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キリストは大切な真理を人間世界の言語や精緻な論理で語るのではなく、例えで語
られました。それは重要な意味があります。論理でものが理解できるというのはあ
る程度教育を受け論理思考のトレーニングを受けた人でなければ必ずしも可能では
ありません。端的に言えば「神学」というのは、聖書の教えを論理的に言語を並べ
て説明しようとしたものです。しかしそれは人間が後付でやっていることであり、
神がはじめに人間に対してそのようにされたのではありません。トーラーの戒めも
言語でかかれましたが、そんなに難しいものではありませんでした。「霊的」とい
う言葉を聖書の教えを論理的に深く突き詰めて考えることの出来る人という意味で
使っている人は学位を持った「神学者」こそ誰よりも霊的な人であるということに
なります。しかし、聖書が意図する霊的な霊性とはそういうものではありません。
そもそもイエスが言われた「たとえ」とは何でしょうか。「イエスは子羊である」
とか「イエスは門である」というものが例えです。イエスは神の子であり、獣の羊
ではありませんから、イエスが子羊だ、といった時点で論理は既に省みられていま
せん。そうではなくイエスと羊の共通点が思考されるのです。実に聖書の真理はこ
のような例えで語られています。イエスが子羊に例えられたときに、そこに神の子
の使命と属性を理解するのです。
換言すると、霊性とは、例えを聞いてどれだけ神の事に心の思いを馳せる事が出来
るかというタラントなのです。神学の博士号を持っていてある程度限られた分野で
なら厳密で論理的な思考は出来る神学者であっても、聖書の例え、預言の霊の例え、
聖霊が耳の後ろで囁いた声が示した例えが理解できないなら霊性があるとはいえま
せん。そういう人は自分の論理思考能力に頼って過信する余りに聖霊の声に耳をふ
さぎ預言の霊の賜物を否定したり、軽んじることすらするのです。
精神科のクリニックでは精神分裂病(統合失調症)の人に例えを言ってみてどの程
度理解できるかを評価します。たとえば「転がる石に苔つかず」とか「He who lives
in glass house does not throw a stone」といったことわざの意味を尋ねると、
分裂病が重症な人は、ことわざを正当に解釈することができません。「石が転がっ
て苔がとれやすいだらう」とか「ガラスの家に住んでゐる人は投げる石が無いのか」
などとことわざの例えを逐語的な固着解釈しかできず、そこにあるアナロジーを発
見解釈できないのです。これは前頭葉の機能障害であると解釈されています。同じ
現象は睡眠不足の人、アルコール、カフェイン、コーラ飲料を大量に摂取している
人、不摂生をしてボンヤリしている人にも見られます。つまり自分を清めることは
神のメッセージがよくわかるように前頭葉の働きをクリアに維持することになるの
です。もちろんそれだけが大切だというのではありませんが、こうした些細なよう
な事によってもあなたの霊性は啓発される可能性があるのです。
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