|
|
3.中世の始まりとローマカトリック教会の成立
中世 ローマ教皇権の確立
A.初めの数世紀間、キリスト教には今日言われるような教派はなかったが、キリ
スト教の五本山として知られているエルサレム、アンティオケ、ローマ、コンスタ
ンチンノープル、アレックスサンドリアの教会がそれぞれの神学を競って互いに優
位を競う主導権紛争が続いた。しかし歴史はローマ教会の勝利に終わった。
B.ローマは使徒パウロとペテロの殉教地という伝統的な自負心と共に大ローマ帝
国の首都という政治的メリットも持っていた。しかも330年東ローマ帝国が首都を東
方のコンスタンチンノープルに移転して形成された政治力の空白がローマ教会監督
によって取って代わられた。
C.392年キリスト教がローマの国教になり、政教癒着が始まった。時に始まったゲ
ルマン民族のローマ侵入を外交努力で防ぎとめたローマ教会監督Leo Iは、西暦451
年に最初の“父”を意味する今日の教皇の名称“Pope”というタイトルを公認され、
ここに最初の教皇が誕生した。
D.533年ユスチアヌス1世という教皇はゲルマン民族に蹂躙された西ローマを回復
する事にキリスト教の力を利用しようとし西ローマの精神的指導者になったローマ
教会の監督を全世界教会の頭と宣言し、これに障害になるゲルマン部族、ヘルリ
(493年)、バンダル(534年)、東ゴード(538年)をそれぞれ滅亡させることによ
って、ローマ教会が教皇権によって政治を主導する中世が始まった。この状態が6世
紀に始まり18世紀に教皇権がフランス革後に没落するまで12世紀以上も続いた。
E.それと近い時、世紀622年アラビアで起きたマホメットの起こしたイスラム教は
ローマ教会の主導権確立に大きな役割をした。ローマ教会の競争相手だったエルサ
レム、アンチオケ、アレクサンドリアなど東方の三大本山教会が7世紀初めに全てイ
スラムによって占領され消滅する事により、ローマ教会のキリスト教世界における
指導力はかえって確固たるものとなった。また732年にはヨーロッパを西側から侵入
したイスラムの勢力を追い払った功績を盾にした宮宰のカール・マルテルCharles
Martelはゲルマン民族が立てた最大王国であるフランク王国Frankの王位を不法に強
奪した。カロリング王朝Carolingianのピピン3世Pepinは、ロンヴァルドからラヴェ
ンナ地方を奪取して教皇に寄進し(ピピンの寄進)、ローマ教皇の支持を得て王位
についた。当時、教皇は東ローマと対抗する必要があり、背後に強力な国家を求め
ており、双方の利害が一致してカロリング朝とローマ教会が同時に発足したのであ
る。こうして今日のように領土まで備えた最初の宗教国家が誕生するに至った。
F.このように領土と教権を確保した教皇権は11世紀に至って中世期封建制度で政
治と経済のコントロール中枢となる叙任権まで勝ち取ることによって中世期絶対権
力を思うがままに掌握するに至る。絶対権力は絶対に腐敗するという法則は教皇権
も例外ではなく、既に4世紀に起きた背教に先たったローマ教会は急速度に頽廃と堕
落の道を走った。
G.こうして4世紀以来聖書信仰の係留綱が切れたローマ教会は6世紀に確立した教
皇権Papacyを押し立てて世俗的潮流に進路を任したまま中世期霊的暗黒時代に向け
て長しい背徳の道に暴走を始めた。
中世教会の背教の歴史とその内訳
こうして始まった中世教会の背教はその後中世期約1200年間続きその悪徳を重ねて
いった。次の歴史年表リストは長老教神学者Loraine Boettner博士の著書で取り揃
えたものだ。深みにはまるに任せて深くはまったこの背教の深い谷間を誰が埋める
のか。
その答えが宗教改革だった。そしてそれが宗教改革の主体のプロテスタントの避け
られない責任と歴史的使命だった。今日、私たちが属している教会がこの深い背道
の谷間を埋めるためどのような役目をしたか?そしていまだに教派の伝統に従い受
け継いだ信条の中でどのようなことが明らかされたか、何が聖書信仰に行き違う背
徳のだったのかを反省しながら詳しく見てみよう。この深い背徳の谷をルターLuther
とカルビンCalvinとウェスレーWesleyが一気に全て埋めたといえるだろうか?この
ような背徳の内訳と汚染から完全に抜け出した教会が本当にあるのか?あるならそ
れはどのような過程を経てそのようになったのか?それをつきつめるのがプロテス
タントが起こって宗教改革を始めた原因と結果ではないのか?
|
|