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大争闘は聖書の世界観の基礎

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2009年10月11日(日)07時29分40秒
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  Theodicyという学問をご存知ですか。Theologyではありません。
これは、よい神様が支配しておられる世界なのになぜ不公平があるのか、なぜ悲惨
な事故があるのか、戦争があるのか、救われる人と滅びる人がいるのか、全能で公
平な神がおられるのになぜそういうことが起こるのかということを説明・研究する
ために作られた学問です。これはキリスト教だけではなく、仏教や他の宗教にもあ
ります。神学というのは実はこういうTheodicyの基本理解の上に作られて
います。ですからTheodicyの理解がずれると神学からなにから全てがずれ
て、人間の生き方までも影響を受けることになります。ですから、はじめの時点で
正しい世界観を持つことが如何に重要か強調しすぎることはありません。

キリスト教の中でのTheodicyの流れには二つしかありません。一つは聖ア
ウグスチヌスからのものと、カルビンの弟子のアルミニウスのものです。アウグス
チヌスはが考えたのは、「神は絶対者であり、凡人とは無縁で、全知全能であり、
すべての人の生涯と運命をすべてご存知である」ので、誰がいつ生まれていつどの
ように死ぬのかも、誰と結婚し、誰が喜び、誰が苦しむのかも知っておられる。誰
が救われて誰が救われないかもご存知だ、というのです。神には神のタイムテーブ
ルがあり、神はそれによってのみ人の世界に働かれるという考えです。この考えに
従うと、神は現時点での人間の生活に関わっていない印象を与えます。その場合、
神が既に今後の予定をすべて知っておられるなら、人はなぜ祈るのか、なぜ伝道す
るのか、どうして危険を冒して伝道をするのか、という矛盾に突き当たります。神
は人間世界と超絶しておられる恐るべき神聖な存在なので人間のためには滅多やた
らに動きません。神は既に我々の状況をご存知なのだから、我々は何を言っても意
味がないという考えです。それは日本古来の神観と似ています。その神を動かすた
めには、我々人間が、信仰に熱心になり、陳情で拝み倒すように祈り、人間として
できる限りの事をすれば、或いはもしかしたら動いてくださるかもしれないと考え
ます。しかしこの考え方はセブンスデーアドベンチストの教会の中にすらも広く入
っています。アウグスチヌス的世界観はカトリックの世界観でもあります。カトリ
ックの信仰の定義は「神様の心を動かして心変わりさせるほどの力」です。あなた
が、運命の流れのまえに、神はすべてご存知なのだからといって自分を納得させよ
うとするなら、あなたは既にカトリックなのです。この考えをさらに推し進めると
キリストの十字架の意義も変ってきます。神は既に誰が救われ誰が滅びるかを知っ
ていたが、一応神の愛をデモンストレーションして一応救われるとわかっている人
が義となるために十字架にかかられたという考え方も生まれ、そうなると、十字架
そのものの意味も形骸化し、十字架がなくても救いには関係ないんじゃないかとい
う主張も生まれるのです。

現在でもそういう世界観を継承しているのは、カトリック、カルビン派、長老派教
会です。

アルミニウスはカルビンの弟子でしたが、こうした世界観は辻褄が合わないことに
気がつきました。そこで考えたのは、神がすべて現在も未来もすべてお見通してあ
ることは受け入れられるとしても、人間の側のチョイスがあるのではないのかとい
う考察を持ち込みました。人が救いを受け入れるか否か、人生の決断をする自発的
判断の選択によって神の摂理が現れるという風に考えたのです。しかし、神はあら
かじめ戦争や事故、悲惨な出来事もあらかじめ知っているといいながら人間にもチ
ョイスがあると主張しているとまたそこで辻褄が合わなくなってきました。そこで
考え出されたのは、「悪い出来事は、神が人間によい事、よい判断が出来る助けと
するために与えられている」としました。つまりアルミニウスは悪いことも味方に
引き込んで、悪いことも神の摂理の為に容認していて、悲惨なことをも使って人間
に教えようとされているという理論です。よく教会でも試練があると、「神はそう
いう出来事を用いてあなたに忍耐を教えておられるのよ」という言い方を聞きます
が、それはアルミニウス的発想から来ています。しかし、そういう事を言っている
と「悪いことや悲惨な試練が来ないといけないのかな」という罪意識に襲われます。
神に祝福されているとかえって「私は神から見捨てられているの?」というヘンチ
クリンな理論に発展してしまいます。聖書には、悪いことはすべてサタンから来た
のであって、神がそうしたのではないと書いています。しかし、そういう矛盾を乗
り越えてアルミニウスがやっとこ辻褄合わせにたどり着いたのは、キリストの十字
架は全ての人の救いのためにあるが、その功徳を受けるためには自分から十字架の
下に取りに行って受け取らなければ発効しないと考えました。「納豆を下さい」と
言わなければ納豆が食卓に運ばれてこないように、神が救いますと言っていても、
自分がそこに行って、救いを下さいと言わなければ与えられないという救済観です。
アルミニウスの世界観ではアウグスチヌスの世界観よりも少し人が神に近いように
見えますが、結果的に、人間の行いの義を完全に排除していないこと、それどころ
か時には悪の力を借りても救われると言うような発想もあり、それであると、神の
力をかえって軽んじる傾向すらあります。

このようにアウグスチヌスもアルミニウスも世界観としては不完全であることはお
分かりになると思います。問題は、キリスト教神学の大部分がこのいずれかの世界
観Theodicyの上に立って構築されているということです。これではキリス
ト教神学が信仰の葛藤や世界観の矛盾を解決できないのは当然です。SDAですら、
殆どの信徒はアウグスチヌス的発想とアルミニウス的発想の間をさまよって行った
り来たりしているのが実情です。人間の本性は罪ですから神から離れようとしてい
るのですから、我々の神世界観がこのどちらかでしかない限り、我々は自分の都合
に従って世界観をスイッチしながら自分を欺いたクリスチャン生活を続けることに
なってしまうのです。頼み込むように神様よろしくお願いしますと激しく乞い求め
るように祈っても、聖書には既にかなえられたと言う約束があります。自分の罪の
結果で苦しくなると自分が神に激しく求めて神の顔をこちらに向けてもらおうと言
うのが人間の本性です。しかし、神は祈る前から私たちが必要なものをご存知であ
るとも書かれているのです。セブンスデーアドベンチストもこうした考え方の間を
行ったりきたりしている間は聖書の神を正しく理解することは出来ません。

私たち残りの民の教会にはアウグスチヌスでもアルミニウスでもないもっとまとも
なTheodicyが必要です。しかし、そんなものがあると思いますか。実はあ
ります。それはTheodicyの世界でも少数派として認知されています。それ
は「大争闘史観」です。我々の世界は善と悪、キリストとサタンの大争闘の舞台と
してとらえるのは聖書と矛盾することなく、かえってあらゆる問題に適切な解決と
善後策を与えます。私たちはその中で成長し傷つき、犠牲者もありますが、神の栄
光の為にそれそれに生きて命を全うすることが出来ます。私たちには、そうした大
争闘史観という最高のTheodicyが預言の霊によって与えられているのです。
こうした恵みが既に与えられているのに、アウグスチヌスやアルミニウスの間をさ
まようのは何と愚かなことかと気がつかされます。皆さん、是非各時代の大争闘を
読んで、社会には受け入れられなくても、聖書の神に受け入れられる世界観を学び
なおしてクリスチャンを再出発しませんか。
 
    (牧師) SDAでありながら「各時代の大争闘」を読んだことのない信徒が増えていることを心配しています。大争闘の世界観に立たないと聖書の福音が理解できない事をまず認識してほしいと思います。福音社は老人にも読めるように大きな活字で印刷した大争闘を再版するべきです。  
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