新着順:16/559 記事一覧表示 | 《前のページ | 次のページ》

イザヤ61章

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2009年10月29日(木)11時19分0秒
  通報
  主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、主の恵みの年と、われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。外国人は立ってあなたがたの群れを飼い、異邦人はあなたがたの畑を耕す者となり、ぶどうを作る者となる。しかし、あなたがたは主の祭司ととなえられ、われわれの神の役者と呼ばれ、もろもろの国の富を食べ、彼らの宝を得て喜ぶ。あなたがたは、さきに受けた恥にかえて、二倍の賜物を受け、はずかしめにかえて、その嗣業を得て楽しむ。それゆえ、あなたがたはその地にあって、二倍の賜物を獲、とこしえの喜びを得る。主なるわたしは公平を愛し、強奪と邪悪を憎み、真実をもって彼らに報いを与え、彼らと、とこしえの契約を結ぶからである。彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者は/これが主の祝福された民であることを認める。わたしは主を大いに喜び、わが魂はわが神を楽しむ。主がわたしに救の衣を着せ、義の上衣をまとわせて、花婿が冠をいただき、花嫁が宝玉をもって飾るようにされたからである。地が芽をいだし、園がまいたものを生やすように、主なる神は義と誉とを、もろもろの国の前に、生やされる。

イザヤ61章は私がバプテスマを受ける一ヶ月前の受験勉強中に与えられた聖書の言
葉です。どうやら神は私にこの箇所の通りにするように召されているらしいと思わ
れました。これが新約旧約を通して我々がSDAの教会員になる理由を最も雄弁に
力強く訴えているものだからです。以来私はこの聖書の預言の箇所の言葉の通りに
なることが出来るのかを考え続け、今日に至っています。お嫁さんを選ぶときも、
こちらから積極的に探しはしましたが、イザヤ61章の聖句をちらつかせてみて、何
を言っているのかピンと来ない人は、お引取り願いました。私の家内は、最初に会
った時、この聖句を語ったところはじめから終わりまで、これがクリスチャンにな
る奥義であることを語ったので、この人が私に与えられた人だと信じるのに30分も
かかりませんでした。これは結婚だけではなく、クリスチャンとして生きる人生の
全ての局面にわたって試される言葉です。私は今こうして嵯峨野教会を開催してお
りますが、これは伝道が自己満足や鬱憤晴らしなどの汚れた動機で行われるのでは
ないように、イザヤ61の使命を実現するのでなければ、あってはならないものとし
て始めたのです。霊的に低迷し病んだ教会を揶揄したり批判するだけではなく、自
ら立って、たとえ少しは人から憎まれることがあってすらも、自分が与えられて正
しいと確信できたことを戦ってでも証しなければならない、そして荒れ廃れた所を
率先して立て直そうではないかという事です。神の為に争う者は幸いです。私たち
は大争闘史観のTheodocyのみが聖書の世界観として正しいと言う立場で嵯峨野教会
を守っているのです。
 
    (牧師) 訂正  theodocy →theodicy  
》記事一覧表示

新着順:16/559 《前のページ | 次のページ》
/559