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同感です。

 投稿者:リバプールの風  投稿日:2007年 9月11日(火)13時42分33秒
  わたしも、嵯峨野教会牧師に同感です。
中村ありがとう様のご研究熱心な姿勢には頭が下がります。
しかし、教理、真理をまず理解する必要があるのではないでしょうか。
たまたま、タイムリーなイザヤ書の聖句が引用されていて導きだと思いますが、
牧師様のおっしゃっているように、贖罪の犠牲と全能の仲保者を明らかにする大真理は
何にもまして、まず理解するべきだと思います。
まったく正確な翻訳聖書はこの世に存在しなくても、いつまでも変わらない神が、聖霊に
よって、私達を導いて理解させてくださると信じますし、聖霊の助けなしでは神の言葉を
理解することは不可能だと思います。SDAには、中村ありがとう様と同じような年令で
今でも、大変熱心に翻訳聖書を研究されている、弥永名誉牧師がおられます。ご自分で
小冊子も執筆されていますので参考にされてはどうでしょうか。
中村ありがとう様、若輩者の大変失礼な発言をお許しください。
追記 NIVの聖書は原語から、多くの言葉を取り除き、改ざんされています。注意が
   必要です。
 

神の言葉の一字一句の重要性

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 9月11日(火)10時14分9秒
  お二方の申されるように、聖書の訳にはいろいろあり、意訳したもの、わかりやす
くすることを目的にパラフレーズしたもの、原意に忠実に訳した結果わかりにくい
ものなどがあります。そういう言葉使いの是非を論じるのは必ずしも実りのある聖
書研究になる訳ではないのでここでは致しませんが、一つだけ、皆さんに考えて欲
しいのは、たとえば下のかもめ様の引用したイザヤ6:7ですが、
NIVでは「あなたの贖われた罪」といい、
NKJVでは、「あなたの罪が清められた」といい
NASBでは、「あなたの罪はゆるされる」と訳していますが、
結局、結論から言えば罪が許されるには違いありませんが、この聖句のこの訳だけ
わかりやすいと言うので読んでおりますと、読者はなぜ私たちの罪がゆるされるの
かという理由を洞察できません。「ゆるされる」のは「清められる」からである、
「清められる」のは「贖われた」からである、と遡及してそこでようやく、「我々
の罪を清めて律法の定める罰からゆるされるようになるために、キリストが我々の
命をあがなわれたのだ」という理解にたどり着くことが出来ます。そこで、ではど
うやってあがなわれたのかという疑問を解くために聖書研究をして、ゆくゆくはキ
リストがご自分の命をささげられて罪のゆるしのために身代わりに血を流された、
それが旧約の聖所にあらわされた贖罪のご計画であった、と言う風に理解がつなが
って参ります。これが教理と言うものです。教理は人間が思いつくものではなく神
のみ言葉に従って研究していく過程で把握される救いのプラン、ご計画です。
リビングバイブルや共同訳のようなくだけた訳の聖書でおおまかな聖書の言葉の流
れを把握するのは有益ですが、それに満足するのではなく、できれば気になるとこ
ろは別の訳の聖書と読み比べてみるとか、ストロングのコンコルダンスを買って個
々の語句の意味を調べてみるとか、そして出来れば時間があれば原語に意味を遡っ
て調べる事も時には有益です。その点においてSDAの預言の研究は他のキリスト
教会を凌駕しています。

かもめ様。Ohで説教を創ったというのは、イギリスのスポルジョンでしょうか。
 

意訳

 投稿者:かもめ  投稿日:2007年 9月11日(火)00時12分34秒
  中村ありがとう様

Isaiah 6:7を例にとってみますと、
〔NIV〕With it he touched my mouth and said, "See, this has touched
  your lips; your guilt is taken away and your sin atoned for."
〔NKJV〕And he touched my mouth with it, and said: "Behold, this has touched
  your lips; Your iniquity is taken away, And your sin purged."
〔NASB〕He touched my mouth with it and said, "Behold, this has touched
  your lips; and your iniquity is taken away and your sin is forgiven."

上にみられるように、用語の用い方として、普通の人が、比較的解かり易いような語を
用いるよう考慮されているのが、おわかりになろうかと思います。

日本語の聖書ですが、口語訳では、
「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、
  あなたの罪も贖われた。」
新共同訳では、
「見よ、これがあなたの唇に触れたので、あなたの咎は取り去られ、
  罪は赦された。」
となっていて、このところでは、新共同訳の方が適切な訳のように思われます(私見)。

また、Psalm 95:1の比較では、NIVは下記のように冒頭の、"Oh(O)"という語を省略して
いますね。
これは意訳とは言えないかもしれませんが、“余分な(と思われる)語は不要”と勝手に
判断して削除してしまった例ですね。
確か、ある欧州の著名な説教家(名前は思い出せません)は、この"Oh(O)"という語だけ
で、説教のテーマにしたというぐらいですから。

〔NIV〕Come, let us sing for joy to the LORD;
  let us shout aloud to the Rock of our salvation.
〔NKJV〕Oh come, let us sing to the LORD!
  Let us shout joyfully to the Rock of our salvation.
〔NASB〕O come, let us sing for joy to the LORD,
  Let us shout joyfully to the rock of our salvation.

他にもあろうかと思いますが、とり敢えず、この辺で...。(かもめ)
 

ご丁寧に有り難う御座いました。

 投稿者:中村ありがとう  投稿日:2007年 9月10日(月)20時43分1秒
  かもめさん、ご回答を戴き有り難う御座います。
  >文脈を捉えながら、じっくりと瞑想・吟味することも有益かと思われます
 例えば..NKJ訳ですがイザヤ書6章7節
And he touched my mouth with it, and said: "Behold, this has touched your lips; Your iniquity is taken away, And your sin purged."
 これが日本語聖書だと
「見よ。これがあなたの唇に触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
★私の中学英語訳で(英文を今日の暗唱聖句にする)
「そして彼はそれを持って私の唇に触れた、そして言った/見よ!! これがあなたの唇に触れた/あなたの不正行為は取り去られた/あなたの罪は清められた。」..実に自ら和訳したものが、ハンドメイドで一番瞑想には合っていた。

  >NIVも解かり易い点はよいのですが、ところどころ意訳していますね。(ギリシャ語聖書、ヘブル語聖書と比してでしょうか。それとも日本語聖書各種を較べてでしょうか。ご経験になった聖句を教えて下さい。)

  >ものみの塔のことも言及されていましたが..我が家にも熱心に訪問してくれて、パンフレットを置いてゆく。彼らとは異端論争などはしない。真夏の暑い最中に日傘をさした婦人達の一団を見ることが多い。彼らの家庭訪問によって、イエスのキリストであることを知らなかった人が、我が近所で救われていくのを見て驚きを覚える。私は彼らが熱心に聖書の話しを聞かせてくれるのが好きだが、到底ものみの塔信者にはなれない。(世捨て人になる覚悟はない。)

  >場が外れているかと思われます。..掲示板を汚してしまい、申しわけございません。
   SDA牧師と読んで余りに感激してしまったものですから。ご丁寧に有り難う御座いました。
 

英文聖書

 投稿者:かもめ  投稿日:2007年 9月10日(月)07時13分30秒
  中村ありがとう様

ご高齢にも拘わらず、英文聖句に関心を持ち、自ら学ぼうとしているその姿勢に、敬意を
表します。
この種の問いかけは、当bbs管理者様も言及しているように、難しいと思います。
私が思いますには、英文もよいのですが、日本語のどの訳でもいいですから、文脈を捉え
ながら、じっくりと瞑想・吟味することも有益かと思われます。
そのときに、ふと気がかりなことがあれば、何種類かの日本語、或いは、英語の聖書を
比較し、思索を深めるのもいいかもしれません。
しかし、これは私の想いですので、無理に推奨するものでは毛頭ありません。
KJVもよいには違いないと思いますが、何せ、表現が古い感じがします。確かに格調高い
感じはします。それ故にか、NKJVも出され、内容を基本的に変えずに現代に合った表現で
出してきましたね。
NIVも解かり易い点はよいのですが、ところどころ意訳していますね。
RSVもNRSVを出していますね。NASBは比較的忠実に訳されていると感じます。
翻訳の姿勢やスタンスも多岐に亘りますので、どれが最適な訳かは一概には言えないもの
と思います。
ものみの塔のことも言及されていましたが、確かに三位一体というある意味で難解な解釈
を議論し合うと、これは泥沼に嵌りそうですね。全てがダメというわけでもありませんが、
この共同体は厳しい見方をすればカルトと言えるでしょう。
日々の、ご自身の思うところの道を歩まれますように。
ただ、ここのbbs管理者様も言っているように、この板から、貴殿の問いかけに応えてくれ
ることを期待することは、少しく場が外れているかと思われます。
ご自身の板で議論が熟成されますよう祈ります。(かもめ)
 

どなたも教えてくれないとは残念だ。

 投稿者:中村ありがとう  投稿日:2007年 9月10日(月)05時53分30秒
  私は毎朝の散歩に、「英文聖句」の暗唱と黙想をしている。第一に理解することだが、難解な英文には悩む。そこでBlue Letter Bibleサイトより3種の訳を並べて推察してみる。
  「英文聖句」には日本語にない表現の豊かさがあり、瞑想も楽しくなる。そして私の信仰を元気にする。

 私は教会に教義や教理を求めていない。カトリックだろうがプロテスタントだろうが、いや「ものみの塔」だろうが、謙虚.謙遜で真剣に布教に、奉仕に努めている人達が好きだ。

  あなたのHPもじっくりと読ませて戴く。どなたも教えてくれないとは残念だ。
 

ようこそ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 9月 9日(日)21時30分57秒
  中村ありがとうさま

嵯峨野教会聖書研究室にようこそ。私はセブンスデーアドベンチスト嵯峨野教会牧
師です。しかし教団から給料をもらっておらず按手も受けておりません。そういう
ものをもらってもろくな働きをしていないで牧師を名乗るのは恥ずかしいことです。
私は堂々とセブンスデーアドベンチストの一信徒として牧師を名乗ってはばからな
いでおります。あなた様もかなり昔にSDAとご縁を持たれていたようですが、当
時の天沼や大岡山と今では状況は過激に違っています。なにはともあれあなた様を
養ってくださった日曜日の教会があったことは祝福であったと思います。

内村鑑三の「写経」をしているというbbsの紹介を有難うございます。参考資料
とさせていただきます。ただ当嵯峨野教会聖書研究会はセブンスデーアドベンチス
トの基礎教理と原則の紹介と研究がメインテーマなので聖書の英文解釈、文法など
のアプローチは致しておりませんのであらかじめご了承願います。今後ともどうぞ
よろしくお願いいたします。
 

訳せずに一日が終わるに残念無念。

 投稿者:中村ありがとう  投稿日:2007年 9月 9日(日)17時28分27秒
  今朝のミッションより
 あなたの解答を●の私の訳の後に、太字で書き込んで下さい。出来るだけ文法を教えて下さい。

Blue Letter Bibleサイトより
http://www.blueletterbible.org/
KJV訳 英欽定訳聖書 (アルク辞書及びAsk研究社辞書使用)
Phl 3:20  For our conversation is in heaven; from whence also we look for the Saviour, the Lord Jesus Christ:
●中村訳で「だから私達の会話は天国にある/そこからまた/私達は主イエス.キリスト/救い主を期待している(探し求めている)」
   con・ver・sa・tion1  [具体的には ] 会話,談話,対話,座談 〔with〕2  (政府・政党などの代表者による)非公式会談.ラテン語「(頻繁な)つき合い」の意 (CON‐+versr 「従事する」); l
   whence【副】どこから◆【同】from where【副】そこから、そのために
   look for【句動-2】〜を予期する、〜を期待する
Phl 3:21  Who shall change our vile body, that it may be fashioned like unto his glorious body, according to the working whereby he is able even to subdue all things unto himself.
●中村訳「ところの人は私達の卑しい身体を変えてくれるだろう/即ちそれは/彼の栄光ある身体に似せて形作ってくれるに違いない/働くことにより/よって/彼自身に全ての事を抑制(やわらげる?)でさえ可能である」
   vileバイル【形】不潔な、汚い、非常に嫌な、ひどい、卑しい、ひどく悪い、下劣な、下品な、恥ずべき、品のない、堕落した、不道徳な、みだらな、みすぼらしい、貧弱な
   fashion【他動】〜を作る、形造る、創り出す、構築する、築く◆【類】make
   wherebyそのために、それによって
   subdueサブデュー【他動】〜を圧倒する、征服する、鎮圧する、抑制する、抑える、緩和する、和らげる
   unto oneself自分自身に、自分だけに

New King James Version c 1982 Thomas Nelson訳で
Phl 3:20   For our citizenship is in heaven, from which we also eagerly wait for the Savior, the Lord Jesus Christ,
●「だから私達の市民権は天にあります/ところから/私達はまた熱心に救い主の主イエス.キリストを待っている(待望している)」
   citizenship【名】市民としての身分、市民権、公民権
Phl 3:21   who will transform our lowly body that it may be conformed to His glorious body, according to the working by which He is able even to subdue all things to Himself.
●ところの彼は/私達の卑しい身体を変えるだろう/即ちそれは/彼の栄光ある身体に一致するに違いない/働きによれば/ところの事によって/彼は彼自身に全てのものを抑制することにでさえ可能である」
   transform【他動】〜の形を(〜に)変える、変形[変質・変貌]させる
   lowly1a 地位の低い.b 身分の卑しい.2a 謙遜(けんそん)な.b 平凡な.
   conformカムホーム1a 〈事物が〉〔型に〕従う,一致する 〔to〕.b 〈人が〉〔規則・習俗に〕従う 〔to〕2 《英》 国教を遵奉(じゆんぽう)する.1 〈行為・習慣などを〉〔模範・範例に〕従わせる; 〈行為を〉〔法律・風俗などに〕適合[順応]させる 〔to〕.→2 [〜 oneself で] 〔規則・慣習などに〕従う,順応する 〔to〕.→ラテン語「同様に形造る」の意;
   working byで働く事によって

New International Version c  1984 International Bible Society訳で
Phl 3:20   But our citizenship is in heaven. And we eagerly await a Savior from there, the Lord Jesus Christ,
●「然し私達の市民権は天にある/そして私達は熱心に待ち受けている/救い主をそこから/主イエス.キリスト」
   await【自動】待ちもうける、待ち受ける、待つ
Phl 3:21   who, by the power that enables him to bring everything under his control, will transform our lowly bodies so that they will be like his glorious body.
●「ところの彼は/彼の支配の下に全てを置くべき可能性を与える力によって/私達の卑しい身体を変える/だから彼らは栄光ある彼の身体に似るだろう」
   enable【他動-1】〜を可能にする、〜に可能性を与える、〜が(…)できるようにする◆【反】disable
   bring under【句動-1】〜の下に置く
 

跪いて、見えない神に祈る。あの姿は今も感動せざるを得ない。

 投稿者:中村ありがとう  投稿日:2007年 9月 9日(日)17時17分42秒
  いやぁ!! 懐かしい!! SDA教会の牧師さんが堂々とWebサイトに御自分を晒していらっしゃる。
こんなに勇敢なSDA牧師は未だ知らない。
  中村正三.七十歳、大田区久が原1−16−7住まいです。(090-9965-2910)
 50数年前に、SDA大岡山教会で、国谷老牧師によって、多摩川で洗礼を受けました。同時に洗礼を受けた三人の青年の中に、その後、SAD牧師になった青年、東京工大の青年で、福井の父親から勘当を申し渡されて転向せざるを得なかった彼。(木造教会が楽しかった)
  私の姉が、小金井教会の勅使河原つる子、義兄が勅使河原新一と言います。

 私の入信のきっかけは、実家の小売り酒屋を手伝っていた時、父親と兄の確執に希望を失ってブロバリン服用自殺をする。「人生何の為に生きるか」を探りながら、再度大学受験を目指す。
  「ビビット」に生きたいと願って求めている時に、大森復興教会(新宿復興教会菅野氏の祖父)にキリストの救いを知る。(結核療養中の姉が長く祈っていたと後で聞いた。)
  姉の通う大岡山教会に導かれて、出席するようになる。
 キリスト教基礎勉強に天沼教会、原宿教会には随分とお世話になました。東京に住まっていても、都心の原宿に出て行くこともなくなったが、あの立派な会堂はどうなったのでしょうか。(街角が「ラホーレ原宿」とか聞きますが。昔は静かな町並みでした。)

  今、昔の大岡山教会を思うと、長老さん達が「敬虔さ」を若者に示し教え残してくれた事です。
 跪いて、見えない神に祈る。あの姿は今も感動せざるを得ない。
  私は、安息日教会出席で土曜日休日をとり、二年制の栄養士を得て(2.5年かかる。)、卒業後、 父親の援助で「小売り酒屋」を分家するようになる。妻は未信者から貰う。
  10年前、バブル後にスーパーが倒産して仕事を辞める。妻は四年前に亡くなった。

 現在は同じ Teacupの掲示板に"中村ありがとう"の名で「内村鑑三師の一日一生」を写経しています。   http://6512.teacup.com/yohane/bbs

  (今は、最後にお世話になった教会に、日曜出席はしないが十一献金は年間で振り込みしている。)

  今、その掲示板で英語の再勉強をやっています。英語の学びに、一番興味があるのは「英文聖句」です。欽定訳聖書の簡潔さ、力強さには敬服します。単語の一字一句を辞書引きし、新しい訳語があるのに驚きを覚える。然し難解で、その和訳をBBSのある教会サイトで聞いて回ったのですが、なかなか教えて貰えない。(帰国子女のクリスチャンの人も、英検一級のクリスチャンの人も、教えてはくれなかったのには残念だった。神の言葉は「聖書協会」以外に訳してはならないと思っているフシがある。)

  朝散歩に、その「英文聖句」を持って大岡山教会にまで小一時間歩く。安息日の朝など10分を貰って、柴田牧師先生の奥さんに和訳を教わる。(彼女の発音はアメリカナイズだが、文法的なところは遠いい。)
 

お答え感謝

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 8月19日(日)11時24分53秒
  ようこそ、ico様。一応回答はまとめて今月末か来月初めに掲示しますが、いろい
ろ祈りながら考えてみてください。他の方もどうぞご遠慮なくこういうことなので
はないかと思われたことを答えとして書き込んでみてください。
 

課題

 投稿者:ico  投稿日:2007年 8月18日(土)18時34分27秒
  こんにちは。時々、こちらにお邪魔して頂いています。
信仰生活に入ってまだ浅いのですが、聖書のことをもっともっと勉強したいと思っています。牧師さんからの課題少し考えてみました。

(1)神は誰を殺そうとしたのですか
  モーセ
(2)割礼は何のためですか(衛生上の理由は除外して下さい)
  神はまたアブラハムに言われた、「あなたと後の子孫とは共に世々わたしの契約を守ら  なければならない。あなたがたのうち男子はみな割礼をうけなければならない。これは  わたしとあなたがた及び後の子孫との間のわたしの契約であって、あながたの守るべき  ものである。
  創世記17:9〜10
  とあるので、神と民との契約のしるしということになるのでしょうか。
(3)なぜ血を流す必要があったのですか
  なぜでしょう?う〜ん・・。レビ記の17:11に肉の命は血にあるからである。とありま  す。よって命は血のなかにあるというほど重要なものですから、それを流す契約という  のはとても重要なものという事を示すためなのではないしょうか。

(4)この物語をあなたはどのように現代に適用しますか
  選ばれた指導者が、神の戒めの一つでも軽視するのならば、人々の間で神の戒めの力を
  弱めることになる。天使たちは、神の戒めの一つでも無視するものを保護することはで  きない。と人類のあけぼのp292にありました。

なんか、今の教会の指導者もだし、私個人にもとても重みのある言葉だと思います。
本当にそうだと思いました。今日神様が私にくれた御言葉に感謝します。
 

信仰の三つのC

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 8月18日(土)11時51分53秒
編集済
  聖書によると信仰というのは神のみ言葉を聞く所から始まります。

したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの
言葉から来るのである。

                 (ローマ人への手紙10:17)

最初にみ言葉を聞いて、それを信じるところから信仰が育ってゆきます。どんな人
にもこれは例外はありません。しかし、神のみ言葉を聞いても、種まきのたとえが
あらわすように、聞いても信じなかったり、受け入れなかったり、人間の側の都合
に合わせて適当に部分的に受け入れたり受け入れなかったりしていると結局すべて
を失ってしまいます。そこで信仰には「三つのC」で象徴されるレベルがあります。

最初のCはCuriousityのCです。興味と関心を持つというレベルです。
誰でも最初はここから始まります。しかしいつまでもここに留まっている人
は神や聖書の言葉そのものに対して懐疑的になったり、批判的になったり、
歴史的偉人や賢人の思想の方がこれよりも優れているという思いに誘惑され
るようになります。

次のCとはConvincedのCです。み言葉に関心を持つその次の段階で、
みことばは正しいと確信するレベルです。多くのクリスチャンはこのレベル
にあるかもしれません。神の言葉は正しいと確信した、信じた、だからこれ
で救われたのだ、という信仰です。神の言葉を信じるのはいいですが、現実
にその通りになる経験が少なく、現実の生活が神のみ言葉によって成り立っ
ているという実体験が不十分です。

最後のCはCommitmentのCです。コミットメントというは、必ずしも
教会組織や教会生活に対する献身を意味するのではなく、神のみ言葉そのもの
に対する献身です。たとえば第七日安息日を守ると決意したならば学校のクラ
スや試験、国家試験すらも受験しないという生活を選ぶということです。何も
そこまでしなくてもというのは二番目のCのレベルの信仰です。そんな馬鹿な
と思ったとしてもヨルダン川にらい病の体を7回沈めたナアマンの信仰です。
もちろんこのレベルのCの信仰生活を目指して試練にあっても勝利する約束が
与えられています。神のみ言葉をただ聞くだけではなく、み言葉を聞いてそれ
を信じ、そして信じるだけでなく神に身を委ねてみ言葉を行う人になってくだ
さい。もちろん人はそうすることによって罪が許されるわけではありません。
これは罪から救われるためにそうするのではなく単に神がそう言われることを
愚直に実行することによって神の栄光を表すためです。そういう人が世の中の
塩となって証を立てるのです。
 

感謝します(人類の...)

 投稿者:かもめ  投稿日:2007年 8月14日(火)10時13分30秒
  ザアカイ様

「人類のあけぼの・上」 第5章の情報、感謝します。
この中で私が特に目に留まったところを記してみます(英文は4章)。

神は、キリストによって、ご自分をあらわし、「世をご自分に和解させ」ようとなさった
(コリント第二 5:19)。
God was to be manifest in Christ, "reconciling the world unto Himself."
2 Corinthians 5:19.

キリストが堕落した人類を救うために、ご自分を低くされたことは、全宇宙の驚嘆の的で
あった。星々や諸世界をめぐってすべてを指揮されたかた、その摂理によって、広大な
造られたもののなかのあらゆる種類のものの必要を満たされたかたが、彼の栄光を捨てて、
人間の性質をおとりになることは、他世界の罪のない住民が知ることを望んだ神秘であっ
た。キリストが人間の形をとってわれわれの世界に来られたとき、すべてのものは、非常
な熱心さをもって、彼が一歩一歩と、かいばおけの中からカルバリーへと、血に染まった
道をたどっていかれるのをながめた。
It was the marvel of all the universe that Christ should humble Himself to save
fallen man. That He who had passed from star to star, from world to world,
superintending all, by His providence supplying the needs of every order of being
in His vast creation--that He should consent to leave His glory and take upon
Himself human nature, was a mystery which the sinless intelligences of other
worlds desired to understand. When Christ came to our world in the form of
humanity, all were intensely interested in following Him as He traversed,
step by step, the bloodstained path from the manger to Calvary.

(かもめ)
 

人類のあけぼの…にも…

 投稿者:ザアカイ  投稿日:2007年 8月14日(火)07時35分21秒
  かもめ 様へ

日本文の情報、感謝です。
感謝のうちに拝読させていただきます。

同じ質問に関して、別の方から「人類のあけぼの 上」5章 をお教えいただきました。
感謝です。
 

該当の日本文

 投稿者:かもめ  投稿日:2007年 8月13日(月)16時48分10秒
  ザアカイ様

もう少し、適切な内容を載せておけばよかったと思います。
該当の章と対応する日本文を記します。

日本語の「各時代の希望・下」 p.184 第74章(英文も74章) ゲッセマネ

戦いが終わりに近づくにしたがって、他世界の聖者たちと天のみ使いたちは熱心な関心を
もって見守っていた。サタンと悪天使たち、すなわち背信の大軍が、あがないの働きに
おけるこの大危機を熱心に見守った。善と悪の両勢力は、キリストの三度くりかえされた
祈りにどんな応答が与えられるかを見ようと待った。

(かもめ)
 

かもめさんへ…感謝です。

 投稿者:ザアカイ  投稿日:2007年 8月13日(月)14時32分57秒
  ザアカイです。
かもめさんへ、早速、レスをいただき感謝です。
フムフムと拝見いたしました。
手元に英文の「各時代の希望」が無いので…何章か?だけでもお教えいいただけると感謝です。勝手を申しますがよろしくお願いいたします。
 

他世界の人々

 投稿者:かもめ  投稿日:2007年 8月13日(月)12時49分27秒
  ザアカイ様

挙げられた文言そのままではありませんが...。
(該当箇所が他の文書にもあるかもしれません)
お役に立てるかどうかはわかりませんが、少しは参考になりますでしょうか...。
あとは他の人の助言をご期待ください。

The worlds unfallen and the heavenly angels had watched with intense interest as the conflict drew to its close. Satan and his confederacy of evil, the legions of apostasy, watched intently this great crisis in the work of redemption. The powers of good and evil waited to see what answer would come to Christ's thrice-repeated prayer.

(各時代の希望下p.184参照)(かもめ)
 

他世界の人々

 投稿者:ザアカイ  投稿日:2007年 8月13日(月)11時09分2秒
  以前「神様が作られた他世界の人たちは、唯一罪に染まった私たちの世界で、神様が罪をどのように清算されるか…を固唾を飲んで見守っている…」と聞いた事があります。
ただし、そのメッセージを裏付ける聖句なり証の書の箇所なりがわからず困っております。
ぜひ、ご教授ください。
 

バイブルキャンプですか

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 8月10日(金)23時57分19秒
  はあ、そういえば今はそういう季節ですね。
昔日本にいたときはKGKとかに誘われてよく行ったものです。
 

RE:お答え

 投稿者:小パウロ  投稿日:2007年 8月10日(金)22時25分44秒
  嵯峨野教会牧師先生

日曜学校のバイブルキャンプ等がありまして、応答が遅くなり、申し訳ありません。下記のことにつきコメントさせていただきます。

>小パウロ様の該当聖書箇所の解釈でありますと、まだ生きていた悪人というのは聖
>徒と共に地上に1000年間生きていたということになるのでしょうか。不信者が1000
>年の間聖徒と地上生活を共存するというお考えですか。しかし、その不信者も1000
>年の反省期間の甲斐もなく、結局サタンと一緒に滅ぼされてしまうという事なので
>しょうか。そういう解釈は今まで考えてみたこともありませんでした。

聖徒は復活の体ですので、1000年といわず、永遠に生きる体ですが、不信者の復活は千年王国の後の、今の天と地が跡形もなくなった後の最後の審判(白き御座の裁き)の時ですから(黙示20:11-15)、1000年王国時代の不信者は今と同じようにおそらく、100年程で死んでしまい、最後の審判の時までハデス(黄泉)で過ごし、最後の審判(白き御座の裁き)の時に復活して、裁きを受け、復活の体をもってゲヘナ(地獄)で、永遠に苦しむ事に定められているということになると思います。

1000年王国の時代はサタンが縛られていて、不信仰者を惑わすことがないので(黙示20:1-3)、キリストの統治を受け入れていますが、「本心ではなく」、1000年王国の終わる時に、サタンが解き放たれると(20:7)、その時に生き残っていた不信者たちは、地の四方から攻め寄せて来て、聖徒たちの陣営と愛されていた都を包囲すると記述されています(20:8-9)。

>地の四方から集められた諸国民が、それまでずっと地上で生存を継続していた民な
>のか、裁きを前にして裁きのために甦らされた亡者たちであるのか、その箇所には
>明示はありませんが、「再臨のときに甦らなかった人々」と「再臨の時に生きてい
>たが滅亡して第一の死に入った人々」が、この最後の諸国民であろうと考えるなら
>理解は可能であると思います。つまりこの諸国民とは裁きのために地上の各地で甦
>った悪人たちの混成軍団であるということです。サタンはそれを煽って神の民と聖
>なる都に最後の空しい決戦を挑もうとするという預言であるということです。私の
>ところではそういう解釈にしております。

1000年間「それまでずっと地上で生存を継続していた民」ではなく、不信者は今と同じように、100年もしないうちに死んでしまい、おそらく新しく生まれた不信仰者の子孫らが1000年王国の終わりに、「地の四方から集められて」、キリストと聖徒らに最後の戦いを挑むと考えられます。

不信仰者の復活は、今の(古い)天と地の「あとかたもなくなった」後です(黙示20:11-15)。
ゴウ、マゴグの戦いの時では、決してありません(この時はまだ今の天と地は存在しています。20:7-10)。

>これはよい質問であると思います。疑問点の中核を突いています。おっしゃるよう
>な「空中再臨」と「地上再臨」が千年紀前に二度にわたって起こるのではないかと
>いう期待をサポートする聖句がありません。これまでの所の聖句を調べる限り両者
>の間には千年の期間の間隔があるようにみられます。しかも前者の「空中再臨」と
>は、キリストが雲に乗って来られる事件(聖徒は天に引き上げられて雲の上でキリ
>ストに会う)であり、後者の「地上再臨」というのはキリストが聖徒とともに天の
>都とともに地上に降りてくる(その意味では「再臨」というよりも「降臨」)出来
>事として明確に区別して良いのではないかと思います。

聖書は1000年王国の前のキリストの「空中再臨」はもちろん教えてありますが(1テサロニケ4:13-18)、同時に今の「地」に「地上再臨」されることも教えていると思いますが・・・(ゼカリヤ12-14章、黙示19:11-20:6)。
「主の足が・・・オリブ山の上に立つ」のですから・・・(ゼカリヤ14:4)。
 

今月の聖句

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 8月 5日(日)11時00分17秒
  今月の聖句は若干難しいですが、現代に生きる我々にとって非常に重要です。
まずはお読みください。

出エジプト記4章22〜26
あなたはパロに言いなさい、『主はこう仰せられる。イスラエルはわたしの子、
わたしの長子である。わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、わたし
に仕えさせなさい。もし彼を去らせるのを拒むならば、わたしはあなたの子、
あなたの長子を殺すであろう』と」。さてモーセが途中で宿っている時、主は
彼に会って彼を殺そうとされた。その時チッポラは火打ち石の小刀を取って、
その男の子の前の皮を切り、それをモーセの足につけて言った、「あなたはま
ことに、わたしにとって血の花婿です」。
そこで、主はモーセをゆるされた。この時「血の花婿です」とチッポラが言っ
たのは割礼のゆえである。


この奇妙な話のどこに現代の我々に適用されるべき重要な教訓があるかおわかりに
なりますでしょうか。この出来事はモーセが40年間荒野で過ごした後にいよいよ召
されてエジプトにいるイスラエルの同胞を助けるためにパロの前に立とうとして出
発する矢先に起こった出来事です。このエピソードは難解だというので、取り上げ
られる事の少ない聖句ですが、終わりの世に生きるセブンスデーアドベンチストに
とっては避けて通ることのできない重大な意味を持っています。それを理解するた
めに、順を追って考えて欲しいのです。次の設問に従ってみなさんも答えを考えて
みてください。
(1)神は誰を殺そうとしたのですか
(2)割礼は何のためですか(衛生上の理由は除外して下さい)
(3)なぜ血を流す必要があったのですか
(4)この物語をあなたはどのように現代に適用しますか

どなたでもふるって答案をお寄せください。やさしく解説します。
一応8月中にお答えをここにお願いします。
 

お答え

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 8月 4日(土)00時04分19秒
  小パウロ様。再度の質問を感謝いたします。

小パウロ様の該当聖書箇所の解釈でありますと、まだ生きていた悪人というのは聖
徒と共に地上に1000年間生きていたということになるのでしょうか。不信者が1000
年の間聖徒と地上生活を共存するというお考えですか。しかし、その不信者も1000
年の反省期間の甲斐もなく、結局サタンと一緒に滅ぼされてしまうという事なので
しょうか。そういう解釈は今まで考えてみたこともありませんでした。

地の四方から集められた諸国民が、それまでずっと地上で生存を継続していた民な
のか、裁きを前にして裁きのために甦らされた亡者たちであるのか、その箇所には
明示はありませんが、「再臨のときに甦らなかった人々」と「再臨の時に生きてい
たが滅亡して第一の死に入った人々」が、この最後の諸国民であろうと考えるなら
理解は可能であると思います。つまりこの諸国民とは裁きのために地上の各地で甦
った悪人たちの混成軍団であるということです。サタンはそれを煽って神の民と聖
なる都に最後の空しい決戦を挑もうとするという預言であるということです。私の
ところではそういう解釈にしております。

>また、キリストの再臨は「空中再臨」(1テサロニケ4:13-18)と「地上再臨」
>(黙示録19章11-21節、ゼカリヤ12-14章)の二度にわたって、千年期の前に行
>われるという見方を、先生は採られることはされないのでしょうか?


これはよい質問であると思います。疑問点の中核を突いています。おっしゃるよう
な「空中再臨」と「地上再臨」が千年紀前に二度にわたって起こるのではないかと
いう期待をサポートする聖句がありません。これまでの所の聖句を調べる限り両者
の間には千年の期間の間隔があるようにみられます。しかも前者の「空中再臨」と
は、キリストが雲に乗って来られる事件(聖徒は天に引き上げられて雲の上でキリ
ストに会う)であり、後者の「地上再臨」というのはキリストが聖徒とともに天の
都とともに地上に降りてくる(その意味では「再臨」というよりも「降臨」)出来
事として明確に区別して良いのではないかと思います。

また疑問点などがありましたら何度でもご遠慮なくおっしゃって下さい。
 

RE:問題点のクリア

 投稿者:小パウロ  投稿日:2007年 7月26日(木)23時13分12秒
  嵯峨野教会牧師先生

前回はお引越しの最中にもかかわらず、コメント頂きありがとうございました。
早速ではありますが、聖句との整合性の点でいくつか、疑問点がございますので、先生のコメントを引用させて頂いて、質問させて下さい。

>キリストが降りてきたときにオリブ山が分かれるというのは、キリストが雲に乗っ
>てこられた時であることを示す聖句はありません。千年王国の間に、義人と地の民
>が共存するという聖句もとりあえずありません。まして、千年の間治めた地の民が
>結果的に千年後に都を包囲するというのも奇妙な解釈です。我々の理解はキリスト
>の再臨の時に、生きている義人と、既に死んでいた義人が復活して天に上げられ、
>その時生きていた悪人はすべて滅亡して第一の死にはいり、彼らはそれ以前に死ん
>でキリストの再臨の時に甦らなかった人々と一緒に千年後に裁きを受ける為に甦る
>というものです。こういう解釈は単に黙示録20章の聖句に基づいています。キリス
>トは雲に乗ってすべての人によって見られるかたちで来られ(マタイ26:64、マル
>コ14:62、ルカ21:27、黙示録1:7参照)、義人は天に上げられて空中でキリストと
>出会うのであるから(黙示録11:12参照)、キリストが再臨の時に地上に降りてこ
>られる必要がないという理解です。

黙示録20章7-9節には「千年の期間が終ると、サタンはその獄から解放される。そして、出て行き、地の四方にいる諸国民、すなわちゴグ、マゴグを惑わし、彼らを戦いのために召集する。その数は、海の砂のように多い。彼らは地上の広い所に上ってきて、聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲した。すると、天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した。」(口語訳)とあります。

これを見ると、「聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲」する「諸国民」は「獄から開放されたサタン」により、「地の四方」から「召集される」のであり、復活していません。即ち千年期の前に、「生きていた悪人はすべて滅亡して第一の死にはいり、それ以前に死んでキリストの再臨の時に甦らなかった人々と一緒に千年後に」よみがえって、「聖徒たちの陣営と愛されていた都とを包囲」するのではなく、まだ生きていた悪人(不信仰者)が「獄から開放されたサタン」の惑わしによって、神の民と都を攻撃するという記述になっています。
この時に、「天から火が下ってきて、彼らを焼き尽した」後に、「天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった」後に、「彼ら」と「先に死んでいた不信仰者」が復活して、「大きな白い御座」の前で裁かれて、第二の死である「火の池」に投げ込まれると記述されています(黙示録20章9-15節)。

ですから、「千年期は地上で行われ」、「サタンが獄につながれている間」(黙示録20章2-3節)、おとなしくしていた不信仰者たちが「サタンの解放後」、「神の民と都を包囲する」(20:7-9)のではありませんか?

また、キリストの再臨は「空中再臨」(1テサロニケ4:13-18)と「地上再臨」(黙示録19章11-21節、ゼカリヤ12-14章)の二度にわたって、千年期の前に行われるという見方を、先生は採られることはされないのでしょうか?

ゼカリヤ12:6では、「その日には、・・・・その周囲にあるすべての民を、焼き滅ぼす。しかしエルサレムはなお、そのもとの所、すなわちエルサレムで、人の住む所となる。」とあるので、千年期の前の描写にとるほうがよいと思われますが・・・。また、ゼカリヤ12:10-14を見ると、このとき初めてイスラエルの民は自分たちが十字架で「刺し通した」救い主を嘆きながら信じるように思いますが・・・。これは、千年期の後の不信者のさばきでなく、千年期の直前の、週の半ばから始まる3年半の大患難時代(ヤコブの悩みの時)を通って、悔い改めた(肉の)イスラエルの民の描写ではないでしょうか?(ダニエル12:6-7、11、エレミヤ30:7、黙示録11:2-3、12:5-6、13-14、13:5-10、14:1-5)
またこの時はイエス(小羊)はオリ−ブ山(ゼカリヤ14:4)、またシオンの山=エルサレム(黙示録14:1)に立つと言われていますが・・・・。
 

問題点のクリア

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 7月22日(日)14時04分30秒
  小パウロ様

嵯峨野教会牧師である私は今転居の最中なのでアクセス頻度が下がっておりますが、
疑問にはなるべく手抜きせずお答えしたいと思います。

終末に何が起こるかの詳細は預言の解釈上正確には起こってみなければわからない
性格のものであり、よって正確にこうだと事前にわからないものであるというのは
承知しております。私もそのように考えています。しかし、ここで問題になるのは
キリストの再臨の前に起こる事についての最低限の知識です。なぜそれを聖書から
確認することが大切なのかというと、サタンがキリストの再臨を模倣して人々を欺
くからです。サタンが光の天使ふりを装って民を欺いて滅びに至らせます。そうい
う偽キリストの再臨によって動揺させられないように聖書から預言を学んで確認す
ることが大切なのです。実は私の教会でもそういう事を理解しないで預言を軽んじ
て聖書の再臨メッセージを希釈する人がいて頭が痛いです。

その上で小パウロ様の見解についてコメント申し上げたいと思います。
まず、天と地が跡形もなくなるという描写がいつにあてはまるのかという事を確認
する必要があります。ご引用の聖句ペテロ第二の手紙3:7のように、滅ぼされる
日に火で焼かれる日まで在るとしています。この火で焼かれる火というのがキリス
トの再臨の時なのか、それとも黙示録20章7-9節に説明されているように千年期の後
に行われる悪人の審判の時に起こる出来事なのかということです。キリストの再臨
のときにはキリストは雲に乗ってこられ、義人は聖徒として天に引き上げられます。
地上は地震などで滅亡して荒廃しますが、これをもって天と地が跡形もなくされる
のかどうかということです。黙示録21章1節の説明は明らかに最後の悪人の裁きが終
了して火の中に投げ込まれた後のように記されています。最終的にエルサレムが降
下した時点では先の天と地は一新されていたと理解して問題はありません。

キリストが降りてきたときにオリブ山が分かれるというのは、キリストが雲に乗っ
てこられた時であることを示す聖句はありません。千年王国の間に、義人と地の民
が共存するという聖句もとりあえずありません。まして、千年の間治めた地の民が
結果的に千年後に都を包囲するというのも奇妙な解釈です。我々の理解はキリスト
の再臨の時に、生きている義人と、既に死んでいた義人が復活して天に上げられ、
その時生きていた悪人はすべて滅亡して第一の死にはいり、彼らはそれ以前に死ん
でキリストの再臨の時に甦らなかった人々と一緒に千年後に裁きを受ける為に甦る
というものです。こういう解釈は単に黙示録20章の聖句に基づいています。キリス
トは雲に乗ってすべての人によって見られるかたちで来られ(マタイ26:64、マル
コ14:62、ルカ21:27、黙示録1:7参照)、義人は天に上げられて空中でキリストと
出会うのであるから(黙示録11:12参照)、キリストが再臨の時に地上に降りてこ
られる必要がないという理解です。

このようにキリストが再臨の時に地上に降り立つというのは聖句を眺め渡してみて
も蓋然性がありません。それどころかてこられるですから、私たちがキリストの再
臨と称して地上を闊歩する「イエスキリスト」を見るならば、信じてはいけないと
いうことです。キリストご自身がマタイの福音書でそう語られています、
24:23-27
そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、また、
『あそこにいる』と言っても、それを信じるな。24:24 にせキリストたちや、
にせ預言者たちが起って、大いなるしるしと奇跡とを行い、できれば、選民
をも惑わそうとするであろう。見よ、あなたがたに前もって言っておく。
だから、人々が『見よ、彼は荒野にいる』と言っても、出て行くな。また
『見よ、へやの中にいる』と言っても、信じるな。
ちょうど、いなずまが東から西にひらめき渡るように、人の子も現れるであろう。


これについて疑問がありましたらまたご遠慮なくおっしゃって下さい。
 

RE:釈明と質問

 投稿者:小パウロ  投稿日:2007年 7月16日(月)08時09分10秒
  嵯峨野教会牧師先生

応答、遅くなりましたが、以下のことにつき、私の意見を申し上げたいと思います。

>>「ゼカリヤ書14章にあるのは黙示録21章にあるように天から新エルサレムが降りて来たときの事」との御指摘ですが、黙示録21章の時には、今の天と地は、跡形もなく消え去っているので(黙示20:11)、ゼカリヤ書14章の描写と、合わないのではありませんか?イエス様は「今あるオリーブ山の上に立つ」のではありませんか?

>黙示録21章1節には、天と地ばかりか、海もなくなっていたと書いています。キリ
>ストの再臨の際に島が逃げ去るというほどの激烈な地震や地殻変動が起こった結果
>と推測されます。これは推測です。大きな災害の後に千年経過した地上は荒廃して
>見る影もなくなっているでしょう。そのような中でオリーブ山はもう残っていない
>のではないかという推測は妥当であると思いますか。私は穏やかに回答を保留する
>ことを選びます。再臨前はオリーブ山と言われた地点に新エルサレムが降下すると
>考えても構わないと思います。いずれにしても、オリーブ山は新エルサレムが地上
>に降りてきた後は無くなる訳です。

黙示録21章1節には、「天と地とは消え去り」、「海もなくなってしまった」、また黙示録20:11の時点で、「天も地も御顔の前から逃げ去ってあとかたもなくなった」とあり、第2ペテロ3:7では「今の天と地は、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。」、同じく、第2ペテロ3:10-12では「しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなた方は、極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。」とありますので、どう考えても、今の「天(宇宙)」も「地(地球)」も全て火で焼かれて、なくなっているということですね。

いったん、何もなくなった後に、黙示録21章1節で、新しい天と地が創造されて、そこにまた方形の(21:16)新しいエルサレムが降下すると記述されています(黙示録21章2節)。これは、第2ペテロ3:10-12を受けての、3:13での「新しい天と地」の描写とも一致していると思いますね。

結局、オリ−ブ山、もしくはオリ−ブ山のあった所に、新エルサレムが降下することはありえないという事になりますね。ですから、やはり、ゼカリヤ14章の描写は、千年王国の前のキリストの「地上再臨」の描写であるということになると思いますが・・・。

そして、今の天(全宇宙)と地(地球)が燃えて消え失せた後の、新しい天と地の新創造は、創世記1:1の神による「天と地の創造」を嵯峨野教会牧師先生も文字通り信じになっておられる事と思いますので、先生にとっても、何も問題がないことだと思いますが、いかがでしょうか?

>>またその時に、エルサレムを攻撃しているもろもろの民と主は戦われ(14:3)、それらの民を滅ぼされる(14:12ー15)とありますが、一方、黙示録21章の新しい天と地(最終的天国)には、そのような神に敵対する不信仰者は入れませんから(黙示録20:12-15)、やはり、ゼカリヤ14章は、黙示録19:11-20:6のキリストの地上再臨と千年王国の描写と取る方が、よろしいのではないでしょうか?

>黙示録20章7節を見ると、千年紀が終わった時点で、サタンは悪の霊を召集し、聖
>徒たちの都を包囲すると書いています。これはサタンが扇動して、悪の霊と悪の人
>々(黙示録20:5にある、キリスト再臨時の第一の復活でよみがえらず、千年の期間
>の後までよみがえらなかった人々)を集めて天から降りてきたエルサレムを攻撃し
>ようとするが、そもそも神に立ち向かうあたわず、最後の裁きの結果として「火と
>硫黄の池」に投げ込まれて最終的に滅亡すると書かれています。そういう解釈でも
>よろしいでしょうか。

第一の復活でよみがえらなかった人々がよみがえるのは、黙示録20章7-10節の「ゴグ、マゴグの戦い」の時ではなく、その後の、黙示録20:11で、今の天と地が御顔の前から逃げ去って、跡形もなくなった(滅びた)さらに後の、最後の審判(白い御座の裁き)の時(黙示録20:11-15)ですから、黙示録20章7-10節の「ゴグ、マゴグの戦い」の時に、キリストと聖徒たちのいる「愛されていた都」を包囲するのは、千年王国にいた地の民で、獄から開放されたサタンに惑わされた人々ですね(千年間はサタンが底知れぬ所につながれていたので、おとなしくしていたのでしょう。20:1-3)。

>>それに、黙示録20:1-3のサタンは千年の間、「底知れぬ所」(口語訳)に投げ込まれるとありますので、「荒廃した地上に幽閉」されるのではないと思います。そして、サタンの幽閉によって、諸国民が惑わされないので(20:3)、先に空中再臨の時、携挙された信仰者がキリストと共に地上に帰って来て、千年間、地の民を治めることが容易になるのだと思います。その様子はゼカリヤ14:16-19に記されていることと一致します。

>救われた諸国民は再臨の時に天に上げられるので、確かにサタンに惑わされること
>はありません。携挙はキリストの再臨と同時に起こります。復活して携挙された義
>人がキリストと共に地上に帰ってくるのは千年の期間が終わってからです。ゼカリ
>ヤ14章の該当箇所は、キリストと共に天に上った義人がキリストと共に第一の死で
>死んでしまった悪人の歴史を裁くという意味ととりえます。

第一の死で死んでしまって、第一の復活にあずかれない悪人(不信仰者)が裁かれるのは、千年王国の後の、「ゴグ、マゴグの戦い」の更に後の、今の天と地が火で滅びた(黙示録20:11、第2ペテロ3:7、10)後の、最後の審判(白い御座の裁き)の時(黙示録20:11-15)ですから、ご指摘の「天での千年王国での描写」と取ることは無理があると思いますね。

>>また、黙示録20:4、6を見ると、「支配する」となっていますから、やはり、この地上で千年間、キリストが王として、聖徒らと共に、地の民を治める(支配する)というのが、無理のない解釈ではないかとおもいますが・・・。もし、千年王国が天に建設されるのであれば、聖徒たちは誰を支配する(治める)のでしょうか?

>その上で、聖徒たちが神にあって自分たちの国を建設して維持するなら、それは国
>を支配していることであり、支配しているからと言って、聖徒以外の被支配者層を
>神の国に必要としているわけではありません。聖徒が支配するのは神の創られる新
>しい国であると単純にここは理解したいと思いますが、いかがでしょう。

黙示録20:1-9の千年王国とそれに続く「ゴグ、マゴグの戦い」では、サタンから惑わされる事を千年間は阻止され、その後、惑わされて「聖徒たちの陣営と愛されていた都」を攻撃して火で焼かれて滅びる人たちが「天の千年王国」に入れるはずが無いと思いますがいかがでしょうか?「天」には「罪びとのままでは」入れないのではありませんか?罪を清められた(救われた)者しか入れない所が、全く聖なる神のおられる「天」ではないでしょうか?イザヤ6:5-7

また、黙示録20:1-9の千年王国とそれに続く「ゴグ、マゴグの戦い」の描写を見ると、「天の千年王国」の後、キリストと聖徒が天から地上に帰って来たという記述はなく、むしろキリストと聖徒たちが千年王国を過ごした「聖徒たちの陣営と愛されていた都」を、サタンに惑わされた「地の四方にいる諸国民」が包囲攻撃して来る様子が描写されていますね。

>>なお、ダニエル書9:24-27の個所は、初臨のキリストの預言と共に、最後の1週は、キリストが69週目(公生涯開始)の後の、週の半ば(3年半後)に犠牲を廃する(キリストが神の子羊として購いを成就されたので、もはや他の犠牲は必要なくなる)という預言と共に、終末の1週(7年の患難期)を表し(9:26「・・・そしてその終わりまで戦争が続き、(町と聖所の)荒廃は定められています。」・・・町(エルサレム)の復興は成就しましたが、聖所(神殿)の復興は反キリストの来るまで待たなくてはならない・・・2テサロニケ2:3)、反キリストが世界の国々とイスラエルの間に平和条約を結ばせ(9:27)、「神殿の再建」と、「犠牲を復活させる」が、週の半ば(3年半後)にまことの神への犠牲をやめさせ、自分が神であると宣言することの「二重の預言」であるというのが、一般的な解釈となっています。

>この段落の説明の前半部分は同意しますが、後半の部分がわかりません。ダニエル
>書に記されているユダヤ人のための70週の預言の最後の一週間がどうして終末にあ
>てはまるのか、ダニエル書の70週の初めはペルシャ王のエルサレム再建命令ですが、
>これを終末に当てはめる場合の70週の起算点はいつなのでしょうか?? よろしけ
>れば御教授ください。

キリスト(メシヤ)の来臨はユダヤ人のためばかりではありませんが(創世記3:15「女のすえ(子孫)」(女だけによるすえ=処女降誕されるキリスト)は全てのアダムの子孫の為に約束された)、キリストの再臨によってもたらされる千年王国は、基本的にユダヤ人(イスラエル人)の為だと思います。使徒1:6-7を見ると、弟子たちが「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と尋ねられた時に、イエス様はその時期については知る必要がないと言われましたが、「イスラエルの為に国を建てること」は否定されず、むしろその時は、「父がご自分の権威によって定めておられるのであって」と答えられています。この「イスラエルの為の国」は単なる一般的な「国」ではなく、キリストが全地の王となる地上の目に見える神の国(千年王国)ですね(ゼカリヤ14:9、ダニエル2:44-45)。

キリストの初臨の年は、その公生涯の初め(世に来られる事)と他の人の為に絶たれること、犠牲の終わりとなる事の年が、はっきりと預言されていましたが(ダニエル9:24-27)、再臨については主が「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなた方の知る限りではない。(使徒1:7)」また「同じ有様で帰って来られる」と言われてますので、再臨があるのはまちがいないのですが(特に地上再臨)、「その年」は初臨のようには教えられてはいなく、むしろ「あなた方の知る限りではない」という事なので、「何年に再臨がある」と言うのは「主の御心ではない」という事でしょう。

ただ、再臨の最後の1週(7年=患難時代、前半は反キリストとイスラエルの蜜月期、後半は大患難時代)についてのみ、教えられているということですね。

それが、ダニエル9:26「・・・そしてその終わりまで戦争が続き、(町と聖所の)荒廃は定められています。」・・・「町(エルサレム)」と「聖所(神殿)」の両方の荒廃が終わる時(再建される時)に、この再臨の1週(7年=患難時代)が始まるということであり、9:27についてのキリストが69週目(公生涯開始)の後の、週の半ば(3年半後)に犠牲を廃するという預言と共に、反キリストが世界の国々とイスラエルの間に平和条約を結ばせ、「神殿の再建」と、「犠牲を復活させる」が、週の半ば(3年半後)にまことの神への犠牲をやめさせ、自分が神であると宣言することの「二重の預言」ということでありますね。

また、キリスト来臨の預言として、聖書の中に、初臨と再臨が散りばめられてあったように(この点で、当時のユダヤ人は、弟子たちでさえある程度、混同していたと思われます・・・使徒1:6を見ると)、キリストの再臨も同じようであり、どう見ても、空中再臨と、地上再臨の預言が2度に渡って行われると考えざるを得ないと思います(おかげで、私たちも混乱させられますが・・・)。

ですが、預言についてはそれが成就した時に、はっきりする部分もありますので(再来のエリヤがバプテスマのヨハネであったこと、またマタイ2;15で引用されているホセア11:1が「イスラエル」と「神の子キリスト」についての2重の描写であったこと等)、細かなことについては、ある程度フレキシブルに考えるほうがよい(断定しない方がよい)と私は思っていますが・・・。
 

釈明と質問

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 7月14日(土)11時57分4秒
  小パウロ様、ご解説有難うございます。それでは早速ですがお答えがてら、若干の
質問をしてもよろしいでしょうか。

「ゼカリヤ書14章にあるのは黙示録21章にあるように天から新エルサレムが降りて来たときの事」との御指摘ですが、黙示録21章の時には、今の天と地は、跡形もなく消え去っているので(黙示20:11)、ゼカリヤ書14章の描写と、合わないのではありませんか?イエス様は「今あるオリーブ山の上に立つ」のではありませんか?

黙示録21章1節には、天と地ばかりか、海もなくなっていたと書いています。キリ
ストの再臨の際に島が逃げ去るというほどの激烈な地震や地殻変動が起こった結果
と推測されます。これは推測です。大きな災害の後に千年経過した地上は荒廃して
見る影もなくなっているでしょう。そのような中でオリーブ山はもう残っていない
のではないかという推測は妥当であると思いますか。私は穏やかに回答を保留する
ことを選びます。再臨前はオリーブ山と言われた地点に新エルサレムが降下すると
考えても構わないと思います。いずれにしても、オリーブ山は新エルサレムが地上
に降りてきた後は無くなる訳です。

またその時に、エルサレムを攻撃しているもろもろの民と主は戦われ(14:3)、それらの民を滅ぼされる(14:12ー15)とありますが、一方、黙示録21章の新しい天と地(最終的天国)には、そのような神に敵対する不信仰者は入れませんから(黙示録20:12-15)、やはり、ゼカリヤ14章は、黙示録19:11-20:6のキリストの地上再臨と千年王国の描写と取る方が、よろしいのではないでしょうか?

黙示録20章7節を見ると、千年紀が終わった時点で、サタンは悪の霊を召集し、聖
徒たちの都を包囲すると書いています。これはサタンが扇動して、悪の霊と悪の人
々(黙示録20:5にある、キリスト再臨時の第一の復活でよみがえらず、千年の期間
の後までよみがえらなかった人々)を集めて天から降りてきたエルサレムを攻撃し
ようとするが、そもそも神に立ち向かうあたわず、最後の裁きの結果として「火と
硫黄の池」に投げ込まれて最終的に滅亡すると書かれています。そういう解釈でも
よろしいでしょうか。

それに、黙示録20:1-3のサタンは千年の間、「底知れぬ所」(口語訳)に投げ込まれるとありますので、「荒廃した地上に幽閉」されるのではないと思います。そして、サタンの幽閉によって、諸国民が惑わされないので(20:3)、先に空中再臨の時、携挙された信仰者がキリストと共に地上に帰って来て、千年間、地の民を治めることが容易になるのだと思います。その様子はゼカリヤ14:16-19に記されていることと一致します。

救われた諸国民は再臨の時に天に上げられるので、確かにサタンに惑わされること
はありません。携挙はキリストの再臨と同時に起こります。復活して携挙された義
人がキリストと共に地上に帰ってくるのは千年の期間が終わってからです。ゼカリ
ヤ14章の該当箇所は、キリストと共に天に上った義人がキリストと共に第一の死で
死んでしまった悪人の歴史を裁くという意味ととりえます。

また、黙示録20:4、6を見ると、「支配する」となっていますから、やはり、この地上で千年間、キリストが王として、聖徒らと共に、地の民を治める(支配する)というのが、無理のない解釈ではないかとおもいますが・・・。もし、千年王国が天に建設されるのであれば、聖徒たちは誰を支配する(治める)のでしょうか?

その上で、聖徒たちが神にあって自分たちの国を建設して維持するなら、それは国
を支配していることであり、支配しているからと言って、聖徒以外の被支配者層を
神の国に必要としているわけではありません。聖徒が支配するのは神の創られる新
しい国であると単純にここは理解したいと思いますが、いかがでしょう。

なお、ダニエル書9:24-27の個所は、初臨のキリストの預言と共に、最後の1週は、キリストが69週目(公生涯開始)の後の、週の半ば(3年半後)に犠牲を廃する(キリストが神の子羊として購いを成就されたので、もはや他の犠牲は必要なくなる)という預言と共に、終末の1週(7年の患難期)を表し(9:26「・・・そしてその終わりまで戦争が続き、(町と聖所の)荒廃は定められています。」・・・町(エルサレム)の復興は成就しましたが、聖所(神殿)の復興は反キリストの来るまで待たなくてはならない・・・2テサロニケ2:3)、反キリストが世界の国々とイスラエルの間に平和条約を結ばせ(9:27)、「神殿の再建」と、「犠牲を復活させる」が、週の半ば(3年半後)にまことの神への犠牲をやめさせ、自分が神であると宣言することの「二重の預言」であるというのが、一般的な解釈となっています。

この段落の説明の前半部分は同意しますが、後半の部分がわかりません。ダニエル
書に記されているユダヤ人のための70週の預言の最後の一週間がどうして終末にあ
てはまるのか、ダニエル書の70週の初めはペルシャ王のエルサレム再建命令ですが、
これを終末に当てはめる場合の70週の起算点はいつなのでしょうか?? よろしけ
れば御教授ください。


セブンスデーアドベンチスト嵯峨野教会牧師拝
 

RE:再臨の記述の整理

 投稿者:小パウロ  投稿日:2007年 7月14日(土)00時05分33秒
編集済
  嵯峨野教会牧師先生

さっそくの応答ありがとうございます。

「ゼカリヤ書14章にあるのは黙示録21章にあるように天から新エルサレムが降りて来たときの事」との御指摘ですが、黙示録21章の時には、今の天と地は、跡形もなく消え去っているので(黙示20:11)、ゼカリヤ書14章の描写と、合わないのではありませんか?イエス様は「今あるオリーブ山の上に立つ」のではありませんか?

またその時に、エルサレムを攻撃しているもろもろの民と主は戦われ(14:3)、それらの民を滅ぼされる(14:12ー15)とありますが、一方、黙示録21章の新しい天と地(最終的天国)には、そのような神に敵対する不信仰者は入れませんから(黙示録20:12-15)、やはり、ゼカリヤ14章は、黙示録19:11-20:6のキリストの地上再臨と千年王国の描写と取る方が、よろしいのではないでしょうか?

それに、黙示録20:1-3のサタンは千年の間、「底知れぬ所」(口語訳)に投げ込まれるとありますので、「荒廃した地上に幽閉」されるのではないと思います。そして、サタンの幽閉によって、諸国民が惑わされないので(20:3)、先に空中再臨の時、携挙された信仰者がキリストと共に地上に帰って来て、千年間、地の民を治めることが容易になるのだと思います。その様子はゼカリヤ14:16-19に記されていることと一致します。

また、黙示録20:4、6を見ると、「支配する」となっていますから、やはり、この地上で千年間、キリストが王として、聖徒らと共に、地の民を治める(支配する)というのが、無理のない解釈ではないかとおもいますが・・・。
もし、千年王国が天に建設されるのであれば、聖徒たちは誰を支配する(治める)のでしょうか?

なお、ダニエル書9:24-27の個所は、初臨のキリストの預言と共に、最後の1週は、キリストが69週目(公生涯開始)の後の、週の半ば(3年半後)に犠牲を廃する(キリストが神の子羊として購いを成就されたので、もはや他の犠牲は必要なくなる)という預言と共に、終末の1週(7年の患難期)を表し(9:26「・・・そしてその終わりまで戦争が続き、(町と聖所の)荒廃は定められています。」・・・町(エルサレム)の復興は成就しましたが、聖所(神殿)の復興は反キリストの来るまで待たなくてはならない・・・2テサロニケ2:3)、反キリストが世界の国々とイスラエルの間に平和条約を結ばせ(9:27)、「神殿の再建」と、「犠牲を復活させる」が、週の半ば(3年半後)にまことの神への犠牲をやめさせ、自分が神であると宣言することの「二重の預言」であるというのが、一般的な解釈となっています。

参照:2テサロニケ2:3-12。この2:6の「今阻止している者」が、信仰者に与えられている「聖霊」であり、「今阻止している者」である「聖霊」を宿している信仰者が、キリストの空中再臨時に「携挙」によって、「取り除かれる時」に(2:7、週の半ばに)、反キリストは自ら神の宮に座して、自分を神だと宣言する(2:4、8)のだと思います。

この週(患難時代)の後半の3年半が「大患難時代」、いわゆる「ヤコブの悩みの時」(エレミヤ30:7)で、この「大患難時代」の反キリストによる迫害の中で、真に悔い改めて、イエスをメシヤ(キリスト)であると信じたイスラエル人(忠実な神の残りの民)を救いにキリストは「地上再臨」されるようですね(ゼカリヤ12、14章、黙示録13:1-5)。

ちなみに、キリストの初臨の時代にも来るべき君(反キリスト・荒らす者)の民(ローマ)が憎むべき者の翼(ワシの旗印=ローマの旗)に乗ってやって来たが、終末の時代にも、反キリストは復興したローマ帝国(EUではないかとも言われている)の指導者として、世に現れると言われていますね(ダニエル9:26-27、黙示録13章)。

ただ、再臨(預言)について細かいことは、あまり断定しない方が良いということがありますが(間違う可能性があるので)・・・・。
 

再臨の記述の整理

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 7月13日(金)20時08分39秒
  ようこそ、小パウロ様。セブンスデーアドベンチスト嵯峨野教会聖書研究室によう
こそおいで下さいました。

おっしゃる所の七年の期間というのは、ダニエル書からのものですが、それはキリ
ストの初臨の預言です。ユダヤに与えられた70週の最後の週にメシアであるキリス
トがこられるというものです。ユダヤの70週というのは、ペルシャの王がバビロン
に捕らえられたユダヤの民にエルサレム再建許可命令を出した時からです。そのこ
とについては嵯峨野教会メインページのダニエル書研究の所で解説しておりますの
で、どうぞご参考になさってください。

キリストは人の罪をあがなう犠牲の子羊として捧げられるために最初に地上に来ら
れました。再臨はこれからの出来事です。われわれセブンスデーアドベンチスト教
会は、神を信じる忠実な信徒が世の終わりの前に悪人の前からいつのまにか取り去
られて天に上げられるといういわゆる「携挙説」をとらず、再臨が来て、義と認め
られた人は、悪人の見ている前で天に上げられるという理解をしています。そして
この罪の世界は滅亡します。ゼカリヤ書14章にあるのは黙示録21章にあるように天
から新エルサレムが降りて来たときの事で、黙示録20章を読む限りそれはキリスト
の再臨から千年後の出来事という理解です。

また質問がありましたら、よろしくお願いします。
 

RE:真のキリストは地上に降りて来て地面を歩かない

 投稿者:小パウロ  投稿日:2007年 7月12日(木)19時34分33秒
  はじめまして、ネットサーフィン中、このHPを知りました。SDAはちょっと変わったキリスト教という認識がありましたが、上記タイトルについて、おやっと思ったので、投稿いたしました。

私のキリスト再臨の理解では、キリストは2度に渡って再臨される、すなわち、7年の患難期の半ば(3年半)に信者の携挙を伴なう「空中再臨」と、その3年半後の「地上再臨」と考えていました。

そして、先生の引用された1テサロニケ4:16-18はこの「空中再臨」にあたり、ゼカリヤ14章は「地上再臨」を表していると思います。

特にゼカリヤ14:4では「その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。」とありますので、イエス様は「地上にも」再臨されるのではないでしょうか?
 

今月の聖句

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 7月 5日(木)12時40分4秒
聖歌隊の指揮者によってうたわせたコラの子のマスキールの歌
>神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ。
わが魂はかわいているように神を慕い、いける神を慕う。
いつ、わたしは行って神のみ顔を見ることができるだろうか。
人々がひねもすわたしにむかって「おまえの神はどこにいるのか」と言いつづける間は
わたしの涙は昼も夜もわたしの食物であった。
わたしはかつて祭を守る多くの人と共に群れをなして行き、
喜びと感謝の歌をもって彼らを神の家に導いた。今これらの事を思い起して、
わが魂をそそぎ出すのである。
わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。
わが魂はわたしのうちにうなだれる。それで、わたしはヨルダンの地から、
またヘルモンから、ミザルの山からあなたを思い起す。
あなたの大滝の響きによって淵々呼びこたえ、あなたの波、あなたの大波は
ことごとくわたしの上を越えていった。
昼には、主はそのいつくしみをほどこし、夜には、その歌すなわちわがいのちの神に
ささげる祈がわたしと共にある。
わたしはわが岩なる神に言う、「何ゆえわたしをお忘れになりましたか。
何ゆえわたしは敵のしえたげによって悲しみ歩くのですか」と。
わたしのあだは骨も砕けるばかりにわたしをののしり、ひねもすわたしにむかって
「おまえの神はどこにいるのか」と言う。
わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。
神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。

詩篇42篇


詩篇はすべてダビデの詩であるというわけではなく、このようにわざわざ断って作
者を表示しているものもあります。このコラの子というのは誰であるかわかります
か。コラというのは民数記16章に出てくるコラです。コラはモーセに反逆したため
に神に地面の中にめり込まされて殺された人です。その子が書いた賛美であるとい
う事を思い起こしてこの歌を詠んでほしいと思います。自分の親が神への反逆のゆ
えに自分の目の前で滅ぼされた、その子が神を讃えているというこの事実を素直に
受け入れることができますか。是非受け入れて欲しいと思います。

賛美は信仰の戦いで汗も涙も葛藤もしない人でもある程度はすることが出来ます。
しかしそれは経験がないゆえに観念的な賛美です。信仰のゆえに家族を捨て、ふる
さとを捨て、自分の身内をも捨て、自分の罪にうめき苦しみ涙を流し、外では信仰
の葛藤で職場や学校や地位を捨てたような人が神を賛美するということは、自分の
なめてきた辛酸を思い出しながらもその中から救い出されたという激烈な緊張と霊
的戦闘状態の中から勝利して出てきた人たちの証であるということです。親の刑罰
を目の当たりにした子供たちが教会の賛美歌リーダーとして賛美をリードするよう
に任命されました。コラの子供たちがPTSDにもならず、その任務を立派に果た
せたのは驚くべきことでしょうか。みなさんも今教団組織の堕落を目の当たりにし
ていますが、彼らに裁きが下ることを予想して心の準備をしておられますか。裁き
が下ってから神の愛がわからなくなったなどと言って信仰から離れる準備をしては
折られませんか。それではいけません。そうではなく、かえってコラの子たちのよ
うに、そういう危機的な状況の中から命を購われたことを感謝して、声高らかに神
を賛美する準備をして欲しいと思います。
 

ヨナ書

 投稿者:イチダ  投稿日:2007年 5月 9日(水)11時42分23秒
  ヨナ書の解説、ナイスです。わかりやすいです。  

白髪?

 投稿者:チビタ  投稿日:2007年 5月 6日(日)20時44分36秒
  よく意味が分かりませんでした。解説お願いします。  

白髪

 投稿者:kk  投稿日:2007年 5月 1日(火)12時30分1秒
  呉越同舟です。
一目瞭然です。
 

今月の聖句

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 4月19日(木)13時16分23秒
   ヨナはその町にはいり、初め一日路を行きめぐって呼ばわり、「四十日を経た
 らニネベは滅びる」と言った。そこでニネベの人々は神を信じ、断食をふれ、
 大きい者から小さい者まで荒布を着た。このうわさがニネベの王に達すると、
 彼はその王座から立ち上がり、朝服を脱ぎ、荒布をまとい、灰の中に座した。
 また王とその大臣の布告をもって、ニネベ中にふれさせて言った、「人も
 獣も牛も羊もみな、何をも味わってはならない。物を食い、水を飲んではなら
 ない。人も獣も荒布をまとい、ひたすら神に呼ばわり、おのおのその悪い道お
 よびその手にある強暴を離れよ。あるいは神はみ心をかえ、その激しい怒りを
 やめて、われわれを滅ぼされないかもしれない。だれがそれを知るだろう」。
 神は彼らのなすところ、その悪い道を離れたのを見られ、彼らの上に下そうと
 言われた災を思いかえして、これをおやめになった。

 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、主に祈って言った、
 「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。
 それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、
 わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊
 かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。それで主よ、どうぞ
 今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がま
 しだからです」。
 主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。
 そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋
 を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。時に
 主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育
 て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。とこ
 ろが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それ
 は枯れた。やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭
 を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死
 ぬ方がわたしにはましだ」。しかし神はヨナに言われた、「とうごまのために
 あなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死
 にそうです」。主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一
 夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。ましてわたしは十二万あまり
 の、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、
 惜しまないでいられようか」。

   ヨナ書3:4−4:11


今月の聖句はヨナ書です。これは旧約聖書の中でも比較的子供でもわかりやすい箇
所であるとして子供の話でも引用されて語られていますが、そうではなく、これ程
結論の真意が誤解されているものはありません。ヨナはアッシリア帝国の首都に行
ってこの街は40日を経て滅びると日数まで明確にして預言をしましたが、それを聞
いたニネベの人々が衷心から悔い改めたので神はその定められた滅亡を撤回なさっ
たという話です。では一体どうしてヨナは怒ったのでしょうか。それはもちろん、
彼は面目を丸つぶれにされたからです。考えてみてください。もしあなたが「40日
経ったら滅びる」とみんなの前で発表してそうならなかったらどうなるかというこ
とです。恐らく人はあなたの事を偽預言者か嘘つきの奇人変人だと思うでしょう。
ヨナもそう思われることに耐えられず神に恥を掻かされたと思って怒り狂ったので
す。それはここだけを読むなら正当な憤りです。怒りの余り死にそうですとまで言
っているヨナでしたが、神はそれに対して何も答えず、ただヨナのためにトウゴマ
の蔓を生やし、そして枯れさせました。神は不平をたらたら垂れるヨナをなだめる
ように、自分が労さないトウゴマをいとおしむなら、まして神の創られたあまたの
住民を顧みないだろうかと諭しました。ということは、神は愛する民を助ける為な
ら自分の選んだ預言者ですら欺いて恥を掻かせるということなのでしょうか。そう
です。事実たとえば日本SDA教団前理事長の白石尚氏は、アドベンチストライフ
に書いて、カトリック教会が過去の歴史上の悪事を反省しているからとして、ヨナ
書のニネベの人々の故事を引き合いに出し、エレンGホワイトのカトリック警戒勧
告はもはや有効ではない、そんな勧告を今でも受け入れる者はキリストにある兄弟
にあるまじき姿勢とまで極言して退けました。果たしてヨナ書をそのように読んで
解釈をしてよいのでしょうか。その答えを致しましょう。

ニネベの人の悔い改めの方が預言者のメッセージよりも優先されると解釈する人は、
ヨナ書の前半部分でヨナが召された時の経緯を全く読み飛ばして忘れているか、無
視している人です。そもそもニネベに行ってそういう預言をしなさいと命じられた
のは神です。しかしヨナはそれに聞き従わず、かえって反抗して反対の方向に向か
う船に乗り込んで神の召しを拒否した事を忘れてはなりません。神の命令にはなか
ら忠実でなかったのです。ヨナには神に対して預言者の体裁の保全を要求する権利
はなかったことに気が付いてください。自分が拒否した職務をいやいやながら遂行
したことの補償を求めることは道徳的ではありません。それどころか自分がはじめ
に神の召しに忠実に従わなかったのですから、本当は地中海の真ん中で溺死しても
文句が言えなかったのです。つまり、この物語で最も悔い改めなければならない罪
を描かれているのはニネベの人ではなく、ヨナだったのです。もし彼が預言者エリ
ヤやエリシャのようにはじめから神の召しと原則に忠実に歩んでわき目も振らずに
ニネベに行っていたら、こういう話にはならなかったでしょう。ニネベの人のなか
にも悔い改めた人はやはり救われたでしょう。しかし、それではヨナ書の教訓の真
髄に行き着けません。ヨナ書の真髄とは、
 預言者の使命を軽んじる罪は、
 異教徒の町の罪よりも重い

ということです。わかりますかヨナ書の最後の一回転ツイストが。今のSDA教会
の牧師の中でこのようなヘビーな教訓に耐えられる人が何人残っているのでしょう
か。白石先生も理解しておられなかったようです。これは決して子供の話ではあり
ません。
 

感謝します!!

 投稿者:うるしたに  投稿日:2007年 4月16日(月)18時19分0秒
  アッシリアが北を滅ぼしたことで神様の摂理がよく説明されており、頭の弱い私にもよく理解できました。神様の摂理は「有限」で「不確か」な人間には完全には理解できませんが神様に頼りきっていく信仰が大切だと思います。信頼しきることでしょうね!。

そうです!。教団の方針ではなく、神の摂理を尋ね求めていくことです!これが重要です!!。
             −−

三育学院の現状などを拝見しておりますと頭痛がしてきます。東京衛生HPの件もです!。残りの子達の信仰と熱心が消されることなく存在しますように。

実は30年前に初めて聖書を読んで心打たれた私は父親に「聖書っていいものだよ」と話すと父が大正時代(子供時代)にSDAに行っていたことがあるというので私は初めて神様に祈ったのです。その内容は「セブンスデーと言うのが神様の御心ならば与えてください」と、すると約10日後の7月13日に「こんにちは・・」とやって来たのが河原君だったのです。この日は私の誕生日でもありましたので、腰を抜かしてしまいました!河原君にもこの話は致しましたが、もう忘れているでしょう。それからは色々ありまして「なぜ、こうなるんだろう・・!?」と考えましたが人知をはるかに越えた神様の時間の中で神様が「よし」としてくださっていると信じて今日まできました。「後になれば判るさ」と神様に委ねてきたのです。

思わぬ方法で嵯峨野教会と出会えて神様には感謝です!。これからも私の幼稚な質問に対して教導をお願いいたします。
 

はい

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 4月15日(日)11時01分21秒
  うるしたに様

結局、私たちは自分の判断が最善であるという事は、神なしには悟ることが出来な
いという事です。自分はこれがよいと思ってしてきたことが実は非常に愚かな事で
あったりします。また神は悪人をも用いられることがあります。たとえばアッシリ
アは背教のイスラエル北王国を滅ぼしましたが、彼らは領土拡張の野望と侵略の欲
望に燃えてやったことでありますが、よもや眞の神の摂理の為に利用されていたと
は夢にも思っていなかったでしょう。ですから神の摂理を知るということは、自分
の判断を過信しない、頼らないということなのです。

今から30年前というと確かに河原さんは文伝者でしたね。私はその時ちょうどあ
る医学部で安息日を守って土曜日の試験も受けなかった結果学籍を維持できなくな
って一時三育に一年間身を寄せたことがあります。その時丁度彼が一緒に神学学科
生として来ていました。磯部とか東海林と言う人もその時にいました。その時から
教会を離れておられたのですね。あの時から比べますと、日本のSDA教会はかな
り変質してしまっています。私は長期欠席者ではありませんが、それ以来日本の教
会から離れているという意味では基本的にうるしたに様と同等の立場です。しかし
心配するには及びません。この伝道の書の聖句も示唆するように、最善の道は神が
ご存知です。教団の方針よりも神の摂理を尋ね求める人はたとえ教会からいくばく
かの期間離れていたとしても、信仰の破船に遭うことはありません。希望を持って
これからもよろしくお願いいたします。
 

ご指導感謝します。

 投稿者:うるしたに  投稿日:2007年 4月12日(木)17時27分21秒
  「人間の判断を過信するな・・」ですね。つまりは見えている現象によらず神様に流れの全てを「託する」「信頼する」ことでよろしいでしょうか・?

 SDA金町教会を去って30年、当時は文書伝道者だった「河原 久」氏、以来です。
 SDA嵯峨野にはお世話になります。今後ともよろしくご指導願います。
            東京・墨田区から。
 

要するに

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 4月12日(木)12時03分26秒
  うるしたに様

ようこそ。それは人間の判断を過信するなということではないでしょうか。人間的
にこれで良かれと思っていくら善人ぶろうとしても、賢く装ってもそれが本当に正
しい道を全うしていることになるのか、むしろ的外れであったり中途半端であった
りすることがあります。

だからといって、善にも励まず悪にも手を染めず、いい加減に中庸を保っていれば
いいのかといいますと、人間的な中庸を求めること自体も人間の判断を過信してい
ることになりますので、この聖句をもって「要領よくいい加減に(ファジーに)や
ればいいんだ」という解釈をすると教会員をミスリードすることになりましょう。
 

教えてください。

 投稿者:うるしたに  投稿日:2007年 4月10日(火)17時38分39秒
  「伝道の書」7章16から8「善人すぎるな、賢すぎるな。どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。・・(略)」
 これは、「要領よくやれ」ぐらいの解釈でしょうか・・?何がいいたいんでしょうか・?真髄を教えてください。
 

すばらしい

 投稿者:長谷川寿紀(管)  投稿日:2007年 3月22日(木)01時20分3秒
  Highly recommended article if you are willing to read English.
You may use it for your Sabbath talk.

http://www.christianitytoday.com/ct/2007/march/29.72.html
 

今月の聖句

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 3月 6日(火)14時12分25秒
   また食事をとって元気を取りもどした。サウロは、ダマスコにいる弟子たち
 と共に数日間を過ごしてから、ただちに諸会堂でイエスのことを宣べ伝え、
 このイエスこそ神の子であると説きはじめた。これを聞いた人たちはみな非
 常に驚いて言った、「あれは、エルサレムでこの名をとなえる者たちを苦し
 めた男ではないか。その上ここにやってきたのも、彼らを縛りあげて、祭司
 長たちのところへひっぱって行くためではなかったか」。しかし、サウロは
 ますます力が加わり、このイエスがキリストであることを論証して、ダマス
 コに住むユダヤ人たちを言い伏せた。
使徒行伝9:19-22

今日引用する聖句は、パウロが改心したばかりのときの出来事です。クリスチャン
を迫害していたパウロは神の栄光に打たれ、目が見えなくなり、その間自分がこれ
まで学んできたトーラーや歴史、預言書の知識とメシアの経験が突然一直線上に重
なりました。彼には聖書の基礎知識がありました。それゆえに、そこで開眼したパ
ウロは、自分の学んだ聖書の知識からイエスがメシア(キリスト)であることを力
強く論証して、聞く耳のあるユダヤ人を納得させることができたのです。しかしな
がら、新約聖書を読めば明らかなように、これをもってパウロが完成されたクリス
チャンになったのではなく、実はこれはすべての始まりでした。同様に、われわれ
SDAも、聖書と証の文に通暁したからといってそれが再臨信徒の信仰生活のゴー
ルではないのです。それはほんの基礎の始まりに過ぎません。一方教会の中には教
理といわれるものを軽んじ、個々のみことばを尊んで一つ一つ霊肉の基礎を築いて
ゆくよりも高邁な精神主義を会得すれば、教理など重要ではないかのように教える
者もありますが、それでは聖書のメッセージの基本を持たないで根無し草のように
枯れてしまいます。パウロが固く立てたのも聖書の神のみ言葉の基礎があったから
です。これは律法主義とは何の関係もありません。私たちも、今日、聖書のみ言葉
に立って、メシアであるイエスキリストを迎える準備を致しましょう。
 

「現代の真理」とは何か

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 2月26日(月)03時58分41秒
  宿題の答えですが、

どなたもお答えがなかったようですが、まだこの聖書研究室の宣伝が足りなかった
のでしょうか、忙しくて考えるお暇がなかったのでしょうか。なにはともあれ、こ
れは大切なことですのでSDAの教理の基礎の確認という意味でもここに答えを書
いておきます。

 SDAの言う「現代の真理」とはなんですか?

 ヒントとしてピラトの例を書きましたが、「現代の真理」とはイエス・キリス
トの事です。しかし、イエス・キリストの事だと聞いて「なあんだ、そんなことか」
と安心してはいけません。それで終ってしまっては手抜きの真理であり、他の日曜
日に礼拝するキリスト教会と同等以下の福音理解になってしまいます。これからが
大事です。我々の救いはメシアであるキリストにあります。キリストはこの世界を
創られ、旧約の時代にはイスラエルの民を選んで、モーセや多くの預言者を召し、
その後自ら贖罪の子羊となるために人の姿をとって来られ、十字架にかかられての
ちは復活して天に上られ、天の聖所に入られてとりなしの祈りを始められました。
それ位のことはSDAでなくとも、しっかりしたプロテスタント教会の信徒なら皆
知っていることです。そこで「現代の真理」とは、その時代においてメシアである
キリストが今どこにおられて何をしておられるのかという最新近況情報のことです。
旧約時代の人々にとって「現代の真理」とは天地創造の神が人の贖罪を計画してお
られるという希望、その神がわれわれのもとにおいでになるという希望でした。キ
リストの弟子達に伝えるように委ねられた「現代の真理」とは、キリストが今おい
でになったということでした。キリスト復活後墓に行った女たちにみ使いから与え
られた「現代の真理」とは、「ここにはおられません。甦られたのです!」という
事実でした。キリストが天に上られてからは、「復活の主がとりなしの祈りをして
おられる」という事です。このようにキリストが今どこにおられて何をしておいで
になるのかを伝えることが「現代の真理」です。SDAがこの点において他のキリ
スト教会よりも一歩進んでいるのは、キリストが聖所から、今、至聖所においでに
なるという事を証している事です。これはつまらないどうでもよい事ではありませ
ん。至聖所には人の罪の穢れがたまっています。キリストはこれを最後に引き出し
て焼き尽くし、こうしてレビ記16章に記載された象徴的儀式はキリストが至聖所を
清めることによって成就するのです。こうした至聖所の働きが終了するのはいつで
あるか日時は聖書には記されておりませんが、もはやそれは今すぐにでも起こるこ
とであるという厳粛な認識が必要です。SDAが教えているのはまさにそのポイン
トです。キリストが至聖所の祭司の服を替えて王の服をまとって出てくる時こそが
再臨のときなのです。SDAの使命を掲げるものは、こうしたことをきちんと聖句
を踏まえて人に教え、再臨の準備の必要を伝えなくてはならないのです。

ちなみに、「現代の使命」として、「第七日安息日」、「至聖所の教理」を言う人
もあろうかと思いますが、これは聖書にもとからあったものであり、キリストの近
況報告という視点から言えば「現代の真理」とはいえません。こうした聖書の教え
が回復されるのは、キリストの再臨の前の準備の働きと看做されるのが適切です。

これについて、まだよくわからないこと、疑問などがありましたら、どうぞここに
質問をしてください。
 

一月二十五日の宿題

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 2月11日(日)03時27分53秒
  みなさん考えてくださっていますか。SDAの教理を理解していれば答えるのにそ
れ程難しくない問題ですよ。SDA教会員のみなさんは特にしっかり考えて下さい。
 

大失望、1844 はバプテスマのヨハネの追体験

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 2月 4日(日)12時49分1秒
  聖書の預言研究から覚醒して超教派運動となったミラライト運動は、聖書のダニエ
ル書の預言解釈から1844年にキリストが再臨するものだと思い込んで、その時を待
ち、キリストが来られなかった事実を以って失望と打撃を受けました。またその時
にキリストが来られなかったという事実を以って激しい非難と嘲笑が起こり、ミラ
ーの超教派運動に参加した人の多くは躓いて失われました。再臨が来ると言われて
家財を売って備えていたのに裏切られたと思った人達が「聖書には主の再臨の時は
決められないと書いてあるではないか」とミラーなどに詰め寄りました。ミラーは
失意の底に沈みました。これは事実です。ミラーは間違っていたのでしょうか。勿
論です。どこが間違っていたのでしょうか。1844年に再臨が来ると考えたことです。
ではミラーはその間違いによって罪を犯したのでしょうか。もちろんそうではあり
ません。みなさんは、これと全く同じことが起こった事を聖書を読んでご存知です
か?

マタイの福音書3章1-6節を見てください。バプテスマのヨハネが神の国が近づいた
として、荒野で宣教をはじめ、エルサレムとユダヤ全土、ヨルダン付近の人たちを
集めてリバイバル運動を起こしているのがわかります。彼は預言者イザヤの霊感の
言葉の預言に基づいてメシアが来られたことを確信し、自ら預言していたのです。
しかし、バプテスマのヨハネはこのメシアであるイエシュア(イエス)の本旨を必
ずしも正確に理解していませんでした。彼はイエスが自らメシアであることを宣言
されて王の位に就くのかと思っていたのです。その結果バプテスマのヨハネは大失
望を経験し、投獄された先で「来るべき方はあなたなのですか、それとも他に誰か
を待つべきでしょうか?」(マタイ11:3)という言葉を吐くに至りました。エレン
Gホワイトの証の文にも、"John the Baptist did not understand the meaning of
Christ kingdom"(DA pp214)と書いています。これは、「あなたは1844年に来られ
るのではなかったのですか」というミラーたちの悲痛な祈りと全く同じに聞こえる
ではありませんか。このように1844年の大失望は既に、バプテスマのヨハネによっ
て先行体験されていたのです。しかし、EGWは霊感の筆で、ヨハネは天使の来訪
を受け、キリストの真の目的の説明を受けて喜んだとされています。つまり、イエ
スは完全ないけにえの犠牲の羊として十字架に架かられるという目的です。ヨハネ
もイエスの事を「世の罪を取り除く神の子羊」と霊感に満たされて2度(ヨハネ1:
29-30、36)も叫びましたが、その真意を自らは理解していなかったのです。しか
しイエスはバプテスマのヨハネを偉大な預言者であると誉められました。ヨハネは
使命を全うしたのです。ミラーにも同様なことがいえるのです。1844年の意義はそ
れがキリストの再臨ではなかったものの、それによってキリストが聖所から至聖所
に移られるという聖書理解を誘導し、それまでどこのプロテスタント諸教会も理解
していなかった新しい教理の光がそこから開かれたのです。その新しい光の中から
間もなくの後にSDAが生まれたのです。
 

フィルター情報

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月31日(水)22時16分30秒
  当掲示板では今のところ、発言を一旦審査するためのフィルターを設定していませ
んので、発言はアップと同時にすぐ表示される通常の設定となっています。発言者
自身による発言の編集も出来ます(アドベンチストライフとは異なり、発言が管理
人によって編集を受けることはありません)。嵯峨野教会理事会掲示板と同様の公
正な運営を継続してゆきます。
 

お知らせ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月28日(日)06時52分50秒
  本日より聖書研究室掲示板を有料板にレベルアップしました。それでアクセスカウ
ンターもつきました(^^)。この板の存在を広く口コミで知らせてください。こ
れは自意識過剰の主なる神様の命令です(^^)。
 

再臨大覚醒運動と大失望

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月27日(土)11時15分3秒
  狭義の終りの時とは、人類歴史のタイムテーブル上の歴史が終る直前の期間を指し
ている、しかもそれは1798年であることが理解されたと思います。このころにリス
ボンの大地震とか未曾有の大流星雨現象が起こり、それが黙示録や福音書に書かれ
た終わりの時との関連に気がついたクリスチャン達がそれぞれ聖書の預言を研究し
始めました。その中で、ウィリアムミラーという人物が聖書のダニエル書黙示録を
研究して、ダニエル書9章にあるイスラエルに与えられた70週がキリストの初臨
と十字架を預言していた事を確認しました。その延長として、ダニエル8:14の2300
の夕と朝が2300年として数えられ、イスラエルの70週の始まる起算点と同じと考え
て2300年の終了するのが1844年であることから、イエスが再臨されるのは1844年で
あると言う結論に達し、これが当時の全プロテスタント教会を巻き込む大覚醒運動
となりました。これについて、結果的にキリストがその年に来なかった事をもって
この運動を如何様にも批判する人はSDA教会員の中にすら後を絶ちませんが、そ
もそもこれはその時点のプロテスタントキリスト教会の持っていたナイーブな全知
識を結集しても正しい結論に至れなかったという理解が大切です。この点でクリス
チャンは謙遜にならなければなりません。この時の状況は私の口から私の言葉で語
るよりも、当時そこにいたハイラム・エドソン長老の手記から直接語ってもらいま
しょう。

 1844年の経験を再発掘してみる。
 ハイラム・エドソンが「大失望」の時に受けた経験

「我々は高揚していたのだが、その我々はまさに神が来られる時を真夜中まで
 待ち続けた。その日が過ぎた時われわれの絶望は事実となっていた。われわれ
 の衷心からの希望と期待は粉々に打ち砕かれ、かつて経験したこともないよう
 な悲しみとすすり泣きの精神が我々を欝然と覆った。地上のすべての友と親族
 を一度に失ったかのような絶望だった。我々は泣いて、泣いて、泣き続けて日
 が暮れた。」

 ハイラム・エドソンの大失望直後の祈祷会の経験

「私はその時苦痛の絶望状態の中に希望の光が差し込んできたのを感じた。私は
 兄弟たちに”さあ、物置に行ってみよう”と言った。私たちはそこに入って入
 り口のドアを閉じて跪いて熱心に祈った。我々は希望を与えて欲しいと言う祈
 りが神に受け入れられるという確証が得られるまで祈り続けた。その時、光が
 さして、この失望的経験の意味が説明された。その時すべてが明らかになった」
(エドソンの書簡より)

 一体彼らはそこで何を教えられたと言うのか??

「朝食後私は一人の兄弟にこう言った、”行って他の兄弟方を励まして力づけて
 こよう” 私たちが広い畑を横切っていたその時だった、”天が私の視野の前
 に大きく開けたように見えた。そこに私ははっきりと天の大祭司であるキリス
 トが天の聖所の至聖所から出てくる代わりに、2300の夕と朝の終わりのその時
 になって始めて至聖所に入って行く光景を見せられた。知った、主は再び来ら
 れる前に至聖所でなされる働きがあるのだという事を”」


この大失望の経験で数千人いた再臨待望信者が一気にふるわれて数人になってしま
った後に彼らは2300の真の聖書的意味を悟ることになるのでした。それはイエス・
キリストの理解をこれまで以上に「教理的に」深め、それが後に結果的にセブンス
デーアドベンチストという他のキリスト教諸派のいずれとも異なる教会が立てられ
る礎となったのです。その聖書的根拠をこれからゆっくりと読者のついてこれそう
なペースで当研究室に連載を行います。念のため申し添えると、SDAはミラーの
再臨信仰を引き継いでいますが、その理由により「ミラー派」のSDAというカテ
ゴリーは存在しません。恐らくSDAの教理を知らない外部の人か、後でも取り上
げるデズモンド・フォードのリベラル預言解釈に加担する偽教会員の創作とみられ
ています。
(続く)
 

宿題を出します

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月25日(木)05時43分11秒
  ピラトはイエスの刑を定める土壇場になってイエスに「真理とは何か?」と尋ねま
した。イエスは答えられませんでした。イエスはピラトに意地悪をしたのでしょう
か。もちろんそうではありませんね。真理は目の前にあったのです。それを受け入
れるか拒むかは彼次第だったのです。

その趣旨で我々は教会で「現代の真理」という言葉を聞きます。一体これは何を意
味しているのでしょうか。現代の真理とピラトが聞いた真理と違うのでしょうか、
同じなのでしょうか。こんな質問をすると嵯峨野教会牧師は知に過ぎていて人を困
らせるようなひねくれた変な質問をする等と言われかねませんが、これはそのよう
ななぞなぞやパズルの類ではありません。その答えを知っているか知らないままで
いるかの結果は、あなたのキリスト者としての人生を夜と昼の違いにするでしょう。
保障します。嵯峨野教会牧師にだまされたと思ってしっかりお考え下さい。この問
いの回答期限は30日とします。SDA以外の方のお答えも歓迎いたします。優しく
お迎えいたしますので(嵯峨野教会掲示板上のルールに従う限り)ふるってご参加
ください。
 

「終わりの時」の聖句による明確な理解 2

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月25日(木)05時33分43秒
  ダニエル7:25の「ひと時」というのは一年という意味です。それでゆくとひと時
とふた時と半時と言うのは3年半、つまり1260日です。これは黙示録13:5
  この獣には、また、大言を吐き汚しごとを語る口が与えられ、四十二か月の
  あいだ活動する権威が与えられた。

の42ヶ月に符合します。42ヶ月も1260日です。聖書の終末預言の啓示では、一
日を一年として表していますので、これは実際の期間としては1260日を表していま
す。それではこの1260年が歴史上のどの期間に当たるのかを考えましょう。先に引
用したダニエル7章の箇所によりますと、十の角の後に起こる王は最強の王で律法
を変えて聖徒を悩ますとあります。十の角がローマ帝国崩壊後に発生した十の国で
あり、後に一つの小さな大言壮語する角の王が出てきたばかりにそのうちの三つが
滅亡したということで、この後の王とはローマ教皇であると理解することが出来ま
す。この時に滅亡した三つの国とはイタリア半島のロンバルジアなどの三つの小国
の事を指しています。律法を変えたとは安息日第七日を無効にして日曜日を週の唯
一の聖日としてしまったことです。それが起こったのは歴史上、紀元538年です。そ
れから1260年後は1798年です。この時はナポレオンが教皇を逮捕して幽閉するとい
う事件が起こりました。これにより教皇権は地上権力としてはその時点で一旦壊滅
したのです。こうして狭義の終りの時は1798年から始まったということになります。

しかし、何度も念を押して言いますが、これは個人的な運命の終焉の時ではなく、
人類歴史の流れの中においての「終りの時」なのであって、しかも1798年は「終り
の時」のはじまりであるということです。なぜなら、ミラーなどによる大覚醒運動
はこの後に起こったからです。「終りの時」=「キリストの再臨」という理解では
いけません。終りの時の到来とは人類が世が終ってキリストが再び来られる準備を
始める時が来たということです。もちろん、その目的のためにセブンスデーアドベ
ンチストが召されたということなのですが、そこに行く前にあと一つ二つ通らなけ
ればならない道があります。それは2300の夕と朝の問題、キリストが天の聖所から
至聖所に移られた事、そして安息日の回復です。これらが起こったのは1798年以前
ではありえなかったのです。それを引き続き聖書の預言に沿って説明してゆきます。
(続く)
 

「終わりの時」の聖句による明確な理解 1

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月24日(水)19時28分52秒
  終りの時とは何のことかとクリスチャンに尋ねると、少し運がよければ「それは今
のことです」とか「パウロの時から以来ずっと終りの時です」というようなそれな
りに心がけが理解できないこともない切迫性のない曖昧な返事が得られます。しか
し、セブンスデーアドベンチストはもっと踏み込んだ、狭義の「終りの時」の認識
を持っていなければなりません。それを最も明確に説明しているのは下のダニエル
書の箇所です。

ダニエル7:24-27
十の角はこの国から起る十人の王である。その後にまたひとりの王が起る。
彼は先の者と異なり、かつ、その三人の王を倒す。彼は、いと高き者に敵し
て言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変
えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。
しかし審判が行われ、彼の主権は奪われて、永遠に滅び絶やされ、国と主権
と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられる。彼らの
国は永遠の国であって、諸国の者はみな彼らに仕え、かつ従う』。


この聖句に従ってセブンスデーアドベンチストは終りの時を、「ひと時とふた時と
半時」の終了した時から終りの時が始まっていると考えています。ここで間違えて
はならないのは終りの時というのはキリストの再臨とその前に起こる贖罪と裁きの
完成の歴史という一連の時間経過の中でいう具体的な「終りの時」なのであって、
個人的にいつ死ぬかわからないからいつも「終りの時」だというような意味の「終
りの時」の話をしているのではないということです。

さてそれでは、このひと時とふた時と半時というのは、何を意味するのでしょうか。
(続く)


質問があればいつでも書き込んでください。
 

聖書による「残りの民」の定義

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月22日(月)01時52分28秒
  残りの民の特性と本質について明確に述べている聖書箇所は黙示録に2箇所ありま
す。忘れないでもらいたいと思います。

黙示録12:17
龍は、女に対して怒りを発し、女の残りの子ら、すなわち、神の戒めを守り、
イエスのあかしを持っている者たちに対して、戦いをいどむために、出て行った。


黙示録19:9-10
それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、
さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。
そこで、わたしは彼の足もとにひれ伏して、彼を拝そうとした。すると、彼は
言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、あなたと同じ僕仲間
であり、またイエスのあかしびとであるあなたの兄弟たちと同じ僕仲間である。
ただ神だけを拝しなさい。イエスのあかしは、すなわち預言の霊である」。


これの聖句により明らかなように、「残りの民」とは、神の戒めを変更なく守り、
イエスの証を持っていて、かつ悪の勢力(龍)の迫害を受けるものです。しかも、
イエスの証とは預言の霊であるとしています。偉い先生や教会の権威ではなく、預
言の霊の導きを受けているのが残りの民の特徴です。SDAは第七日安息日を回復
し、歴史的にも預言の霊のガイダンスを受けてきましたから、その意味で残りの民
と解釈されますが、もちろん他の教会にいても聖書の正しい理解を回復し預言の霊
によってイエスの証をしているなら、やはり残りの民です。しかし、SDA教会に
属しているといっても、証の文の勧告を退けて、預言の霊をもっていない教会の神
学者の意見に従って聖書の真理を曇らせている人、日和見主義な教会員は残りの民
になっていない可能性があります。従ってSDA教会員であるという事実自体は残
りの民である資格や必要条件には数えられません。
 

SDAを批判する記事

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月21日(日)20時35分4秒
  一応こちらにも紹介しておきますが、これはSDAの教会の信仰信条を批判してい
る記事です。教会の教団組織の批判なら嵯峨野教会理事会で徹底的にやってますが、
それとは明らかに別です。SDAの信仰信条は断固として擁護していただきたいと
願う嵯峨野教会は、皆さんにもこうしたSDA批判をこれから目にするようになっ
ても、ことごとく聖書の根拠によって退けることが出来るようになって欲しいと願
っています。一応参考までに下のリンクをここにも陳列しておきますが、嵯峨野教
会牧師の見解もあとで別ページにしてセブンスデーアドベンチスト嵯峨野教会公式
ページに収録して他教会の方々にもシェアしたいと思います。
http://www.pluto.dti.ne.jp/~sonnar/jccj/canon/seventh.htm
 

セブンスデーアドベンチストの基礎をやりなおそう

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月21日(日)13時38分49秒
  セブンスデーアドベンチストの基礎は黙示録の世界観です。キリストの十字架の救
いでないかと言う人がいるかもしれませんが、今はそういうレベルの話ではありま
せん。そういう聖書を読めば預言の霊が与えられていない教会でも教えられている
最も基本的なことはこの際パウロの言葉に従って初歩の教えを後にしてゆきたいと
思います。十字架による救いは大切なことですが、そいういうことは黙示録とダニ
エル書の預言から逆に入っていっても同じ結論になることです。キリストの十字架
が預言の研究より大切だというような人はセブンスデーアドベンチスト教会にふさ
わしくありません。まず、聖書に基本にかえってSDAの信条の基礎をこれから徹
底的に学んでまいりませんか。

それでは考える課題を出してゆきます。
1 SDAは残りの民の教会だと言われていますが、「残りの民」とは聖書の
  どこに書いているのかを確認してください。そして残りの民の特徴を聖書
  から2つ見つけてください。SDA教会に籍を持っているという答えでは
  だめです。

2 終わりの時 とは聖書的にはいつのことですか。パウロの時から終末は始まっ
  ているというような高橋義文先生が三育カレッジの神学生に吹聴していたよう
  な回答はここでは聖書のサポートがない哲学観念的拡大解釈として落第とします。

では、頑張って聖書を読み直し始めてください。
 

真のキリストは地上に降りて来て地面を歩かない

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月21日(日)08時33分37秒
  1テサロニケ4:16-18にこのように書いてあるのを、キリストの再臨を待ち望む人
は注意深く覚えている必要があります。

すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、
合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人
々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼
らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも
主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互
に慰め合いなさい。


これによりはっきりするのは、再臨のキリストは地上に降りてこられないというこ
とです。世の中の何と多くのキリスト教会が、再臨のキリストが地上に現われて人
々の中を歩いたり、地上に千年紀を実現すると主張していますが、この聖書の言葉
を見るならばそれはすべて偽りであることがわかります。サタンもキリストの再臨
を真似しようとします。その時にキリストが地上を歩き、地上に至福千年紀を実現
すると主張するなら聖書の証するところと違うことによって欺瞞を見抜くことが出
来るのです。こんなことを言うと馬鹿馬鹿しいと思いますか。聖書の解釈の違いに
よっていろいろな意見が出来るのだから、このような事をSDAの見解であるかの
ように提示するのは如何なものかなどとおっしゃる人はおられますか。とんでもあ
りません。これは聖書がそう言っているのです。こういう基本的なことを一つ一つ
聖書から確認して再臨のキリストを待つ信仰を立て直して欲しいと思います。
 

真のキリストは至福千年紀を地上で成就することを示唆せず

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月21日(日)08時28分8秒
  千年紀が地上に成就することを示す聖書の言葉はどこにもありません。キリストが
来られて地上の諸問題をすべて解決し、キリストの王国を建設すると言うのは非聖
書的な作り話です。千年紀を過ごすのは地上ではないという事を明確に示している
のは次の聖句です。

黙示録20:4-6
また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そし
て、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言
を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像を
も拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは
生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(それ以外の死人は、
千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。こ
の第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。
この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストと
の祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。


キリストの再臨の時にイエス(イエシュア)によって罪を許される証をした人は救
われて、中空に上げられて主に会い、天に行って千年間を過ごします。悪人は第一
の死で滅んで千年間生き返りません。その間、サタンと悪霊は荒廃した地上に幽閉
状態になるというのが黙示録の聖句の文旨です。
 

再臨のキリストは律法を変更しない(安息日を変更しない)

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月21日(日)08時26分2秒
  再臨の王なるキリストは律法による日を変更しません。もしするなら次の聖句によ
って偽キリストであることが明らかになります。

ダニエル7:25
彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼
はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、
彼の手にわたされる。


聖書の中で、神の権威に挑戦して日や時を変える権力者に言及しているのはここだ
けであるということを覚えていてください。
 

真の再臨のキリストの見分け方

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月 8日(月)06時52分0秒
編集済
  では最初の課題から考えて見ましょう。これは続けてゆくと聖書の教理と終末使命
を一通り復習することになります。ですから、これは時間つぶしのお遊びではあり
ません。一歩一歩聖書の知識を積み重ねて再臨の主を迎える備えをして欲しいと思
います。教団のいいなりになってこれでいいと満足しているようなSDA信徒は漏
れなく滅びます。聖書は何と言っているかという原点に立ち返り、キリストのアガ
ペーの愛があれば黙示録など知らなくてもいいなどという愚かなSDAにならない
で欲しいと心から思います。

それでは、
 真のキリストの再臨の見分け方
ですが、これは、真の再臨の前にサタンが偽のメシアを送って人々を惑わす事に対
する備えです。SDAだけでなく、聖書によりメシアの再臨を待望している人々は
皆知っている必要のあることです。それは次の3点です。

 (1)真のキリストは地上に降りて来て地面を歩かない。聖徒と中空で出会われる。
 (2)至福千年紀を地上で成就することを啓示しない
 (3)再臨のキリストは律法を変更しない(安息日を変更しない)

さて以上の三点をサポートする聖句を探してみてください。
 

他教派参加歓迎

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月 7日(日)12時56分0秒
  下の質問は重要ですから、他の派のキリスト教会の方の参加も歓迎いたします。
MIXIにも宣伝を出しておきます。ふるってご参加ください。
 

肩慣らしの質問

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月 4日(木)20時53分48秒
  まず導入として、次の簡単な質問をしてみます。答えを各自考えてみてください。

 真のキリストの再臨と偽のキリストの再臨をどのように見分けるのですか?

わからない人はもう一度マタイの福音書24章、黙示録全章を読み直してみて下さい。
 

聖書研究の方針

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月 4日(木)08時00分6秒
  セブンスデーアドベンチスト嵯峨野教会の聖書研究室の聖書研究は、セブンスデー
アドベンチストは最後の神によって立てられた残りの教会であることをまわりくど
く定義するように説明するような聖書研究は行わない方針です。嵯峨野教会牧師は
そういうやり方にはほとほと失望と嫌悪感を持っております。なぜなら、定義が終
了した時点でそれから先が何もないからです。せいぜい十字架の最も基本的な部分
の堂々巡りにおわって、あとは何でもかんでも許すのが愛だと教えるような吐き気
を催す聖書研究には一切ならないことを申し上げます。ここは戦闘的な聖書研究室
です。戦闘ができないクリスチャンを育てられない聖書研究などしないほうがまし
であるというセブンスデーアドベンチストの公式見解を再確認します。嵯峨野教会
で新しい経験を分かち合いたいと思います。今週の安息日から始めたいと思います
ので、やる気のある方はどなたでもご参加下さい(礼)。
 

さて本題

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月 2日(火)07時54分47秒
  今年は嵯峨野教会は聖書研究に力点を置いて運営したいと思います。教団・学院・
病院批判は嵯峨野教会理事会で行います。教団や病院は三育学院は現状では霊的
には死んでいるのも同然ですのでここでは論じないでいたいと思います。本年も
嵯峨野教会をどうぞよろしくお願い申し上げます。
 

さて神戸の問題を片付けますが

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2007年 1月 2日(火)07時51分20秒
  弱き者さんから出されていた神戸アドベンチスト病院の行ったハラスメントについ
てですが、弱き者さん自身は既に心の中で整理をつけておられるのが幸いであるも
のの、組織のした事としては全く愚劣極まる行いであり、いくら弁護士をつけて表
面を取り繕って自己防衛をしても無駄で弁解の余地はありません。しかし、これは
神戸の病院が弱き者さんに謝罪をすれば済むことという認識を採用したいと思いま
す。神戸アドベンチスト病院がここに公式に謝罪文を書けば、穏やかに撤収しよう
と思いますがいかがでしょう。言い換えるなら謝罪がない間は、弱き者さんのうけ
た仕打ちの記事はこれはこのまま永久保存して、グーグルやヤフーで神戸アドベン
チスト病院を検索すればこの記事もヒットして公衆の広く知る所となるに任せてお
こうという趣旨です。よろしいでしょうか。
 

その言葉。

 投稿者:千葉在住  投稿日:2006年12月31日(日)09時36分20秒
  弱き者様へ。
それは落雷のように心を打ち、そして感謝と喜びの念に全身満たされています...今。
“心の核が奇跡を信じる気持ちを完全に否定しない限り、何度でも立ち戻れる”
来る新しい年も頑張れそうです。ありがとうございました。
弱き者様への限りない主にある恵み影ながら祈っております。時節柄、風邪など召しませぬように。 感謝。
 

主に栄光

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年12月30日(土)20時47分35秒
  千葉在住様、はじめまして。
私こそ、千葉在住様から信仰への真摯な姿勢を学ばせていただいております。

私自身は本当に弱い存在でありまして、常に罪の誘惑にさらされています。
その誘惑に負けそうになる事ばかりであり葛藤を続ける日々です。

嵯峨野教会には、求道者時代からお世話になっています。
主がこの嵯峨野教会と出会う事を許されたゆえに、私の魂は救いの道を知ったと思います。
学院と教団とのかかわりだけだったら今頃信仰を失っていたかもしれません。

“奇跡は信じる者には必ず訪れる。信じない者には絶対に奇跡は起こらない”
これは、真実です。聖書記事もそれを証明している通りです。
人は弱いもので奇跡を信じたくても、信じられない事があります。
信じる心を捨てたくなる事も多々あります。
時として挫けそうになりながらも、また奇跡を信じる心に戻ること。
それが大切なのではないかと…。
心の核が奇跡を信じる気持ちを完全に否定しない限り、
何度でも立ち戻れると私は信じています。

常に主につながっていたいと思いつつ離反との戦いもあり。
それでも尚も主を仰ぎ望みたいと願い続ける日々です。
魂の奥底にある主を求める気持ちを命ある限り与え続けられる事を切に祈ります。

資格試験へのお祈りを心より感謝します。
千葉在住様に主の恵みと平安が豊かにありますよう。
(ちなみに、私も千葉在住だったりするのであります)

全ては主の栄光の為に。
主の恵みにハレルヤ。
 

奇跡!

 投稿者:千葉在住  投稿日:2006年12月30日(土)17時51分15秒
  常日頃より弱き者様の投稿に接する度、あなた様の信仰にある“生き様”を感動のうちに拝読させて頂いております。自分自身、信仰心浅き故にあなた様の証しを自分の信仰の糧として補わせて頂いております。今朝、嵯峨野教会にてGYCでのDr.ハゾーの証しを聞く機会に恵まれました。あなた様がいつも申されている「奇跡は信じる者には必ず訪れる、信じない者には絶対にそれは起こらない」、改めて感じ入っております。
目指される資格試験に、主にある奇跡の有らん事を切に祈っています。
 

組織

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年12月29日(金)13時19分42秒
  tom様

組織化は両刃の剣です。便利なこともあれば、明らかな弊害もあります。組織化し
なくても信仰を維持できなかったところに人間の弱さがあり、組織化したばかりに
堕落するのも人間の弱さ(しかも思い遣ることも、弁解を許すこともできない高慢
不遜な弱さですが)であります。
 

宗教

 投稿者:tom  投稿日:2006年12月20日(水)09時29分30秒
  宗教は組織化することに、ちょっと難があると思います。
大切なのは、個人と大いなるものとの関係です。
 

奇跡を信じる者になります

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年12月 4日(月)14時07分33秒
  求め続ける者様、嵯峨野教会牧師様お答えをどうもありがとうございました。

主を信じ扉をたたき続けた者には必ず扉は開かれると思います。
それは嵯峨野教会牧師様が日本で安息日問題の壁にぶつかって葛藤しても
なおも主を信じ続けてアメリカの地で医師になった事が証しています。

私は心に感じたこの道が私の進むべき道であると信じています。
主に導きを求め、扉をたたき続けならがら歩みます。

嵯峨野教会牧師様のお答えに胸のつっかえがスーッとおりた思いです。
道を諦める事なく扉が開かれるまでたたき続けます。
自分の道を諦める事も出来ないし、信仰を捨てる事も出来ないから。

主の御心ならば必ず道は開かれます。

追伸:
もう数年前の事になってしまいますが、
嵯峨野教会牧師様と最後にお会いした別れ際に
私に言われた言葉を今、再び思い出しています。

「現代に奇跡が行われないのは何故だと思いますか?」と私に問われ、
「信じないからですか?」と答えた私。

それ以来「奇跡は信じる者には必ず訪れる」と心に思い続けています。
信じない者には絶対に奇跡は起こらないから。
イエス様が不信仰の土地で奇跡を行う事が出来なかったように…。
 

嬉しいです

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年12月 3日(日)15時17分53秒
  弱き者さま

おおっ、あなたもとうとうそういう悩みに突き当たりましたね。あなたの信仰が一
人前になる関門がとうとうやって参りました。これがもし東京衛生病院の人事課長
であれば「ガタガタ言わないでさっさと土曜日に受験しに行きなさい」と言うでし
ょうが、嵯峨野教会牧師である私は口が裂けてもそんなことは言いません。では、
受けないでせっかく勉強して訓練したキャリアを棒に振りなさいというでしょうか。
私はそういうアドバイスもしません。だからといって役立たずの地方教会の某牧師
のように「それはあなたの信仰の問題ですからあなたが最善と思う判断をしなさい」
という様な無責任でやる気の無い助言も断固致しません。では何とアドバイスしま
しょうか。私はむしろ事情を説明して他の日に受けられるように配慮していただけ
るようぶつかって行きなさいと申し上げます。人間の目でダメだと思うようなこと
でもそれに対して一途に最善を尽くして向かってゆくなら神が紅海を分けた奇跡を
なされたように、あなたにも奇跡を行われます。
 

(無題)

 投稿者:求め続ける者  投稿日:2006年12月 3日(日)08時00分55秒
  弱きもの様

教会においてよく聞かれる質問だと思います。
この件に関してはっきりと答えを出して下さる方が殆んどおられないのは残念です。
私は自分なりにこのように考えるようになりました。
普通のクリスチャンであれば(クリスチャンでなくても)人を殺した経験のある者は殆んどいないでしょうし、万引きをするチャンスがあったとして、手を出すことはないでしょう。
人は自分の目標に到達する為、又自分の目的を達成する為に盗みをしたり、人を殺したりするだろか?十戒の第四条はそれを犯しても人間社会においてそれに対して刑罰があるわけではない。また他人に迷惑を掛けるわけでもないので、われわれの心の中で比較的軽視してしまう傾向がある。果たして、十戒の第四条は他の戒めより罪が軽いのだろうか。何故十戒の第四条がわれわれの試金石になると言われているのかが理解できて来るのではないでしょうか。
神様はあなたの必要をご存知です。資格を得て生活の基盤を安定させたいという願いを持っていることもご存知です。安息日の問題でその資格取得を諦めたあなたを全天は見届けました。先ず第一に神の国と神の義とを求めよ、そうすればそれらのものは全て、全て、全て与えられる。という神様の約束を信じて進みましょう。あなたが想像もしなかった方法で神様はあなたの必要を必ず満たしてくださいます。宗教を実生活の中に反映させることが困難に見える場合が多々あります。そこで信仰が必要なのです。自分の意志を神様の意思と結び合わせ、神様の御心に従うことです。涙と祈りと葛藤なくして神様に従うことは出来ません。共に頑張りましょう。
 

資格試験が土曜日の場合

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年12月 3日(日)06時50分1秒
  自分が目指す資格試験が土曜日に行われる場合、
その資格を目指す事を諦めるべきなのでしょうか…?
悩んでいます。
 

その通り

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年11月28日(火)12時24分13秒
  苅伎様

まことの天地を創造され我々の救い主となられた唯一の神を信じない宗教は
すべて平等ですよ。
 

宗教に差はない

 投稿者:苅伎  投稿日:2006年11月28日(火)09時30分32秒
  キリスト教、道教、イスラム教・・・。どの宗教が一番とかはいえない。
すべての宗教には意味がある。人間は皆、平等。
仏典を読む者にも幸せはある。
 

思慮深いのはどっちだ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年11月23日(木)21時43分5秒
編集済
  教会では、自殺する人は知恵が無かったのだとか無思慮だったとか、そもそも始め
からしっかりとした信仰を持っていなかったのだなどと生き残った人に説明される
傾向がありますが、それは青年には当てはまりません。
一般に若者は大人よりも知的活性のレベルが高いのです。ですから青年の指導は頭
の上に塔の立った大人の教会員を指導するよりも教師の霊的知性を要求します。こ
の教会にはそういう教師が際立って少ないのが問題だと思っていました。
 

臨時対応

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年11月23日(木)21時12分35秒
  皆さんもご存知のように、広島三育学院高校で生徒の不審死事件が発生いたしまし
た。とりあえず自殺といわれています。前代未聞のことで慙愧に堪えません。遺族
の方の悲嘆もさることながら、残された学生とその親御さんのショック、不安、動
揺に同情申し上げます。いや、それ以上に信仰の学びを求めてきた真摯で純粋な青
年たちの心に受けた傷は口で言う以上に計り知れぬものです。これは三育高校寮で
起きた生徒の最初の「自殺」事件ですが、この状況では同じ様に自殺を考えている
学生が他にもいるはずです。そういう思いつめた青年へのケアに対してはこの学校
の運営者は慢性的に無策です。「聖書では自殺は罪であると教えています」と言う
だけは馬鹿でも鋏でも言えますが、誰も今更そんな表面的な御託は聞きたくもない
と思います。もっと根本的な精神の奥底の必要を広く交換したいと思います。その
ために嵯峨野教会聖書研究室を開放します。

実は、そういう私も青年時代自殺を念慮した事があります。サンフランシスコの金
門橋の上から飛び降りて終わろうという真剣な思いに捉われたことがありました。
私は神がいなければ既に何度か死んだ身です。しかし私は今生きています。私自身
が死に急ぐ人の心からの問いの全てに回答を用意できるとは思えませんが、せめて
ここでそういう人の心の叫びを歓迎したいと思います。

弱き者さんが神戸の(二流)病院から受けた仕打ちに関しての聖書的反省は中止と
いうことではなく、そのまま継続します。互いに全く無関係と言うことでもなさそ
うですのでね。
 

旧約の神

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年11月21日(火)09時37分18秒
  旧約の神も新約の神も同じですよ。違うように思われているのは教えてくれる人に
恵まれなかったのではないでしょうか。宗教と言ってもピンからキリまであります。
中途半端な宗教にのめりこむのは怖いと言うよりも人生の無駄です。
 

旧約聖書の神

 投稿者:ボリフ  投稿日:2006年11月21日(火)09時11分58秒
  旧約聖書の神は怖いです。
ロトの時とか。あまり宗教にのめり込むのも怖いものです。
 

そうですね

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年11月 3日(金)22時19分21秒
  ゴンちゃん様

みなさんの怒りが静まったところで裁きを始めましょう。提起された問題は十分
多くの読者に読まれるまま、寝かして保存してきましたので、発酵していい味が
出てきているでしょう。昔はこういう問題が表に出てきてもすぐいいくるめられ
て闇に葬られてしまうだけでしたからね。しかし嵯峨野教会が召されてからは、
もはやそうならないことをこれからとくとじっくりお目にかけましょう。
 

怒りを静めて

 投稿者:ゴンちゃん  投稿日:2006年11月 3日(金)19時43分22秒
  嵯峨野教会牧師様
我らが人にゆるすごとく、我らの罪をゆるしたまえ。
 

なにもお答えが無いようですが

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年10月15日(日)05時09分32秒
  SDAの人は凍り付いて何も発言できなくなっているのかもしれませんが、無関係
に議論を続けてゆきたいと思います。こういうことはSDAでなくても他のキリス
ト教を名乗る機関でも起こりうると思います。そうなったときどうしたらいいかと
いう他山の石としての有益さを認めた上で自由な意見を承りたいと思います。SD
Aの人、また特に問題を起こした神戸アドベンチスト病院の人であっても心の謙遜
で腰の低い公正な議論の出来る人はひきつづきこの議論に参加するのに何ら問題を
感じることはないと信じられますので、敷居を低くしてオープンで歓迎します。
 

読者のみなさん

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年10月 8日(日)11時39分19秒
編集済
  弱き者さんが出された経験談を問題提起として以下の考察を進めます。此はSDA
という一弱小組織で起こった出来事であるという事実は今は忘れて、もしこのよう
な事がみなさんの属する組織で起こった場合、個々の局面において聖書的にどうい
う対応をするのがよりふさわしかったのかということを聖句を挙げて考えてみてい
ただけませんか。この議論に参加するに当たりSDA教会員である必要も「正式」
なキリスト教徒(何をもって正式とするかは横において)である必要もありません。
ご随意にお気軽にご意見をここにお書き下さい。
 

奇妙な話です

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年10月 8日(日)09時54分50秒
  かもめ様。コメントを有難う御座います。一応簡単に聖書以前の問題を整理してく
ださいましたね。私からも少しばかり専門家の意見として付け加えさせていただき
ますと、そもそも、「急性の腰痛」は回復しないという「主治医」が一体全体どこ
にいるのか、いたら本当に医師免許を所持しているのか顔が見たいと思います。腰
痛というのはたとえそれが椎間板ヘルニアですら仕事を休んで安静にさえさせれば
可逆的に完治しうるものです。しかもこの病院はこの方に回復の余裕を与えないま
ま働かせ続けていたのですから、まさに言行不一致、論理的に一貫性がありません。
これだけでも十分労働基準法違反で神戸の病院を告発することが出来ます。しかし
その一方で病院に問い合わせただけで弁護士を立てて自己弁護するという過剰反応
を見せたところをみると、病院関係者はこの件は容易に告発可能であることに気が
ついていたのであろうと思います。単に告発するだけなら今からやっても恐らく間
に合うと思います。もちろん告発するかどうかは本人次第ですが、もしするなら私
は側面支援します。検察と激論してひき逃げ殺人を業務上過失致死に書き換えさせ
たり、ソーシャルセキュリティの申請却下を撤回するための文書を何枚も(英語で)
書いてきた経験のある私ですから、へなちょこ病院の弁護士の一人や二人説得して
病院の支持を思いとどまらせることはそれほど難しい事ではないと思います。

なんか、神戸の病院も結構不公平で汚いことをしているという意味では東京アドベ
ンチスト病院と程度の差はあれ同じようなものだと思います。Kさんは本当にご苦
労様でしたといわざるを得ません。

以上は、一般常識として神戸の病院がしてはならないことをしたという認識の確認
です。かもめさんのまとめもありますので、次に聖書的に何をするべきなのか、何
が出来たのかという聖書研究室にふさわしい話題に切り替えるとしましょう。
 

UPを感謝

 投稿者:かもめ  投稿日:2006年10月 8日(日)07時07分12秒
編集済
  弱き者さま
背景と本題のUP、有難うございました。

普通の会社であっても、一時の心身上の問題が起きたならば、健全な会社であるならば、通常は治療に要する療養期間を公に与えるものです。快復した暁には職場に復帰するのが当然であり、職業に就いている者の基本的な人権であると言えます。

神戸の病院での看護部長の言い分がその通りであるならば、極めて悪質な人権侵害であり、到底容認できるものでありません。ましてや、キリスト教の医事伝道の働きを公言している病院であるならば尚更です。

他教会のKさんとは他教派の方と思いますが、聖書の云々も確かに当然と思います。一方、それ以前の問題として、勤労者、経営者双方の、互いに、労働条件を基本的に遵守し、健全経営への参画をしようという姿勢を著しく損なうものです。

それにしても、弱き者さまの切実なる訴えに対する東海林氏の応答と、たとえ、その時は忙しい状況であった、あるいは十分な情報を得ていなかったとしても、その後、弱き者さまから、訴えがあったようですから、真摯に応えるのが当然であると思います。ましてや、機関の病院で起こった理不尽の出来事故、無視するわけにはいかなかったはずです。

教団の総体的な風潮でないことを願うものですが、ともすると、こういうところは、なかなか変わるものではないようです。人の性向は一朝一夕には変わらないとはいえ、痛く憂慮します。

一方、あるSDA関係の福祉関係の現場で、やはり腰を痛めた人がいたのですが、その人は約一年間の療養生活を余儀なくされたにも拘わらず職場に復帰しました。こうなると、もはや神戸の病院の看護部長の品性を、著しく疑い、極めて情なく思うものです。

また、そのときの事務長も同じ穴の狢でしょう。本当に情ないと思う反面、もう少し社会的にも常識を身に付けていただきたいと思う、と言わざると得ません。

おそらく、今の弱き者さまであれば、理不尽な物言いには突っ込んだ追求をさなり、正義を貫かれると思いますが、苦い、嫌な出来事であったと思います。

確かに、文はその人柄を表す、というのはあながち的を外れているものではないと思います。願わくは、ここで記された事柄を、当事者は真摯に受け止め、社会にも少なくない影響を与え、使命を担っていると自負するSDA教会機関の病院、また指導者であるならば、今後の健全な歩みのために、こころから反省し活かしてくださるようにと願うものです。
 

聖書的な解決を

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年10月 8日(日)04時42分58秒
  皆さん

ここは聖書研究室です。従って下の弱き者さんの経験に対してどのような聖書的な
解決がはかられるべきか、また当事者は聖書的な対応を行ったのかどうかを考えて
みたいと思います。自身とSDA教会全体の恥を忍んでケーススタディを提供して
くださった弱き者様には感謝申し上げます。これが書かれるのも立っていると思う
者が倒れないためです。思慮のある人は幸いです。

それでは考察を始めてみたいと思いますが、その前に、まず、かもめ様から何かコ
メントはありますでしょうか?
 

さて、本題です

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年10月 7日(土)20時45分30秒
  前述のような出来事について、私はどうしても納得ができませんでした。
どう考えても、不条理な事ばかりを感じてしまうのです。

そこで私は、ひょんなきっかけで知り合った他教会のK氏に相談をしました。
同じ教会の人々は相談に乗ってはくれなかったんですよ。

すると、K氏は、これはおかしいと。どう考えても違法な事であると言いました。
私はK氏のアドバイスに従って、神戸にメールをしたり、
当時の教団総務局長だったH氏にメールをしました。
しかし、その結果は、いずれもひどい対応でした。
K氏を全権委任者とした私に対して、神戸は何と弁護士を立てて、
内容証明を送りつけてきました。
私たちは訴えるとも何とも言っておらず、
ただ神戸で行われた出来事について謝罪を要求しただけであるにも関わらず。

K氏は聖書にのっとって、教会として話し合いでの解決を求め続けました。
教団と神戸に対して。でも教団も神戸も断固拒否なのでした。

そこでK氏は九州に在住しているにも関わらず、
わざわざ関東まで出向き、当時の衛生病院チャプレンのH氏に訴えたのです。
H氏は、「弁護士を下げさせるから、これ以上この話題を表に出すな」と言いました。

翌日、天沼教会の礼拝に出席したK氏と私は、
その時に訪れていた現理事長の東海林氏に会いました。
私が東海林氏の事を教団の要職にある人間だと説明した為でした。

K氏は、神戸での出来事を説明し、謝罪要求をしたのに、
逆に弁護士を立てられて話にもならないと東海林氏に訴えました。
そして、聖書にのっとって教会として話し合いによる解決をしろと説得したのです。

東海林氏は、
「んー。そう。そんな事がねぇ。まぁ、何かあれば連絡でもどうぞ。」
と、言ったっきり。以後、連絡をしても全くリアクションもありません。

K氏は聖書にのっとった行動をと訴え続けたのに、
東海林氏は、全くその言葉に対する反応を返さずに無関心でした。

K氏はこの話の後で「SDAには自浄能力は無いんだな」と切り捨てました。

こんな事を他教会の人に言われなければならなかった私の気持ち、
現理事長には分からないでしょうね。
99匹の羊を守れば1匹の弱い羊は蹴落としても良いのです。

…こういう出来事があったんですよ。
思い出したら腹が立ちますけど。

今の私だったら徹底的に追求出来るのになぁ。
余談ですけどね。
 
    (管理人) 神戸アドベンチスト病院、セクハラ、パワハラ  

長い長い状況説明

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年10月 7日(土)20時26分0秒
編集済
  私は三育学院短期大学看護学科を卒業しました。私自身は、学院で信仰を受けたSDA1世です。その後、新卒として神戸アドベンチスト病院(以下、神戸とする)へ就職しました。

神戸で働き始めて2ヶ月目くらいに、急性腰痛症を発症しました。無理をして働いている中で、とうとう自分では全く身動き一つ取れなくなり、神戸に入院する羽目になりました。寝返りすら打てない、食事もベッドを平らにしたまま摂取、トイレも何十分もかけて這うようにたどり着く。そんな悲惨な状況でした。

こんな時に、当時の看護部長のI氏が早朝まだ私が眠っている時に病室に入ってきて、「あなた、仕事はどうするの?」と聞いてきました。私自身は、復職の意思を明確に示しました。すると看護部長は「主治医は、もう回復しないと言っています。だから退職して下さい。」と突然の解雇宣言をするのです。そして、「あなた、神学科に行きたいんでしょ。話をつけてあげるから。」と言うのです。

私は寝返りすら取れない上に、早朝の突然の解雇宣言でした。私は、2週間ほど、硬膜外麻酔を持続で入れながら身動きできませんでしたが、その後、アルバイト学生に頼んで持ってきてもらった歩行器を使って自分でリハビリを行い(誰もリハビリなんかしてくれません)
主治医に直接聞きに行ったら「直ったら仕事に復帰しなさい。大丈夫だから。」と言われました。

その事を看護部長に訴えても「再発しない保障なんか無いでしょう。」の一点張り。両親が呼ばれ、看護部長は「弱き者さんは精神的に不安定なので」と両親に説明し、密室の話し合いの結果、復職に至りました。

しかし、本当に精神的に変調を来たし、神戸の同じ病院の心療内科を受診しました。すると、私は患者なのに主治医が病棟の仲がよい看護師にベラベラしゃべり、そこから看護部長の所へ行き、事務長T氏の耳に入り…。事務長T氏より「精神的に不安定なんですか?入院が必要とか?状況はどうなんですか?」との突然の電話。挙句の果てには、事務長は自分の部屋に呼び出して「私の前の前でスクワットをして大丈夫だと証明してください」と、腰痛の話を再燃させる始末。

こうやって追い詰められた私は自己退職に追いやられました。

…これが長い状況説明です。この事を踏まえて次の本題へ。
 

ありがとうございます

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年10月 6日(金)06時47分53秒
  嵯峨野教会牧師様

ご許可を感謝いたします。


かもめさま

嵯峨野教会牧師さまのご許可もでましたので、
明日の夜、安息日明けにアップしようと思います。
しばし、お待ちくださいませ。
 

許可

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年10月 5日(木)22時56分2秒
  >嵯峨野教会牧師様、神戸の病院の件に絡む事なのですが、
>ここで解説してもよろしいものなんでしょうか?

OK.  Go ahead tell your experience to everone.
I support you 100%.
 

お許しが出ますなら

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年10月 5日(木)21時51分41秒
  かもめさま、お世話になってます。

この話をすると、長くなったりしますが、簡潔に書きたいと思います。
ただ、嵯峨野教会牧師様のご許可を取りたいと思います。

嵯峨野教会牧師様、神戸の病院の件に絡む事なのですが、
ここで解説してもよろしいものなんでしょうか?
お答えをお待ちします。
 

ろくな事を答えなかった

 投稿者:かもめ  投稿日:2006年10月 5日(木)20時48分57秒
  弱き者さま

先日はうっかりして、URLを失礼しました。ここの牧師の手を煩わせてしまいました。

“他の教会の人に噛み付かれても、ろくな事を答えなかったんですよ”
↑の内容に興味があります。
差し支えないようでしたら、UPしていただけませんか。無理にとは申しません。
 

内容が無い

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年10月 5日(木)20時24分32秒
  嵯峨野教会牧師様

アドベンチストライフのメッセージを拝見していても、
SDAの独自性が全く見えてこないなぁって。
他の福音派や長老派などの教会の方が、
熱心なメッセージを語っているように感じてしまうのです。
文字だけを追う限り、SDAの独自性が無いんですよ…。
こんなんだったら、
他の教会に人は流れるのではないでしょうかね…。

何か語られるメッセージがあまりにも、内容が無さ過ぎる…。

今の理事長は、知っているんですけどね、
他の教会の人に噛み付かれても、
ろくな事を答えなかったんですよ。
あぁ・・・なんて情けないんだって思ったし、赤恥をかきましたよ…。

やっぱり文章にも姿勢が出てる…。
 

ううむ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年10月 2日(月)22時02分27秒
  弱き者様

できればもっと具体的にお願いします。

たとえば理事長の巻頭言がひどすぎるとか(事実今月の東海林理事長の巻頭言は最悪  orz )
 

裏ライフ記事意見募集中

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年10月 2日(月)21時12分56秒
  こうして弱き者さんにも愛想をつかされているアドベンチストライフです。
昔はサインズですら今のライフよりは霊的密度が高かったのですよ。
思わず胸にぐさっと来るようなメッセージ満載でした。それが岡藤総理になって
福音社の編集長更迭などのわけわからん人事の挙句、その頃から急速に質が落ち
てきました。今や、ライフよおまえもか? という所です。

そういうボケで塩気のない塩と化した教団機関紙に対抗して嵯峨野教会では
裏アドベンチストライフを製作しています。みなさんからこういう記事が欲しいと言う
要望がありましたら、ここで意見を吸い上げますので、よろしくご遠慮なく要望を
お語りください。
 

そうですねぇ・・・

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年10月 2日(月)20時52分4秒
  嵯峨野教会牧師様

私自身は学院時代から、アドベンチストライフの愛読者でした。
毎月毎月、出るのを楽しみにしておりました。
図書館に行っては、過去のアドベンチストライフを掘り起こし、
霊的な糧を得ていた事を今でも思い出しています。

でも、それが合併号になってしまったのです。
はっきり言って、今のアドベンチストライフは読まない方がまし。
霊的糧を得るどころか、失望しかもらえないから。
正直、手抜き、形だけ、中身なしという印象を受けるのです。

過去のライフを知っている私としては、
過去のものと比較して違和感を感じる次第であります
なんで、こんなに落ちてしまったんだと・・・。
 

違和感ある教会機関紙について

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年10月 1日(日)23時00分28秒
  弱き者様

ライフの合併号がとうとう出てしまったようですが、弱き者さんは具体的にどうい
う点に違和感を感じられましたか。確かにあまり評判はよくありませんね。
 

どうもありがとうございます

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年10月 1日(日)19時26分11秒
  嵯峨野教会牧師さま

本郷先生の記事のご紹介、どうもありがとうございます。
アドベンチストライフのページブックマークしていかなったら、
探すのに苦労してしまって。見つけられなかったのです。

本郷先生の記事、良いですね。お人柄がとても出ています。
あぁ・・・こんな信仰の姿勢をいただく事が出来たら・・・。

アドベンチストライフの合併号見ました。
かなり違和感があるんですけど・・・。
気のせいですかねぇ。
 

本郷武彦氏の記事

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年 9月30日(土)21時23分15秒
編集済
  信徒が問い合わせても返事もしないような教団から転載許可などいちいち取らず、よ
いものはどんどん広めてゆくのが信徒の義務と割り切って、堂々と無断転載します。


掲載号:
2006.01
記事:
雲の柱
本郷武彦 (Takehiko Hongo)

佐世保市出身。京都大学で哲学を専攻。日本三育学院カレッジ、アンドリューズセ
ミナリーで神学を学ぶ。日本各地の4教会、米国サンフランシスコ日本人教会など
を牧する。帰国後東京衛生病院にて長くチャプレンとして務めた後、現在亀甲山教
会で牧師として働く。

---------------------------------
いさおなきわれを

 私には今、おりにふれて心に響くメロディがあります。それは私がバプテスマを
受けたとき、海からあがってぬれたローブを着替えていたときに教会の方々が歌っ
て下さっていた賛美歌です。賛美歌二七三番、「いさおなきわれを血をもてあがな
い、イエス招きたもう、みもとにわれ行く」の歌です。そのとき以来、この歌は日
々の瞑想のテーマ、信仰の告白になりました。

 この歌は、限りなく私を慰めます。そして、私にははっきり、そのわけがわかり
ます。それは、私に「いさお」がないからです。「いさおなきわれ」であるからで
す。功績がない、義がない、きよめがない、美しさがない、愛がない、やさしさが
ない。愚かさがある、きたなさがある、罪があるからです。

 私の立つ所は、はじめから終わりまで、「いさおなき」場所です。そうでない所
に立つことは、今までもなかったし、これからもありません。とこしえに決してな
いでしょう。ただの一瞬たりとも、私たちが「いさお」あって立つことはありませ
ん。

 「いさおなき」地は、暗く、悲しく、低く、落ちていく谷底にあります。「いさ
おなき」度合いが大きいほど、谷底は低く、穴のように落ちています。その底には
希望がありません。失望と苦さと悲しみがあります。しかし、私はなぜそのような
地で、慰められるのでしょうか。それは、そこに、そこにしかない、神様の慰めが
注がれてあるからです。それは「恵み」という、安らかな、あたたかい、大きな、
深い慰めです。「恵み」は、谷が低ければ低いほど、それだけ豊かで、深く、甘美
に、底にうごめく私を慰めてくれるのです。

 聖書は、私たちが救われたのは、ただ「恵み」によると語ります。このことは何
と貴いメッセージであることでしょうか。それは、そうでなかったら、私たちには
救われる希望が全くないからです。私には救われるための義が何もない、資格も何
もない、「いさお」はみじんもないのです。

 「恵みとは受ける価値がない人間に向かって働く神の特性の一つである。わたし
たちがそれを求めたのではなく、わたしたちを探すためにそれが送られたのである。
神は恵みを喜んで与えてくださるが、それは、わたしたちにその価値があるからで
はなく、反対に全く無価値な者だからである。神の憐れみを要求しうる唯一の資格
は、わたしたちが非常に欠乏しているということである」(『ミニストリー・オブ
ヒーリング2005』一四九ページ)。

 「恵み」は、神の永遠の奥義の源です。「恵み」は、神のお心の本質です。「恵
み」はあがないの計画の基であり、救いの根拠です。「恵み」はまことに、私たち
が、救われてその上に立つことを許されている、唯一の根拠です。「恵み」以外に
私たちが立ち得る地平はありません。「恵み」のほかに、私たちが生き得る世界は
ありません。

 パウロは、救いの計画の目的は、私たちが神の「恵み」を経験し、「恵み」をほ
めたたえるためであると記しました。(エペソ一ノ六)。


 私は「いさおなきわれ」の惨めな姿をホセア三ノ一─三の中に見ます。

 預言者ホセアは、神の「恵み」の愛を、自分の人生を通して、語らせられていま
す。悲しく、辛い、人間の世界にはあり得ない愛の経験でした。その中に、人間の
心に思い浮かびもしない、神のお心の中からのみ生まれてくる「恵み」の愛が、限
りなく貴く語られています。

 神様は、ホセアに命じられます。「あなたは、将来あなたを捨てて他の人のもと
に行くであろう女性をあなたの妻としてむかえ、結婚しなさい。」ホセアはその女
性と結婚しました。はじめは幸せな結婚生活を送ったことと思います。しかし、や
がて妻は他の男性に心を向けるようになりました。そしてホセアのもとを去り、お
そらく、男性を渡り歩き、身を持ち崩して、最後は奴隷に売られて惨めな生を送る
ようになるのです。不貞の仕打ちを受けたホセアは悲しみました。苦い思いを噛み
しめました。神様が言われたとおりでした。そうしたとき、神様からのもう一つの
声がかけられました。「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じ
て、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫
に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。ホセアは神様の言われたように、彼
女の所に行き、「銀貨十五シケルと大麦一ホメル半」を払って、買い戻しました。
それは奴隷の値段でした。代価を払ってあがなったのです。そして妻に言います。
「あなたは長くわたしの所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなっ
てはならない。わたしもまた、あなたにそうしよう」と。

ここで二つの問いが、私自身にかけられています。この不誠実な不貞の妻はだれで
しょうか。私は悲しい心をもって答えます。私です。私のほかではありません。私
そのものです。もう一つの問いがかけられます。神様が私を買い戻すのに払われた
代価はいくらでしたか。私は答えます。悲痛な声を振り絞るように、答えます。イ
エス様の御血です。十字架の犠牲です。ご自身の命です。何という代価を神様は払
われたことでしょう。何という痛みを負われたことでしょう。

 「いさおなきわれ」は、時に、神は私を捨てられたのではないかと不安をおぼえ
るほどに、自分の義なき姿に苦しむかもしれません。しかし、このようなときに、
私は、不貞の妻を買い戻された方のことを思います。愛される資格のみじんもない
者を、憐れんで、命を捨てて愛し抜かれたイエス。この方が私を捨てられるはずは
ないとの静かな確信に戻されます。

 いさおなきわれを
 血をもてあがない
 イエス招きたもう
 みもとにわれ行く


 ここに、あがないの事実の限りなく貴い確かさ、慰めに満ちた招きがあります。
この主だから、彼のもとに行くのです。「みもとにわれ行く」との信仰告白をもっ
て応えます。
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本記事は、セブンスデー・アドベンチスト教団が毎月発行する教会員向け機関誌
「アドベンチスト・ライフ」に掲載した原稿を会員向けに公開しているものです。
記載内容について、著作権法の定める範囲を越えて無許可で使用することはでき
ないことはありません。 記載内容や使用に関するご連絡は、嵯峨野教会へ
 

こちらをどうぞ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2006年 9月30日(土)21時18分36秒
  弱き者さま

下のリンクに行って、記事検索で「本郷武彦」とフルネームを入れて記事を探すこ
とができますよ。

http://life.fukuinsha.com/
 

どうもありがとうございます

 投稿者:弱き者  投稿日:2006年 9月29日(金)12時56分12秒
  かもめ様、初めまして。弱き者です。

この問題は、私にとってとても切実な問題であります。
罪の意識との戦いは、主の存在を知ってから今に至って続いています。
救いの確信を深める事は自力では出来ないと、悩むたびに感じます。
主が聖霊の御霊を豊かに与えてくださり、わが目を開いてくださる事を、心から願います。

アドベンチストライフ、2006年1月号をネットで拝見しようとおもったのですが、
どしても見つけることが出来ませんでした。
もし、URLご存知ならば教えていただけたら幸いです。

私にメッセージを下さり、どうもありがとうございます。
嬉しいです。
 

Re:情けない話

 投稿者:かもめ  投稿日:2006年 9月28日(木)09時34分12秒
  弱き者さま

この問題は、信仰歴の比較的長い方が、時折おっしゃられることです。
おそらく、聖書に記されている「さばき」、「行いによるさばき」が、理屈では解かっていても、頭(こころ)から離れないことが、ひとつの要因かと思われます。
これは、極めて信仰者にとって、重要、且つ解決に急を要する問題かと思います。
聖書に「わたしを信じる者はさばかれない」とあったと思います。一方、「あなたがたの行いによってさばかれる」とも記されていたと思います。或いは、「たとい、罪を犯しても...」という聖句もあったと思います。
この「信じるものは救われる」という“みことば”を、こころの底から信じることができないか、もしくは、罪の清算、つまり、こころからの告白と罪の赦しを願わないでいたならば、この念はいるまでも残り続けることでしょう。
しかしながら、聖書は、だからキリストが十字架にお架かりになった、ということなのではないでしょうか。
最近の身の周りの信仰歴の長い方も、徐々にではありますが、救いの確信の認識が変化してきているようです。
アドベンチスト・ライフ2006年1月号「雲の柱」で、本郷武彦牧師が記された記事は、おおいに慰めが与えられるかと、思います。
的が外れていましたならば、どうぞ、ご容赦ください。
真摯な姿勢のお方とお見受けします。どうぞ、こころに、神からの慰めと平安がありますように。
 

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