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講評

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2008年 5月21日(水)11時58分55秒
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  弱き者様

早速お答え下さり有難うございます。

まず、ホレブはシナイではありません。場所が全然違います。申命記の舞台は既に
シナイ半島を過ぎ、ヨルダン川の東側に回りこんでいて、今これからまさにヨルダ
ン川を渡ろうとしている所です。イスラエルの民はまさにヨルダン川を渡ってカナ
ンの土地を与えられようとしているのです。シナイの山ではじめて戒めを与えられ
た時点からは彼らにも信仰と心の変化があったはずです。それを読み取る事ができ
れば答えはおのずと明らかになるでしょう。もちろん矛盾なんかでは全然ないとわ
かります。

テサロニケの手紙の問題(といっていいのやら)は、あなたの回答で正解です。聖
書の言葉は神の言葉です。人間の言語を通して書かれていますが、その本質は、人
間の恣意的な激しい改竄を受けない限り神の言葉です。神の言葉は基本的に全時代
の全人類に時代の時間的制約を越えてダイナミックに語られているのです。私はこ
れを教会の青年に「神のみ言葉の4次元性」という説明をしています。「ルカの福
音書がテオピロ閣下のために書かれたのであって我々のためではない」という人は
誰もいません。それと同様にパウロの書簡もそれぞれの教会の信徒に宛てて書いて
いるという体裁を取っていますが、聖霊によって語るその目は当時の教会員たちの
更に背後に時代を超えて現代の我々を聴衆として見据えていたと考えるとよいので
す。それによりますと、確かに我々の信仰を同じくする兄弟の中に主の来臨の時に
生きている人がいると堂々と宣言する事ができるのです。これを聖書の矛盾とか事
実ではないと主張する人は、高等批評のような似非神学理論にかぶれた偽聖書教師
か、聖書の表面しか読み取れない知恵の浅い人であると言っても過言ではありませ
ん。幸いそういう人はもはやこの嵯峨野教会にはおりません。
 
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