新着順:26/557 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

皆が知るべき教会の歴史 5

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2009年 8月30日(日)08時06分12秒
  通報 編集済
  6. 清教徒運動と改革の進展

Calvin主義改革信仰の真髄−清教徒
“流血のメリーBloody Mary”の異名の残忍な女王メアリ1世が在位5年目で急逝し
た後1558年に即位した異腹同姓のElizabeth I女王は、自身を合法的な後嗣と認定し
ない教皇権に対抗して生き残る為の政治的理由でプロテスタントに依存せざるを得な
かった。
こうした新状況の下で以前大陸に逃亡避難した改革者たちが大部分Calvin主義改革
信仰を持って続々とイギリスに帰還した。彼らはカトリック教会にCalvinとルター
の改革信仰を継ぎ足したような国教会「Anglican Church」信仰に満足せず、これを
聖書の教えに従い徹底的に改革し純潔になろうとするCalvin主義清教徒「Puritan」
が起こった。1648年Calvin主義改革信仰の憲章である「ウェストミンスター告白」
Westminster Confessionの構成を主導したのも清教徒だった。彼らこそCalvin主義
改革信仰の真髄だった。

彼らは異教的な礼拝儀式、司祭たちの服装、聖書に根拠がない各種の際日、司祭の
免罪行為、十字架使用、代父母制度の廃止と共に聖日と看做された日曜日の徹底的
な遵守などを要求した。彼らは教皇の代わりに教会の頭になった国王が監督を前に
立たせ教会を治める聖公会の監督制度に反対した。国教会に残っていながらCalvin
の長老制度のみ採択しようとする長老会派、清教徒と残ってはいるが外部の干渉を
一切受け入れないという独立主義(the Independents)の清教徒も現れた。

清教徒信仰の真髄−会衆派教会
国王が頭で残っている国教会が完全な改革を受け入れる見込みがなくなると、国教
会を去ってより完全な分離を願う清教徒たちが1581年ケンブリッジ出身の指導者Robert
Browne よって形成された。分離主義者と呼ばれる彼ら清教徒たちは国王が頭にな
った国教会「聖公会」を否定し、さまざまな束縛をもたらすCalvinの長老制度も排
除し、教会の唯一の頭であるキリストの下で盟約で連合された会衆が自律的に牧師
など指導者たちを選出し、聖書によって啓発された信仰良心の判断に従う信仰を行
使するよう要請した。こうしてCalvin主義清教徒信仰の真髄に骨格を成した最初の
会衆派教会(Congregational Church)が誕生した。彼らもまた迫害を受けオランダ
に避難したがBrowneを継承した指導者John GreenwoodとHenry Barrowは本国で1593
年会衆派教会信仰を芽生えるための殉教の血を流した。

プロテスタントの長子−バプテストBaptist
エリザベス女王以後の英国王たちも国教主義を固執し分離主義会衆派清教徒たち
「会衆派」に対する迫害が続き、大部分の信者たちは故国を去り、信仰の自由があ
るオランダに避難した。当時英国のGainsboroughにいた一団の会衆派清教徒たちは
国教会の牧師から改宗したJohn Smyth(1612没)牧師の指導の下1608年アムステル
ダムに定着した。彼らはそこでオランダのAnabaptist派のMennonites信者たちと交
際しながら彼らの敬虔な生活に感銘を受け、同時にカトリックの儀式である幼児洗
礼が非聖書的であることに気づき、1609年スミス牧師は初め同僚Thomas Helwysな
ど36人に洗礼を与えることで、洗礼を提供し会衆政治をする最初のバプテスト教
会がオランダに成立した。

彼らはまたCalvinの予定論の矛盾に気づきアルミニウスの教えを受け入れた。信者
たちの一部はMennonite Churchと連合したが、Helwysに従う会衆は1611年英国に帰
り、英国で最初のBaptist Churchをロンドンに建てた。彼らはCalvin主義信仰を受
け入れたが幼児洗礼を反対し、長老制度と異なる会衆制度を選び、オランダにいた
時代に受け入れたアルミニウス主義に従ってCalvinの予定説を反対し、キリストの
贖罪は選択された人だけでなく全ての人のためであることを信じるため一般に「一
般バプテスト」とか「自由バプテスト」(Free Will Baptists)の名で呼ばれる。彼
らも後には水を掛ける滴礼の代わりに水に沈める浸礼を受け入れた。このように最
初のバプテストは分離主義清教徒たちである会衆派教会から始まった。

1633年John Spilsburyの指導を受けた一団の独立主義清教徒たちが聖書を研究した
末、本教会から分離した。彼らはまた一般バプテストと同様に会衆制度を維持し、
幼児洗礼は勿論のこと、水を上から掛けるだけの滴礼も非聖書的であり、キリスト
の模範と聖書の教えに従う水に沈む「浸礼」だけを洗礼と認定した。そうしながら
もキリストの贖罪は特別に選択された人たちだけのためだというCalvinの「限定し
た贖罪」の教理をそのまま維持したため、一般バプテスト派と区別するために、
「特殊バプテスト派」(the Particular Baptists)と呼ばれている。

このように二段階の改革で互いの弱点が補強されたBaptistsは17世紀英国の信仰復
興と新大陸での信仰と良心の自由など改新教信仰定着に至大な貢献をした。福音を
説教した罪で12年間獄中生活をし「天路歴程」を書いたJohn Bunyan 1628~1688、暗
黒と貧困の大陸インド宣教のため身を捧げたWilliam Carrey 1761~1834、新大陸米
国に信仰と良心の自由の原則を植えたRoger Williams 1604~1683、救贖史的な再臨
運動を起こし世の中を覚醒させたWilliam Miller 1782~1849などが皆誇るべきバプ
テストである。

今日 米国だけでも2900万人の信者をもつ最大の教派であるバプテスト派は改革教
会のように固定された信仰告白がなく信者たちが啓発した信仰良心に従い聖書を解
釈し確信した通り生きるよう勧奨しており新たな真理に対し開放的だ。基本的な教
理は一般プロテスタントと同じだが、その他に(1)幼児洗礼と滴礼を非聖書的と
看做し、水に沈む浸礼だけを洗礼と認定し、(2)会衆制度の教会組織と(3)国
家と教会の完全分離、(4)個人の信仰と良心の自由を極度に尊重する点で、ルタ
ーやCalvinなどが推進した改革をより一層進展させている。またその根源にAnabaptist
派の信仰が含まれている。このようなバプテストの根源から後に宗教改革の絶頂の
安息日真理を発見したセブンスデーバプテストが発生したのは決して偶然な事では
ない。

会衆派の寵娘−Pilgrim Fathers
1611年Baptistという息子を産んだ少数の分離主義会衆派清教徒たちは即時続いて又
新たな歴史を創造する。英国のScroobyに住んでいた誠実な一般信者William Brewster
の家に集まり国教会牧師から改宗した敬虔な指導者John Robinson牧師の指導を受け
た一団の会衆派清教徒「会衆派」は1609年迫害を避けオランダに移住しLeydenに定着
した。
しかしそこでも子女教育など生活の安定が難しくなり、信仰の自由をさがして国王
もなく教皇もない地、新大陸米国に渡る決心をして一旦英国に帰ってきた。難しい
交渉の末1620年9月一般信者指導者Brewsterの引導の下102人の信者が帆船の
Mayflower号を雇い、危険な航路である北大西洋を渡り11月21日マサチューセッツ
州のPlymouth港に到着した。彼らの中、半分は寒さと疾病で初めの冬を乗り越えれ
ず死んだが、生き残った者がまさしく米国の建国先祖になった“Pilgrim Fathers”
である。会衆派教会が新大陸に出家させた偉大な「娘」だった。

清教徒運動と安息日回復
16世記後半に出現した清教徒たちが創造した新たな歴史は実に驚くことだった。
彼らは会衆派とBaptistの産母になり、新大陸に成した信仰と良心の揺籃である米国
を建設した先祖を産んだのだ。それだけでなく清教徒たちは「長く荒廃された所々を
再び建」て、歴代の破壊された基礎である安息日を再び修築する(イザヤ58:12,13)
先駆けとなった。

清教徒たちは真剣は聖書研究を通して神の約束の言葉を重視するようになり、律法
は約束であることを理解するようになった(出エジプト19:5,6)。そしてその約束
の内容である十戒に従順であることは約束の維持のためであって、選択ではなく義
務だと気づいた。又、人間の罪である本性は律法を喜ばないが(ローマ7:19,20)聖
霊によって生まれ変わった心は律法に従順になり、束縛ではなく真の自由を享受で
きることにも気づいた(ヤコブ2:12)。なぜなら十戒は、「エジプトの地で奴隷で
いた家から導き出した」(出エジプト20:2)後に与えられたものだからだ。

律法「十戒」を約束の内容として理解するようになり、約束を保障する印、すなわ
ち、表徴なる安息日の意味と重要性をようやく気づくようになった(出エジプト31:
13,16,17)。
直接的な契機になったのはヘンリー8世の時、英国教会がローマカトリックから独
立した後、自組織の礼拝儀式のための祈祷をした時だった。大司教Cranmerが1549年
と1552年に発行した「英国国教会祈祷書litany」には十戒が含まれていたが、特に
安息日を記す十戒第四条を聖職者が読み上げて会衆はそれに対して「この律法に私
たちの心を向けます」と応唱するものであった。その応唱の過程で清教徒の先祖ら
しい冷徹な知性と鋭敏な信仰良心が覚醒した。「もしそうだとしたら私たちがこの
分明な御言葉に従い第七日を安息日と従順しなければならないことを意味するので
はないのか?」、「第一日目の日曜日を安息日の代わりに遵守しながら聖書の御言
葉に従順と言えるのか?」。このような疑問に対し祈祷文を発行したCranmerは、
「Calvinがそうであったように、安息日をわざわざある特定の日でなければならな
い必要はない」と曖昧な答えで逃げた。

しかしエリザベス時代に至って一層の発展を遂げて存在と影響力を増した清教徒は、
真剣な聖書研究を通して、ついにCalvinが教えたような「週日中 一日が特別に聖
別されたからではなく『教会の中で秩序を保存するに必要な方途としてその日を守
る』」という方便が聖書的ではない事に気づいた。ここで先祖よりも優れた子孫が
生まれた。

このような確信は清教徒指導者Nicholas Bowndの著述と教えにあられた。彼は人が
罪を犯す前の創造時に、「神はその第七日を祝福して、これを聖別された」(創世記2:3)
という御言葉と「七日目はあなたの神、主の安息である」(出エジプト20:10)と宣
言された十戒の内容を想起させた。彼は又、「主と彼の使徒たちが自ら実践するに
よってその日を上げた」ことを想起させ、「もしアダムが罪を犯す前でも安息日が
必要であったなら罪で失われたこの世はよりもっと必要とする」と喝破した。

こうして清教徒たちは日曜日をCalvinの教えのように単純に礼拝するのに便利など
の一日ではなく、聖書に記録された安息日のように神様が区別した聖別な日と信じ、
日曜日には各種娯楽を禁じ俗した事をしないなど聖守規定まで作った。残念ながら
この時点では彼らはまだ日曜日が聖書に明示された第七日安息日ではないという事
実にまだ気づいていなかった。

しかし自身たちが気がついた真理を擁護し実践することに最善を尽くした清教徒た
ちは、「生きているというのは名だけで、実は死んでいる」(黙示録3:1)者の時代
の中で「サルデス教会にはその衣を汚さない人が、数人」と(3:4)と描写された者
たちであるに違いない。神の歴史はいつもこの数人のよって動かされてきた事を改
めて悟らされる。今受けた光と真理に忠実に従う人々にのみより大きな、完全な光
と真理が与えられるのだ。こうして16世記の清教徒たちはCalvinの限界を超え、会
衆派教会を通ぎ、宗教改革者の名を継ぐまた別な子孫であるバプテストから第七日
安息日を復活させる基盤を備えた。
 
》記事一覧表示

新着順:26/557 《前のページ | 次のページ》
/557