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イエスは旧約聖書は「私について証をしているものである」(ヨハネ5:36)とはっ
きり述べておられます。「旧約時代はその時代の人のために書かれた」などという
詭弁は一切ありません。ですから新約聖書も同様に「その時代の人だけに書かれた
のですな」などという主張は聖書の書かれた本旨ではなく、全時代にわたってキリ
ストを証するものであるとするならば、旧約聖書と同様にこれも時代を超えてキリ
ストを証するものとみなされます。それで、新約聖書も旧約聖書もキリストを証す
る「証人」と擬人化されて黙示録で表現されたというわけです。これはこれで説得
力を有します。
「二人の証人」がなぜ新約聖書と旧約聖書なのかという、聖書的説明がユライア・
スミスの本に述べられているのをご存知ですか。あなたの教会の牧師さんは教えて
くれたことがありますか。ユライア・スミスの「ダニエル書黙示録」という本の
534ページにこんな説明があります。
二人の証人の比喩の理解はゼカリア書4:11-14を念頭に置いている。そこには二つ
の燭台と油の流れが記されている。聖霊の油が流れ、その燃える火の明るさによっ
て真理が照らされるという意味において二つの燭台は聖書なのである。聖書はそこ
に書かれた字面だけで意味を成しているのではなく、そこを深く探れば新たな光に
照らされて新たな発見をする書である。そこに聖書の深みがある。
と言う風に、二人の証人を新旧約聖書にたとえるのはそれなりのポピュラリティを
有します。ただその場合問題になるのは、聖書が人に喩えられるのとは別に、この
証人が本物の二人の人間である可能性はありえないのかという質問の答えをまだ誰
も見つけていないということなのです。つまり、これは二人の人間が実際に証に立
ち上がり、黙示録に書かれているように処刑され、その後衆目の前で甦って世人を
恐怖のどん底に陥れると言うことが実際に起こるのではないかということです。そ
れはあり得ない事でしょうか。
つづく
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