放布告直前(536BC)に与えられました。サタンはイスラエルをバビロンの捕囚から解放させまいとクロスの心に働きかけていましたが、ガブリエルが送られ、そして天使の長ミカエルが来て王の心を支配しようとするサタンの力を防ぎました。捕囚からの解放が起ころうとする直前に「ひとりの人」(Certain one)“亜麻布の衣を着、ウパズの金の帯を腰にしめていた。そのからだは緑柱石のごとく、その顔は電光のごとく、その目は燃えるたいまつのごとく、その腕と足は、みがいた青銅のように輝き、その言葉の声は、群集の声のようであった”ダニエルはここで王また裁き主、祭司としてのイエスを見せられます。 ダニエルに10章の幻が与えられたの正月(Abib)の24日でありイスラエルでは収穫期の後の雨の時でもありました。

この事は終わりの時に油注がれた者メシアであるキリストが王として、裁き主として、そして祭司として贖いの歴史を終わりに導く象徴として捉える事ができます。後の雨は恩恵期間が終了する直前まで降り続き、チグリス川(ダニエル10:4)は最終的にバビロンから救出される“数えきれないほどの大勢の郡衆”(黙示録5:9)聖なる民をあらわしています。黙示録1:13-16にも “定められた時-3年半の期間”の開始直前の祭司、裁き主、王なるキリストの姿の描写があります。贖いの歴史に終わりをもたらす“油注がれた者、ひとりの人”は9章において預言の歴史の中で“天おけるキリストの存在の場所が油注がれる”時を望み見ています。

その事は次に説明する“いと聖なる者”というフレーズに関係してきます。ダニエル9:24の“油を注ぐ”という事に当てはまるもう一つの意味は“清める、聖別する”という事です。しばしば“油を注ぐ”式には身を清める事が伴いました。(ルツ3:3、サムエル記下12:20、エゼキエル16:9)また身を清める事は祭りの時の必要欠くべからずの備えでした。(伝道の書9:8、詩篇23:5)

9:24この聖句のテーマは“神聖(政)の回復”であり、大いなる贖罪の日を経る時どのような結果がもたらされるのかを小括しています。
1. 幕屋の清め―神の教会―それはつまり:
2. 大祭司と彼の家族の清め
3. 会衆、民の清め
ダニエルの祈りは“われわれの神よ、しもべの祈りを聞いてください。主よあなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたのみ顔を輝かせてください。”(9:17)でした。イスラエルの霊的堕落の為にソロモンの宮はネブカデネザルによって滅ぼされ神の栄光を示すシカイナーは去っていました。70年の捕囚の後、クロス、ダリヨス、アハショエロスの布告によって再建されましたが以前のような神様の御臨在によるしるしは戻ってきませんでした。後にヘロデの神殿と呼ばれたイスラエルの誇りであり、キリストの時代にもその外面的な修復と修飾続けられていて当時見る者の感嘆と感動をもたらしましたが、神殿の霊的意味は見失われ儀式は形式の繰り返しとなり、宮に使える役人や祭司達の私服を肥やす手段と堕落していました。そして最後に過去のどの時代に与えられた神様の御臨在の印にも優って偉大なお方キリストご自身の御臨在によって恵まれたにもかかわらず、そのキリストを拒む事によって取り返しのつかない自分達の運命を決定してしまいました。民として国家としてのイスラエルは永久に退けられてしまいました。9:24節の預言はその約束の成就をまだ待っています。“いと聖なる者に油を注ぐ”神の御臨在の場所はその油注がれる事をまだ待っています。神の民が罪を放棄する時、永遠の義が教会にもたらされます。サタンとその使いの者達は“取り除かれ”(テサロニケ第二2:7)神の宿る宮は再び回復されます。

聖別する、聖なる御用の為に分かたれるという観点から“いと聖なる者に油を注ぐ”という事は印された民を示唆しています。栄光の望みは彼らの内に完成し、キリストを表す教会が完成した事を意味しています。またそれは聖所、神の教会、彼の花嫁の清めがついに完成した事、神の民の集積したすべての罪はアザゼルのヤギに移され、キリストは我々の罪を負うお方でいる必要はなくなった事、すべては清められ―婚姻の用意が整いました。

そして永遠の契約の成就が完成します。

“わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである。と主が言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつけよう。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。-わたしは、彼らの不義をあわれみ、もはや、彼らの罪を思い出すことをしない」。 へブル8:10,12

490年の預言が完成する時、聖の聖なる者が油注がれ(エゼキエル37:26-28)神の教会は清められ純潔なものとなり、罪の跡形もなくります。聖徒達には永遠の神の存在が共にあるでしょう。

「神の住居として建てられたこの宮は、イスラエルと世界のために実物教訓となるように計画されていた。輝く聖なるセラフから人間にいたるまで、すべての被造物が創造主の内住される宮となることが、永遠の昔から神の目的であった。罪のために人類は神の宮とならなくなった。人の心は、悪の為に暗くなり、汚れたものとなったので、もはや聖なる神の栄光をあらわさなくなった。しかし神の御子の受肉によって天の神の目的は達成された。神は人類の中にお住みになり、救いの恵みを通して、人の心は再び神の宮となる。神はエルサレムの宮が、すべての魂にとって可能な高い運命についてのたえまないあかしとなるように計画された。しかしユダヤ人は彼らが非常な誇りをもって見ていた建物の意義を理解していなかった。彼らは自分自身を御霊の聖なる宮としてささげなかった。汚れた商売の騒々しさに包まれていたエルサレムの宮の庭は、肉欲や清くない思いが入り込んで汚れている心の宮をそのままあらわしていた。宮を世俗の売る人、買う人から清める事によって、イエスは、罪のけがれ、すなわち魂を堕落させる世俗的な望み、利己的な欲望、悪習慣などから心を清められるご自分の使命を宣言された。「あなたがたの求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金を吹き分ける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。彼は銀を吹き分けて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める」(マラキ3:1-3)
― 主のご臨在は、魂が主の聖なる宮となり、「霊なる神のすまい」となるように、その魂を清める(エペソ2:21,22) 各時代の希望1巻 186頁

まとめ

神様は彼の民を通して何を完成したいと望んでおられるのでしょうか、パート1と2で取り上げた六つのステップを見てみましょう。

1. とがを終わらせ
ここでキリストはご自分の権威を我々のそれと取って代わり、われわれの心に完全に確立される事を望んでおられます。救い主を求める我々の思いは強く、我々はキリストの義に飢え乾く者とならなければなりません。彼の義に関する真理は明確になり、彼の聖所の働きは個人的なレベルで受け入れられ、われわれの生活のすべてから偶像が取り除かれなければなりません。

2. 罪に終わりを告げ
神の律法は守られる必要があり、完全な服従が求められています。ダニエルの祈りは服従の問題の真髄にふれています。ここで人は罪に対して徹底的に立ち向うかどうかを決定します。キリストの行くところへはどこへでもついていくかどうかの意思決定を行ないます。サタンはそれは不可能だと論じてきました。神はそれは御国に入る必要条件であり―神の御品性を求めなさいと言われています。

3. 不義をあがない
ここで神の民は、悔い改めを通して神と和解します。罪をその忌わしさのまま、神が忌み嫌われる罪として見る事が出来るようになります。罪から離れ、神に対する100%の献身を選び、また神との100%の関係を選び続けるようになります。

4. 永遠の義をもたらし
神は彼の民が完全になる事を望んでおられます。神は永遠に神に献身する民(霊的イスラエル)を持たれる事を待ち焦がれています。もし字義通りのイスラエルが天と完全に協力したならば永遠の義はもたらされていたでしょう。イスラエルと神との密接な関係は決して断たれる事はなかったでしょう。これは大いなる贖いの日に大祭司が個人を神との完全な関係に回復させる時と同じです。

5. 幻と預言者を封じ(seal 印され)
これはもしすべての条件が満たされていたなら字義通りのイスラエルは印され得た事を示唆しています。へブル語の印という原語は“chatham”で取り消せない、改変、変更できない状態を表しています。神が選ばれた民に望まれた、求められた事は成就するはずでした。字義通りのイスラエルにはそれが叶いませんでした。しかしついにはすべて預言されていた事が成就しそれ以上預言し続ける必要がなくなる時の到来が約束されているのです。

6. いと聖なる者に油を注ぐためです
ここに神との永遠の契約を結び確定する人に残されている最後のステップが示されています。聖所はついに清められ、神は彼の民を王達、祭司達(出エジプト19:5,6)する事が出来ます。神はついに彼のものと称する民(個人ではなくCorporate body)を持つ事が出来、神のお宿りになる場所(教会)は油注がれ完成するのです。

神は宇宙に対して契約は批准されるとの誓約をたてました。神はまたそれは霊的イスラエルを通してなされると約束されました。字義通りのイスラエルを通して成せ得なかった事を神は霊的イスラエルを通して最後の時代に完成させようとしておられるのです。そしてこれを読まれている皆様お一人お一人はその約束された祝福の経験にあずる特権と招きが与えられているのです。
是非祈りのうちに深く瞑想し、学んで欲しいと願っています。私たち残されている時間はもうあまりありません。
これまで紹介してきた内容でご質問等がありましたら k_chinen@craftek.us までご連絡下さい。また、まとめた文書をご希望される方はご一報頂ければWord形式の添付ファイルで送らせて頂きます。 更に詳しく学ばれる事をご希望の方は英語ですが下記サイトにぎっしりと真理が詰まっていますので是非ご参考にして下さい。
www.endtimeissues.com
 

約束された経験 5

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月27日(金)22時12分11秒
  これまでの学びでダニエル書8:14の祝福された経験、mareh幻、契約の実行を活性化、イニシエートするものがダニエル書9章24節にあることをみてきました。そしていよいよダニエル書9:24の後半に具体的に示されている約束された経験とその成就が意味する事をみていきたいと思います。

ダニエル9:24
あなたの民と、あなたの聖なる町については、70週が定められています。これはとがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。

1. 永遠の義をもたらし
2. 幻と預言者を封じ
3. いと聖なる者に油を注ぐためです。

永遠の義をもたらし

この表現はキリストの十字架でその完全な成就をみたと理解し満足してはいけません。この聖句の主題はあくまでもあなたの民(神の民)と聖なる町(教会)である事を覚えていなければいけません。現在神の民の中にまた教会の中に永遠の義がもたらされているでしょうか?“わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。・・・・なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。”(黙示録3:15,16)しかしこれまでの学びでみた9:24の前半にある三つの条件、とが、罪、不義に対処する時に後半の三つの条件が果たされるとあるのです。確かにキリストはその聖なるご生涯と十字架の犠牲により永遠の義をもたらす道を開いて下さいました。人はそのキリストが開いてくださった道に進む必要があるのです。十字架の力を有効にするのは人の選択です。

「キリストとサタンとの間の争闘はすべての時代を通じて行なわれてきた。提供された高価な身代金は神が人に課した価値をあらわしている。キリストは自ら人の為の保証人また身代わりになられる事を志願され不義の刑罰を負われた。それによりすべてのアダムの息子、娘達は贖い主に対する信仰により天来の知的存在者と協力しサタンの働きに対抗する事が可能になった。しかるに永遠の義がもたらされる道が開かれた。」 サインズオブザタイムス1894年10月8日

あなたの民と、あなたの聖なる町については、70週が定められています。458-457B.C.に開始した70週の預言によるとその預言の終わりに永遠の義がもたらされるとありますが、まだ永遠の義が神の民と神の教会にもたらされていない事実はこの預言の中にタイミングのギャップがある事を否めません。 またここで用いられている永遠の義という言葉の義は前回の学びでみた8:14に用いられていた“清められてその正しい状態に復する”nisdaqと同じ基語のtsadeqになります。それは道徳的、法的、また神政の義の到来を告げています。神様のご品性に対するすべての疑問は解決されます。神様は神の民を通してご自分の最高の愛を世に示すようになり、サタンは自らの正体を完全に暴露(chazon幻)するようになります。ここにもダニエル書8:14節と9:24節の素晴らしい関連性をみる事ができます。回復の幻Marehはダニエル8:14で啓示され、9:24ではどのようにそれが成就するか示されました。“清められてその正しい状態に復する”nisdaqはtsadeqの受動態であり無罪とされる、義と宣告される、義とせられる、擁護される、判決が下されるとも訳される事をみました。何が義と宣告されるのか?聖所と訳されているQodeshは神様ご自身の義、ご品性をあらわす言葉でもあります。“神様のご品性が擁護される”天でルシファーの心に神様に対する疑問が生じた時から現在に至るまで、神様のご品性、神様の人類を取り扱われる方法、神様の律法、神様の政府は審理の中に立たされてきました。ところがMareh幻に2,300の贖い年の後についにその疑問符に終止が打たれるとあるのです。でもどうして”神はそのご品性を擁護する“ではなく”神はそのご品性が擁護される” nisdaq “何々する”という肯定文ではなく"何々される”という受身で表現されているのでしょうか?。
それは何かがその事を可能ならしめる。ダニエル書9:24節にその何かをみてきました。あなた民とあなたの聖なる町、神の民と神の教会が神様のご品性の擁護の為のファシリテーター(進行役)として召されているのです。まず神の民と神の教会が9:24節の最初の部分に示された罪を認め、放棄し、悔い改めるなら永遠の義がもたらされる “cause to come” とあります。それはまだ保留状態にあり9章に示された490年の幻完全な成就を待っています。我々が待っているのは前回の学びで取り上げた”定められた時“でありダニエル書8:14と26節はダニエル書9章と合わせて学ぶ時にこれらの幻がどのような意味を持つのか理解する事が出来るようになります。

幻と預言者を封じ

ここで示されている幻はha hazon, 8章の雄羊と雄ヤギの戦いでみた幻と同じです。幻を封じという表現は8:26、12:4,9でも用いられ終わりの時までこの預言を封じておきなさいという意味にとれますが、9:24ではmareh幻の成就という背景でその意味を捉える必要があると思います。封じという言葉の原語は24節の別の箇所“罪に終わりを告げ”でも使われています。神の民が罪に真剣に取り組む時、(先の学びでみた24節最初の三つの条件)永遠の義がもたらされる時、その時ha hazonの幻が終了する、終わりを告げるとあるのです。それはサタンのこの地上での働きが終わった事を意味します。ダニエルは12:6節で「この異常なできごとは、いつになって終わるでしょうか」と尋ねています。もうすこし分かりやすく訳すると「この驚くべき出来事の終わりまではどのくらいの期間があるのでしょうか」となります。ここで問われている驚くべき事(奇跡 :ストロングス聖書語句辞典)とは12:1-3までに見せられた二つの出来事1)ミカエルによる神の民の救出、2)特別な復活、をさしています。その質問に対する答えとして7節に「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろう・・・」これらの事とは神の民の迫害、救出、特別な復活が含まれています。それはこの地上歴史の最後の部分、“定められた時”、“3年半”“1260日”それらはみな同じ時をさしています。ここにmareh幻とchazon幻がどのように結びつくかをみる事ができます。これらの期間が終了する時、それ以上の幻と預言者は必要なくなるのです。幻ha hazonを封じという意味は預言されていた事はすべて成就し終了した、戦いは終わり、迫害は止み、反キリストの恐ろしい勢力は終わりを告げます。時に関する預言は70週の預言ですべては完了しそれ以上預言し続ける必要はないという事を意味しています。
しかし、その事はまた490年の預言の中にタイミングギャップがある事を認めざるを得ません。この70週の預言中にはまだ成就していない部分「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろう・・・」“定められた時”最後の字義通りの3年半があるのです。
 

約束された経験 4

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月26日(木)23時41分2秒
  罪に終わりを告げ

ここで使われている罪hattatという言葉は複数形であり、旧約聖書語句辞典によればそれはおもに人に対する罪で十誡の第5条から10条にあてはると解説されています。

キリストが弟子達に世の終わりの前兆として多くの者の愛が冷えると予告されました。

「そのとき、多くの人がつまづき、また互いに裏切り、憎み合うであろう。・・・また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。」 マタイ24:10,12

多くの人の愛が冷えるとはどういう事でしょうか?私個人を振り返って考える時にいかに自分が人類同胞に対して無関心である事かを感じます。実際に人を殺したり、うそをついたり等などの罪は犯していないかもしれませんが、自分が語らなかった言葉、しなかった行為によって他の魂をキリストに導く事が出来なかったとしたらそれはキリストによれば殺しているのと同じだと弟子達に語られました。

キリストとわたしたちを結びつける一番強いきずなであるべきもの、すなわち堕落して、苦しんでいる罪深い人や罪とがに死んだ人々をあわれれむという点で、わたしたちはキリストと少しも一致していない。人間同士の不人情はわたしたちの最大の罪である。 ミニ137頁

不義をあがない

不義―Awonは意図的に神に反抗するものでなくても自己を満足させるための欲情、自分に対して行なうもろもろの罪をしめしています。それは人の罪への傾向、親から子へ受け継がれる罪の性質をあらわしています。(出エジプト34:7)

キリストは弟子達に再臨の時の人々の状態を「人の子の現れるのも、ちょうどノアの時のようであろう。すなわち、洪水の出る前、ノアが箱舟にはいる日まで、人々は食い、飲み、めとり、とつぎなどをしていた。」と警告されています。飲食結婚は神様が人の為に定めたものでそれ自体は悪ではありません。なのに何故滅びる運命にある再臨直前に生きる人々の特徴して取り上げられているのでしょうか? 飲み食い、結婚自体は悪ではなくかえって人の存続の為に必要欠くべからざるものです。しかしサタンは人をそれに耽溺させる事によってそれを歪められたものとしてしまい、悪の発動機にしてしまったのです。

歪められた食欲を満足させる事がソドムとゴモラを滅ぼした罪に導いた。神はバビロン滅亡の原因として暴飲、暴食を取り上げている。食欲と情欲への耽溺が彼らのすべての罪の基礎となっていた。 CT&BH p.43

食欲と情欲はキリストに従うと称する幾千の人々を虜にしている。 CT&BH p.155

すべての真のクリスチャンは食欲と情欲を制しなければならない。もし食欲の奴隷から解放されていなければ真のキリストの従う僕とは呼べないのである。食欲と情欲に陥る事が心に働く真理を無効にするのである。食欲と情欲に人が支配されている間は、御霊と真理の力が人の心と体と魂を清める働きをするのは不可能なのである。 CC p.226

終わらせ、終わりを告げ、あがない


9:24節で示された罪を通り一遍に見過ごしてしまわなければ、いかに具体的で、特定的でありかつ包括的であるかに驚かされます。
そして神様がダニエル8:14で約束された契約を可能(Activate)にする為に神の民が果たさなければいない条件は上記でみた罪を終わらせ、終わりを告げ、あがないとあるのです。このような書き方をするときっと両手を挙げそんな事不可能だ、それは行いによる義ではないか!という声が聞こえてきそうです。説明を試みてみたいと思います。でも最初に申し上げておきたい事はこれこそ、各々の体験によって悟らなければいけない事であり、どんなに言葉を尽くしても個人の体験のかわりにはなりません。これを書いている私自身もいまだ求め続けている経験です。

この真理が示されて最初に浮かんだ聖句は「エチオピアびとはその皮膚を変えることができようか。豹はその斑点を変えることができようか。もしそれができるならば、悪に慣れたあなた方も、善を行なう事が出来る。(エレミヤ13:23)でした。この聖句は人に善を行なう事は不可能だと宣言しています。それでは神様は私たちに不可能な事を要求されているのでしょうか。「それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ5:48)キリストは言われました。神様のご命令は神様の約束でもあります。私たちに求められている事が何であるか知る必要があります。黙示録3章に出てくる七つ目の教会ラオデキアに対する譴責をみてみましょう。熱くもなく冷たくもない生ぬるい状態とは?

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、何の不自由もないと言っているが、実は、あなたは自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気が付いていない。」 黙示録3:17-18

ここで譴責されているのは惨めな状態にあること、哀れむべき者である事、貧しい者、目の見えない者、裸なものである事に対してではありません。問題はそれに気が付いていないという事です。もし私たちがとがBepesha、安息日の遵守にならば十分に行なっている。罪hattal十誡の第5条から10条までの条項なら既に守っているし、魂をキリストに導く伝道にも熱心に携わっている。不義awon自分を満足させるような欲情に支配されるような事はないというならば見事にラオデキア教会に合格です。神様が私たちのうちに完成させたいと思っておられる清さを理解していない事になります。

神の品性と要求に対する見解が不十分であればあるほど、人間は、自分自身の目に正しく思われるのである。 大下202頁

ダニエル書8:14節で回復が約束されている清さは、清めの極みであり、いと聖なるお方のご品性が神に従うと称するもの達のうちに完成するという事です。それは白い馬にまたがり勝利のうえになおも勝利を得ようとして出て行く144,000人の姿です。(黙示録6:1,2)それはまた地からあがなわれた14万4千人のほかは、だれも学ぶ事ができない体験の歌です。(黙示録14:3)しかし聖の極みを体験するという事はまた、神の霊により悪、罪の深さも知らされるという事です。時々、いやこのごろは毎日のように恐ろしい犯罪のニュースを聞かされたり読んだりします。
それらの記事を見るときわたしたちは無意識のうち自分とは次元の違う人事として捉えます。どうしてそのような恐ろしい事が出来るのか、自分なら決してそのような事はしないと考えていないでしょうか?しかし「神が造ったすべての物を見られたところ、それははなはだ良かった」この地球に留めようのない洪水のように押し寄せた害悪は食べるなと命じられていた実を食べてしまった“小さな過ち”?から始まったのではなかったでしょうか?私達はまだまだ自分を捕らえている悪の深みを理解、認知していないと思います。聖書には聖に近づけば近づくほど自分の罪深さを感じるようになると証されています。

イザヤ「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるのもので、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王をみたのだから」
パウロ「キリスト・イエスは、罪びとを救うためにこの世にきてくださった」という言葉は、確実で、そのまま受け入れるに足るものである。わたしは、その罪人のかしらなのである。

終末に生きる私たちに約束されている経験が清ければ清い程、私たちに要求される悔い改めの経験も深いものでなければなりません。私たちは清めて頂く前に何から清められねばならないのか知る必要があるのです。それでは私たちに何が出来るのでしょうか?わたしたちが自分自身で自らの罪深さを知る事が出来るのでしょうか?また罪、とが、不義を改める事が出来るのでしょうか?神様はそれを要求されているのでしょうか?神様が契約を実行なさるのに私たちが果たさなければならない条件とはなんなのでしょうか?

神は、人々が暗黒の中にとどまって満足しているあいだは、天よりの光をお与えにならない。人間は、神の助けを受けるために、まず自分の弱さ、足りなさを自覚しなければならない。彼は、自分の中に大いなる変化が起こるように専心努力しなければならない。彼は目を覚まして熱心にたゆまず祈り、努力しなければならない。悪い習慣や風習は捨てなければならない。これらのあやまちを正し、正しい原則に調和するように堅く決心して励んでこそ、勝利は得られるのである。多くの人は、当然得られる地位を得られないでいる。というのは、彼らが自分で実行するように神から力が与えられているのに、神が彼らの為にしてくださるのを待っているからである。有用な働きにふさわしい者はすべて、最も厳しい、知的、道徳的訓練によって鍛えられなければならない。その時、神は人間の努力に神の力を加えて助けて下さるのである。人あ上284頁

モーセがイスラエルの民を率いて紅海を渡った時も、ヨシュアが民を率いてヨルダンの川を渡った時も紅海やヨルダン川の水が分かたれるのを待ってから行進を開始したのではありませんでした。まずイスラエルの民は海に向かって進み行き、モーセが杖を上げ、手を差し伸べてから海が分かたれました。 ヨルダン川を渡るときも契約の箱を担ぐ祭司達が勢い良く流れる川にまず第一歩足を踏み入れる必要があったのです。私たちも克服しなければならない自分達の罪の状態を眺めると目の前に横たわる紅海やヨルダン川のように不可能に挑戦している事のように思えるときがしばしばだと思います。しかし神様が奇跡を働かれるまえに私たちに要求される事は信仰の差し伸べる手、踏み進む第一歩なのです。

神様は人をユニークな能力をさずけた者として創造して下さいました。人には自ら考え、選ぶ事の出来る能力が授けられています。もちろん神様を選ぶ事しかできないロボットのような存在を創造する事も可能でしたでしょうが、神様の愛は人に自由意志を授けたのです。ラオデキヤの教会への勧告に再び耳を傾けてみたいと思います。

「そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で洗練された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身につけるに、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい」 黙示録3:19-20

火で洗練された金―信仰、白い衣―キリストの義、目にぬる目薬―聖霊を買いなさいと勧告されているのです。買うという行為は売り買いする両者間の積極的な交渉を意味します。お互いのやりとりがあるという事を示唆しています。私たちはキリストから火で洗練された信仰を頂くために自分の不信仰を、キリストの義を頂く為に自分の義(不義)を、聖霊を頂く為に偏見や先入観を差し出す必要があるのです。それは唯一キリストとの個人的な交わりの中に可能となります。私たちはキリストと交わる為に一日のうちどのくらいの時間をさいているでしょうか?祈りのうちに、瞑想のうちにまた個人的な聖書研究にどのくらいの時間を費やしているでしょうか?キリストに心を向ける、祈る為に時間と取る、聖書研究をするという事は個人の選びです。神様が私たちに与えて下さった自由意志を用いて行なう事です。それを除外して棚から牡丹餅式で救いを得る事は出来ません。何をさておいてもキリスト、文字通り寝ても覚めてもキリストの事で心が占められるようになるまで時間をさく事が必要です。心にささやくキリストの声が聞こえるようになるまで十字架の下に止まる必要があるのです。

黙示録にその順番で示された厳粛なメッセージは神の民の心の第一を占める必要がある。
8T302頁
あなたがたは主にお会いする事のできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
イザヤ55:6

まもなく尋ね求めても主にお会いできなくなる日がやってきます。

主なる神は言われる。「見よ、わたしがききんをこの国に送る日が来る、それはパンのききんではない、水にかわくのでもない、主の言葉を聞くことのききんである。彼らは海から海へさまよい歩き、主の言葉を求めて、こなたかなたへはせまわる、しかしこれを得ないであろう。
アモス8:11

私たちが生かされているこの時代は本当に厳粛な時代です。一日一日過ぎていく時間を決して浪費せず何のために使うことを選ぶかに永遠の運命がかかっています。ダニエル書と黙示録にはそのタイムリミットが明確に預言されています。大争闘下巻の358ページから始まる“ただ一つの防壁―聖書”という章はなぜそこに置かれたのかはホワイト夫人が霊感を受けてそこに置いた理由があると思います。この章は“差し迫った戦い”と“世界への最後の警告”という章の間に挟まっています。私たちは今まさに”差し迫った戦い“の時に生きています。まもなく世界への最後の警告が後の雨を受けた144,000人によって宣布されるでしょう。後の雨を受ける事を望む人はこの二つの章に挟まった”唯一つの防壁聖書“を何度でも読み返し、その中で勧められている事を実行する必要があります。

われわれは世界歴史の最も厳粛な時代に生存している。地上のおびただしい数の人々の運命が、決定されようとしている。われわれ自身の将来の幸福も、他の魂の救いも、今我々が歩いている道にかかっている。われわれは真理の御霊によって導かれる必要がある。キリストに従う者はみな、「主よ、わたしは何をしたらよいのでしょうか」と熱心にたずねるべきである。われわれは祈りと断食をもって主の前にへりくだり、主のみ言葉について、特にさばきの光景について瞑想する必要がある。われわれは今、神のことについて、深い、生きた経験を求めなければならない。一刻も無駄にできない。われわれの周囲には重大な事件が起こっており、われわれはサタンの魔法の働いている場にいるのである。神の見張り人たちよ、眠ってはいけない。敵は近くに忍び込んでいて、あなたが気をゆるめて眠気を催すならば、いつでも飛びかかって餌食にしようと待ち構えている。 大下369頁

私たちの救いは無条件で与えられるものでしょうか?色々学んでいくうちに個人の救いは条件付きであるという確信にいたるようになりました。確かに神の愛、恵みは無条件で罪人に提供されています。しかし救われるには条件があります。その果たすべき条件とは一言でいえば“イエス・キリストを知る”という事だと思います。 “Fall in love with Jesus” イエスと恋におちいりなさい。これが私たちのなすすべての事の動機です。祈らなければならないからではなく、祈らないではおられないから、聖書研究をしなければいけないからではなく、したくてたまらないからというようになるまでキリストと時間を過ごし、キリストに魅せられキリストに満たされるようになる事です。そしてその経験は自分の救いばかりでなく他の魂の救いにも関わってくるのだという事を大争闘下巻369頁にみました。

又、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活する事により、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解する事ができ、また人知をはるかに超えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるようにと祈る。 エペソ3:17-19

見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中に入って彼と食を共にし、かれもまたわたしと食を共にするであろう。 黙示録3:20
 

約束された経験 3

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月25日(水)22時39分4秒
  9:24にはそれぞれ三つの目的示すものが二組あります。

一つ目の組:神の民と称する人々が満たさなければならない条件

1. とがを終わらせ
2. 罪に終わりを告げ、
3. 不義をあがない、

二つ目の組:最初の三つの条件が満たされた時にもたらされる約束の成就

1. 永遠の義をもたらし
2. 幻と預言者を封じ
3. いと聖なる者に油を注ぐためです。

まず、一つ目の組が示す三つの目的からみていきたいと思います。
この聖句にあるとが、罪、不義はへブル語聖書によれば罪の三段階をあらわしています。

1. とが― Bepesha: 神のへの故意の反抗
2. 罪― Hattal:人に対する罪
3. 不義―Awon:意図的に神に反抗するものでなくても自己を満足させるための欲情


とがを終わらせ

とがpeshaは神とのつながりが断たれる最高のレベルを示しています。それは神の権威への反抗であり神との契約関係に対する反発、背反を意味しています。それは意図的に人が神に反抗する行為を示しています。Bepeshaは神様の権威、律法、契約に対する故意の反抗です。第七日目安息日は神の権威、律法、契約への忠誠を示す"印”として与えられました。それは永続的な神との特別な関係をあらわしています。よって、Bepeshaは安息日への反抗とみなす事が出来ます。安息日をどう取り扱うかに個人の神に対する態度が反映されます。それは第7日目安息日をどのように守るかに限らず生活すべての方面に及びます。その人が神とどのような関係にあるのか、神をどのように知り、神との生きた経験をもっているのか、また神を自分の生活の中でどこに位置づけているのか、アクセサリー的な宗教を信じているのか、それとも神が生活の中の最優先順位をしめているのか、安息日はこの日を人がどうとりあつかうかによって示す事になるのです。

「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。・・・ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代よ安息日を守らなければならない。これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間だのしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである。」  出エジプト記31:13,16-17

「神の律法の印は、第四条の戒めの中に見出される。十誡の中で、第四条だけが、律法を与えたかたの名と称号とを二つとも明らかにしている。それは、彼が、天と地の創造者であることを宣言し、したがって、他のすべてにまさって崇敬と礼拝を受くべきかたであることを示している。この戒めを除いては、だれの権威によって律法が与えられたかを示すものは、十誡の中に何もない。法王権が安息日を変更したとき、律法から印が除かれた。イエスの弟子達は、第四条の安息日を、創造主の記念と彼の権威のしるしとしての正当な位置に高めることによって、それを回復するように求められている。」 大争闘下175頁

安息日の戒めの中に神の権威、律法、契約をすべてみる事が出来ます。

? 神の権威(創造主)- 出エジプト記20:11
? 神の律法(十戒めの一部) - 出エジプト記20:3-17
? 神の回復の契約(解放) - 申命記5:15

神への究極的な忠誠のしるしは第七日目安息日遵守であり、神への究極的な反抗bepeshaの印はこの安息日の軽視、無視であります(イザヤ58章、大下176頁)。それはダニエル8:13節でみた”荒らすことをなす罪” この罪の結果は荒廃であります。そもそもイスラエルの70年の捕囚、エルサレムが荒廃に陥ったのも彼らが安息の年を守らなかった結果(エレミヤ8:7)もたらされたものでした。(歴代志下36:20-21)終末の時代に安息日の戒めを犯す事の結果は完全な荒廃(七つの災害)である事が黙示録の預言にも記録されています。神様はとがbepeshaに対して二つ選択肢をしめしています。

1. 刑罰 - 完全な荒廃
2. 契約関係の更新

1は契約関係を回復する事を拒む人に対する神の応答であり、2はとがを終わらせ回復された契約関係に入るわれわれの神に対する応答です。確かにダニエルは彼の祈りの中で回復を嘆願していますが、それが実現するのは人の道徳的選択によります。神様はあわれみのうちに恩恵期間を下さいます。しかしこの9章の預言の文脈には人が応答しなければならないタイムリミットが記されています。神様は天の裁判完結をあらわす数をイスラエルに与えられた契約の中に示されました。-10のヨベルの年(70週)-恵みの期間として与えられた10の回復のサイクル、”10”という数は預言では完成を意味しており、その先はありません。我々が現在生かされている時代は10番目のヨベルの年のサイクルがまもなく完了しようとしている時にきているのです。“定められた時”の学びで紹介した70週の最後の週の3年半がまもなく始まります。そして安息日が預言の最後の期間を開始させる時計となるのです。

安息日は、特に論争点となっている真理であるから、忠誠の大試金石となる。最後の試練が人々を襲うとき、神に仕える者と神に仕えない者の区別が明らかになる。 大争闘下375頁
 

Qodesh

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月25日(水)13時19分52秒
  嵯峨野教会牧師、Qodeshに関して更に説明をしているサイトを教えて頂いてありがとうございます。
Qodeshを神が義とせられるという解釈に関してもう少し詳しく説明する必要があるかもしれません。
義である神様が何故義とされる必要があるのか、パウロは「…こうして神自ら義となり…」ローマ3:26と言っています。神が義とせられるという表現よりも“神の義が擁護される”と説明した方が分かりやすいかもしれません。天で善と悪の大争闘が開始したときサタンの主張は、神(キリスト)は独裁者であると吹聴し、宇宙統治の基礎である神の律法に対しての疑いを天使達の間で広めました。詳しくは人類のあけぼの1巻第一章、なぜ罪悪は発生したかを是非熟読下さい。また各時代の希望第三巻79章287頁に「大争闘の始めに、サタンは、神の律法は従うことのできないものである。義とあわれみは両立しない。もし律法を破ったら罪人が赦される事は不可能だと宣言した。すべての罪は罰を受けねばならない、もし神が罪の罰を免除されるなら、神は真実と義の神ではないと、サタンは主張した。」とあります。サタンのそれらの主張はヨブ記に記録されている神の子ら達に混じって神の御前に立った時、神との応答の中に表されています。
また、キリストが十字架で息を引き取られた時、天の世界のサタンに対する同情は全く断ち切られてしまったとあるにも関わらず、「天使達はその時になってもまだ、大争闘に含まれている事をみな理解しているわけではなかった…」各希III287頁とあります。キリストの犠牲により罪を犯した人類、我々が罪の許しを受けられるのを当然かのように捉えているかもしれませんが、宇宙的な観点からしたらそうではないのです、むしろサタンの主張するように罪人を許す神は義でありえないというのは正論なのです。それではどうして罪人を許し、尚且つ神が義でありえるのか?これがあのダニエル書8章14節に秘められた神の奥義なのだと思います。
 

約束された経験 2

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月25日(水)00時27分27秒
  9章20節以降にダニエルを悟りに至らせたmareh幻の解説がガブリエルから与えられます。そこを見る前に8章14節の聖句を少し分析してみたいと思います。
ダニエルの祈りの最後の訴えは「これを延ばさないで下さい」でした。ダニエルは2300の夕と朝が示す期間はイスラエルの年毎の祭りの大いなる贖罪の日で締めくくられる聖所に関する儀式の一年の事であり、2300年という長期にわたる期間を象徴している事を理解していました。良く、預言の一日の解釈は一年であるとひとまとめに(民数記14:34、エゼキエル4:6)を用いて説明されてきましたが、ダニエル書8章14節はそれらの聖句を用いなくても、(文脈から考えるとかえってそれらの聖句を使おうとすると無理がある)夕と朝が示す期間はイスラエルの罪を最終的にどのように処理するか象徴的な一年を通じて行なわれる儀式が示す一年である事がわかります。

「そして聖所は清められてその正しい状態に復する。」

この聖句の原文はただ二つの言葉からなります。

Godesh nisdaq

聖所
原文: ???????
音訳: qodesh
音声綴り: (ko'-desh)
訳: holiness, apartness, sacredness, 聖なるもの、分かたれたもの、清いもの

殆どの聖書はこの部分のqodeshを聖所と訳していますが、この言葉の中には聖所がしめすもっと深遠な真理を認める事が出来ます。聖なるものの極み、神ご自身のご品性、神の戒めのすべての要求に完全に従う事、完全な品性。「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」(ペテロI1:16、レビ記19:1,20:7)

清められてその正しい状態に復する
原文: ?????
音訳: tsadeq or tsadoq
音声綴り: (tsaw-dak')
訳: righteous, acquitted, declare you right, justified, vindicated, adjudicated,
無罪とする、義と宣告する、義とする、擁護する、判決(裁決、宣告)する

Nisdaqは旧約で使われているtsadeqという基語が受身動詞(Passive verb受動態)になっています。Tsadeq は道徳的にも、法的(神の戒めに対して)にもひいては神ご自身に対して義である事をあらわしています。しかし受身動詞としてtsadeqが使用されているのは聖書全体でダニエル書8:14の一箇所だけです。ここで文法の説明等されても困ると思われないで下さい。この事を理解すると素晴らしい真理の体系がみえてきます。受身動詞としてtsadeqを訳すると、無罪とされる、義と宣告される、義とせられる、擁護される、判決が下されるとなります。

この言葉の主語はqodeshですから二つを合わせて考えるといとも聖なるかた神が義とせられる、擁護される。また神の民が放免され判決が下され義と宣告される。「それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずから義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」ローマ3:26 それはまた大いなる贖いの日に神の民のすべての罪が贖われアザゼルのヤギに移される時を示しています。その瞬間はまた7年目の安息の年の7回目(49年目)ヨベルの年の到来を告げるラッパが鳴り響きわたる時もたらされるすべてのものの完全な解放、回復、放免を指し示しています。

受身動詞という事はまた“何か”がそのアクションを可能ならしめる事を示唆しています。8:14節には二つの事が示されています。

1. 時―2,300年という期間
2. 神と神の民の義の完結

しかし、その事が何をしてそれを可能ならしめるのかの情報はここでは与えられていません。いよいよ9章に私たちはそのアクションを可能にする“何か”をみる事が出来ます。
ダニエルの祈りに答えてガブリエルがつかわされます。

9:22、23
「ダニエルよ、わたしは今あなたに、知恵と悟りを与えるためにきました。あなたが祈りを始めたとき、み言葉が出たので、それをあなたに告げるためにきたのです。あなたは大いに愛せられている者です。ゆえに、このみ言葉を考えて、このmareh幻を悟りなさい。

ダニエル9章の70週の預言幻は8:14節のmareh幻とつながっている事がこのmareh幻という言葉が使われている事から分かります。

9:24
あなたの民と、あなたの聖なる町については、70週が定められています。これはとがを終わらせ、罪に終わりを告げ、不義をあがない、永遠の義をもたらし、幻と預言者を封じ、いと聖なる者に油を注ぐためです。

ここでしばし間を置いて考えてみて下さい。今読んだこの聖句には永遠の重みがあります。この聖句の中にあの8章14節の祝福された経験を可能にする“何か”が示されているのです。この聖句の中にnisdaqを実現させるものが示されているのです。
ですからここで9章24節を一句づつ掘り下げて学んでいきたいと思います。ガブリエルはまずダニエルに彼の最大の心の重荷になっていた事に対する回答を与えています。しかしこれをお読みの方の中にはこの聖句は特にイスラエルに与えられたもので過去に既に成就し、我々にはあまり関係がないと思っている方もおられるかもしれませんが、(私も以前はそのように考えていました)聖句をよく読む時にダニエルに与えられた預言は字義通りのイスラエルを超え霊的イスラエルに適用されなければ最も大切な真理を見失う事になってしまいます。
実際、10:14には「末に日に、あなたの民に臨まんとする事を、あなたに悟らせるためにきたのです。」そしてあなたの民とは「…その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名を記された者は皆救われます」12:1あの書とは紛れも無く命の書です。
更に、過去の歴史と現在の状態は9章24節の預言はまだその完全な成就はみていない事を私たちに告げています。
 
    (嵯峨野教会牧師) 素晴らしい説明を感謝します。 nisdaq が、tzadoq(義)の受身形なら文字通り「義とされる(義認)」であり、カドッシュはまさに聖化。神が聖だというのは誰もがわかっていますが、義とされ聖とされるのは神の民です。だから受動態なのです。

カドッシュについて説明するリンクです。
http://www.hebrew4christians.com/Meditations/Kadosh/kadosh.html
 

常供の(燔祭)

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 1月24日(火)00時04分0秒
  おっしゃるように、聖書ダニエル書の原文には「燔祭」に相当する語句がありませ
ん。「燔祭」は後日の聖書翻訳者が意訳で任意に付け加えたものとみられます。K
JVではそれをわざわざ説明していますが、他の訳の聖書にはKJVがしているような
断り書きがないまま「燔祭」の意訳を継承しています。KJVがわざわざ説明して
いる所を見ると、KJV以前のカトリックの訳の聖書にも燔祭をほのめかすような
訳語が任意に追加されていたのかもしれません。いずれにしても、預言そのものが
ハゾンとして封印されていた以上、訂正しようにもわからなかったのだろうと思い
ます。

常供の解釈が一致していなかったというのもその通りです。私は、常供はカトリッ
クが持ち込んだミサなどの異教的儀式のことではないかと考えていましたが、これ
を安息日と解釈することについて反論する理由がありません。むしろそう考えるな
らダニエル書の記述がすべてメイクセンスします。つまり、日曜休業例が終末に発
布されるはるか以前に、カトリックによって安息日が週の第七日から日曜日に彼ら
の権威によって変更されていたことを聖書によって証明することになるからです。
アンドリュース大学教授のサムエル・バキオッキがその証拠を彼の学位論文かつ著
書である、"Sabbath to Sunday" に論拠として述べられています。

http://www.amazon.com/Sabbath-Sunday-Historical-Investigation-Christianity/dp/B000ZTKRQS/ref=sr_1_4?ie=UTF8&qid=1327330666&sr=8-4

私は青春時代にこれを読みましたが、今の牧師や指導者はきちんと読んでいないの
ではないかと思います。牧師が信徒に安息日の意義を正しく教えられないから、今
の日本のSDA教会には安息日遵守の意義が理解されず、遵守の習慣そのものがだらし
なくなっているのだと思います。
 

約束された経験 1

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月23日(月)23時22分0秒
  これまでダニエル書8章にある二つの幻、封じられなかったmareh幻と終わりの時まで封じられたChazon幻とその開始時期“定められた時”をみてきました。これらの知的理解は終末時代に生きる神の民にとって、最も重要な事です。しかし知的理解だけで止まってしまったのなら神様がこれらの預言に託された真の意図を見逃してしまう事になってしまいます。願わくば今から紹介する学びで少しでも神様が神の民に約束された最高で最終的な経験に近づく事が出来ればと祈りつつ始めたいと思います。

ダニエル8:14
「2,300の夕と朝の間である。そして聖所は清められてその正しい状態に復する。」

これは8:13節でダニエルに代わってガブリエルがキリストに向かって投げかけた質問「常供の(燔祭)と、荒らす事をなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられる事について、幻chazonにあらわれたことは、いつまでだろうか」に対する答えでした。ここでダニエルはChazon幻で見せられた恐ろしい出来事はいつの時をさすのだろうかという質問に対して与えられたキリストの応答が質問に対して部分的な答えにしかなっていない事を理解していました。それどころか2,300年という新たな途方もない長い期間の情報が加えられいよいよ混乱し心労のあまり肉体的にも参ってしまい数日の間病みわずらったとあります。
ダニエルの肉体的にも影響を与える程の精神的な苦しみは何だったのでしょか。ダニエルの胸中を探ってみましょう。
1. 8:1-12までに与えられたChazon幻はダニエルがその幻を与えられたときよりはるか将来をさすものである事は19節以降のガブリエルの幻の解説から理解できた。
2. 聖なる神の都と呼ばれたエルサレムは荒廃した状態にあり、ダニエルと彼の民は捕囚としてバビロンという異教の地におり神様がイスラエルに託された聖なる使命は中断した状態にあった事、またその原因は神の民と呼ばれたイスラエルが託された聖なる戒めを破り続けた事の結果であることをダニエルは痛切に感じていた。恐らく1節から12節まで与えられたChazon幻にそのような状態にあったイスラエルの経験を重ねて考えたでしょうけれど、Chazon幻で示されている経験は自分達の現状よりさらに恐ろしいものであり、天の神のご栄光がなおも汚され続けられるのかと憂慮した。
3. Mareh幻で2,300年という長い年月を経て後解放、回復が得られるという受け入れがたい事が示される。

8:16
わたしはウライ川の両岸の間から人の声が出て、呼ばわるのを聞いた、「ガブリエルよ、このmareh幻をその人に悟らせよ」。
8:26
先に示された朝夕のmareh幻は真実です。しかし、あなたはそのchazon幻を秘密にしておかなければならない。これは多くの日の後にかかわる事だから」。
8:27
われダニエルは疲れはてて、数日の間病みわずらったが、後起きて、王の事務を執った。しかし、わたしはこのmareh幻の事を思って驚いた。またこれを悟ることができなかった。

キリストはガブリエルにダニエルにmareh幻を悟らせよと命じられました。しかしダニエルはこの幻が与えられたベルシャザルの治世第三年には悟る事が出来なかったとあります。
ところが;

10:1
ペルシャの王クロスの第三年に、ベルテシャザルと名づけられたダニエルに、一つの言葉が啓示されたが、その言葉は真実であり、大いなる戦いを意味するものであった。彼はその言葉に心を留め、そのmareh幻を悟った。

ペルシャの王クロスの第三年にはMareh幻を悟ったとあるのです。バビロンの王ベルシャザルの治世第三年とクロス王の第三年の間に何が起こったのでしょうか?実にmareh幻を悟る鍵は8章と10章に挟まれている9章にあります。そしてこの9章の預言にこそ8:14で約束された経験の最終的で完全な成就をみるのです。

9章はメデヤの王ダリヨスの元年(紀元前539年)ダニエルの祈りから始まっています。8章で幻が与えられてから既に12年も経過していました。しかしここで記録されている年代は重要です。メデヤの王ダリヨスの元年539BCはバビロンの王ネブカデネザルが最初にイスラエルを攻めた605年BCから66年目でした。エレミヤを通して与えれた70年の捕囚の預言の最後の3年半の期間がまもなく満ちようとしていました。

ダニエル9:2
すなわちその治世の第一年に、われダニエルは主が預言者エレミヤに臨んで告げられたその言葉により、エルサレムの荒廃の終わるまでに経ねばならぬ年の数は70年であることを、文書(複数)によって悟った。

ダニエル自身も偉大な預言者でしたが、預言の生徒でもありました。約束されていた神の民の回復の時が目の前に迫っている事を文書によって悟ったとあります。

1. エレミヤによって預言されていた70年の捕囚期間(エレミヤ29:10-14)-時
2. イザヤによって預言されていた解放者クロスの出現(イザヤ44:28-45:4)-しるし

ダニエルは預言の研究から時としるしを知っていました。しかし自分が12年前に見せられた幻を覚えてダニエルの祈りが始まるのです。

ダニエル9:3,4
それでわたしは、わが顔を主なる神に向け、断食をなし、荒布を着、灰をかぶって祈り、かつ願い求めた。すなわちわたしは、わが神、主に祈り、ざんげして言った、

このダニエルの祈りの態度は最終的な回復を目の前に生きるわれわれこその祈りの態度でもあるべきだと思うのです。4節から19節までの祈りをこれを読む方々が祈りのうちに個人的に瞑想され自分達の祈りとなるまで学び続けて頂きたいと思います。

4節
「ああ、大いなる恐るべき神、主、おのれを愛し、おのれの戒めを守る者のために契約を保ち、いつくしみを施される者よ、

ダニエルの神に対するこの最初の呼びかけにダニエルの最大の思いが込められています。ダニエルの祈りの全体は神様が契約を実行される事への嘆願でした。ダニエルが望んでいた契約の実行とはイスラエル人が捕囚から解放され、再びイスラエル国家を築き、イスラエルの繁栄が回復される事だったのでしょうか?ダニエルの祈りには物理的なものの回復に重きをおいているように感じられるところはありません。
ダニエルは個人的な罪の記録が聖書の中に書かれていない数少ない人の一人ですが、でもこの祈りの中で「わが罪とわが民イスラエルの罪をざんげし、」とあります。捕囚となり異教の国に散在させられているのは民が神の戒めを守らず、不義を行い続けた当然の報いであるとを認め,告白しつつも神の大いなる哀れみに頼る事をやめていません。「われわれがあなたの前に祈りをささげるのは、われわれの義によるのではなく、ただあなたの大いなるあわれみによるのです」

17節
それゆえ、われわれの神よ、しもべの祈りと願いを聞いて下さい。主よ、あなたご自身のために、あの荒れたあなたの聖所に、あなたの御顔を輝かせてください。

ここでダニエルは物理的に荒廃状態にあったエルサレムではなく「あなたの聖所に」神様の栄光が戻る事を求めています。聖所が回復されるという事の中にはエルサレムにある物理的な聖所の回復も含まれていたでしょうが、それにもまして神の民の霊的な回復、それはイスラエルの民が再び神の戒めを守り、イスラエルを通して神様の栄光と知識が世に表されるようになるという事を意味していました。それは初めアブラハムに与えられ、エジプトの奴隷から解放された時に繰り返され、強調され、具体化された神の契約でした。

19節
主よ、聞いて下さい。主よゆるして下さい。主よ、御心に留めて、行なって下さい。わが神よ、あなたご自身のために、これを延ばさないで下さい。あなたの町と、あなたの民は、み名をもってとなえられているからです」。

このダニエルの最後の訴えは人が100%砕けた心を持つとき神様に対してなんと大胆に、パウロの言葉を借りればはばかる事なく神様に訴える事が出来るかを示しています。
1. 聞いてください
2. ゆるして下さい。
3. 御心に留めて、行なって下さい。(契約を実行して下さい)
4. これを延ばさないで下さい。(8章の2300朝夕の幻を覚え自分達の罪のゆえに神様が約束の実行を遅らせるのではないかと憂えた)

アドベンチストと称する我々はキリストの再臨を待ち望んでいます。そしてキリストの再臨は神の契約の成就のクライマックスです。我々がキリストを待ち望むのはこの世の苦労、悲しみ、苦しみから物理的に解放されユートピアの天国に移されるからでしょうか?もしそうであればそれは非常に力のない動機です。この世でも十分満足の良く生活をしている人たちは沢山います。ダニエル自身最初は捕囚としてバビロンに連れてこられたかもしれませんが、異教の国でも認められ高い地位を与えられ物理的には不自由のない生活をしていたと思います。それでもそのような暮らし、高い地位はダニエルのイスラエルが再び回復される事への燃えるような熱望を弱めるものとはなりませんでした。それは「わが神よ、あなたご自身のために、・・」という言葉の中にダニエルを動かしていたものをみるからです。私たちもダニエルに劣らない強い願いをもって神様が契約を実行される事を祈るべきではないでしょうか?神様がわたし達に約束された経験を与えられるために熱心な祈りを捧げるべきではないでしょうか?

「我々は今、神の約束を試す事によって、神をよく知らなければならない。天使は心からの熱心な祈りをすべて記録している。・・・ それだからわれわれには、一つ経験―今我々が持っておらず、また多くの者が怠けて持とうとしない経験―が必要なのである。」大争闘下396頁
 

定められた時 続6

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月23日(月)10時14分32秒
編集済
  ダニエル12章にはchazon幻に関する他に二つの預言的期間が示されています。
12:7「かの亜麻布を着て、川の水の上にいた人が、天に向かって、その右の手と左の手をあげ、永遠に生ける者をさして誓い、それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民を打ち砕く力が消え去る時に、これらの事はみな成就するだろうというのを、わたしは聞いた。

12:12「待っていて1335日に至る者は幸いです。…」。

先にみた12:11ではchazon幻"定められた時“の開始を示す出来事が示され、12:7節にはその期間が終了する時が厳粛に誓われ、12:12節は祝福で終わっています。

これはキリストの再臨の日を定めるものでしょうか?決してそうではありません。キリストの再臨は定められた時が終了してから起こるでしょうが、キリストの再臨の明確な日時を示すものではありません。しかしマタイ24:33にはキリスト自ら「そのように、すべてこれらの事を見たならば、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」と警告されています。ドアを開ける瞬間(キリストの再臨の明確な日時)はわからないかもしれないが、戸口まで近づいている事は分かるとキリストはおっしゃっているのです。キリストはその初臨の時を前もって明確にダニエルを通して預言されていました。全宇宙の大事件であるキリストの再臨の時期に関して我々をまるで霧の中にいるような状態にしておかれるでしょうか?そのような事は決してありません。
預言の霊はこのように示しています。

「聖書の中に示されている真理には特に我々の時代に関わるものがある。人の子があらわれる直前の期間に関して聖書の預言は指し示し、そこに提示されている警告、脅迫の顕著な適用はその期間におけるものである。ダニエルの預言の期間(periods複数)はキリストの再臨の直前にまで至りその時期に起こる諸事件に光の洪水を投げかけている。黙示録もまた最後の世代(generation)に対する警告と訓令で満ちている。愛されたヨハネは聖霊による霊感のもとに地上歴史の終結に関する恐るべきまた感動的な場面を描写し、神の民に迫る危険と義務を指し示している。だれも無知のままでいる必要はないのである。まただれも神の日のおとずれに対して不用意でいる必要ないのである。」   レビューアンドヘラルド 1883年9月25日

ダニエル書12章に示されている預言の三つの期間の重要性はキリスト御自身がその事を仰せになられた形にみます。ダニエル12:7“天に向かって、その右の手と左の手をあげ、永遠に生ける者をさして誓い,…これらの事はみな成就するであろう”厳粛な誓いの形で宣告され、永遠の父なる神をさしてキリスト自ら誓われた事です。これらの預言が必ず成就するというこれ以上の保障がありましょうか。

これらの預言をキリストがお与えになった後キリストは“目をさましていなさい”マタイ24:42と勧告されました。目を覚まさない者たちがどうなるかもその預言に続く(マタイ24:45-51、マタイ25章)警告されています。

私たち、得に光を先に与えられているSDAにとって目を覚ますというのはどういう事か、それはmareh幻に約束されている神の民の経験にその答えを見出します。次回からこのmareh幻、約束された経験に焦点をあてて学んでいきたいと思います。
 

定められた時 続5の訂正

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月23日(月)10時10分31秒
  1月19日に投稿した直後からアイスストームによる停電に見舞われ、これも発電機を利用しての投稿になります。前回投稿した際の図を訂正します。  

定められた時 続5

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月19日(木)23時43分42秒
  「見よ、わたしは憤りの終りの時に起るべきことを、あなたに知らせよう。それは定められた(moed)終りの時(eth qets)にかかわるものであるから。ダニエル8:19

終わりの時から始まる定められた時に関する理解の鍵を更に探ってみましょう。

イエス・キリストの弟子たちに警告された世の終わりの前兆の中に重要なヒントを見ることが出来ます。
「預言者ダニエルによって言われた荒らす憎むべきものが、聖なる場所に立つのを見たならば(読者よさ取れ)」マタイ24:15
ダニエル書で荒らす、憎むべきものが出てくるのは8:13、9:27、11:31、12:11です。すべて光を投げかけている重要な聖句ですが、特に定められた終わりの時の開始を告げているのは12:11です。興味深い事は弟子達に“荒らす憎むべきもが、聖なる場所に立つのを見たならば”と警告されたキリストはその500年以上も前にも自らダニエルにあらわれその時を告げられていたのです。マタイ24章のキリストの預言は文字通りのイスラエル滅亡と地上歴史の最後の場面に住む我々にも語られていたました。各時代の希望69章“オリーブ山上で”をお読み下さい。

「常供の(燔祭)が取り除かれ、荒らす憎むべきものが立てたれる時から、千二百九十日が定められている。」12:11
弟子達に語れた警告とダニエルに告げられた12:11を比べて読むと同じ事件に言及していることが分かります。最初それはキリストが弟子たちに預言されてから40年後のエルサレム滅亡の時にその成就をみました。キリストの預言の警告を心に留めローマ軍がエルサレムを最初包囲した時エルサレムから逃げたキリスト者は一人も滅びなかったとあります。(各時代の大争闘上巻18ページを参照)とても大切な霊感の書を下記に引用します。

マタイ24章3節にある弟子達の質問「いつ、そんな事がおこるのでしょうか。あなたがまたおいでになる時や、世の終わりには、どんな前兆がありますか」に答えて
「・・・・キリストは、終末の前に起こる主要事件のあらましを彼らに示された。そのとき、彼の言葉は十分に理解されなかった。しかし、その意味は、神の民がそこに与えられている教訓を必要とするときに明らかにされるのであった。彼が言われた預言には、二重の意味があった。それは、エルサレムの滅亡を予告するとともに、最後の大いなる日の恐怖をも予表していた。」
各大上12頁

そして今はまさに神の民がキリストの預言、警告に示された教訓を必要としている時であり、それが理解される時にきています。もし、その教訓を理解する必要を怠るならば、キリストの涙の対象「もしおまえも、この日に、平和をもたらす道を知ってさえいれば・・・・・・おまえが神のおとずれの時を知らないでいたからである」ルカ19:42-44になってしまいます。

少しこの聖句を分析してみたいと思います。
ダニエル書12:11
「常供の(燔祭)が取り除かれ、荒らす憎むべきものが立てたれる時から、千二百九十日が定められている。」

1. 常供が取り除かれ、
? 原文には燔祭という言葉は含まれていません。聖書訳者達が釈義的に追加した言葉でした。欽定訳や他の英訳聖書では釈義的追加語がわかるようになっていますが、残念ながら日本語訳聖書は釈義的追加語に区別がつけられていません。この場合はこの追加語はこの預言が示す真意からそらすものとなってしまうのであえて追加しないで読んで見たいと思います。
? 常供がなにをさすのか、またそれを取り除く事件とは何かを見てみましょう。
常供とは:

ターミード
へブル語原語: ???????
音訳: tamid
音声スペル: (taw-meed')
和英訳: continually, perpetual, regularly, 常に、永続する、定期的

この常供という言葉の意味については我々の教会のパイオニア達の間でもかなりの激論が交わされ、ホワイト夫人はこの論争の中に巻き込まれる事を拒否しました。私はその事をこのように理解しています。その時はまだそこに与えられている教訓を必要とする時がきていなかった。しかし今はそ時だと思います。聖書全体でこのターミード(tamid)が名詞として使われているのはダニエル書だけです。他の箇所ではすべて副詞や形容詞として用いられていますがターミードの前に定冠詞が付けられる事によりダニエル書ではハターミード、訳すると常のもの、永続するもの、定期的なものと理解する事が出来ると思います。 聖書の中で唯一その制定されたときから永遠に永続するものはなんでしょうか? 教会のパイオニア達はハターミードを最初は異教主義と解釈し、後1900年以降は天におけるキリストの奉仕、罪のとりなしの働きと“新しい理解”が紹介され今日に至っています。しかし異教主義にせよ、キリストの天おける罪のとりなしの奉仕にせよ永続するものではありません。聖書で唯一その制定された創造の時まだ罪のなかった世界で守られ、堕落した地上でもその遵守が続けられ、贖われた世界でも永遠に記念されるべき日は安息日です。安息日は創造の記念であり、だれが創造主であるか我々の起源を示すものであり、神の権威の印であり、神と被造物との正しい関係を示すものです。

 主はモーセに言われた、「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしをあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしがあなたがたを聖別する主であることを、知らせるためのものである。それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事する者は、民のうちから断たれるであろう。六日のあいだは仕事をしなさい。七日目は全き休みの安息日で主のために聖である。すべて安息日に仕事するものは必ず殺されるであろう。ゆえに、イスラエルの人々は安息日を覚え、永遠の契約として、代々安息日を守らなければならない。これは永遠にわたしとイスラエルの人々との間のしるしである。それは主が六日のあいだに天地を造り、七日目に休み、かつ、いこわれたからである』」。 出エジプト記31:13-17


常供を安息日と理解すると常供(安息日)が取り除かれる事件とは何の事をさしているのでしょうか。それはその次にでてくる荒らす憎むべきものがたてられる事に関係してきます。

2. 荒らす憎むべきもの
? 原文をみると忌むべき行為がもたらす荒廃と解釈されます。欽定訳ではそのように訳されています。“abomination that maketh desolate”
? “憎むべきも”の原文はshiqquwts訳すると嫌悪すべきもの、忌むべきもの、憎悪すべきもの、憎むべきもの、忌まわしい行為。神様にとってそれは何をさしているでしょうか?ここでもこの言葉の前に定冠詞がつけられ名詞になっています。
? 黙示録にはこの行為がもたらす恐るべき神の怒りと世界の荒廃が明確に預言、描写されています。
? それは他でもない黙示録13章にある獣の像の樹立、日曜休業令であります。それは神の権威に真っ向から対抗するものです。あえて神が定めた安息日を否定し、自らを神と称し、全世界の忠誠と服従を強要します。


ここに“定められ時”の開始に関するとても重要な鍵をみてきました。定められた時は安息日が取り除かれ、日曜休業令が樹立するときから始まる。



 

神の忍耐が終わる時

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月19日(木)23時39分9秒
  この事は福音主義者だけでなく残念ながらSDAの中にも巧妙な欺瞞の形で入ってきていると思います。神の愛は無限なので、神は決死て殺さない、滅ぼさない、罰さない。十誡で殺すなと命じておいて自ら殺人者になるはずがないと。このような欺瞞に陥っている人たちに対して私自身適当な言葉がみつけられず悩んでいるところです。 確かに罰するとか、滅ぼすとかという行為は神様にとって異なったわざと(イザヤ書28:21)とあります。とはいえそれはその事を行なわないという事ではありません。神様の混ぜ物なしに下される怒りは恩恵期間の終了した最後の7つの災害の時ではないでしょうか?   

神の忍耐が終わる時

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 1月19日(木)14時50分31秒
編集済
  ひとつ質問をしていいですか。
神のこの世に対する忍耐が終わるのは、「終わりの時」ではなく「定められた時」と理解していいですか。


(日曜教会、福音主義者は「神の忍耐は無限だ」などと言っていますが、ここではそういう事を論じていないのは明らかという合意でお願いします。>読者)
 

定められた時 続4

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月18日(水)23時39分17秒
  これまでにchazon幻(ダニエル8:1-12)はウライ川のほとりで与えられた事をみてきました。ウライ川は144,000人とそのメッセージをあらわしていることは別の学びで取り上げたいと思います。ダニエル書8章13節でひとりの聖者が質問します。ここでお気づき頂きたい事は13節とそれまで1-12節にダニエルが見せられた幻の場面との間に区切りがあるという事です。区切りの鍵となる言葉は13節の最初の言葉“それから”です。雄羊と雄ヤギの戦いの場面から変わって「ひとりの聖者の語っているているのを聞いた」とあります。「またひとりの聖者があって、その語っている聖者にむかって言った、「常供の燔祭と、荒らすことをなす罪と、聖所とその衆群がわたされて、足の下に踏みつけられることについて、幻(chazon)にあらわされたことは、いつまでだろうか(いつおこるのだろうか)」一人の聖者が語っているもう一人の聖者に対して質問しています。質問している聖者はガブリエルで語っている聖者はキリストであることが15節以降を読めばわかります。13節はmareh幻へ導くものでありchazon幻とmareh幻の関係を示すものです。

8章の14節でキリストは「2,300の夕と朝の後(1844年以降)神の民は霊的に解放されます」と宣言されます。しかしその答えはガブリエルの質問に対する直接の答えにはなっていません。でも素晴らしい事はchazon幻で見せられた悪の勢力の恐ろしい力の現れも必ず終了し神の民の最終的な解放、回復が成就するとの希望の約束をキリスト自ら宣言されました。宣言せずにはいられなかったと言った方が適切かもしれません。2,300の朝夕の預言Marehの学びは“定められた時”の学びの後に詳しく取り上げたいと思っていますが、ここに神様の神の民に対するあふれる愛を感じずにはいられません。

更に興味深い事が続きます。ダニエルはここまでの幻で混乱していましたが、それに加えて心配が加わります。15節に「この幻(Chazon)をみて、その意味を知ろうと求めていた」ダニエルは14節で与えられたキリストの返事にガブリエルが13節で提示した質問に対する明確な答えを与えられたかった事を知っていました。

キリストは更に続けてガブリエルに命じられえます。「ガブリエルよ、この幻(mareh)をその人に悟らせよ」。ガブリエルが次にダニエルに告げた事は今に生きる私達にとって最重要なことであり、8章以降のダニエル書及び黙示録を理解する鍵となります。

ガブリエルの言った事に耳を傾けてみましょう。
「人の子よ、悟りなさい。この幻(chazon)は終りの時(eth qets)にかかわるものです」。
実にその事がハバクク書、へブル書、黙示録でも示されていました。すべてchazon幻に関わる事は終わりの時であり待つ時が終了する時である事が分かります。

ガブリエルはさらに焦点を絞っていきます。
8:19言った、「見よ、わたしは憤りの終りの時に起るべきことを、あなたに知らせよう。
ここで終わりの時と訳されている言葉は前に原文でしめした。Eth qets(終わりの時)とは違います。

へブル語原文: ????????
音訳: acharith
音声スペル: (akh-ar-eeth')
訳: after-part, end, prophetic future, 預言的将来、後の部分、終わり、

ガブリエルはダニエルに預言的将来とはどういう意味が、いつのことをさすのか教えようと言っています。そしてガブリエルは明確な答えを次に示しています。

それは定められた(moed)終りの時(eth qets)にかかわるものであるから。

定められた時に終わりは来る。とするならばその“定められた時”がいつかが分かれば”終わりの時“がいつなのかも分かり、また”待っているとき“がいつ終わるのかも分かってくる事になります。

19節にはもう一つのヒントが示されています。預言的将来(acharith)に憤りがある。憤りとはなんでしょう?それは神の怒りです。(エレミヤ10:10、50:25、エゼキエル21:31、22:31)黙示録に最後の時代に地上に注がれる神の怒り、哀れみがまだ含まれるラッパの預言と哀れみが含まれない七つの災害の預言を含みます。その学びはまた別な時に取り上げる事にします。

「見よ、わたしは憤りの終りの時に起るべきことを、あなたに知らせよう。それは定められた(moed)終りの時(eth qets)にかかわるものであるから。ダニエル8:19
次回に更に進んで終りの時から始まる定めらた時をみていきたいと思います。
 

定められた時 続3

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月18日(水)23時13分52秒
  図を文章の途中で入れる事が出来ないので分けて投稿します。

定められた時続で示した図はどういう事を意味しているのでしょうか?それは“定められた時”に最後の預言が開始し、キリストの再臨までの秒読みが始まるという事です。

まとめると:

1. “定められた時”は”待っている期間”の終了と関係している
2. Chazon幻の預言が展開するのは“定められた時”の期間である。
3. “定められた時”の後まもなく明確な日時は分からないがキリストの再臨がある。

これに更に光を照らしている聖句を見てみましょう。黙示録10章1,2,6節
わたしは、もう一人の強い御使いが、雲に包まれて、天から降りてくるのを見た。その頭に、にじをいただき、その顔は太陽のようであって、その足は火の柱のようであった。彼は、開かれた小さな巻物を手に持っていた。そして、右足を海の上に、左足を地の上に踏み下ろして、・・・天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造り、世々限りなく生きておられるかたをさして誓った、「もう時がない。(待つ時が終了する)


ここにある小さな巻物はChazon幻です。なぜなら前回の学びみたように封じられたのはchazon幻でした。それが開かれる時、(開かれるとは最初は聖徒達による知的な理解から始まり、(ダニエル12:4) 預言されているEvents諸事件の展開に続く。)もう時がない-待つときはやがて終了し、定められた時が始まるとのアナウンスメントです。定められた時の期間は黙示録11:2,3で述べられています。“聖所の外庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられたところだから。彼らは42ヶ月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。そしてわたしは、わたしの二人の証人に、荒布を着て、1260日の間預言する事をゆるそう。”もう一人の強い御使いはその描写からキリストである事が分かります。キリストが厳粛な誓いをもって宣言しておられることからその成就の確実性と宣告内容の重要性、また緊急性を悟る必要があります。

ダニエル書12:4に「ダニエルよ、あなたは終わりの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探りしらべ、そして知識がますでしょう。」とあり黙示録10章6節にはこの終わりの時の開始が告げられています。
 

定められた時 続

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月18日(水)22時59分48秒
  ダニエル書12:4
ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」。

封された書chazon幻は黙示録10章では開かれた小さな巻物としてあらわされています。Mareh幻は封されませんでした。言い換えれば終わりの時まではchazon幻は開かれない、理解されないという事ではないでしょうか?それではその終わりの時とはいつの時の事でしょうか?1798年?1844年?神様が示されている終わりの時とはいつの事をさすのかを理解しなければそれに属する諸事件に関しても正しい理解が得られません。ハバクク書で“待っている時”が終了するとき“終わりの時“が始まると示されています。

最初ダニエルはこの終わりの時に関して勘違いをしていた事がわかります。(8:14)この幻を見せられた時、ダニエルは70年の捕囚の後に彼の民が解放されるとの約束の成就を思い、その約束の成就が2300年と途方も無い期間に延ばされたのかと心痛のあまり数日の間病みわずらったと(8:27)とあります。8章の幻が示された547BCにはダニエルはそれ以上幻が示される事には耐えられませんでした。だからガブリエルは8年後にダニエルに再び使わされダニエル自身が自分の経験(イスラエルの捕囚からの解放と再建)と重ねて考える事で幻の意味を理解できるように説明しました。それは同じく我々に対する神様の方法でもあります。ダニエルが段階的に導かれたようにわれわれも悟るまで神様は一歩、一歩導いて下さいます。

もう一度繰り返すと:
1. chazon幻は背教の力に関するメッセージ
2. 定められた時(moed)は神様によって特別にとっておかれた特定の期間
3. 終わりの時に(qets)真相が明らかになる。今はまだ漠然としているように思われてもそれは“ものをいう”ようになる。
4. 遅延(遅れているように思える)-待つ-滞りはしない、待つ事が終わる時“定められた時”が始まる。

ハバククの聖句に更に光を投げかけている聖句をへブル書10章36、37にみます。

へブル書10:36,27
神の御旨を行なって約束のものを受けるため、あなたがたに必要なのは忍耐である。「もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる。遅くなくことはない。…

ハバクク書の聖句を引用してパウロは述べています。しかしここで新しい真理が加わっています。“待っているとき“の終了とキリストの再臨は関係しているという事です。ハバクク書とへブル書を合わせて見てみると下記の図のようになります。

 

定められた時

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月17日(火)22時52分1秒
  嵯峨野教会牧師、ハゾンとマーレーに適するもっと正確な日本語訳があれば教えて下さい。今日から暫く"定められた時"に関して取り上げていきます。

前回までダニエル書8章には二つの幻がある事をみてきました。今回はその幻の一つChazon幻が開始する定められた時について学んでみたいと思います。なぜならこの定められた時を知ることは直接神が神の民の為に何をなされようとしておられるのかを知ることにつながるからです。われわれが生かされているのは実に厳粛な時代です。2500年以上も前に示された預言が今まさに成就しようとしている時に存在している事の意味を一人一人が深い瞑想のうちに神様に悟らせて頂く必要があります。我々の先駆者、信仰の大先輩達に関してはパウロは言いました「これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。・・・・・さて、これらの人々はみな、信仰によってあかしされたが、約束のものは受けなかった。神はわたしたちのために、さらに良いものをあらかじめ備えて下さっているので、わたしたちを他にしては彼らが全うされることはない。」へブル11:13、39,40我々はまさにその約束のものを受けようとしている時に生かされているのです。

定められた時

ダニエル書8:17
すると彼はわたしの立っている所にきた。彼がきたとき、わたしは恐れて、ひれ伏した。しかし、彼はわたしに言った、「人の子よ、悟りなさい。この幻(chazon)は終りの時(eth qets)にかかわるものです」。

ダニエル書8:19
言った、「見よ、わたしは憤りの終りの時に起るべきことを、あなたに知らせよう。それは定められた(moed)終りの時(eth qets)にかかわるものであるから。

ハバクク書2:2,3
主はわたしに答えて言われた、「この幻(chazon)を書き、これを板の上に明らかにしるし、走りながらも、これを読みうるようにせよ。
この幻(chazon)はなお定められたとき(moed)を待ち、終り(qets)をさして急いでいる。(欽定訳 終わりの時(eth qets)にものを言う)それは偽りではない。もしおそければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。

重要な言葉の原文

Moed ? モーエード
へブル語原語: ??????
音訳: moed or moed or moadah
音声スペル: (mo-ade')
和英訳: appointed time, meeting,定められた時

Eth Qets -エツ ケッツ
へブル語原語: ???
音訳: qets
音声スペル: (kates)
和英訳: end、終わりの時

これまでの学びから分かる事は
1. chazon幻は定められた時(moed)にかかわるものである。
2. 終わりの時にものをいう(欽定訳)
3. 遅くなる-待つ-chazon幻は“定められた”時に必ず臨む。
4. その時には滞りはしない。

ハバククが示す配列順




 

適切な日本語を探す必要

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2012年 1月17日(火)20時59分54秒
  どうも、ハゾンとマーレーには、幻よりももっと正確な日本語訳語が必要ですね。  

ふたつの幻 続

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月16日(月)00時35分49秒
  雄ヤギ

8:5
わたしがこれを考え、見ていると、一匹の雄やぎが、全地のおもてを飛びわたって西からきたが、その足は土を踏まなかった。このやぎには、目の間に著しい一つの角があった

雄ヤギもまた聖所の動物であります。ここで出てくる雄ヤギはアレキサンダー大王で始まるギリシャ時代への適用を超えてアザゼルのヤギすなわち悪魔をあらわしています。なぜなら8:21のガブリエルの解説でギリシャの王としてでてくる雄ヤギは欽定訳では"rough goat荒々しい雄ヤギ、荒々しいと訳されている原文をみると下記のようになります。

原語: ???????
音訳: sa'iyr
音声スペル: (saw-eer')
和英訳: 悪魔、毛深い、荒々しい

また、ギリシャは7章の獣の預言では豹で象徴されていました。黙示録でも豹が登場し、豹は終わりの時にサタンとサタンを代表する権力がどのように働くかを示しています。

「私はサタンがこれまで以上に強い力をもって働く事が見せられた。サタンは自分の時が短いのを知っていて、聖徒達に印が押されてしまうと彼らは自分の手の届かないところにおかれる事を知っている。サタンはありとあらゆる限りを尽くして知らず知らずのうちに聖徒達が自分達の防備をなくし現代の真理に対して惰眠させるか、疑わせるかに導いている。そうする事により聖徒達が生ける神の印を受ける事を防ごうとするのである。」
MS vol.8,p220

雄ヤギがサタンとサタンを代表する権力であるとするならば、最終時代に雄羊イエスと144,000に戦いを挑んでくる権力は何でしょうか?黙示録にその答えをみつける事ができます。海から上ってくる獣(黙示録13章、17章)、地から上ってくる獣(黙示録13章)-ローマ法王権を頂点とするバビロンです。

またこの雄ヤギが来る方向を見て下さい。聖書の預言に出てくる方角が示す意味を理解する事は大切です。雄羊は東から来て東が解放をあらわしている事は既に学びました。
8:5わたしがこれを考え、見ていると、一匹の雄やぎが、全地のおもてを飛びわたって西からきたが、その足は土を踏まなかった。このやぎには、目の間に著しい一つの角があった。

雄ヤギは西からきます。西は聖書の預言の中で“背教”を意味しています。(エゼキエル8:16)

その雄ヤギが雄羊に対してなにをするでしょうか?

8:6この者は、さきにわたしが川の岸に立っているのを見た、あの二つの角のある雄羊にむかってきて、激しく怒ってこれに走り寄った。
8:7わたしが見ていると、それが雄羊に近寄るや、これにむかって怒りを発し、雄羊を撃って、その二つの角を砕いた。雄羊には、これに当る力がなかったので、やぎは雄羊を地に打ち倒して踏みつけた。また、その雄羊を、やぎの力から救いうる者がなかった。

? 激しく怒ってこれに走りよった
? 怒りを発し
? 雄羊を撃って
? その二つの角を砕いた
? 地に打ち倒して踏みつけた

これらの聖句にある描写からだけでも壮絶な戦いが繰り広げられる事が読んで取れます。まず雄羊のアクション(144,000人が後の雨を受けて大いなる叫びを持って全世界に出て行く)がありそれに対して激しく怒ったサタンとサタンを代表する権力が立ち上がります。ダニエル書11:44節には“東と北からの知らせが彼を驚かし“とあります。各時代の大争闘の38章をお読み下さい。如実にこの時の神の民の経験が描写されています。
この戦いは8章でChazonと呼ばれている幻です。これは定められた終わりの時にかかわるもの(8:19)だとガブリエルはダニエルに伝えました。 またその幻を封じる、秘密にしておきなさい(8:26)とも命じられています。
定められた終わりの時とは何時の事でしょうか?ハバクク2:3には“この幻はなお定められたときを待ち、終わりをさして急いでいる。それは偽りではない。もし遅ければ待っておれ。それは必ず臨む。滞りはしない。”とあります。
定められた時、欽定訳では“Appointed time” は過去にすでに起こった事でしょうか?SDAは従来8章の預言は1844年で終了したと理解してきました。 封じられた幻はすべて開かれ1844年に至ったと理解してきたと思います。 本当にそうでしょうか? 8章で秘密にしておきなさいと命じられたのはChazon幻です。8章の幻を原文でみるとSDAが従来封じられてきたと理解していた8:14節の預言は実は封じられた幻ではなかったのです。2,300の朝夕の幻はmarehと呼ばれキリストはガブリエルに命じダニエルにこの幻を悟らせるよう告げました。(8:16)ガブリエルはダニエルにmareh幻を悟らせる為に再び現れ、(9:23)そしてダニエルは10:1にこのmareh幻を悟ったと記されています。

まとめると:

Chazon 幻 - “定められた時”にサタンとサタンを代表する人々が最終時代に生ける神と神の民にどのように戦いを挑んでくるか。封じられた幻
Mareh 幻  - 神の民が最終時代にどのようにサタンとサタンを代表する権力に対抗して戦い、解放され、回復され神の永遠の義の完全な擁護が立証されるか。封じられなかった幻

次回からこのChazon幻にみる定められた時と9章で取り上げた70週の預言にあるGAPの関係、いよいよ第二のGAPについて取り上げていきたいと思います。 01.15.12.
 

二つの幻

 投稿者:谷川を慕いあえぐ鹿メール  投稿日:2012年 1月14日(土)23時22分29秒
編集済
  Marehとchazonで表されている二つの幻:
このように原文と入れ替えてみるとダニエルの幻の中に二つの幻があり、ダニエルに幻の解説の為に使わされたガブリエルははっきりとこの二つを分けて説明しています。一つは終わりの時まで封じられた幻chazon、もうひとつは朝夕の回復の幻marehです。

それでは具体的にこの二つの幻をみていきたいと思います。

Chazon:
8章の1節からダニエルはまずchazon幻が与えられた事がわかります。3節から12節まで雄羊と雄やぎで描写される激しい戦いの場面が出てきます。従来この雄羊はメドペルシャ、雄ヤギをギリシャに当てはめてまた雄ヤギから出てくる小さな角を法王権と捉え1260年間続いた暗黒時代に当てはめてきました。確かにその適用も事実だと思います。実際8章の20節以降にガブリエルはそのように解説しています。しかし聖書の殆どの預言には2重の適用、マイナーアプリケーション(小適用)と最重要適用(greater application)があって、最重要適用は常に最終時代に当てはまり我々を歴史のクライマックスへと導いてくれる事は前回も述べました。このダニエル書8章の預言はその事が顕著です。従来の理解だけでいくならば3節から12節までの預言は1798年に終りを迎えた法王権で完了しそして1798年から終りの時が開始したと教えられたきたと思います。
このchazon幻は終わりの時まで封じておきなさい(8:26)と命じられています、それではガブリエルによって終りの時まで封じておきなさいと命じられている終りの時とは本当に1798年でしょうか?その事がわかる為にはまず雄羊と雄ヤギの戦いで演じられている象徴が何を示すものであるのかを見極める必要があります。2章や7章のダニエルの預言の中で象徴として用いられてきたものは像や獣でした。8章は全体が聖所のシステムを象徴として用いているのがわかります。古代イスラエルに制定された聖所とその儀式は神様が罪をどのように対処し最終的に処理されるか、また神の民がどのように回復されるのかを象徴的に示していました。その事から聖所の象徴を用いている8章からの預言は神様の契約がどのように成就されるか、最終時代に起こる善と悪の戦いのクライマックスとその最終決着がどのように果たされるのかについてである事を意味します。

その事を踏まえたうえで、雄羊、雄ヤギが象徴しているのをみてみましょう。

8:3
わたしが目をあげて見ると、川の岸に一匹の雄羊が立っていた。これに二つの角があって、その角は共に長かったが、一つの角は他の角よりも長かった。その長いのは後に伸びたのである。

雄羊

雄羊は聖所のシステムが制定される以前から罪を贖い人類の身代わりになられるキリスト神の子羊を象徴していました。(創世記22:13)聖所の儀式の中で雄羊は最終的な罪からの贖い、清め、回復をあらわしていました。(レビ記16:3,5,24)雄羊は契約の動物であり神の契約の成就を意味します。では何故8:20には雄羊がメドペルシャとして説明されているのでしょうか。このことを理解することはとても大切です。メドペルシャ(クロス大王)はバビロンから神の民を解放する者として象徴されています。神の民を解放したクロスはキリストのシンボルでもありました。クロスの特徴とキリストの類似点が聖書に記されています。


クロス
私の羊飼い (イザヤ44:28)
油注がれたもの(イザヤ45:1欽定訳)
東から来た(イザヤ46:11)
捕囚を解き放つ(イザヤ45:13)
義を持って (イザヤ45:13)

キリスト
良い羊飼い (ヨハネ10:11、へブル13:20)
霊と力を注がれた(使徒行伝10:38)
稲妻が東から(マタイ24:27)
囚人が解放され(ルカ4:18)
義なるキリスト(ヨハネ第一2:1)

8:4
わたしが見ていると、その雄羊は、西、北、南にむかって突撃したが、これに当ることのできる獣は一匹もなく、またその手から救い出すことのできるものもなかった。これはその心のままにふるまい、みずから高ぶっていた。

また8章4節にはこの雄羊がくる方向が示されています。”雄羊は西、北、南にむかって突撃した”とありますからこの雄羊は東の方からやってくる事がわかります。興味深い事実はクロスがバビロンに進行してきた方向も文字通り東からでした。キリストが再臨の時地上に近づいて来られる方向も文字通り東です。(マタイ24:27)預言の象徴で東は“解放”を意味しています。
また、この雄羊には二つの角がありました。角は預言では国、権力、王達をあらわしています。もし雄羊がキリストで象徴されているとするなら最終時代にキリストの働きを助ける二つの力は何にあたるでしょうか?また注意して頂きたい事は“一つの角は他の角より長く、長いのは後に伸びた”とある事です。
ここに終わりの時にキリストを助けて善と悪との大争闘を完結させる二つのグループの姿が浮かび上がってきます。


1. 短い- 最初に登場してくる144,00人
2. 長い- 後にでてくる数えきれないほどの大勢の群集

最初雄羊は”立っています”それはイエス・キリストが待っておられる姿をあらわしています。それから行動を起こします。まず後の雨を受けてその結果行動が起こされます。霊はイエスをあらわしています。

「福音の大いなる働きは、その開始を示した神の力のあらわれより劣るもので終わることはない。福音の開始にあたって秋の雨(前の雨)となって成就した預言は、その終局において、春の雨(後の雨)となって再び成就するのである。これが使徒ペテロが待望した「慰め(原文ではrefreshing(活気づけ、回復の意)の時)」である。かれは次のように言った。「だから、自分の罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて本心に立ち帰りなさい。それは、主の御前から慰めの時が来て…イエスを、神がつかわして下さるためである」(使徒行伝3:19,20)神のしもべたちは、清い献身の喜びに顔を輝かせ、天からの使命を伝えるために、ここかしこと奔走する。全世界の幾千の声によって、警告が発せられる。奇跡が行なわれ、病人はいやされ、しるしと不思議が信じる者に伴う。」 各時代の大争闘下巻 382頁

ダニエル書8章は私達を最終的なイエスの証の為に立てさせ、彼の民が回復する時すべての圧制、抑圧、迫害はバビロンの崩壊とともに終了する事を示しています。その事は更に詳しく黙示録に残りの民、144,000の使命としてみる事が出来ます。よって、雄羊はメシヤ、救いの君であり2次的には彼の民をあらわしています。

次回は雄ヤギについてみてみたいと思います。
 
    (牧師) 山羊編が待たれます。  

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