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ある牧師への手紙(娘が書いた)

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2009年 7月15日(水)07時18分34秒
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  長いことご無沙汰して申し訳ありません。学校でいろいろと忙しくて、夏休みも物
理のクラスをとりまして、やっと夏休みになった感じです。これよりもっととんで
もない言い訳は、元々は手紙ぶしょうだったので、そもそもメールをあんなに続け
ていたのが奇跡ぐらいなんです。メールを書けなかったのを申し訳ないと思いまし
たが、先生のことを祈ることしかできないで時間が過ぎていってしまいました。
Andrewsに来られなかったこととはあまり関係ありませんから。正直言って、日本
のためのほうが喜ばしいと思いました。

ところで、最近うちの家族とAさんと一緒にAndrewsであった1888についての
Meetingに一週間参加しにいきました。はじめはすごく難しくてなにを話している
のかついていけなかったのですが、Aさんがいろいろと解説してくださったので、
なんとか理解することができました。まず、最初に習ったのは、信仰についてどう
いう解釈をするということでした。聖書の中で、「キリストを信じる信仰」と書い
てあるところは、間違って翻訳されているらしくて、ギリシャ語を直訳すると、
「キリストの信仰」となるはずなんです。ギリシャ語の信仰というのは、信じる人
に焦点を置くのではなく、信じているものに焦点を当てているのです。つまり、神
様がどのくらい偉大な方で、「信頼する価値」に値するかが信仰なんです。だから
信仰というものは、神様がどれだけすばらしい方であるかを、その愛に感謝するだ
けなのです。自分の力で頑張って得るものではないんです。あるいは「信じます」
と告白してなるものでもないのです。

一番、聖書の中で理解できるこの信仰のDefinitionはマグダラのマリヤがイエス様
に香油を塗ったところの話なんです。なにも言わないけど、心が感謝で溢れている
のです。あと、そのことで学んだことなのですが、マリヤの買った香油は300デ
ナリ以上で、一デナリを一日の給料とすると、だいたい一年分の給料に値する品物
だったんです。それを、小さじ一杯ぱらぱらと頭にふりかけるのが普通なのに、イ
エス様の足にどばーっと、注いだんですよ。常識的に考えたらとんでもないことで
すよね。でも、その香油を注いだことはイエス様の十字架の恵みも表してるのです。
高価な油が床にも流れて、すごくもったいなく見える光景が、イエス様には自分の
血に見えたのでしょうね、と誰かが言ってました。イエス様は、人類のためにすご
くもったいないほどの犠牲を払ったのです。愛は計算しませんから。マリヤの行為
の結果、彼女はすばらしく十字架の説教と信仰とアガペの愛を世の中に十分に説教
したのです。彼女の信仰が、144000人の再臨信徒にも現れるのです。キリス
トの信仰によって品性を完全にして、キリストの愛を反射するのです。

あと、ヘブル書で、古い契約と新しい契約が、アブラハムの子のイシマエルとイサ
クで表されています。それは、古い契約とは、自分の力でなんとかやろうとする精
神なのです。アブラハムの信仰というのは、神様がすばらしい約束を話されたとき
に、アブラハムが「ああ、すごいですね」と感謝したときに、それがアブラハムの
信仰なんです。それで、約束の子が与えられるよ、と言われて長い年月が経って、
アブラハムがなにかその神様の約束を早めようかな、と自分の力で頑張ってできて
しまったのがイシマエルなんです。だから、それは古い契約なのです。それで、イ
サクが生まれたときは、それは100%神様の実業だから新しい契約なのです。二
つとも同じ契約なのですが、進み方が違うのです。イスラエルの十戒でも、本来へ
ブル語では、その律法は未来系にかいてあるのです。それは、神様に少しでも耳を
傾けたら、この掟も守れるような人に変えてあげるよ、と言われたのです。でも、
イスラエルの人は、「はい、全部守ります」と誓いました。自分で全部できると思
ったからです。これが古い律法なんですね。そもそもエジプトでは、なんでも命令
を守るということを習慣にしていて、十戒と反対な文化であったので(偶像もあっ
たし、姦淫してもよかったし、土曜日まもれなかったし)、神様が元に戻そうと、
神様のことを思い出させようとして十戒をお作りになったのです。そして、いつも
パロからなにか働いた報酬として食べ物が与えられていたから、神様はマナを降ら
せて、わたしが食物を与える神だよ、と思い出させようとしたのです。

それと色んなことが見えてきたという真理は、Corporationというものです。人類が
一体となっているということです。一つの例は、ヘブル書で、アブラハムがメルキ
ゼデクという祭司に十分の一の献金を捧げたときに、祭司のレビの子孫はまだアブ
ラハムの腰の中にいた、とあります。でも、結果的に、レビもアブラハムと一緒に
十分の一の献金を捧げたということになるのです。これは、私たちが罪を犯したの
は、アダムが罪を犯したから、というのと同じ原理です。私たちはアダムが罪を犯
したときに彼の中にいたからです。同じように、ダニエルが、イスラエルの民を自
分と一緒に含めて、「我々の罪をお赦しください」と求めているのもCorporationな
のです。神様は、私たちの罪を赦すときに、かすとかは残さないで、完全に吹き払
って清めます。それだから、誘惑に負けて罪が重なっているように思えても、それ
は違うのです。赦されたときには完全になくなっているのです。それで、自分は罪
を犯さないと思ったとしても、神様は、思いもよらないところの罪を私たちの心か
ら引き出してくださるのです。それは、たとえば、殺人はしていないけれども、も
し私が違った環境に生まれていたら、殺人をしたかもしれない、こういうところで
育ったら、真理を受け入れないがんこなパリサイ人になってたかもしれない、とか
そういう罪を教えてくださいます。だから、私たちが皆キリストを十字架に掛けた
というのは、そういう罪の傾向を持って生まれたからなのです。キリストは、そう
いう体を持って生まれて世の中に来られました。だから、私たちとおなじように罪
の告白をしてバプテスマを受けられたのです。そして、キリストがバプテスマを受
けられたとき、私たちはキリストの中にいました。十字架の上のキリストの中にも
いました。だから、私たちは罪に一緒に打ち勝ったのです。キリストが、荒野でサ
タンに誘惑に会われたときの、「人はパンだけで生きるのではない」という聖書の
言葉を引用したところがありますけど、そこのヘブル語で「人」というところは
「アダム」と書いてあるのです。だから、キリストは、「アダムはパンだけで生き
るのではない」と答えたのです。だから第二のアダムだと主張したことになります。

キリストの人性はアダムよりも衰えたものです。証拠に、イエス様はTorahをお読み
になりました。アダムの時代では、記憶力が良いので読むことはしなかったからで
す。キリストの人性がよく見えてくるのは、ルカの22章で、イエス様が、ゲッセ
マネの祈りで「わたしの意志ではなくて、神様の意志がなりますように」とあると
ころです。今までずっと「わたしの意志は父の意志」と言われていたのに、ここで
は二つの意志に分かれているのです。それは、人間が死にたくない、と思う気持ち
が入っていたからです。アダムが堕落する前は、エバが堕落したときに、エバのた
めに溢れる愛があって、罪のために堕落した運命を共にしたい、という気持ちがあ
ったのです。ところが、アダムが共に堕落したあと、エバに罪の所為をなすりつけ
てまで、自分自身を守って生き延びたい、という気持ちに変わったのです。罪にあ
る人は誰も、自分から死にたいとは思わないのです。そこで、イエス様はその人性
と戦われたのです。「命を救いたいと思うものはそれを失い、命を捨てるものはそ
れを得る」のです。よみがえる前の三日三晩(ゲッセマネの夜を含めて)、キリス
トは自分の人性の罪を思い巡らされました。(どうやら、三日三晩とは自分の罪を
思い返して悔い改める期間なのです。たとえば、ヨナとか、エステル(自分の民が
昔他のイスラエルの民と一緒にバビロンに行かなかったから、こんな目に会ってい
るのだ、と三日の間ユダヤの民と悔いたのでしょう)などです。
キリストがお生まれになったときは、霊と肉が合体していたのですから、まるで私
たちが聖霊が私たちとともにいるみたいない状態だったのです。それで、ずっと子
供の時から聖霊の声に素直に聞き従って、12歳のときに初めて自分の使命を悟っ
たのです。そして、信仰も成長しつつ、30歳になられたときに、イエス様の信仰
は完全になったのです。その完全な信仰を私たちが受け継ぐのです。いいえ、信仰
はもうすでに昔から与えられているものなのです。でもその信仰を使って、イエス
様と同じように罪を克服して完全なものとなって生きてイエス様を迎えるのが最後
の時代の人達なのです。神様の栄光は燃える永遠の火ですから、罪が少しでも残っ
ていれば焼き滅ぼされます。なので、地獄の永遠の燃える火というのは、あれは神
様の栄光で、我々は神様の燃える火の中の栄光で永遠に焼かれないで過ごすという
のです。罪人はすぐに滅んでしまいますけどね。生きて再臨を迎えられる人はその
すばらしい特権に預かっているのです。勿論、罪がなくなるということは、信徒た
ち互いの罪を告白して(Corporationの原理で)、団体で真の教会の花嫁としてキ
リストをお迎えすることです。だから、個人個人が霊的に成長していても、キリス
トの花嫁はまだ準備ができてません。1844年の時に、キリストが大祭司として
至聖所に入られたときに、Day of Atonement が始まったのです。昔では、これが、
大祭司が入っていって、罪の贖いをするために行くのですが、大祭司の罪や民の罪
が一つでも残っていたら、大祭司が死んでしまうのです。なので、民は皆罪の告白
を必死にして断食していました。この民、つまり私たちが一つになって祈って集ま
るときに、後の雨が降るのです。(そして、断食はずっとしてられないので、エレ
ンWhiteは、それでは、菜食にしましょう、ということになったらしいです。)

なんだかいっぱい書いてしまいました。でも、参考になってもらえたら嬉しいです。
後の雨のために励みましょう!
長谷川真知子より

copy: 嵯峨野教会牧師(父)
 
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