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8.17、18世紀 宗教改革の進展
反宗教改革とイエズス会(the Society of Jesus)
16世記各国で一斉におきた宗教改革は序盤に機先を制するように見えたが改革者
たちの中で礼拝儀式、聖餐式、予定論など教理問題に異論を出し、Anabaptist派に
対する迫害を加えるなど分派主義に傾いて初めの隆盛を失っていた。反面、宗教改
革の初期に致命的な打撃を受けたローマ教皇権は少しの間、自省と自責の色を見せ
たが、すぐに態度を変えて反宗教改革(the Counter-Reformation)の戦列を整えた。
それがまさに1545年から1563年まで3度も開いた歴史的なトレント宗教会議(the
Council of Trent)であった。イタリアとスペインのカトリックの強硬論者たちが
大多数を占めたこの会議では、宗教改革のきっかけとなった免罪制度、煉獄説、化
体説、聖者及び遺物崇拝など全てのカトリックの教理が再確認と正当化をされて、
伝統は聖書と同じ権威を持つという決議と一緒に相当数の聖書外典Apocryphaが認可
された。そしてルター、Zwingli、Calvinなど改革者たちの思想は撲滅されなければ
ならない異端と断罪された。
このような宗教会議の決議を行動に実践するように選ばれた団体がまさにスペイン
の退役軍人のイグナチウス・ロヨラIgnatius Loyalaが1534年8月15日に創立したイ
エズス会(the Society of Jesus)だった。聖母アリアに対する個人的な忠誠を誓
約した後、「善なる目的のためであれば方法を選ばない」という危険な道徳観に基
いて教皇とローマカトリック教会のために何事でもするという誓約で活動を始めた。
彼らによって各所に高等教育機関が建てられ指導者が養成され、外国宣教が広がっ
た。悪名の高い宗教裁判所が再び再開され、宗教改革で失った地域を回復し、プロ
テスタントよりも先回りをしてアジア、南米、カナダなどの地にカトリック教を伝
播させた。
ローマカトリック教会の反宗教改革がヨーロッパと新大陸、アジアを席捲する間、
プロテスタントではどのようなことが起こっていたのか?
ルター派の衰退と敬虔運動
ルターが宗教改革をおこして百年も経たずに、三十年に渡る宗教戦争(1618〜1648)
が起こり、衰退したルター派はただ聖書だけを信仰の全てにするという本来の大義
名分を忘れ、新しい光を拒絶したまま霊的に死んで冷淡な形式主義にはまった。こ
れに危機感を抱いたのがルター派の牧師だったPhilip Spener 1635~1705とA.H.Francke
(1663~1727)がドイツのHalle大学を中心に敬虔主義(Pietism)復興運動を起こ
した。一般信者たちが中心となった小グループ聖書研究と祈祷会を通して実生活の
敬虔を強調し、各種娯楽を禁じ、節制を強調し当時満ち溢れた悪を譴責した。単純
な礼拝儀式と贖罪の必要を強調する福音が中心になった説教で、死んだかのように
みえた教会に新たな生命があふれ入った。
このような敬虔主義運動は支持基盤が脆弱だったために残念ながらヨーロッパを席
捲した英国の理神論(Deism)と大陸の合理主義の破壊的感化を防ぎきれずに蹂躙さ
れてしまったが、敬虔主義の中心地だったHalle大学で教育受け復興を体験したドイ
ツSaxony出身のルター派信者Zinzendorf 1700~1760伯爵がその後に1727年モラビア
教会(the Moravians)を誕生させてその歴史的使命を終えた。
ルター派の嫡子−モラビア教会
Zinzendorf伯爵は自身の広い地をローマカトリックの迫害で追い出されたボヘミア
人たちとモラビア人たち、そして信仰の自由をさがし出た改新教徒たちに避難所と
して提供した。1727年互いに主張が違う各派の信者たちを聖霊で一つにさせ兄弟団
(Unity of the Brethren)と呼ぶモラビア教会を組織した。初めは六百人で始まっ
たこの小さな教会は一般信者宣教師を養成し、なんと1727年8月26日から二十四時間
祈り続けることを百年間続け、その後150年間2170人の宣教師を新大陸をはじめ西イ
ンド諸島、グリーンランドなどに派遣しプロテスタントとして最初の世界宣教を始
めた。
自身はルター派人でありながらボヘミアの改革者John Husの後裔たちのボヘミア−
モラビア兄弟会監督の按手を受けモラビア教会を組織することによってルター派の
真髄である敬虔主義とHus派信仰の真髄であるボヘミア−モラビア兄弟会の信仰が
Zinzendorf監督から結集され、ルター派の養子格といえるモラビア教会が誕生した。
さらに驚く事実は、ボヘミアに居住したBohemian Waldensesの相当数が14世紀以前
に使徒時代の安息日を守ったこと、ボヘミア兄弟団にも弟七日安息日を守る人々の
群れがいて、彼らと接触したZinzendorf監督が1738年以前から30年以上第七日を安
息日として守っていたという歴史的事実である。安息日がクリスチャンである信仰
良心の試金石であり、宗教改革の極致であることをもう一度確認している。
モラビア教会の高弟−メソジスト(Methodist)
Zinzendorf伯爵が導いていった敬虔で能力あふれるモラビア教会がプロテスタント
に与えた霊的感化は計り知れない。その中の一つがメソジストの創始者John Wesley
1703〜91の回心だ。当時オックスフォード出身の英国国教会神父だったWesleyが米
国のインディアンのための宣教師として呼びかけられ弟Charles Wesleyと共に大西洋
を航海する中、ひどい波浪にあい死の危機に至った時、共に乗船していたモラビア一
般信者宣教師たちの死を恐れない信仰に深く感銘を受けていた。
インディアン伝道に失敗し帰ってきたWesleyは自身の真の回心のため悩んでいる中、
1738年5月24日夕方ロンドンのAldersgate通りにあるモラビア教会の集会に参加しつ
いに信仰による救いを心に熱く体験し回心と新生を経験した。
こうして聖霊で充満したWesley兄弟と友George Whitefieldの疲れを知らない献身で
英国は一大復興を経験しWesley兄弟によって教会歴史を変えた監督派が組織された。
初めはモラビア教会に付属されていたが1740年最初の自立したメソジスト(The
Methodist Society)がロンドンに形成された。
Wesleyがメソジスト運動をおこした18世紀前半の英国は霊的な一大危機にあって
いた。宗教改革の真髄だった清教徒精神は新大陸に場を移し、英国国教会は生命が
ない形式主義に退化し聖職者の頽廃は極に至った。残っていた長老教とBaptistは改
革の意志を喪失したまま、キリストの神性を否定するUnitarian神学に蚕食されてい
て、折りしも英国でおきていた自然神論、すなわち神を人間と歴史から分離させ不
必要な存在とみなした破滅的な哲学思潮に席捲されていた。これがヨーロッパ大陸
では無神論的な啓蒙主義(the Enlightenment)とあらわれ、人間主の合理主義
(Rationalism)に発展し、ついにフランスでは現代無神論が誕生した革命と表現さ
れた。18世紀の英国をフランスと同じ無神論的革命から抜け出させたのはWesleyの監
理会運動に力を得たのが大きい。
Wesley兄弟が始めたメソジストは大部分の信条を一般改新教と共にするがfaithで義
になる真理と共に、(1)聖霊の導きによった新生、すなわち聖化と聖潔を特に強調
する。(2)Wesleyの経験と教えに従いCalvinの絶対的な予定論を拒否しアルミニウ
スの予知予定を受け入れ(3)信者の洗礼と共に幼児洗礼も認定し、(4)監督制度
の教会行政を営為する。(5)Calvin主義教会のように他の信条をもつ人々を異端と
決め付けることがほとんどない反面、現代に入り自由主義リベラル神学の影響を大き
く受け本来の聖書的信仰から大きく離れたことは真に残念なことだ。
メソジストの弟−聖潔派教会
新生と聖潔を強調してきた監理会から他の聖潔派教会があらわれたが、社会事業と
救済を強調する救世軍教会が1865年William Boothによって成立し、聖化された生涯
と聖霊の充満を強調し水に沈む浸礼と洗足儀式を遂行する神の教会(Church of God)
が、いくつかの分派と共に19世紀末にあらわれた。1895年米国で形成されたナザレ
ン教会、1914年にやはり米国アーカンソー州で結成されたAssemblies of Godと代表
される聖霊主義教会Pentecostalismも全てWesleyの聖潔運動とバプテスト派の背景に
直接、間接で根源をおく変形された聖潔派教会である。
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