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アブラハムの約束:旧約聖書で神様は色んな約束を人々にしているように思えますけど、一つの約束しかしてないのですね。それは、キリストが人類のために死んでくださって、世界が罪から救われることなのです。神様がアブラハムに与えられた約束は、キリストと人類の救いなのです。アブラハムの子孫が約束の地に入るというのは、キリストによって救われる数多くの人たちが天国に入るということなのです。アブラハムがイサクをいけにえとして捧げるとき、息子を思う思いとともに、息子の子孫から出るはずのキリストととそれにかかっている自分の救いはどうなるのだろう、とすごい信仰を求められたのです。でも、アブラハムは、そもそもイサクはありえない「死」の体から生まれたので、キリストも死から生まれるだろうと、神様の約束を信じたのですね。イサクが死んでも蘇るという確信があったのです。こういうわけで、アブラハムは信仰を働いたのです。働きと信仰によって義とされたのではなく、働く信仰によって義とされたのです。神様の与えられたすばらしい約束を信じて、それに信頼しているという証をするために行動に移したのです。
割礼は古い契約から新しい契約に入ることを表しています。アブラハムが自分の肉に頼って、神様の約束を成就させようとした結果イシマエルが生まれました。そして、イサクは、人によらず神のみの力で生まれました。なので、自分の肉に頼ってはいけないということで、割礼をすることになったのです。それは、自分の肉に頼らなくても、キリストは必ずお生まれになることを約束されたという印なのです。そして、アブラハムは割礼を受ける前に約束の契約が与えられていたので、彼は、異邦人とユダヤ人の信仰の父なのです。それだから、心に割礼あるものは、すべての人がキリストによって救われるとの約束なのです。
ヤコブの約束:長子の権利は、約束の地に入れることと、財産を手にすることと、その子孫からキリストがうまれるということです。この財産というのは、天国の財産で、アブラハムにも約束されたものです。これは、だれでも、信仰による義で手にすることはできるのです。ヤコブに長子の権利が与えられるとリベカに予言されたのは、それはヤコブからキリストが生まれるために選ばれたということなのです。なので、エサウは神から捨てられたということではないのです。信仰によれば、エサウでも救いの財産を手にすることができたのです。ヤコブはエサウと違って、霊的な財産を得たいと思ったのですが、自分の力で手に入れられると思って、人生に悔いる大変な過ちを犯してしまいます。そして数十年後もエサウの怒りは以前のように激しく燃えていました。それで、ヤコブはエサウに再び会えば殺されてしまうのではないかと恐れていました。そして、明日のために神様がいてくださる確信を得るためにその夜を過ごそうとします。しかし、その静かな時間はある攻撃者によって壊されるのです。攻撃者と格闘しているヤコブはどんだけ失われていく時間に苦痛と苦悩を感じたのでしょう。けれど、攻撃者が触っただけで腿が外れた時、ヤコブはこれは普通の人ではなく神の人だと知ったのです。普通の人の腿が外れたら、一瞬にして倒れてしまいます。ヤコブも倒れましたが、意図的に神の人の方向に倒れてしがみつきました。救いと命は神様に掛かっていたからです。神の人が「離してください」と言われたのは、ただヤコブの信仰を試すためでした。神様は、意図的に人からは離れません。そして、ヤコブは祝福を神から得ることができたのです。それは、彼の力ではなくて、信仰によって得られることだと悟ったのです。そしてエサウに会うときはもう恐れませんでした。それは、神様に信頼することによって天の財産を得たことを確信したからです。
出エジプト:神様はパロに奇跡を見させるたびに、神の民イスラエルとエジプト人たちとの違いを見せさせた。それは、エジプトを滅ぼすためではなく、エジプト人が信じて救われるためでもあり、噂にながれて他の国民も救われることをご計画なさっていた。神様は全世界の救いを望んでおられるのです。そして、選ばれた民をつかって、神の栄光を現し、皆にキリストの福音が伝わるように望んでおられるのです。エジプトから出たイスラエルの民を神様は近道には導きませんでした。険しい山と海に挟まれたところで、エジプト人が追ってくることは予想されていました。しかし、神様が民を導いて守ってくださることを示すためにそうしたのです。そして、近道ではペリシテ人の地域に入るので、戦争に巻き込まれる可能性があり、イスラエルの民はまだ戦える準備などできていなかったのです。それだけではなく、イスラエルの民はまったくカナンの地に行くまで戦う必要はなかったはずなのです。それは、神様ご自身の御手によって、人の力で押し通すのではなく、カナンの地にはいるのです。民はただ信じる信仰だけでカナンに入れたのです。もし、イスラエルの民が疑わずにいたら、戦いなしでカナンの地に入れたでしょう。最終時代には、選ばれた民がまたカナンの地を目指して試練の旅をたどります。天国という目的地にたどりつくまでに、いろんな民をキリストのもとに導きいれていきます。約束の地は、人によらずキリストの信仰によって与えられるのです。
マナ:残りの民は神から与えられたマナで生きていくのです。神の言葉そのものなのです。神の力のみで導かれるのですから、神から食物をいただいて生きるのです。
シナイ山の律法:律法は罪の重さを思い出させるために書いたものです。それは、自分の罪深さが見えることによって、神の恵みの深さがあらわれることなのです。神様は律法を与えることによって、ますます信頼して欲しいと思ったのです。そして悔い改めをさせるためです。イエス様が昇天されたあとの一番最初の聖霊の働きは、皆に罪の自覚を与えさせ悔い改めさせることでした。自分の力で律法を守れるということを思わせるためにあるわけではないのです。それは信仰の義によらないのです。行いの義で自分が良い行いをしようと思えば、十戒だけでは足りないと思いがちで、どうしても人間的な律法を付け足してしまいます。そして、律法を付け足すにつれて、どんどん神様に従うことが重みになってしまい、ついには宗教を捨てたくなるところまでいってしまいます。これはパリサイ人達がやっていたことです。行いの義によって、律法ののろいの下に縛られていたのです。律法ののろいとは罪に対する死の宣告です。罪が大きいほど、神様の恵みはそれ以上に大きいのです。至聖所の契約の箱には律法が入っており、箱は神の御座を表しています。神の御座は恵みの座です。神の御前に来て恵みを賜り、罪を克服することができるのです。多くのクリスチャンは、「神様、何をすれば神の働きができるのでしょう?」と問います。しかし、我々罪人は罪のうちにあり、神様のなさる働きなんてとうてい自分たちでできるはずがないのです。むしろ、「神様の御心が我々の上になされますように。」と考えましょう。
エリコの城壁:民が城壁を回ったときにはすごい信仰がいりました。最初の一日や二日は、この奇妙な戦い方にエリコの住民は恐れをいだいていたのですが、しばらくたちますと、その行動が馬鹿らしく見えてきたでしょう。たとえ世の中から、まったく無意味で無駄な行動をしているな、と思われても、神様の御心を信じて疑わないことです。七日目に城壁を回り終わったときに、頑丈な建物に少しも崩れたところはありませんでした。しかし、ヨシュアは、「勝利の声をあげなさい」といいました。勝利は見えないけど、まるで勝利したように叫びなさい、といったのです。そして、民は従って、信仰によって勝利したのです。
アイの民:しばらくして、民はアイの人々と戦って負けてしまいました。それは、エリコの城壁の簡単な勝利を見てから、アイの人々の数を見て、「このくらいの少数人数だと勝てるでしょう」と言ったからです。エリコの城壁の勝利を自分たちの力も加わっていたから、と誤って考えてしまったのです。勝利は、神様だけのものということを学ばされたのです。
ヨシャパテ王:(第二コリント20章)神様は、民のために戦われたから、勝利の賛美をしなさい、と命じられました。ヨシャパテ王と民はこれを信じて、歌う人達を集めて戦いの先頭に立たせました。そして、敵の目の前で勝利の賛美を歌いました。すると、敵にむかって他の民が立ち上がって戦い、敵の方は混乱に陥りお互いに殺しあって全滅しました。まったくイスラエルの民は戦わず、ただ神が戦われることを賛美しただけなのであります。
安息日:神様は、我々を完全で欠けたところの無いように造られて満足しました。その六日間の仕事を終えた後に七日目でエデンで休まれました。このエデンの意味は“delight”(喜び)です。神様は七日目に喜んで休まれたのです。安息日は、エデンの園にアダムがいたころのように、神様に日常的な必要を満たしてくださることを信じて感謝する祝い日です。信仰によって休みに入れるのです。これは、天国に入るのと同じような休みです。天国に入れるという勝利を確信して賛美する日です。安息日に本当に休めるには、六日間のあいだに神様により頼むことをしていなければ難しいでしょう。なぜなら、神は七日目の日を祝福されたからです。七日目に人を祝福されたわけではないのです。六日間働いた信仰で、成長した信仰によって休みにはいることができるのです。
おまけ:神様は私たちを先に愛してくださったから、私たちも神様を愛するのです。そのように信仰も神から発したものなのです。神様が我々を信じてくださったから、我々も神様を信じられるのです。たとえ、不信仰であっても、神様は我々のことを信じ続けてくださるのです。
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