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皆が知るべき教会の歴史 4

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2009年 8月24日(月)09時18分57秒
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  5. 宗教改革の勃興とプロテスタントの起源

12世紀と13世紀にかけてヨーロッパの“王の王”となった教皇は、俗信習慣と
なった聖地巡礼を保障するという大義名分で回教徒からエルサレムを奪還しようと、
数回の十字軍(クルーセード)を起こし、おびただたしい流血と汚辱で染み付いた
十字軍戦争を敢行した。また1184年以降残忍な宗教裁判(Inquisition)を実行し、
異端撲滅に恐ろしい力をさらけだし、このためにも十字軍を動員した。
聖書には全く根拠がない煉獄教理を紹介し、行いによる贖罪の必要を力説した中世
教会は懺悔告白と共に苦行の必要を強調した。今でも教えている通り、“懺悔して
一旦は罪を容赦されても、その罪に該当する罰を受けなければならないが、この罰
を死後に受けるならば煉獄で受けるであろう。しかしこの世で受けるならば懺悔告
白に対して司祭が訓戒をした後に定められた祈りと犠牲、善行を行えば受けること
になるもの”を贖罪、すなわち「補贖」と教えた。
このようにして補贖の手段になった免罪符は自信の罪の刑罰を減免するだけでなく、
煉獄にいるという他の人の霊魂を天国に回送することもできるという奇怪な教えに
発展した。

宗教改革の大きな星−ルターとルター教
このような免罪符の露骨な販売は、既にフスがおこした改革に刺激を受け信仰によ
る救いを体験した若い神学教授だったマルチン。ルターMartin Lutherを覚醒させ
た。彼は信徒の良心を苦しめる教会の俗論を糾弾する95個条の質問状を1517年
10月31日正午にビタンベルク聖堂門に張り出すことによって世界歴史を変えた
大宗教改革の幕が切って落とされた。彼は即時異端者として告発され、1521年4月
18日には神聖ローマ帝国の国会に出頭を命じられ尋問され彼の主張を撤回を要求
されたが、これを大胆に拒否することによって宗教改革は引き返せない分水嶺を
越えた。

中世ローマカトリック教会と神聖ローマ帝国によって火刑に処せれる異端の宣告を
受けたルーターの教えは何か。彼は、(1)信仰の最高権威はローマ教会の伝統で
はなく「聖書のみ」“Sola Scriptura”にあり、(2)救いが得られるのは善行や
ローマ教会の司祭が指定した功徳ではなく、キリストの贖罪を全的に受け入れる
“Sola fides”によるキリストの義であり(3)救いはそのような信仰(信じる
心)を通して感謝のみ“sola gratia”の状態で与えられた贈り物(プレゼント)
であるとした。(4)また信徒たちは司祭の介入なしに直接神に向かうことができ
るという「万人司祭」を提唱し、(5)煉獄教理と霊魂不滅の教えを否定し、条件
的不滅を唱え、復活信仰を強調した。


ルターの宗教改革はプロテスタントの信仰の基礎を築き、カルビンに大きな影響を
与えドイツから北欧東欧まで広く普及した。

徹底的な改革者たち−スイスのツヴィングリZwingliとアナバプテストAnabaptists
A.ドイツでルターが改革を挑む中、スイスではドイツよりもっと徹底的な改革が
別途に進行されていた。敬虔なローマカトリックの司祭であり、学者で愛国者であ
ったユーリッヒ・ツヴィングリUlich Zwingli(1531没)は自分で聖書を研究した
て得た確信に従い、ローマカトリックの異教的な礼拝儀式と免罪符制度を全面否定
し、極度に堕落した聖職者たちの道徳的頽廃を論難する大胆な改革を呼び叫んだ。
また化体説に反対し、聖餐式のパンと葡萄の杯はキリストの犠牲に対する記念だと
教えることによってルーターの聖体共存説を進一歩させた。しかしツヴィングリの
改革を阻止するためにスイス北部のカトリック共同体communalismが外国の軍隊に
要請してこれを武力鎮圧し、彼は戦死してしまった。

B.ルターやツヴィングリよりもっと徹底的な改革を願う一団の改革者たちがスイ
スのチューリッヒで起こった。アナバプテストAnabaptistsまたは兄弟団Brethren
として名が知られた彼らは、コンラッド。グレーベルConrad Grebelとフェリック
ス・マンツFelix Manzの指導の下で、(1)信仰の唯一な根拠として深い聖書研
究を強調し、(2)国家と教会権力の分離を主張し、(3)罪を知らず悔い改める
ことも出来ない幼児への洗礼は非聖書的で無効と宣言し、成人信者にこれを再び授
けたため、こうして「再洗礼主義者」Anabaptistsの名称を得た。(4)聖書の教
えに従って死を睡りと同じ無意識状態だと教え、復活と迅速な再臨信仰を強調し
た。(5)教会から聖者の偶像と異教由来の儀式を一切除去することを主張し、
(6)信仰と良心の自由を尊重し盟誓を禁じ、(7)戦争を反対し武器使用を禁じ、
迫害を受けても対抗したりあだを討ったりせず、(8)全ての教会は信者たちが自
律的に信じおさめていく会衆制度を選んだ。

C.彼らの中には時に極端と狂信に傾き物議を起こした分派たちも現れ混乱を起こ
しはしたが、かれらの徹底的で豪胆な改革は後に福音主義的な改新教たちである
Mennonites, Amish, Hutterites, Baptists, Quakersなどを起こす根になった。

“MennonitesやBaptistsがAnabaptistを自分たちの霊的な祖先たちの中に含むこと
を恥ずかしがってはいけない。かれらの自由な教会記念は独立主義的清教徒と
Baptist、Quakerに影響を与えた。”


D.それにもかかわらず彼らはローマカトリックは勿論画一的な改革を推進した
ルター、Zwingli, Calvinなどによっても異端視と苛酷な迫害を受け、カトリック
地域では火刑に処され、プロテスタント地域では水に沈められ殺された。

Mennonites, Amish, Hutterites派
A.迫害を受けた多くのAnabaptist派信者たちはオランダに逃避したが、ローマ
カトリック司祭だったMenno Simmonsが化体説に疑心を抱き聖書を研究していた中
カトリック信仰の誤謬に気がつき1536年Anabaptist派に改宗し彼らの有能な指導
者になった。Anabaptist派の全ての教えと共にヨハネの福音書13章の教訓に従
いCommunionの前に互いに足を洗う洗足礼式も始めた。指導者の名前をfollowし
呼ばれるMennoniteAnabaptist派信者たちは当時に知られた最も敬虔なクリスチャ
ンたちであったがカトリックと改新教両側から苛酷な迫害を受け多くの殉教者をだ
しおりしもあいた新大陸に渡り1683年以来信仰の自由を享受している。同じ系統の
Quakersと共に信仰の自由を擁護し、非武装平和主義、医療奉仕を通してアメリカ
の人権擁護と民主社会発展に大きく貢献した。
B.本拠地であるスイスから追い出されモリビアの方に避難したまた違う
Anabaptist派信者たちは敬虔な指導者Jacob Hutterの指導の下、衆生と変化した
生活(New Life)を強調し全信徒の80%も殉教で犠牲になった宣教活動のゆえに
広がって行き、Hutter自身も1536年火刑に処された。その後、新大陸に避難し昔の
よう信仰共同体を成して文明を背負った農耕生活を続けている。


C.また別なスイスのAnabaptist派はJacob Ammanの指導の下より徹底的信仰改革
を呼び叫びながら現れた。Hutter派と共に現代文明を背負い単純な生活を過ごして
いる。ヨーロッパでの迫害を避け新大陸に渡ってきた後、田舎生活と農業発展に寄
与している。

宗教改革の寵児−Calvinと改革{長老}教会
A.ドイツやスイスに先進んでフランスでもパリ大学のJaques Lefevre(1536没)
教授によって改革信仰が知識人たちの間で拡大されていた。時にルターの改革信仰
が文書を通し伝達され公然されるにつれ、徹底的なカトリック国家であるフランス
はこれを異端と定罪し大々的に迫害を始めた。
B.ルターの改革思想に深い影響を受けた若干20歳の若いCalvinは迫害を避けスイ
スに避難しジェネバを中心に神政政治によってルターの改革と二大主潮を成す改革
を推進させた。Calvinは(1)信仰は聖書に基礎していてその権威に服従する聖書
信仰を強調し、(2)創造と救済において神様の絶対的な主権と神様の栄光(soli
Deo Gloria)を強調した。(3)礼拝儀式で中世ローマ教会の偶像的で異教的な
要素を一切排除しプロテスタントの礼拝の基礎を置いた。(4)恩寵だけをかたよ
るように強調したルターとは違い義と聖化の標準で律法の機能を適切に強調した。
(5)教会行政で監督制度と会衆制度の中間である長老制度を選び、(6)ルター
やZwingliよりCommunionの霊的意味を一層深くした。(7)教育を強調し、職業を
召命と教えるなど民主主義と資本主義の発展に大きく貢献したと評価される。

Calvinの基本的な改革信仰はルターの思想を継承したことだが「キリスト教強要」
など著書を通してこれを体系良く組織し徹底的に糾明し発展させるによって宗教改
革の進展にあって必須的な役目を遂行した。Calvinの改革信仰を継承するプロテス
タント派をヨーロッパ大陸では“改革教会the Reformed Chruch”と呼ばれて有名で
あるが、英国やその他の英語圏では“長老派教会the Presbyterian Church”と呼
ばれている。こうして島国英国に長老教信仰が根をおろしたとこには、神以外は恐
れないスコットランドの改革者John Knox(1514~1572)を育て、フランスの力を頼
んでカトリック勢力をスコットランドに進出させようと必死にあがいたメアリー女
王の野望を断固粉砕した。

宗教改革の私生児−ヘンリー8世と英国国教会
A.16世記宗教改革がヨーロッパ大陸で、ドイツのルター派Lutheran、スイスの
Anabaptist、Calvinの改革教会the Reformed Churchなどの三大主流が起こってい
た間、島国の英国では全く異なる理由で別途の改革が展開されていた。14世紀オッ
クスフォードの学者ウィクリフがおこした改革の波紋はボヘミアの改革者フスを通
してルターまでに影響を及ぼしたが、肝心の英国ではカトリック教会が主導した政
治的影響で改革が前進できなかった。
B.オックスフォード出身の学者William Tyndaleが迫害を避けヨーロッパに隠遁
しながら最初に原語から翻訳した英語新約聖書を出版し本国に密輸し宗教改革に燃
料を供給した。しかし本人は聖書を翻訳、出版した罪でカトリックが支配したベル
ギーで逮捕され42歳という若い歳で火刑に処された(1536)。彼は火刑柱に縛ら
れたまま大声で「主よ、英国王の目を開いてください」という最後の言葉を残し死
んだ。
C.ドイツで起きたルーターの改革思想が英国に文書で紹介されヘンリー8世はこ
れを文と力で粉砕し教皇から“信仰の擁護者”と称号まで得た。しかしスペインの
王女で死んだ兄の未亡人である王后Catherineが息子を産めず離婚しようとしたが、
カトリック宗主国であるスペインの統制を受け教皇が自身の離婚を許諾しないため、
1534年英国教会をローマカトリックから独立させ国王が英国教会の頭になるという
新方針を発表した。こうして聖公会の母体である英国国教会が誕生したが、頭がか
わっただけで内容が大きくカトリックから変わったわけではなかった。

D.しかしルター派改革者である大司教Thomas Cranmerはヘンリー8世と彼の息子
エドワード4世を助けCalvinの改革信仰を吸収して国教会を大きく改革した。
E.しかしヘンリー8世のカトリック王后Catherineが産んだ娘Maryが王位に上る
につれ改革は逆転し、プロテスタント信仰をもった3百人の学者と聖職者が火刑に
処され、約8百人は大陸に避難し、1200人の聖職者たちは職分を奪われた。敬虔な
学者で監督であったRidleyとLatimerはカトリックの化体説と礼拝ではなく祭祀で
あるMassを最後まで反対した罪で1555年10月16日に火刑に処された。執行前二
人が交わした対話は長く記憶されている。「リドリ先生勇気を持って男らしく処身
します。今日私たちは確信する神様の恩恵で決して消えない火を英国につけるだろう」
火刑を恐れプロテスタント信仰を取り消したCranmer大司教も翌年自身の
改革信仰を再告白した後、火刑柱に上がり“教皇はキリストの敵、彼の虚偽教理と
共に敵キリストとして彼を拒絶する”と宣言した後、以前 プロテスタント信仰放
棄を自述した右手を先に火の中に入れ燃やしながら「この手が罪を犯した」と叫び
ながら焼け死んだ。このような骨髄にしみる犠牲を払いながら守ってきた一つ一つ
の改革信仰の大切さを忘却し、聖書的に明白な間違いだと気づきながらも改革の意
志を喪失したまま、信仰良心に何の負担も感じず改革のためのどのような犠牲も願
わない今日大部分のプロテスタント信仰者たちは真の宗教改革の後裔たちなのか。
自問してみろ。

(続く)
 
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