|
|
QVD様、初めまして。
メッセージを心より感謝致します。
「信仰生活の中での揺らぎ」、「信仰の危機」という事ですが、
主によって与えられた信仰によって生かされる中で、
時として思いもよらない思いを抱くことがあります。
今まで信じていると思っていた事に対して、
雷に打たれたかのように大きな衝撃をもって突如、疑いへと変わる事が。
私自身は、洗礼を受ける前に学院の宗教週間週の中で、
イエス様が湖の上を歩かれたという奇跡に大きな疑いを抱きました。
「そんな事があるわけが無い。」その思いが、
今まで信じ始めていた思いを一瞬にして惑わしたのです。
イエス様が湖の上を歩かれた事ついては、今までも何度も聞いていました。
しかし、なぜか突然、疑いとして心に入ってきたのです。
それまでは、聖書が好きで、神様が好きで、
学院の神学科教授の夫人には「あなたは看護よりも神学の勉強の方が熱心ね」
と、言われていました。
私は、その疑いを牧師や神学科の教授や、神学科の生徒にぶつけました。
自分が持てるだけの精一杯の疑いをすべてぶつけました。
しかし、どうしても疑いは消えず、大きくなる一方でした。
そのような中で、私は聖書を捨てました。
この格闘の出来事は今でも忘れられない経験です。
今まで信じているものが、ある日突然、疑いとなって心に入る。
そのような出来事に対して、私は「信仰生活の中での揺らぎ」、
「信仰の危機」という言葉を用いました。
信仰は戦いであるという厳粛な事実があります。
仰る通り、それは聖書に明白に述べられ示されています。
にも関わらず、「ある日、突然、疑いへと変わる」事が起こるのです。
「疑いへと“変える”」存在がいる事もまた存じております。
大争闘の通読を繰り返す中で、学んでおります。
…信じていると思っているものが、ある日突然、疑いへと変わる。
敵は盗人のように思いもかけない時に襲ってきます。
だからこそ、主は目を覚まして祈れと言われているのだと思います。
QVD様、何ともまとまらない駄文をご容赦下さい。
お書きになられました、最後の一文
“私達には主なる神様が必要だ、
しかし神様も私達を必要とされておられます。(神様の義の証人として!) ”
が、とても心に響いております。
|
|