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理事会は荒れても

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2005年 2月23日(水)15時22分10秒
  こちらは通常通りの穏やかな運営を継続中です。  

Transfered Articles

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2005年 2月 4日(金)23時31分25秒
  天使の翼 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 2月 4日(金)22時17分32秒

米軍機が熱源追尾装置付のミサイル攻撃を振り切るために大量の熱源弾を一斉放射
する訓練の記録ビデオです。排煙が機体の後方に生じる気流の渦に巻き込まれて、
天使の翼のようです。

こうした訓練は人の住んでいる地域の上空では出来ないので、海上とか、砂漠の訓
練空域で行われるものであり、一般人が目にすることはまずないでしょう。

http://usaattacked.com/Angel_Decoy.mpe




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霊感の判別の試金石 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 2月 4日(金)18時52分3秒

ラオス人の仏教徒の女性が何年か前に「2005年に日曜休業令が来る」
と予言したのだそうです。それがこの人なのだそうです。SDA関係者の
サーバーのようです。英語のわかる方は一応ご覧下さい。感想もあり
ましたら是非どうぞ。

私は今はコメントを省略します。

取り扱いは注意が必要です。もし、この人が神の名によって預言して
いるなら耳を傾ける必要があります。もし、そうでないなら、...それ
でもやはり教会が試みられる事を意味するでしょう。しかも、激しく
です。皆さん、そういう心積りは出来ていらっしゃいますか?

http://www.bibleplus.org/soo/
 

謹賀新年

 投稿者:嵯峨野教会牧師(SDA・MJ)  投稿日:2005年 1月 1日(土)23時08分8秒
  一応イスラエルの暦にリスペクトを払って、Rosh HaShanaを祝いましたけれども、
太陽暦のシステムに生きている教会以外のみなさんの生活にもリスペクトを払っ
ておりますので謹んで新年のお慶びを申上げます。

新しい年が神の愛と正義を信じるものにとって奇跡の年となりますように!

  主をほめよ、Hallellujah!
 

クリスマスらしいですが

 投稿者:嵯峨野教会牧師(SDA・MJ)  投稿日:2004年12月25日(土)02時04分37秒
  セブンスデーアドベンチストは基本的にクリスマスを祝いません。
クリスマスの社会のエキサイトを利用して伝道に用いてもいいのではないか
と信じてそのようにしている牧師や教会員はおりますが、それは必ずしもク
リスマスを祝っていることにはなりません。そもそもクリスマスはイエス・
キリストの誕生日ではありません。その人の誕生日でもない日を誕生日だと
決め付けるのは無礼です。しかもそれが神の子キリストであれば、全く不適
当な事であると容易に理解出来ましょう。キリストがお生まれになったのは
クリスマスではなく、仮庵の祭り(イスラエルの新年のロシュハシャナから
二週間後)です。ですからイエスも仮庵(馬小屋)で生まれたのです。クリ
スマスにプレゼントを交換したりサンタクロースが現れるのは異教起源、も
しくはアメリカ合衆国のコマーシャリズムの産物でありまして、シアーズや
モンゴメリーワード等のデパートの年末在庫一層処分セールの商業戦略に踊
らされているのであって、聖書的でもなんでもないのです。

そんなことは実はどうでもいいのですが、クリスマスだと言うので一つだけ
皆さんに考えて思いをめぐらして欲しい事があります。そもそも、キリスト
の降誕の直前に天使のお告げを受けた羊飼いや、東方から来た三博士という
人たちは、なぜキリストが来られると知ったのか、キリストが何を目的とし
て来られるのか理解していたのかと言うことです。彼らには新約聖書は当然
ありませんから、それらの啓示の源はトーラーと詩篇と預言者の言葉のみで
す。それだけで既にキリストが来られるのは王としてであることが理解でき
ていたのです。それがクリスマスに教会が教えるべき唯一重要なポイントで
す(他の事は全部忘れてもよろしいです)。
 

継続します

 投稿者:嵯峨野教会牧師(SDA・MJ)  投稿日:2004年11月25日(木)10時15分48秒
  聖書の読み方についての最高水準の考察は継続されています。
あんそ君様の「聖書知識のしたたり」は同時並列進行という事
で適宜お願い致します。
 

おしらせ

 投稿者:嵯峨野教会牧師(SDA・MJ)  投稿日:2004年11月 2日(火)05時06分4秒
  嵯峨野教会の理事会掲示板および聖書研究室bbsを当面の間、匿名プロキシから
は書き込めないように保全を行います。従って、他の人の成りすまし、インターネ
ットカフェなどからの書き込みは当分できなくなります。そのようにする理由は、
最近になって頓に教団機関内部のパソコン端末からのウィルスや不正アクセスが多
くなってきたからです。嵯峨野教会牧師は読者を保護するという見地からもこれに
対応しなければなりません。ご理解を頂きたいと思います。よろしくお願い致します。
 

ごめんなさい(謝罪)

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年11月 1日(月)21時33分46秒
  >どうも真意がうまく伝わっていないようですね。 投稿者:あんそ君(非クリスチャ>ン)  投稿日:11月 1日(月)11時16分1秒

嵯峨野教会牧師さまへ

あんそ君にお返事を書かせてくださいませ。反省しています。
わたしも、↑の真意がわかりませんでした。
男尊女卑は「イエス」の時代もあったが、イエスは殊のほか、弱者に対しては親切であったことが、正しいのですね。
らい病の患者に対しても、戦後の日本でも未だにその、偏見と差別に満ち満ちているが、
イエスは、全てに平等に愛を注がれた、しかし、時には厳しい態度で叱咤激励もしたが、
聖書の訳には、70人が加わっているので、どの訳にも真実味に欠けるので、「あんそ」君が、辞書で調べておられるのですね。どうもありがとうございました。

わたしもアメリカの友人から、いただいた聖書には、アルマゲドンから始まり、説明受けたのですが、その当時には、疑ってかかったものですが、真実性もあり、1999年7の月に
何にも起こらなかったので、安心したものでした。

>日本人の文化の美徳に関しては、わたしは何にも、被害など蒙っていませんので、あんそ君さま心配なさらないで下さい。いたって健康優良児です。

>この国に、うつ病患者など心を病んだりDVや児童虐待、少年犯罪が多発するわけがあ>りません

心が痛みますね。嵯峨野教会牧師様に是非、アメリカでの現状など、お時間がありましたら、詳しくお尋ねしたいと希望します。
どうも「あんそ」君さまへ、ご助言に感謝申し上げます。これからもどうぞ、アドバイスをお願いします。
 

申し訳ありませんが

 投稿者:嵯峨野教会牧師(SDA・MJ)  投稿日:2004年11月 1日(月)20時47分58秒
  ここでは聖書研究のテーマを中心にしています。聖書研究を目的としていますので
それに沿った発言をお願いいたします。
嵯峨野教会牧師はたとえ書き込みをしていなくても常にここをチェックしています。
私がいなければ何でもアリなどと勘違いをしていた発言は3つほど削除させていた
だきましたがご理解ご協力をお願い申し上げます。
 

どうも真意がうまく伝わっていないようですね。

 投稿者:あんそ君(非クリスチャン)  投稿日:2004年11月 1日(月)11時58分9秒
   どうも、誤解なさっているようですね。「女がいなければ・・・」のタイトルは、その投稿内容とあわせて受け取っていただきたかったです。てっきり不快感なく、受け取っていただいているものと思っていましたが。もし、不快感をおぼえられましたのならあやまります。

「男は女よりエライ」という男尊女卑(男が女をいやしめるという意味で)に自分は反対だ、ということで、あなたに対して、というよりはすべての男たちに対してという感じもあのタイトルにはありました。

 もちろん、日本の集団主義や謙譲の美徳といわれる行動原理が、すべて善だというつもりは毛頭ありません。そうでなければ、この国に、うつ病患者など心を病んだりDVや児童虐待、少年犯罪が多発するわけがありません。ある意味、「窒息」をもたらす要素が多分にあるのはわかっています。(というか、むしろ中途半端な謙譲、建前や形式だけで、心のこもっていない、キチキチの枠にはめようとする傾向、と申しましょうか)

 ただ、その原因を「文化」のみに求めるのはいかがでしょうかと申し上げたつもりです。

 少なくとも、あなたはそういった日本人の一般通念としての「美徳」と呼ばれる習俗に関して、なんらかの深い心の傷を負われる体験をなさっているようですので、今後、この種の話題にふれることはいたしません。

 日米の「文化」の相違については、在米の嵯峨野教会牧師様の方が、ずっと現地にいらしておくわしいはずですから、おたずねになってみてください。
 

メディアの受け売りでしたが

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年11月 1日(月)08時53分37秒
  --------------------------------------------------------------------------------
>すみません。 投稿者:あんそ君(非クリスチャン)  投稿日:11月 1日(月)02時56分>15秒

ご返事ありがとうございます。自分で調べてから、提出するレポートに纏めれば良かったですね。白黒、人を裁くな、と仰るあんそ君のお気持ちは大変よくわかりますが、日本人も認めている謙譲の「文化」と表現すればよかったでしょうか?

たとえば、日本人は「つまらない物ですが」「お似合いですよ」「いいお天気ですね」
「賢そうなお子さんですね」「いいえとんでもないです」「おいしいですね」
「立派なお仕事です」言い出したら、きりがないのですが、心にもないことを、
相手を傷つけないように、柔らかな表現にて、その場を濁す、お茶を濁すとでも
表現されるのでしょうか?日本文化の「詐欺的資質」この表現方が、間違っていました。

美しい他人に対しての、思いやりを持った「文化」でしたね。決して、本音を洩らさない
相手を傷つけるような、言葉の暴力をかけない、浴びせない「文化」ですね。

留学した知り合いが、嘆いていました。文化の違いです、同じ部屋のルームメイトに対して、良かれと思い食事と掃除を提供してから、以後ずっと、食事と掃除を知り合いが、好きで楽しくてやってくれるんだと、思い、何の躊躇いもなく、一度も手伝ってくれなかったそうです。懲りて、その後の知り合いの態度が嫌なことは嫌「ノー」示さないと、とんでもないことになる、良かれと思ってしたことに対して、感謝してもらえずに、疲れた、と心からその当時、留学当時の話ですが、聞きました。日本人は心にもないことも、結構平気で言えてしまうのです。そのように幼い頃より、躾られていますから、「あんそ」君は、そんな風に思ったことありませんか?美徳と言えば、日本文化の「美徳」ですが、
外国人もそんな日本人のことを、素晴らしいと思ってくれればいいのですが、慎ましい、
桜の花のように、儚い心です。時々わたしは、これで自分自身疲れてしまいます。

他人に気を使う、当たり前の文化ですから、「我慢する」これも子供の頃から、しつけられた、行動ですから、やはり、違う意味での、心が病んでしまうことの、原因には、こんな風習もあるのでは?ないでしょうか?

私はアメリカが、逆に「正直」な国なので、今日の「アメリカ」強い国が存在すると、認識しています。これは、宗教の違いも絶対にあります。「文化」の違いもですね。
あんそ君は、以前「女がいないと子供は生まれないんですがねえ」と表現されました、
わたしは、その時に少なくとも、嫌な表現されるなあと、正直に思いました。
しかし、正直に反発したら、どうでしたか?
 

すみません。

 投稿者:あんそ君(非クリスチャン)  投稿日:2004年11月 1日(月)02時56分15秒
  >片桐さん

 おねがいですから、

>日本文化の「詐欺的資質」

 などと、一刀両断になさらないでいただきたいです。文化というのは、そんな簡単で皮相に処断できるものではありません。アメリカにはアメリカの良さと悪さがありますし、日本には日本の良さと悪さがあります。完全な人間がいないように、完全な国家や民族もありえません。

 私は、日本であれアメリカであれ、どこであれ、一方的に「詐欺的」とかと決め付けるのはよくないと思っております。もし、そのような非難をなされるのであれば、いろいろと勉強してデータをそろえて、「根拠」を示せるようにしてからでも遅くないと思われます。

 なによりも、そのように簡単に「善悪」「白黒」をつける生活は、心を病ませたり、人間関係を破壊的なものにすることになりがちです。「中間」「間」というのは大事です。
 イエスも、「神の国はあなたがたの間にあるのだ」とおっしゃっています。その伝でいけば、あなたと私の間にも、管理人さんとあなたの間にも「神の国」は現れるはずです。また日本とアメリカの間にも、中国や韓国との間にも、真にキリストの精神で生きるならば「神の国」が現れるはずです。

 相手を、即座に処断することは、「神の国」の現れるのをさまたげると思います。

「人を裁くな」というイエスの教えは、国に対しても同じだと思います。あなたの言い方だと、日本民族全員、あなた自身もふくめて「詐欺的」であるかのように読めます。
 イエスがイスラエルを愛したように、日本のクリスチャンや聖書研究者が、日本を愛することを望みたいです。イエスは「愛国者」でした。それはまちがいないのですから。
 

文化

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月31日(日)16時29分58秒
  嵯峨野教会牧師さまへ

お返事どうもありがとうございました。
普通の聖書、「福音書」お蔵にたくさん有りますm(__)m
「三島由紀夫」風にリメイクされた、先生の書かれた「聖書」についての記事がもし、有りましたら読ませていただきたいのですが、興味があります。
「楯の会」などの、書庫と比較しながら読むことは、ダメージでしょうか?
「正直さこそ美徳」のアメリカ文化と、日本文化の「詐欺的資質」欺瞞蔓延る違いです。

アメリカ大統領選挙も間近に迫りました。報道番組の趣旨が、大統領選挙に関する動向についてでした。余計なことで、悩みまして恥ずかしいものです。
牧師さまは、日本に帰国されることはないのですか?

やはり「聖書」教会に出向き、静かに読むことも必要でしょうか?
近くには、教会もあります。
少し趣旨と外れて申し訳有りません。(__;;)

「牧師さま」ご返事どうもありがとうございました。(礼)
 

みんなベイビーです

 投稿者:嵯峨野教会牧師(SDA・MJ)  投稿日:2004年10月31日(日)12時48分11秒
  片桐さま

Baby Bibleというのは誰の発想か聞いたことがありませんが、はっきり申しまして
あなたにはそれは必要ありません。なぜなら、年齢の如何に関わらず、聖書を読ん
だことのない人は、ある意味で皆「ベイビー」だからです。あなたも新約聖書を既
にお読みになっておられるなら、イエスが「乳飲み子のようにみことばを求めなさ
い」と語られた言葉を覚えていらっしゃるはずです。ですから、改まって誰か他の
人が思いついて作ったBaby Bibleなどを求めなくても、普通の聖書をお求めになっ
てそれを読まれて神のみ言葉によって養われてください。
 

キリスト教原理主義とは

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月31日(日)12時06分39秒
  嵯峨野教会牧師さま、こんにちわ。

牧師さんを、お困りさせてしまうような、疑問を引っさげてまいりました。
どうぞよろしくお願いします。m(__)m
本日の日本の報道番組にて、初めて聞きました「キリスト教原理主義」ですが、
その中で大変興味を引いたものがあります、排他的キリスト教会の事実です。

そこでは、0歳の頃から「聖書」に触れさせ、すべてのもの、地球上にあるものの全てのものを、キリストが創られたと、バブバブの赤ん坊に対して訴えているのでした。
猫ちゃんも、ワンちゃんも「ぜ〜〜んぶ」神さまキリストが創られたのよ〜〜と、託児ルームで教えている光景がメディアで報道されていました。

わたしは、これだと思ったわけです、そこには「baby Bible」置いて、触れさせ、確かめて、創造されたことをのみ、聖書に忠実に教えていくものだとありました。

わたしは、日本で育ち、日本の教えを学びました。今日まで、浄土真宗滲みついているかもしれません、無宗教でも無信仰者に近い存在でした。
アメリカでこれだけの徹底された教育を受けると、進化などは、どこか異国に飛んでいってしまいますよね。知り合いにも、現状聞いたところでは、創造論だけで、ナンセンスらしいことも聞きました。嘲笑されるらしいのですが、そこで進化など聞いてくるものには

しかし、牧師さんは科学的にも立証する事が大切、クールに論議する事だと仰っています

わたしは、そこで考えました。わたしにも「Baby Bible」が必要だわ。0歳児に戻り初めてみたいと、どうでしょうか?ナンセンスですか?
日本の書店にその「Baby Bible」が置いていないものかと、検索しています。
どうか、牧師さんにこの気持ちが伝わりますように、「アーメン」
削除されませんように、しかし、あきらかに教義に外れていると、判断されましたら、諦めます。(礼)
 

遺憾です

 投稿者:嵯峨野教会牧師(SDA・MJ)  投稿日:2004年10月30日(土)23時37分58秒
  あんそ君のご指摘されたような聖書の表現の違いについてギリシャ語を解するSDA教会関係者にレスをお願いしておりますが、全く応答がありません。何もない場合、無能の証拠とします。眞に遺憾です。  

安息日のこと

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月30日(土)21時41分7秒
  >あんそ君(非クリスチャン)へ

ご提示どうもありがとうございました。
一般に「安息日」には、何にも行動しないのですか?
たとえば、買い物であるとか?用事はしないように、教えていただいた事があります。
 

安息日のこと

 投稿者:あんそ君(非クリスチャン)  投稿日:2004年10月29日(金)21時44分36秒
  >片桐さん

 安息日についてなら、嵯峨野教会牧師さんの方がはるかに詳しいですが、一般に、「安息日」は「金曜の日没から土曜に日没まで」だったと思います。
 安息日の根拠は、旧約聖書の「出エジプト記」20-10〜(20章10節以下)、31-13〜、民数記15-32〜36、申命記5-12〜15を参照のこと。
 

わかりました

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月29日(金)19時49分58秒
  >ここでは書きません

>イエスの在世当時は(アラブに比べれば弱いとはいえ)男尊女卑の傾向があり、それに>彼は風穴をあけたと私は思っています

あんそ君さまへ
了解しました。考えすぎると眠れなくなりそうですね、とにかく今は聖書を忠実に受け容れることを先決に方向を変えてみます。

ひとつ質問させていただいてもいいですか?わたしの目に止まった記載によれば、金曜日の日没から土曜日にかけて、安息日とする、これは正しいのでしょうか?

それでは、「あんそ」君、ご返事どうもありがとうございました。(礼)
 

女性がいないと子供は生まれないんですがねえ(笑)

 投稿者:あんそ君(非クリスチャン)  投稿日:2004年10月29日(金)11時21分29秒
  >片桐さん

 おっしゃるとおり、まず旧約聖書をひととおり、事典の助けを借りながらお読みになり、しかるべきのちに新約に再挑戦されるのがよいかと思います。

>以前の「黙示録」からの興味本位から、ちょっとしばらく離れます。

 これも、大変にけっこうなことだと思います。「ハルマゲドン」を意識する前にやらねばならないことはたくさんあるでしょう。「終末論」にはまって現実回避するというようなことを、私も若いころにやっていました。

 それで、「女性=不浄のもの」という発想や男尊女卑についてですが・・・。

 イエスの在世当時は(アラブに比べれば弱いとはいえ)男尊女卑の傾向があり、それに彼は風穴をあけたと私は思っています。イエスが、当時の社会的弱者(女性ももちろん含む)や被差別者をとりわけ公平に愛情ぶかく接した記述は、あちこちにあります。

 なぜ蔑視されたかとか、なぜいやしめられたかの理由(不当な)については、ここでは書きません。ただ、女性が卑しいなら、男はそれほどえらいものなのか、という疑念は当然あります。

 男尊女卑とは、ある種の「イデオロギー」であると考えます。私はその意味で、フェミニストです。ただし、アメリカのウーマン・リブとかではないですよ。ごく日本的なもので、女性が幸福でない社会は、男性も子供も幸福でない社会だと信じるということです。
 
 かつては、私も日本国内で田舎の出身なので男尊女卑的な建前の環境にいましたし、「男」を売りものにする業界の人たちも見てきましたが、だいたい「男尊女卑」「女は男にだまってついてくればいい」と思っている人間に限って、女房を家庭で殴ったり、児童虐待していたり、反社会性や犯罪性のある人間だったり、「女を大事にしない」人種であるように感じました。

 少なくとも、イエスは「男は女よりえらい」なんてことはいっていません。旧約の創世記でも「ふたりのもの一体となるべし」と夫婦のありかたを教えています。

 日本も、大化の改新(645年)のときに、中国から儒教道徳が入ってくるまで「男尊女卑」というのはなかったはずです。江戸時代の「みくだり半」だって、あれは「離婚証明書」であって、文面はまったくの「形式」です。夫が、女房とその両親に「みくだり半」を無理やり「書かされて」、泣く泣く離婚、別れた女房ははれて「みくだり半」をひっさげて、ほかの家に嫁にいくなんてこともあったそうです。

 江戸時代の研究家は、口をそろえて「江戸時代の江戸の女性は強かった」と述べています。建前は「男尊女卑」でも、内実は「おかみさん」「山の神」ですから、男が偉そうな顔をしようものなら、ガミガミいわれたにちがいありません(笑)。
 

無題

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月29日(金)10時16分1秒
  >イエスの教えや言葉の激しさが、いちじるしく減殺されているのがわかりました。
>「私たちはみな、不浄の者となり、正しいわざもすべて不潔きわまるぼろぎれのように>なった」
>pannodi mestrui=生理の血でよごれた布"

あんそ君さまへ。こんにちわ。
少々、学習してまいりました。全く無知であったので、しかも数年前のことで、記憶が飛んでいたこともありました。その当時の聖書に関する知識もままならずに、ただ善意で下さった書物でしたから、何気に読んでおりました。
時代背景など、考慮に入れてなく、普通の小説のような感覚で読むべきものではありませんね。しかも注釈が難解です。
わたしの新約聖書を取り入れること事体有り得ないことでしたね。

旧約聖書に忠実に今後まいりたいと思います。
10代の後半に「シェイクスピア」に嵌りまして、その技法やアメリカの歴史に触れていたので、生理的に受け容れない、頭の中になかったと言う表現の方が正しいでしょうか?
論文まで英語で書かされて、今思い出すと、その当時の講師がどのような教育を受けて来たのか?ふと、想像すると「なるほど」思い出されます。

わたしが↑に、あんそ君の示していただいた記述に対して、まさに女性蔑視、不浄の物とされていた、掲示に対してまさしく、旧約での「コーラン」から、聖典となった経緯や
創造された「神」バリサイ人、○○人、並行してやはり何らかの、女性に対しての今日に至る教義にちょっとひっかかりました。そこから学びたいと思います。

以前の「黙示録」からの興味本位から、ちょっとしばらく離れます。
 

んまあ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年10月28日(木)11時00分6秒
  片桐様

 >日本人は臭いものには、蓋をする傾向があります。よく言えば謙譲、尊王、謙
 >虚の精神ですが、結局早く死んでしまえと言っているのか、それとも、いつも
 >でも長生きして、お金をばら撒いてくれと心の奥底で叫んでいるのか、微妙です。

結構鋭い事をおっしゃっていますね。福祉のなんのといっても、結構偽善はあるでしょう。
あと、やはり、いくらフィルターを取り払って、びっくりするようなショッキングな言辞
に訴えても、それが問題の核心の的からとっ外れてしまっていては間が抜けてしまいます。
那須野与一も扇の真ん中を射抜けなければ、平家軍から笑われしまっていたでしょう。
どんな風に問題を指摘するにしても、問題の中核をゲットしなければ空しくなります。
聖書研究がその知恵を与えるでしょう。
 

RE:フィルターを取り除く

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月27日(水)22時29分45秒
  >言葉狩りの影響
>赤面するような言葉がわざわざ選ばれてあてがわれています

↑のような言動が得意でした(苦笑)結果、破棄、遺棄されましたが・・・・・
心の中と、魂(精神)が、かなり鍛錬されました。実生活では、穏やかな日々ですが・・
「あんそ」君、「牧師」さまから、まさかこのように綺麗なお言葉を掲示板上で、拝見する事が出来て、勇気百倍です。今日の戦争(宗教)も、聖書の続きのように、感じました。

わたしは、性格的にひょっとすると、聖書に忠実に生きていけるかもしれませんね(笑)

日本のお年寄りは、恍惚になると、施設に入れられて、紙おむつをあてがわれていますが
クリスチャンは、決してそのような行動しないそうです。アメリカでの、知り合いの話ですが、お年寄りに対して布オムツを用いて、濡れたり、汚してしまった感覚をわからせるために、それと、捨てないで何度も何度も洗って使用するそうです。

今の日本人の高齢者を抱える家族にとって、施設にとって、介護にビジネスを注ぐ産業にとって、このようなサービスが出来るものか、疑問に思います。

日本人は臭いものには、蓋をする傾向があります。よく言えば謙譲、尊王、謙虚の精神ですが、結局早く死んでしまえと言っているのか、それとも、いつもでも長生きして、お金をばら撒いてくれと心の奥底で叫んでいるのか、微妙です。
 

フィルターを取り除く

 投稿者:嵯峨野教会牧師(SDA・MJ)  投稿日:2004年10月27日(水)20時17分33秒
  あんそ君

ちょうど発言が前後してましたね。
イザヤの記事は知っています。へブル語では最悪に汚い、「使用済みのおむつ」、
もしくは「使い終わった生理パッド」級の、思わず読んでいるものが目をそむけて
赤面するような言葉がわざわざ選ばれてあてがわれています。聖書のフォントを
大きくしたり、色を変えたりすることができなかったので、そういう極致にショッ
キングなアナロジーがあえて採用されたものと考えられます。それを理解しないと
いけません。

あとこれに似たようなものは、エレミヤ書の13章にあります。そこにある、エレミ
ヤが腰に巻いて、それから岩に入れろと命じられたものは、他ならぬ「洗濯しない
汚いパンツ」のことです。それがどうしてユダやイスラエルに例えられたのか、余
りにも汚すぎるではないか、お下品すぎるザマす、などと綺麗ぶった不平を言わず
に冷静に熟慮することがそこで聖書読者に要求されているのです。ユダとイスラエ
ルがこんなふうに、汗糞尿の汚れて醤油で煮しめられたパンツの如きものに例えら
れるなら、まして我々の現代の堕落したキリスト教会教団をや、です。
 

大切な質問です

 投稿者:嵯峨野教会牧師(SDA・MJ)  投稿日:2004年10月30日(土)23時34分27秒
  あんそ君ではない方に(特にギリシャ語知識のある人に)ですが

下であんそ君が説明されているような、聖書の表現の問題ですが、もとのギリシャ語の
原語でも同様に直裁に書かれておりますでしょうか。

三育学院の欄板さん。まだここをROMしておられますか。おられましたらアドバイス願います。あなたも、下であんそ君様が述べておられる聖書の言葉のように、教会組織の悪に立ち向かってゆるぎなく堅忍不抜、不動の覚悟で立って欲しい方です。

あんそ君の聖書訳のプロジェクトは面白いです。聖書が婉曲用法や、言葉狩りの影響で
汚される位なら、本義に忠実な訳が歓迎されるでしょう。
 

新共同訳の「婉曲表現主義」 追記

 投稿者:あんそ君(非クリスチャン)  投稿日:2004年10月27日(水)19時37分4秒
   さらに、旧約ではこういう例もありますので、ご紹介します。

 イザヤ64章5節
「私たちはみな、けがれた者となり、正しいわざもすべてけがれた着物のようになった」

 問題は、この「けがれた着物」であり、これは英訳では"filthy rags"で意味は「不潔なぼろぎれ」です。フランス語訳では"lige sale=汚れた下着" 、イタリア語訳は"pannodi mestrui=生理の血でよごれた布" となっており、ヘブライ語の表現でもフランス語訳やイタリア語訳よりももっと強い表現だそうですから、実際は「けがれた着物」どころか「きたないのきたなくないのって話しにならないようなボロぎれ同然の着物」という感じが正確なところのようです。

 ですから、上述の日本語訳はこうなります。

「私たちはみな、不浄の者となり、正しいわざもすべて不潔きわまるぼろぎれのようになった」
 

新共同訳の「婉曲表現主義」

 投稿者:あんそ君(非クリスチャン)  投稿日:2004年10月27日(水)19時20分5秒
  嵯峨野教会牧師様

 クリスチャンどうしでないのに、やけに気があいますね(笑)。

 おっしゃる通り、ただでさえ従来の日本語バイブルは、日本語自体のもともと持つ婉曲性、柔和性によって、欧米語訳バイブルの持つ直接性が、かなりそがれている欠点があるのに、その上なお婉曲性を付するのは、ある種の「改変」とはいえないでしょうか。

 ギデオンバイブルなどの入手しやすい英語のバイブルを、辞書片手に読みはじめて気づいたのが、この「日本語訳」の婉曲性でした。

 たとえば、マタイ24章13節、イエスが使徒たちに「終わりの日のしるし」を語るところの一節です。イエスは、終わりの日には、キリストを信じるものたちは憎まれ、世界は愛が冷えて裏切りあい、不法がはびこるだろうと預言、そしていいます。

「しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われる」

英語ではこうなります。
"but he who stands firm to the end will be saved."

 日本語訳だと「耐え忍ぶ」=「じっと身をちぢめて、我慢に我慢をかさねて、目をつぶってこらえる。傷口に塩をすりこまれても、その痛みに涙を浮かべて、声も立てずに辛抱し続ける」という萎縮したイメージですが、英語はちがう。

"stands firm" は、「忍耐」は忍耐でも、「ゆるぎなく立つ」という言い方がふさわしい。「耐え忍ぶ」「こらえる」というよりは「堅忍不抜」や「覚悟を決めて不動のかまえでいる」という言い方です。

 日本語訳だと、冬の氷の下の芽のように、じっとしてやりすごすような辛さを、びくびくしながら「耐え忍ぶ」イメージですが、英語では氷がこようが霜が降ろうが、まったく変わらない岩のような、堂々としているイメージです。

 この「耐え忍ぶ」の訳の大きな差を知ったときから、私は日本語訳聖書より英語のバイブルをきちんと参照するようにしようと思いました。

 その結果、日本語訳(新共同訳をここではサンプルにします)には、英語訳にはないイエスへの「敬語」「ていねいないいまわし」が色づけされて、イエスの教えや言葉の激しさが、いちじるしく減殺されているのがわかりました。

 たとえばマルコ第2章10-12節
「そして、中風の人に言われた。『私はあなたに言う。起き上がり、床をかついで家に帰りなさい』その人は起き上がり、すぐに床をかついで、皆の見ている前を出て行った」

 英語では下記。日本語訳のような敬語表現はありません。

"He said to the paralytic I tell youget up take your mat and go home."
He got uptook his mat and walked out in full view of them all.

 これを、直訳的に訳すとこうなります。

11イエスは中風患者にいった。
「命じる。立ち上がれ、茣蓙(ござ)をもて、そして家に帰れ」
12彼は立ち上がり、衆人環視のなか、茣蓙をもって歩み去った。

 英訳から直接に訳し起こした方が、ビビッドに情景が浮かんできます。
(実は、マルコ伝を、この調子で1〜3章まで、私訳で訳出しています。いずれはぜんぶやりたいと思っています)
 

ハイ(^^)のんびりお願いします

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月26日(火)08時34分57秒
  >「性急な結論」は、「性急な破綻」に・・・・・

おはようございます。あんそ君↑のとおりです。わたしもすぐに結果を出すことを
知らないうちに、自分の中で作り出して悪循環に陥っていました。
あんそ君は、先輩ですね。その心は性格の弱点を諭していただけると、不思議にも穏やかな、羊飼いのような、自分になれるようなそんな気がして来ました。

>神の時間は銀河の流れに等しく、人・・・砂時計のような・・・

このお言葉には、打たれました。日々砂時計のようなわたしです。
知らないうちに、自己束縛の呪縛に陥りやすい傾向にあります。
従い、自然と魂が導かれたように、記憶しています。

>あわてず、ゆっくりいきましょう。

朝から、いい言葉を目にすると人の心、和やかな心、これからも宜しくお願いします。
大切なことを教えていただきました。
そうすると、周りの雑音が聞こえなくなります。
集中することが、欠けていました。あんそ君、ありがとうございます。
 

これは私も疑問

 投稿者:嵯峨野教会牧師(SDA・MJ)  投稿日:2004年10月26日(火)08時31分53秒
  あんそ君様

 >ですから、現在の「新共同訳」で、「ライ病」をすべて「重い皮膚病」と訳し変
 >えた姿勢には、おおいに疑問を表明します。それほど悲惨だったライ病患者や、
 >ほかの重病で苦しんだものたちを、イエスが治癒して助けたことの重要性と奇跡
 >性が、薄らいでしまうからです。


アーメン。これは私も同感です。日本聖書協会のeuphemismは、滑稽であり、馬鹿馬鹿しいものであると思います。これでは事実を事実として認識できない聖書読者を産み出すことを奨励しているようなもので看過しがたいものがあります。聖書協会ともあろうものが愚かしい言葉狩りや人権運動に擦り寄った世俗大衆迎合行動であり、遺憾です。英語の聖書でもそんなくだらないコズメティックな言いかえなどしておりません。私の言は合衆国セブンスデーアドベンチストとMJの公式的・代表的見解として下さい。
 

片桐さん、のんびりいきましょうよ。

 投稿者:あんそ君(非クリスチャン)  投稿日:2004年10月26日(火)02時35分25秒
   旧約は、紀元前1000年ごろから、イエスが生まれるちょっと前まで、約千年かかって編纂されました。新約聖書の福音書も、現在のような形になるまで、イエスの死から90年位かかっています。

 日本から一万キロはなれた土地の、古代の人々によって、長い時間をかけて編集されてきた書物です。数ヶ月や数年で読みこなせるものじゃありません。あわてず、ゆっくりいきましょう。

 神を信じるのに、もっとも禁物なのは「性急さ」だと思います。神の時間は銀河の流れに等しく、人の時間は砂時計のようなものですが、人の心だけは、星の時間を想像して信じることがゆるされています。

「性急な結論」は、「性急な破綻」に陥りやすいです。私自身が、そういう失敗をしてきましたので。
 ぼちぼちと、適当に加減しながら行きましょう。
 

興味津々

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月26日(火)01時09分22秒
  あんそ君
大変でしたね。どうもありがとうございました。
本日の『聖書知識のしたたり』まだ、把握出来ていないので、申し訳ありません。

頭の中が、聖書のことで一杯になりまして、自分ながらにアップアップしています。
まだまだ、根性なしです。鯉のようです???

遅くまで、知識の泉をどうもありがとうございました。
心からお礼申します。お疲れが出ませんようにお願いします。

嵯峨野教会牧師様も、お疲れが残りませんように、心から祈念します。
では、失礼します。
 

ううむ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年10月25日(月)21時39分1秒
  あんそ君

これはもう出版企画に乗る一段階前ですね(笑)。
面白いです。

ハエといえば原虫感染症(trypanosomiasis)を来たらす凶悪なのもいたはずです。
 

聖書知識のしたたり4

 投稿者:あんそ君  投稿日:2004年10月25日(月)19時09分45秒
  <病と健康>

 まず衛生状態も、現代からは想像を絶していたと思ってください。水洗便所、ティッシュ、チリガミ、ありません。消毒薬、ありません。包帯、カットバン、マキロン、赤チン、そういうのも一切ありません。病気が細菌によって起きるとか、食事(栄養失調)によって起きるという発想が、まずありませんでした。

 まず、ノミ、シラミ、ハエ、カは大量におりました。したがって伝染病の発生率は非常に高かったわけです。現地の「ハエ」などは、日本の小さな「ハエ」を想像してはまちがいです。指の先ほどのでかいキンバエ、アオバエが、ぶんぶか飛びまわり、口といわず目といわず、湿り気のあるところに、たかりまくり、はらってもはらっても追いすがってきます。しかも、夏には土ぼこりがたちのぼって、太陽光線とともに目を直射します。

 ですから、眼病や皮膚病にかかる人が、非常に多かったわけです。ヨルダン川のまわりでは、カによるマラリアが発生していました。
 井戸や用水路はありましたが、なにしろ石灰岩の土地ですから、やわらかめの岩とはいっても自由に掘ることはできません。水浴はしましたが、日本人が湯船につかるようなまねは不可能でした。たしかに当時としては、律法によって細かい衛生規定があって、ほかの民族よりは、ユダヤの民は清潔な生活をしていました。
 しかし、現代の基準でいえば、やはり不潔なことが多かったわけです。赤痢などもしばしば発生したようです。もちろん、それに順応して、耐性は現代人よりも、ずっとあったと思いますが。

 ですから、旧約バイブルの時代から、次のような病気が日常的にみられました。
「疥癬(かいせん)、脳卒中、結核、通風、発疹、腹膜炎、中風、水腫、痔、らい病、失明、難聴、婦人病」など50種以上がわかっています。

 考えても見てください。こういう病気にくわえ、虫歯ができて痛んでも、歯医者がいないのです。内科、外科、眼科、耳鼻科など、「専門医」がいない世界です。医者はいましたが、今日のようなりっぱな職業ではなく、むしろ卑しいインチキ商売の扱いを受けていました。これは、ユダヤに限らず、近代より前の世界では、どこでも全般的な傾向でした。つまり、呪術師や祈祷師が重宝された時代には、医者はうさんくさいものだったのです。

 今日、治療薬ができて不治の病でなくなった「ライ病(レプラ)」も、当時は非常に恐れられた病でした。これにかかると、特定の洞窟のようなところに置き去りされ、同じ患者どうしで死ぬまでそこで暮らさなければなりませんでした。

 具体的には、ライ病患者は、老若男女をとわず頭をそり、特別な服を着て、健常者とは離れたところで暮らしました。
 さらに、レプラ患者と健常者が、なにかの拍子に道で出会いそうになると、レプラ患者は離れたところから、「誓っていいます。誓っていいます。私はけがれた者です、けがれたものです。(近づかないでください!)」と大声で何度も警告を発しなければなりませんでした。「けがれたもの=神にのろわれた罰を受けたもの、悪霊に憑かれたもの、先祖の罪をかぶったもの」とされ、あわれまれるよりは、忌み嫌われる蔑視の対象ともなりました。

 まことに、当時のユダヤにおける「ライ病」患者は、かくも悲惨なものでした。
 身体障害や精神障害の人々も、村落共同体から締めだされ、墓場の横穴に住んだり、こじきになったりして、現代のような「生活保護」制度などあるわけもありませんから、短命で野垂れ死にするということもあったわけです。

 ですから、現在の「新共同訳」で、「ライ病」をすべて「重い皮膚病」と訳し変えた姿勢には、おおいに疑問を表明します。それほど悲惨だったライ病患者や、ほかの重病で苦しんだものたちを、イエスが治癒して助けたことの重要性と奇跡性が、薄らいでしまうからです。
 

聖書知識のしたたり3

 投稿者:あんそ君  投稿日:2004年10月25日(月)18時45分29秒
  >片桐さん

 ご質問をありがとうございます。どこをどう説明すればよいか、ご質問に応じて方向性が決めやすいので、引き続き、ご遠慮なく、さまざまなことをお問い合わせください。

<食べ物3>

 これまであげた穀物、植物は、ほとんどは人口の大半を占める農民によって栽培され、畑でつくられていたものと思っていただいて結構です。それらは、月のはじめや半ばに、日を定めてゆるされた広場で、「市場」の交易によって売買されていました。
 商業、交易の具体的な姿や職業のあらましについては、別項で後日に説明しますが、現在、中東の発展途上国でおこなわれている商業の原型は、すでにイエス在世当時(紀元前4年〜紀元後30年を想定しています)にできあがっていました。

 極端な貧富の差ができるほどに、商業・交易(金銀による貨幣経済)が発達していたわけで、決して原始的な社会ではありません。むしろ、先進国であったローマ帝国やギリシャ帝国の影響を受けて、厳しい税金の取立てもあり、富裕層を中心に、かなり活発な経済活動がおこなわれていました。税制についても後日、説明いたします。

 当時の農業は、現在もそうですが、3月と10月に大量の雨がまとめて降るほかは、平時は雨が降りませんので、麦やブドウやイチジク、ザクロ、アーモンドなどの乾燥に強い作物に適した栽培法でした。

 土壌は、ユダヤ全土が石灰岩の岩盤がむきだしがちですので非常に薄く、雨が来る前に地面をひっかくようにして、穀物の種をじかまきしました。それに関連して、イエスが「よき地にまかれた種」のたとえをしています。その言葉の前半に岩の上に落ちた種とか、イバラの中に落ちた種とか説明したのは、イスラエルの土地の中で、いかに荒れた岩地が多く、やせ地にはびこるイバラになやまされたかを意味します。

 ですから、小麦・大麦の種をまいても、そのすべてが発芽したのではなく、岩地にこぼれて枯れたり、道端にころがってカラスに食われたり、イバラに覆われてそだたなかった種も、畑にまくたびに何パーセントかはあったのでしょう。
 
 土壌の厚い「よき地」は貴重で、そういう農業に有利な土地は、たいてい金持ちが独占していて、小作農や農地をもたない労働者が、そこで安い賃金(1デナリ=日給の額)で働いていました。当時の「階級」とは、「財産の有無」を意味しており、律法では民の平等がうたわれていましたが、かならずしも「平等」が保障されていたとはいいがたい状況でした。
 

食物を獲る、農,漁、猟は?

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月25日(月)17時18分43秒
  >イエスの弟子達は、漁師でした。これは以外です。

こんにちわ。「あんそ」君、どうも昨夜は遅くまで、学習されておられたのですね。
本よりも、わかりやすくて興味が持てます(笑)入りやすい内容から、抜粋くださったのですね。2000年前とは、紀元前になりますか?

小麦の話は、良くお聞きします。童話にも出てきますよね。
弱者<強者、貧乏<富豪、現代人に通じるものですね。
農民が大半を占めていたと、理解してもいいですか?

そこには、まだ商いとか流通などは、出てこないのですね。

あんそ君どうもありがとうございました。わたしも、食物を見るだけでも、アジア人との比較することは、困難なことであると感じています。

現代の人にとっては、病気にならないからだをつくるために、食べる食物であるようにも思います。もちろんその当時には、現代人のような病気少なかったことでしょうね。
特に「生活習慣病」であるとか、その暮らし振りを創造することだけでも、楽しいです。

あんそ君これからもどうぞ宜しくお願いします。感謝しています。(礼)
 

聖書知識のしたたり2

 投稿者:あんそ君  投稿日:2004年10月25日(月)19時16分6秒
  <食物2>
 とにかく、食べ物は現代から見ればないないづくしです。
 南米から大航海時代に欧州に入った「とうもろこし」「トマト」「オレンジ(甘い)」「じゃがいも」は、当時のパレスチナにはありません。現在、イスラエルにみられる「ひまわり」「サボテン」「リュウゼツラン」「ユーカリ」、これらも大航海時代の後に入ってきたので、2000年前にはありませんでした。

 かんきつ類は苦くてすっぱい「シトロン」の類のみ。作物全般の「品種改良」技術が幼かったので、長い年月をかけてできた頑丈な品種のみが残りました。すもも、リンゴ、ナシ、なども果樹としてありましたが、これらは現代のような品種改良によって大きく甘くなったものを想像してはいけません。小さくてすっぱくて硬くて、現代では売り物にならないようなものに近かったと思ってください。
 ザクロ、アーモンド、くるみ、ピスタシオ、ナツメヤシ(現代のデーツ)も食べられましたが、これらは現代のものとあまり違わないようです。とくにザクロは大きくて特産品でした。ナツメヤシは、生のほか干して食べましたが、甘がきのようにおいしくて、当時は貴重な甘味料でもありました。それから、カエデの実なども貧しい人々の食物となったようです。
 ぶどうは、マスカットのような皮が厚いものが主で、皮が紫がかった長い粒の品種でした。もちろん、デラウェアとか種無しぶどうとかはありません。

 小麦は高級ではありましたが、中産階級以上では硬質小麦が良く食べられ、現代のように細かな粉ではなく、ひきわり小麦にして食べたとあります。大麦は貧乏人の食べ物といいましたが、馬、らば、ろばの飼料にもされていまして、価格は「小麦の半値」でした。

 野菜は「豆」も食べられ、「そら豆」「レンズ豆(2時間以上、水にひたさねばならない・うまいけど)」「ひよこ豆(5時間以上水にひたさないといけない・すごくうまいけど)」がありました。タマネギもありましたが、切れば涙が出てくる現代の大きなタマネギではなく、エシャロットに近いもので、甘くて生食できるらっきょうみたいな品種でした。

 あとはキュウリ、なす、トウガラシ、カボチャなどもありましたが、いずれも現代のように大きなものではありません。小さくて硬くてアクの強いものです。そえものとしてはチコリ、レタス(現代のより小さくて苦い)、クレソン、スベリヒユなども食べました。

 ガリラヤ湖の魚は、コイなどの魚類が豊富でしたが、おもにスズキ(ティラピア)の仲間の「ムシト」という魚が有名です。これは「ペテロの魚」と現代では呼ばれていて、今も現地で漁獲されています。ナマズもいっぱいいますが、ユダヤ人はもちろん食べませんでした(こっそり食ったのは別として)。
 この魚は、オスが卵を口の中で孵化させるので、子魚たちを追い出すために、口に湖底の小石をふくむことで有名です。それで、マタイ17章のような、イエスにいわれてペテロがひきあげた魚の口に、銀貨がくわえられていたことも事実だっただろうとわかるわけです。ちなみに、この魚、光るものも好きなのだそうです。(より詳細を知りたい方は、「ペテロの魚」で検索してみてください。たくさん出てきます)

 あとは「イナゴ(正しくはタビバッタで日本のイナゴよりでかい明白なバッタです)」も食べられましたが、これは一説によると、イナゴ(バッタの類)は800種類もいたそうです。洗礼者のヨハネは「野蜜とイナゴを食べた」とありますが、野蜜とは野生のミツバチの蜜か、花の蜜(旧約預言者たちは精進潔斎の最中、花を食べたという記述が、関連書にあります)、イナゴを食べていたのでしょう。イナゴはイナゴ豆のことではないかという説もありますが、800種類もいたのですから、ヨハネはイナゴ(バッタ)を食べていたにちがいありません。
 

聖書の乱読(ランダムピック)とは何か

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年10月25日(月)10時33分29秒
  簡単に言えば、行き当たりばったりの読み方です。几帳面な人には耐えられない聖書
の読み方のようですが、毎朝特にどこを読むか決めずに、全くのランダムピックです
から、何を読むかわかりません。散漫な読み方のように思えましょう。しかし、乱読
が散漫であるとは限りません。確かに不注意な人が乱読に走れば、整理整頓のできな
い聖書講読になってしまい、収拾がつかなくなってしまいます。しかも、自分がその
時に読んだ箇所がどこであったのかを覚えることもなく、読んで読みっぱなしという
のでは、聖書を読むという行為を行うことを目的として、理解が伴わない、もしくは
神の意思の流れが疎通しない聖書の読み方になります。しかし、そうではなく、既に
聖書を何度となく通読して、ある程度どこに何が書かれているかわかっていて、その
上で乱読という行為をあらかじめ認識して、自分がその日にどこの何の聖句が与えら
れたのか忘れずに記録をつけながら読む場合は、同じ乱読でも、その意味するところ
が全然違ってきます。つまり、自分がどこを読んだか(または読まされたか)を記録
した上で日毎に読み続けた聖句は、神によってある目的を持って与えられていること
を悟ることができると言うことです。もしあなたが聖書が神に与えられた霊感の書で
あることをお認めになるならば、そういう読み方も可能であることを信じて下さい。
 

ややっ、始まりましたね

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年10月25日(月)06時32分2秒
  あんそ君

もう、どうぞどうぞ、ご遠慮なくやって下さい。よろしくお願いします。
下手をすると、本職の牧師の聖書研究よりも面白くなりかねませんな。
 

聖書知識のしたたり1

 投稿者:あんそ君  投稿日:2004年10月25日(月)03時04分23秒
   こちらでははじめまして。「嵯峨野教会理事会掲示板」で、管理人さんのおゆるしを得ましたので、SDA教義以前に、小生がこれまで独学でまなんできた新約時代の知識などを、ここに書かせていただきます。

<新約聖書を読む前に>

 まず、基本的な時代背景として、2000年前のイスラエルだけでなく、古代社会には現代のような「人権思想」はありません。「民主主義」も「普通選挙」も「党」も右翼も左翼もありません。「自由」も「平等」もありません。弱者救済のための公的機関などもまったくないに等しく、ごく少数の貴族富裕層と大多数の貧民・農民たちで人口のほとんどが占められていました。

「基本的人権」など皆無の、文字通り、弱肉強食といってよい世界です。不平等・不公平・差別が「当たり前」で、言論の自由とか表現の自由などあるわけもなく、「力」と「しきたり」が、圧倒的な「秩序」となっていた世界です。

旧約バイブルの「十戒」などの律法により、古代イスラエルの法は整備されてはいましたが、それが形式化してムダに細分化され、パリサイ人らの「権威」の道具のようになっていて、その本来の意義や目的が機能しなくなっていたので、弱者の救済には役に立たなかったようです。

<食物はどうだったか>

 もちろん、文明的にも、電気・ガス・水道、ありません。冷蔵庫、ありません。食べ物も種類は限られ、塩は高く、砂糖などもありません。魚や肉も高価で、貧しい庶民はめったにたべられず、中東地方の庶民の主食は「大麦」が主で「小麦」は高価で上級の食べ物でした。

「大麦は貧乏人の食べ物」「小麦は金持ちの食べ物」ということを、まず覚えておいてください。これは近代にいたるまでヨーロッパなどでも通用した事柄です。

 また、イエスの弟子たちは、ガリラヤ湖の「漁師」でしたが、当時、ガリラヤ湖で獲れる魚は、干し魚にしてローマに輸出する高級な食べ物でしたので、人を使って網を打っていたペテロやアンデレやヨハネたちは、中産階級以上の経済的に恵まれた「網元」クラスでした。

 庶民の食事は、大麦のパン(酵母をいれないパイ生地みたいなもの)と、ヤギ乳のチーズ(今の硬いチーズではなく、バターよりヨーグルトに近いやわらかいもの。むっちゃ臭い)、オリーブの実の漬物、水、動物の乳、安いぶどう酒(水で割って飲む)、季節によってはブドウやイチジクなどが加わる「常食」でした。質素というより、貧乏です。貴族や王族は、もっといい肉や魚や柔らかいパンなどを食べていたようですが、庶民の衣食住は、それこそ貧弱なものだったとわかります。
 

聖書のテーマ読みとは何か

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年10月22日(金)11時49分46秒
  聖書を読むのに、たとえば「愛」についてとか、「終末論」とか、テーマを任意に決め
て、聖書コンコルダンスでそのジャンルに該当する聖句を読んでゆくという読み方です。
これをすると、その一つのテーマについて、聖書の中での方向性がわかります。ただし
コンコルダンスでジャンルに分けた人の判断に従って聖句が画一的に分類される訳では
ありませんから、その点は注意が必要です。大きな流れを掴むにはいいという方法です
が、個々の聖句の真意を吟味しないで大急ぎで結論に持ち込もうとする傾向に悪用され
ることもあるので要注意です。そういう欠点があることを認識した上で、関連聖句を追
跡するのは聖書を読むのに有効な手がかりを提供してくれます。ですから、この読み方
は全然聖書を読んだことの無い初心者か、または、既に聖書は読んでいて、改めて特定
のテーマを聖書から探査研究するリサーチの手法として考えるのがよいでしょう。じっ
くり読んで神から啓示を頂く時の読み方とは少し違うのです。あくまでも、知りたいテ
ーマを設定するのは読者です。聖書から何をどの程度知りたいのかという知識の要求レ
ベルによっても読み方が読者の人間のサイドから決められてしまいます。それでも悪い
というわけではありませんが、そのように言えば、この読み方の限界もおのずと理解で
きると思います。しかし、人間の側で自由に関心のあるテーマを決めて、聖書の言葉の
藪の中にはいっても、求めるなら必ずそこに何かが見出せるというのが、聖書の不思議
なところです。そういう意味では、テーマを決めて読むといっても、世界史や物理の参
考書を試験の前の復習の為に読むのとは異なり、読んでそこに何が啓示されているのか、
必ずしも読者は事前にわかっているわけではないという点において、人間の側のテーマ
読みも、実はランダム読みと大きくは違わないのかもしれません。コンコルダンスで聖
句を便宜上分類した人も必ずしも、すべての聖句を満遍なく網羅しているとは限りませ
ん。結局最後には自分でテーマ分類するしかないのです。
 

大丈夫です

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年10月22日(金)06時09分33秒
  片桐礼夏様、ご返信をどうもありがとうございます。
幸いにしてこちらは台風の影響は、ほとんどありませんでした。
ただ、日本のあちこちに甚大な被害が出ています。
被害にあわれた方々へのご回復をお祈りします。

良き出会いが与えられて本当に良かったですね。
是非共に色々な事を学んでいきたいですね。
どうぞよろしくお願いします(*^^)
 

台風の影響はないですか

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月21日(木)09時06分58秒
  弱き者さま、初めまして。
わたしも弱いものです。
長谷川先生の掲示板を訪れるようになり、心がやすらいでいます。

不思議な先生と表現したら、失礼ですが傷を負ったものをベールのような
何かオーラを私自身感じています。

わたしは、「黙示録」にも今大変興味を持ちながら、並行して学んでいます。
地球温暖化と、異常気象、地震に至る、地球上のすべてのものが、今病んでいるように思われています。
最期の晩餐には、まだ時期早々でしょうが、すこしづつ受け容れて行きます。
こちらこそ、弱き者さま、どうぞ宜しくお願い申します。
 

ようこそ

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年10月20日(水)18時37分42秒
  片桐礼夏さま、初めまして。
SDA嵯峨野教会でお世話になっている、弱き者と申します。
私自身も、この場所で色々と学ばせていただいています。
今後とも良きお交わりが出来ます事を願っています。
取り急ぎご挨拶まで。

どうぞよろしくお願いします(*^^)
 

はじめまして

 投稿者:片桐 礼夏  投稿日:2004年10月19日(火)16時31分49秒
  嵯峨野教会牧師さま。

はじめまして。
長谷川先生に、導かれて参りました。
よろしくお願いします。
先生は普段は、日本在住ではないのですね。
少し過去の内容を拝読させていただきました。

旧約聖書と新約聖書の読み方を、学びたいと思っています。
わたしの環境では、新約聖書を基本に学ぶように教えられています。
最期の7日間に到達出来ません。「ノアの洪水」で止まっています。
咀嚼しながらの、読み方なので、一日数ページですが、皆さんはもう何回も読破されておられるのですね。
尊敬します。
 

聖書通読とは何か

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 9月22日(水)19時31分45秒
  聖書通読というのは皆さんなんだろうと思われますか。聖書を何回通読したかという回数を競う人もありますがとにかく短時間に全部よんでしまうという読み方が聖書通読のすべてと言うわけではありません。一回に読む分量を決めて(3,4章程度)、すこしづつ読んで咀嚼しながら一定期間でおわるという方式が普通の意味の聖書通読です。しかも、ユダヤのシナゴーグではそうやって一年かけてトーラー(モーセ五書)とハフトラ(預言書)を会衆で定期的に朗読で読み切り、そのサイクルを基本的に繰り返します。イエスが会堂に入って、イザヤの61章を朗読した聖書記事がありますが、これはシナゴーグでハフトラを朗読した時のエピソードだったわけです。

この形態の聖書朗読の霊的インパクトは教会では不当に過小評価されているのではないかと思います。
 

さて

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 8月12日(木)10時27分24秒
  そろそろ、こちらも動き始めましょう。  

宿題を考えていて下さっていますか

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 7月 1日(木)19時32分49秒
  >そこで、宿題です(宿題の答えをここに書く必要はありません。各自考えてください)
>聖書にはいろいろな「読み方があります」
>・通読
>・テーマ読み
>・乱読(ランダムピック)
>・日毎のスケジュールに従って読む

>これらの読み方にはそれぞれどういう意義があるのか考えてください。
>次に、聖書を読んでいてわからないところに出合ったらどうしたらいいか
>次の中からさまざまな状況を考えて見てください。
> ・他の教会員に聞く
> ・印照つき聖書で類似聖句をさがしてみる
> ・SDAコメンタリーでEGWが何といっているのか探す
> ・神学書や専門の釈義事典、難解聖句の講解書を求めてしらべる
> ・偉い先生に電話やEメールをして尋ねる
> ・どうしてその日その聖句を読んだのか考える
> ・神に祈って、わかるように願い求める
> ・放置する

じっくり考えて下さい。来週は日本に行きますので、宿題の答えはその後になりますが。
 

いろいろな答え方

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 6月25日(金)09時51分18秒
   >聖書の訳は完全な訳はない。だとしたら口語訳でも新共同訳でも同じはずだ。
 >と言われた時、どのように答えたら良いのでしょうか

これには、初級、中級、上級の答え方があると思います。

(初級)「あなたのおっしゃる通りです」
聖書を余り読んで理解していないのに、教会組織の手前、特定の訳を宣伝しているの
に過ぎない人の場合は、これくらいの答えをして自尊心を傷つけないでおけば、まだ
あとで考えが変化成長する余地がありますからいいでしょう。やや姑息な答え方では
ないかという批判は承知で(笑)一応紹介します。

(中級)「あなたの質問を、ご自分で、『口語訳でも新共同訳でもカトリックのフ
ランシスコ訳でも、ものみの塔の聖書でも同じはずだ』と言い換えてごらんなさい。
そうすれば、ご自分の質問の問題点がわかると思います。」
これは、聖書の教えの第一義的な意味がまず正しく伝わらなければ、聖書を通して
神の霊が働かれないことを質問者に指摘することを目的とした答え方です。

(上級)「聖書の原典のギリシャ語やへブル語の文ですら、必ずしも文章自体が
修辞学上完全無欠の文とは限りません。それは神がある意図を持って与えられた文
であって、人が見てそれを校正したり改訂することが許されている性質の文章で
はないのです。」
この答え方は、相手が文字にされた神の言葉を読んで、聖霊の働きがあることを
感じたり、信じることが出来る人に対して有効です。
 

聖書の訳

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 6月24日(木)14時44分38秒
  聖書の訳は完全な訳はない。だとしたら口語訳でも新共同訳でも同じはずだ。

と言われた時、どのように答えたら良いのでしょうか。
 

切り込みを入れます

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 6月19日(土)05時55分39秒
  聖書の言葉はまず自分勝手に解釈するべきではないと言われているのはその通りです。
下の定理の(5)にありますように、聖書の記述は過去に起こった事実の記載、キリ
ストの贖罪のテーマという第一義的意味を伝達するからです。これを勝手にやると、
教会の教理が、ものみの塔、モルモン、統一原理教会のような奇態なものになってし
まいます。そうなることを防ぐために、聖書の釈義学、解釈学が発達し、その成果に
基づいて、いわゆる「組織神学」が出来、また合意された教理として、ウェストミン
スター信仰告白がなされました。これは聖書の第一義的意味の逸脱解釈を防ぐために
張られた聖書信仰規範の防衛線ですが、これはあくまでも聖書の言葉の第一義的意味
を確保するための基本的合意です。言い換えるなら、これすらも、聖書信仰の初歩の
レベルであるということです。聖書の第一義的意味を正しく理解することは大切です
し、実際、キリストの贖罪、律法、安息日、福音などはこのレベルから与えられて、
われわれは受け入れるのですから、決しておろそかにはできません。問題は、そのレ
ベルにとどまって満足している人が余りにも多いということであり、その限りでは、
日毎聖書から言葉を戴いてどうしたらいいか神の言葉から教えてもらったり、異言や
預言を語るレベルには上がれないということです。
 

前置きとしての聖書のたとえ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 6月19日(土)05時54分22秒
  さて、みなさん! 
電源コードもバッテリーも要らないラップトップコンピュータを使って下さい。
なんと、此れにはフロッピーもハードドライブも、キーボードもありません。
全く旧来のコンピュータのコンセプトを刷新するものです。これは、一種の
「インターネット」も使えますが、電話線や光ファイバーケーブルの敷設の必
要が一切ありません。いつでもどこでも使えます。ただ、そのコンピュータの
作動原理は使用者が必ずしもすべてを理解しているわけではありませんが、そ
れは普通のパソコンのユーザーですら、パソコン内部のCPUに刻まれている
数百万行に及ぶプロトコルを理解していなくても使えるのと同じことなので大
きな問題ではないでしょう。

そのラップトップとは、「聖書」のことです。
そう言うとみなさんは納得して下さいますか?
 

聖書の定理

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 6月19日(土)05時52分30秒
  まず、聖書について次の事実を理解する必要があります。

(1)聖書の言葉は生きている。よって聖書も生きている。生きているという意味は
   聖書そのものが意思を持っているというのではなく、聖書の言葉そのものが神の
   言葉であるから、その鍵を開けるなら、それがダイナミックに動いているのを
   見ることが出来るものだということ。

(2)聖書の言葉は真実であり、預言されたことは必ず成就する

(3)聖書の象徴は起こるべき事実を反映する。存在しない事実を象徴する事はない。

(4)聖書を通して語られる指示があるなら、従順に従わなければならない。
   日毎の聖書のみ言葉に従順に従うか、聖書を人生観の参考程度に読むだけにしているかで
   成長するクリスチャンと赤子のままのクリスチャンが分かれる

(5)聖書の記述は過去に起こった事実の記載、キリストの贖罪のテーマという第一義
   的意味を伝達する。第二義的に、神の霊は聖書の言葉を用いて、時に応じて現代
   のあなたの日毎のアドバイスを行われる。
 

聖書の使い方

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 6月19日(土)05時51分59秒
  聖書は神の言葉であり、生きた力です。これから神の約束と力を得ることが出来るか
どうかはひとえに個々の読者にかかっております。そもそも、神学校で組織神学や厳
密な聖書釈義を教えているような人が信仰の霊に満たされているかといえば、必ずし
もそうではないのは皆さんもよく経験しているところであると思いますが、これは、
聖書の使い方の意義が教会の中でも上から下まで正しく教えられていないところに原
因があると考えています。

そこで、宿題です(宿題の答えをここに書く必要はありません。各自考えてください)
聖書にはいろいろな「読み方があります」
・通読
・テーマ読み
・乱読(ランダムピック)
・日毎のスケジュールに従って読む

これらの読み方にはそれぞれどういう意義があるのか考えてください。
次に、聖書を読んでいてわからないところに出合ったらどうしたらいいか
次の中からさまざまな状況を考えて見てください。
 ・他の教会員に聞く
 ・印照つき聖書で類似聖句をさがしてみる
 ・SDAコメンタリーでEGWが何といっているのか探す
 ・神学書や専門の釈義事典、難解聖句の講解書を求めてしらべる
 ・偉い先生に電話やEメールをして尋ねる
 ・どうしてその日その聖句を読んだのか考える
 ・神に祈って、わかるように願い求める
 ・放置する

 

何かありますか

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 6月 9日(水)11時56分9秒
  第六課のところで何か考えるところは、どなたか、ございますか。  

次に進みませんか

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月20日(木)20時07分42秒
  聖書研究クラッシュコースのアウトラインに従って進んでみませんか。
http://member.nifty.ne.jp/GingaNet/justindex.html

この2月から、キリストを殺したのは誰かという話になって、その結果
セクエイラの第五課は事実上消化したものとみなし、次の第六課に進ん
で行きたいと思います。下のリンクをクリックして第六課をご覧下さい。

http://member.nifty.ne.jp/GingaNet/b06.html

 

簡単なことですよ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月17日(月)10時32分38秒
   >信仰って何なんだろう。

生ける神を信じて生きることです。人や教会は甚だしく人を裏切ることがありますが
神は必ず言ったことを果たされます。それを信じて生きることが信仰の生活です。
某神学校の人は「信仰とは疑いがあるから存在する」などと教えているようですが、
それは信仰ではなく、「世渡りの知恵」といいます。耳を傾ける価値のない言葉に惑
わされず、神を信じて歩んでください。
 

暗いと不平を言うよりは

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 5月17日(月)07時42分13秒
  “暗いと不平を言うよりは、進んで明かりをつけましょう”という言葉が、心のともし火というテレビ放送のスローガンだったように思います。確か、カトリック系の番組だったかな・・・。

最近、思い悩む事があります。
それは、信仰とは何なのかという事です。
“信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。”(ヘブル人への手紙11:1)
と、ありますが。

信仰って何なんだろう。
 

おしらせ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月17日(月)07時14分29秒
  聖書研究室に照明を取り付けました。  

同じものです

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月16日(日)20時41分22秒
  弱き者さま

記載内容からして同じものです。翻訳の過程で異なる字があてがわれたものと見られる末節的な違いでしょう。よって気にすることはありません。
 

気になる事

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 5月16日(日)07時39分42秒
  出エジプト記25:38の“芯切りばさみ”と、列王紀上7:15の“心切りばさみ”は、同じものですか?

“芯”と“心”が違うのですが、これは誤字ですか?
 

エステル記といえば

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月15日(土)07時51分50秒
  ユダヤ人を木に掛けて殺すはずだったハマンが自ら木に掛けられた故事を思い出し
ます。私もロマリンダで悪い学長に木に架けられそうになりましたが、架けようと
した者は自ら架けられて社会から葬られました。苦しかったものの、懐かしい勝利
の思い出です。これによっても神は今でも生きておられることを感じます。

http://member.nifty.ne.jp/GingaNet/zao.html

 

深いです

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 5月15日(土)06時07分1秒
  改宗してイスラエルの神を受け入れた事を、“ユダヤ人となった”という言い方をする事に新鮮さを感じました。主にある家族になったという事が、“ユダヤ人となった”という表現で表される事は素晴らしいです。この一節にも、真のユダヤ人は血筋では無く、信仰によるという意味が表されているのでしょうか。

余談ですが、先に嵯峨野教会理事会の方で学びました“信仰のイスラエル”という言葉のテーマは、聖書中に散りばめられているのですね。ローマ人への手紙2:28,2:29の聖句からそう感じました。旧約のイスラエルと神様との関係が分かり始めると、新約聖書と旧約聖書が線でつながり、目が開けることがある事を学び始めています。

ルツ記を前に読みましたが、ルツも改宗者だったという事にまで気付きませんでした。プロセライトであるルツから、ダビデが生まれた事に神の摂理の深さを感じます。
 

エステル記8:17について

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月14日(金)10時17分31秒
  弱き者さま

これは、ペルシャ帝国の住人の中にイスラエルの神を畏れて、信じるようになった
「改宗者」が発生したということです。イスラエルの十部族が失われた後、ユダと
ベニヤミンだけになってしまっていた所にこうした人が現れて加わったという事で
す。ちなみに、こうした「改宗者」のことをプロセライトと言います。ルツもこの
プロセライトです。
 

質問です

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 5月14日(金)09時33分48秒
  嵯峨野教会牧師様、エステル記8:17で、「そしてこの国の民のうち多くの者がユダヤ人となった。」という言葉は、どのような意味ですか。  

こんなにも!

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 5月13日(木)21時39分47秒
  ヨブ記13:15,16の聖句は、何と力強い事でしょうか。
その力強さに心を打たれました。

普段は何気なく読み過ごしている箇所でも、改めて紹介されてみるとその言葉の力強さを再発見したり、深い意味を気付かせていただいたりします。

それにしても、何と力強い聖句なんでしょうか。
これが主にある強さを頂いた信仰者の発言なのでしょうね。きっと。
信仰を持たない人間本来の弱さを抱えたままでは、このような言葉はでません。
 

こんな聖句もありますよ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月13日(木)10時57分8秒
  ヨブ記13章1516節
見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。
しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。
これこそわたしの救となる。神を信じない者は、神の
前に出ることができないからだ。


   
 

暗誦聖句のキング

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月13日(木)10時53分31秒
  ヨハネの第一の手紙4:10
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、
わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしに
なった。


イザヤ 53:4
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめら
れたのだと。」

イザヤ 53:10
「しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が
自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その
命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。」



これは必須級の暗誦聖句です。みなさん各自絶対に覚えてくださいね。
 

旧約であれば

 投稿者:ヤスダ  投稿日:2004年 5月12日(水)01時37分24秒
  イザヤ53章が旧約・新約通して最も言い表していると思います。
そのままのことが書かれています。

イザヤ 53:4
「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめら
れたのだと。」
イザヤ 53:10
「しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が
自分を、とがの供え物となすとき、その子孫を見ることができ、その
命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。」
 

GOOD

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月11日(火)08時13分24秒
  もっとお願いします。旧約にもあります。  

該当聖句

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 5月11日(火)07時14分5秒
  ご質問に該当する聖句は、‘わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。’(ヨハネの第一の手紙4:10)でしょうか。
 

最後にその4はどうですか

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月11日(火)16時33分2秒
  早いもので、最初の質問をしたのは下のように2月24日で、もうすぐ三ヶ月
目になろうとしています。

>さらに突っ込みましょう 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日: 2月24日(火)15時16分40秒

>  イエス・キリストを殺したのは誰なのでしょうか。
>  次の中から選んでください
>    1 あなた
>    2 サタン
>    3 ユダヤ人、パリサイ人
>    4 神

>という質問があったとして、答えが1,2,3のいずれでもない理由をはっきり
>答えることができますか? また答えが4である聖書的理由も提示する事が出来
>ますか?


これまでの所、1,2,3とやって来て、最後の4が残っています。
既に2月25日に弱き者さんが簡単に答えてくださっていますが、
せっかくなので、4をもう少し深く考えてみたいと思います。

キリストを十字架にかけて死なせたのは神ご自身であるという事実を
サポートする聖句を探してみてください。
 

そうですね

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月10日(月)09時37分24秒
  >SDAこそが残りの民という考え(極端だとイスラエルを無視してい
>ることにもなりかねませんが)も、イスラエルの歴史・現状(まだ
>わからないことだらけですが)を見てこそ、そのとおりだと実感が
>わくようになっています。

イスラエルの契約を忘れて、SDAだけが最後の残りの教会だと主張するのは
一面滑稽ですが、実は、非常に危険なことでもあります。イスラエルあっての
SDAであるという認識を持つことが非常に重要な理由がここにあります。
 

感謝

 投稿者:ヤスダ  投稿日:2004年 5月 9日(日)15時19分34秒
  ご回答ありがとうございます。

思えばこの掲示板と出会って以来、私自身のイスラエルに関する
認識がかなりかわりました。
今までもイスラエルがこの時代においても重要であるとは思って
はいましたが、今は我々とイスラエルの関連性・一致性を考える
ようになり、それを基軸に歴史や今起こっている問題を扱うよう
にしています。

SDAこそが残りの民という考え(極端だとイスラエルを無視してい
ることにもなりかねませんが)も、イスラエルの歴史・現状(まだ
わからないことだらけですが)を見てこそ、そのとおりだと実感が
わくようになっています。

今後もよろしくお願いします。
 

このように考えるとよいでしょう

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月 6日(木)11時21分9秒
  >出エジプト 34:7
>「いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす
>者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報
>い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」

これもまた、あくまでも個人に対する祝福と罰について言及しているのです。その
証拠にこの言葉が語られた対象はイスラエルの全会衆でした。ですからイスラエル
の会衆の中に、神に従って祝福される者と、悪を行って呪われるものがいることを
言っているだけに過ぎません。イスラエル民族も、悪を行って絶滅した者があり、
祝福を受けて生きながらえている者があるということです。キリストを拒んで罪を
犯したユダヤ人は滅ぼされ、おっしゃるように第二神殿も破壊されましたが、わず
かに残ったユダヤ人がイスラエルの宗教と安息日を継承しました。彼らはその後試
練にあい迫害されましたが祝福もされて2千年の歳月を生きてきました。今、神は
そのユダヤ人をどのようにであるかはまだはっきりわかりませんが用いられようと
しています。

メシアを拒んだのは背信した結果です。背信してその悪の実を結んだ人々はその結
果としての罰を受けます。その背信が大規模であったので、ユダヤ人が結果的に大
規模な呪いを受けたという面はありますが、だからといってイスラエルの契約が否
定されたという根拠にはなっていないという事です。


 

イスラエルの歴史から見ると…

 投稿者:ヤスダ  投稿日:2004年 5月 5日(水)19時10分31秒
  はい。質問があります。

確かに個人の罪はその罪を犯した個人に帰するものです。
ですが、一方では下記のようにも述べられています。

出エジプト 34:7
「いつくしみを千代までも施し、悪と、とがと、罪とをゆるす
者、しかし、罰すべき者をば決してゆるさず、父の罪を子に報
い、子の子に報いて、三、四代におよぼす者」

イスラエルの歴史を見ると、民族として主に背いた時に、国が滅ぼされ、
民族が主にたち帰った時に、国が復興されています。

主イエスを十字架にかけたということは、神を再び神を公に拒んだとい
うことであり、だからこそ、その後のエルサレム滅亡へと突き進んでし
まったのではないのでしょうか。

それとも、十字架につけたことと、神に背いたこととはちがうことなの
でしょうか?

少し私の理解が混乱していますので、教えていただきたいです。
よろしくおねがいします。
 

契約の摂理がかかっています

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月 1日(土)22時38分29秒
   >キリストを十字架にかけた血の責任は、あくまでも個人に問われるべきであって、
 >民族全体には及ばないという理解に基づいて、その3が否定されるという理解で
 >よろしいでしょうか。

それでよろしいと思います。一部の不義な家族構成メンバーのために、アブラハム、イ
サク、ヤコブに与えられた約束が無効になると考えるべきではないということです。神
の摂理はそんなに浅くはないということです。
 

さて

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 5月 1日(土)22時33分57秒
  これまでの所の話でなにかご質問、ご異議はございませんか。  

血の責任

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 4月30日(金)07時42分48秒
  >「その血の責任を負ってもよい」といっ
>たのは、そこにいた人々の個々の問題であって、民族全体がその名義で流血
>の責任を負ったのではないのです。それはおわかりになりますか。

分かります。
キリストを十字架にかけた血の責任は、実際にキリストを十字架にかけた当時のユダヤ人に求められるのでしょうか。

個人が犯した罪(キリストを十字架にかけたという)によって、ユダヤの民全体がその血の責任を負わないという事ですね。

私は、キリストを実際に十字架にかけた罪は、実際に十字架につけたユダヤ人だけでなく、全ユダヤ人に及ぶのかと思っておりました。

キリストを十字架にかけたのが、神であるとしても、実際に十字架につけた当時のユダヤ人個人の血の責任は、その個人にのみ問われるという事でしょうか。

よって、ユダヤ人(全体)がキリストを十字架にかけて殺したのではないという事になりますか。

キリストを十字架にかけた血の責任は、あくまでも個人に問われるべきであって、民族全体には及ばないという理解に基づいて、その3が否定されるという理解でよろしいでしょうか。
 

「教会」が根無し草にならないように

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 4月30日(金)06時26分29秒
   >キリストを十字架にかけたのが神以外と考えた場合、
 >それは神を引き下ろす事になりますか。

さあどうでしょうね。質問の意味がよくわかりませんが、純粋に論理学的に
考えればそうはならないと思います。
聖書的に考えるなら、十字架に付けた当事者はユダヤ民族の構成者であった
ものの、イエスを受け入れたユダヤ人もいたのですから、ユダヤ人に対して
集団責任を問うことは出来ません。「その血の責任を負ってもよい」といっ
たのは、そこにいた人々の個々の問題であって、民族全体がその名義で流血
の責任を負ったのではないのです。それはおわかりになりますか。

先の問題に帰りますと、神に選ばれた「イスラエル」がキリストを十字架に
付けたという認識であると、「教会」もまた同じ事をする伏線を提供してし
まいます。イスラエルとは何か、教会とは何かということを、しっかり聖書
から定義していないと、神の民などというのは根無し草のコンセプトになっ
てしまうのは、そういう理由によります。
 

キリストの十字架

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 4月29日(木)13時56分3秒
  キリストを十字架にかけたのが神以外と考えた場合、それは神を引き下ろす事になりますか。  

その3の本質

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 4月29日(木)08時06分26秒
  キリストを十字架に付けたのはユダヤ人(or イスラエル)であると主張することは、
教会成立の基盤を自損するものです。
 

その3の理由

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 4月28日(水)08時11分58秒
  その3の理由を直接述べられないのですが、キリストを十字架にかけたのが神である事は、ヨハネによる福音書3:16“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。”によって明らかであると思います。

神ご自身が、人が犯した罪の代償である死という代価を神のひとり子なるイエス・キリストによってお支払いになられたのです。よって、キリストを十字架にかけたのは神ご自身です。

キリストを十字架にかけたのが神ご自身である事が聖句から明らかなので、キリストを十字架にかけたのが、私でも、サタンでも、ユダヤ人・パリサイ人でも無い事が明らかになるかと思います。

・・・いかがでしょうか。
 

ところで

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 3月28日(日)07時10分18秒
  「その3」どうですか?  

パズルのよう

 投稿者:ヤスダ  投稿日:2004年 3月11日(木)02時00分10秒
  牧師さんへ

ヘブル 6:6とヨハネ第一の手紙5:16を結びつけて考えたのは
初めてです。そのおかげで両聖句の理解がぐっと深まった気が
します。ありがとうございました。
 

はい

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 3月 5日(金)09時54分33秒
  ヤスダさま

それは面白い問題を見つけられましたね。
ヘブル人への手紙には、(6:4−6)

いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、
また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。


と書いてあります。しかし、その神のよきみ言葉と、力を味わった者達がみずから
キリストを十字架につけたとは言っていません。彼らは、既にキリストの犠牲が無
償で提供されていたのです。しかし、キリストの命の犠牲を無償で提供されて一旦
はそれを受け入れておきながら、あとで拒むと言う行為が、キリストの犠牲を足蹴
にする冒涜とされ、それが事実上自ら行ってキリストを十字架に付けて殺してくる
のと同じであると言っているものと理解されるのではないでしょうか。

これと似たような聖句がヨハネ第一の手紙5:16にありますが、是はどうでしょうか。

もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。

そもそも厳密に言えば死に至らない罪はありません。しかしどんな罪でも基本的に
キリストの十字架の犠牲によってあがなわれることが可能です。唯一の例外は、
キリストの犠牲を一時は受け入れながら、後で拒絶しないがしろにし、あざわらう
事です。これについてはもうダメだと言っているのです。
 

その3の前に

 投稿者:ヤスダ  投稿日:2004年 3月 5日(金)01時52分53秒
  ぶり返して申し訳ありませんが、気になっていた聖句を
思い出したのでお尋ねします。

「我々が心無い罪を犯すたびにそれはキリストの手にコツコツと
(←ジェスチャーを交えて)釘を打ち込んでいるのだ」
という考えは、

ヘブル 6:6 「そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、
自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふた
たび悔改めにたち帰ることは不可能である」

という聖句が元になっているのではないですか?
「堕落」と書いてありますが、「罪を犯す」とは違うことなので
しょうか?
 

さて、

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 3月 4日(木)07時04分53秒
  「その3」はいかがでしょうか。  

順番に考えましょう その2

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 3月 2日(火)21時41分18秒
  次に、どうして(2 サタン)ではないのかを考えましょう。
ヨハネ8:44には、サタンは初めから人殺しであると書いています。ですから、何でも殺すこと自体はサタンの得意とする所です。キリストがパリサイ人に捕縛されてピラトの邸宅に連れて行かれた時も、サタンは大衆を煽動して「殺せ、十字架につけろ」と喚かせました。しかし以上のような理由をもってキリストを殺したのはサタンだとすると聖書解釈に矛盾が生じます。たとえば統一教会の人は、キリストが十字架にかかったのは大失敗であり、本当は生きてマグダラのマリアあたりと結婚して子をもうけ、神の王国を作るはずだったのだなどというしょうもない駄法螺を教えています。キリストはサタンに殺されるほど愚かだったのか(だから文鮮明先生がその後始末に来られたと言っているのが愚かな統一原理教会ですが【失笑】、それはどっか横に放り投げておくとして)、だとすれば殺される必要はなかったのだ、という論理になってしまいます。

サタンは既に何度もキリスト殺しを試みましたが(ヘロデをそそのかして嬰児殺しをさせたり、塔から飛び降りてみるよう試みたり、スパイに暗殺をさせようとしたりなど)いずれも成功しませんでした。サタンははじめから罠を用意してメシアを謀ろうとしたものの全く彼らの計画は役に立たず、それどころか逆に結果的に神のご計画の成就を助ける事にしかなりませんでした。彼らは口を開いて待っていた頭の悪い檻のライオンのようなもので、自分からイエスを害することは全く出来なかったのです。ですから、キリストの十字架はイエス自らサタンの手に落ちて犠牲となったのであり、決してサタンのイエス殺害の努力が実を結んで、キリストに対して勝利を得たと言うものでも、そういう状況でも全くありませんでした。そもそも、キリストが我々に生ける血と肉を食しなさいと言われたのが、サタンの悪行の成果を慙愧を以って味わうことではなく、キリストが自発的に捧げられた犠牲を受けると言う本旨に立ち戻るなら、サタンがキリストを殺して人間の代わりに犠牲を捧げたとして、人類の救いに対するサタンの貢献を評価する余地を作ってしまうのは正しくありません。それでは聖書の趣旨を倒錯解釈してしまいます。ですから、あくまでも悪魔は使い走りに使われた脇役・大根役者に過ぎなかったのだと考えるべきです。

あと、どうしてサタンがすぐ滅ぼされなかったか、ですが、それはサタンを滅ぼすよりも前に、人類の罪をあがなう方が先だったからです。そして、その場面に罪そのものを産み出したサタンがいて、裁きの前に一部始終を見届けさせなければならなかったのです。
 

神との交わり インターネット版登場!

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 2月29日(日)07時22分11秒
  とりあえず、スペースの関係上やむを得ず下のリンクに入れておきますが
ゆくゆく整理統合されて別スペースに移動される事になるかもしれません。

これを読んで霊的な覚醒が起こったことを覚えて欲しいと思います。今の
教団の出版物からは想像も出来ないものが、ちょっと前まではこうして、
世に送り出されていたのです。

お誘いあわせの上、ご覧下さい。
ちなみにこれは私の家内がタイプしました。(感謝)

http://www.geocities.co.jp/HeartLand/9101/communion-j.htm

 

その2の予想

 投稿者:ヤスダ  投稿日:2004年 2月28日(土)01時08分4秒
  サタンがすぐに滅ぼされなかったのは、全世界(全天といまだ謎の
他世界)に神の統治の正しさ、そしてその基準である律法が善であ
ることを示す為だったんですよね。
つまりその統治が正しいということを表す為に、神の愛によって
人間の罪を贖う必要があったということでしょうか。
 

まんづまんづ

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 2月27日(金)14時56分12秒
  アメリカではこの映画が残酷すぎて見ていた老女が映画館でショックの心臓麻痺で死亡
したとかニュースで言ってました。大衆の興味本位が先に立って、あまり清い動機で作
られた映画ではなさそうです。それはそうと、まもなく「その2」を書きましょうか。
それとも、どなたか「その2」を書いてみませんか。
 

そうです

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 2月26日(木)21時25分18秒
  嵯峨野教会牧師様、そうです。
私が考えるきっかけになったテレビの放送にあったニュースは、
嵯峨野教会牧師様がご紹介してくださった以下の記事です。

福音を再確認する機会は、世の中の様々な場所に散りばめられているなと感じています。
 

ああ、これのことでしたか

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 2月26日(木)12時22分3秒
  >キリストを殺したのは誰? 「キリストの受難」米で公開
>------------------------------------------------------------------------
>キリストが十字架刑に処される最期の12時間を描き、全米で宗教論争を巻き起
>こしている映画「ザ・パッション・オブ・ザ・クライスト(キリストの受難)」
>が25日、米国内約2800の映画館で公開された。多くの映画館が観客で埋ま
>ったが、キリスト処刑の責任がユダヤ人にあるとして描かれた内容に反発する抗
>議行動も起きた。
>公開前から米メディアは、「キリストを殺したのは誰か」という根深い論争への
>新たな火種として、過熱気味の報道を展開。映画を見たローマ法王ヨハネ・パウ
>ロ2世が「きわめて正確」と語ったと伝えられ、論争に拍車をかけた。24日付
>ロサンゼルス・タイムズ紙は、「米国民を分断する」と警告する映画評を、異例
>の1面で掲載した。 (朝日新聞)


見てないので何ともいえませんが、カトリックに媚を売る教団の指導者が絶賛しそうで
ちょっと気になりますね。いずれにしても、当聖書研究室でしっかり学んでいる人は、
こんな映画ごときで扇動されたり動揺したりしなくなるはずです。教会の他の皆さんに
もこれを機会に聖書研究をお勧めください。その2の(2 サタン編)は明日また書き
ます。その2の答えがわかると、実は、どうしてサタン(ルシファー)とその取り巻き
の悪霊どもがアダムを誘惑したときにすぐ滅ぼされなかったのかという質問の答えがあ
っという間にわかるようになります。みなさんも考えてみてください。

 

順番に考えましょう その1

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 2月26日(木)08時40分55秒
  まず、どうして(1 あなた)ではないのかを考えましょう。
あなた(または私)は罪びとであり、そのままでは死ぬべき存在です。罪のあがないがなければ滅びる運命です。しかし、ローマ人の手紙1章5節に「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」と書いています。つまり我々の罪のあがないのために捧げられるキリストの命というのは、値なしに何の対価もなく与えられるというのです。それならば、どうしてキリストの命のあがないを受けるものが、キリストの死に際してキリストの痛みを増し加えたとする道義的の責任が問われることが有り得ましょうか。そもそも、我々の個々の罪がキリストの十字架の重荷を増し加えたと言う考え方は聖書にはありません。

弱き者さんはSDAの人から習ったとおっしゃっていますが、これはSDAだけでなく、一般の教会にすら広く見られるものです。たとえば牧師が講壇から「我々が心無い罪を犯すたびにそれはキリストの手にコツコツと(←ジェスチャーを交えて)釘を打ち込んでいるのだ」というようなショッキングな比喩を用いてキリストの犠牲を教育するのを見ることがあります。これは一種の説教の便法といいますか、ビリーグラハムですらそういう言い方をしていたものです。しかし、そうした比喩が聖書の教えているキリストの犠牲の性質を正確に反映してはいません。

考えてみてください。イスラエルの民がどんな重症なはやり病いにかかっていても関係なくモーセの掲げた蛇を見上げて救われたように、キリストは我々がどんな罪を犯していたとしても関係なくキリストの犠牲を見上げることによって救われます。ですから、イエスにとっては我々がどんな重い罪を持ち込んでもキリストのあがないを受け入れて信じることによって救われるのであり、あなたが金槌でキリストの手に釘を打ち込むために一回叩こうが百回叩こうがキリストはWHO CARES?なのです。あなたが金槌一回分の罪を犯そうが百回分の罪を犯そうが、キリストはいずれにしても犠牲として既に一回だけご自身を捧げられ、死なれたのです。あなたに頼まれなくてもキリストは死なれたのです。そうして神があなたをゆるそうとしておられるのに、その上にわざわざキリストを傷つけた責任を感じさせるような重荷を神がどうしてどうしてあなたの頭の上に積み重ねることをされるでしょうか。もちろん聖書にそのような事はどこにも書いていませんし、神もそうなさいません。
 

難しいです

 投稿者:ヤスダ  投稿日:2004年 2月26日(木)03時10分42秒
  1,2,3のいずれでもない理由をはっきり答えることができません。
というより、1〜4すべてが正しいと思ってしまいます。

1.あなた
アダムにあって死を免れない全人類の1人として、主イエスにあって生
きる為に十字架(血)が必要だったから。私たち一人一人が犯す罪のた
め十字架に掛けられた。
2.サタン
アダムを欺いたため、主イエスの血によって全人類をあがなう計画がた
てられた。サタンがルシファーのままであれば、十字架はなかったから。
3.ユダヤ人、パリサイ人
「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってもよい」
「彼を刺しとおした者たちは、彼を仰ぎ見るであろう」
実際に手を下したのはサタンに扇動された彼ら。
4.神
血を流さずに罪の許しはありえないから。自らの血をもって人類の回復
を計画した主イエスと、それを許された父なる神の愛こそが十字架を生
んだ。


(牧師さんへ)

臨在の感覚への回答ありがとうございました。適切な答え感謝します。
私が個人的な感情と思ったのは、他教団の礼拝で2度目の訪問に何も
感じなかったのが理由でした。
(今思えば、丁度そのときはクリスマス期間であって、さかんにクリ
スマス曲をいくつも歌っていました。やはり異教が元であるクリスマ
スは神に祝福されないのかもしれませんね。)
 

重ねてお尋ねしますが

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 2月25日(水)21時27分40秒
  反論やコメントは御座いませんか >教会員の皆さん


 >キリストの血を求めたのは何よりも父なる神でした。

もっと正確に言いますと、人の罪がゆるされるために、キリストの命がみがわりに
提供されることを父なる神がよしとされたということです。アブラハムがイサクを
ささげるように求められた故事を今一度瞑想してみてください。

 

イエス・キリストを殺した人

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 2月25日(水)20時54分21秒
  イエス・キリストを殺したのは父なる神です。

キリストが死ななければならなかった理由は私たちが犯した罪の為に血のあがないをする事でした。

このキリストの血のあがないを要求したのは、「わたし」でも「サタン」でも「ユダヤ人」でもありません。

キリストの血を求めたのは何よりも父なる神でした。
よってイエス・キリストを殺したのは父なる神です。
 

さらに突っ込みましょう

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 2月24日(火)15時16分40秒
    イエス・キリストを殺したのは誰なのでしょうか。
  次の中から選んでください
    1 あなた
    2 サタン
    3 ユダヤ人、パリサイ人
    4 神

という質問があったとして、答えが1,2,3のいずれでもない理由をはっきり
答えることができますか? また答えが4である聖書的理由も提示する事が出来
ますか?
 

まず順番に行きましょう

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 2月24日(火)15時10分36秒
    >イエス・キリストを殺したのは誰なのでしょうか。
  >良く分からなくなってきました・・・。

これは福音の基本中の基本です。
キリストを十字架にかけられたのは神です。 
神はそのひとりごを給う程われらを愛されたと書いてあるからです。
 

反論を期待します

 投稿者:嵯峨野教会牧師  投稿日:2004年 2月23日(月)22時20分28秒
  さて、みなさん。ごらんのように、
「私たちの罪がキリストを殺した」という教会でこれまで教えられてきた(?)
十字架のテーマが否定されつつあります。これに対して他の皆さんからは何も
疑問は御座いませんか。他の教会の兄弟姉妹をお誘い合わせ上当聖書研究室に
お出で下さいましてこの厳粛な問題を一緒に考えたいと思いますが如何でしょう。

その結果は必ず祝福されたものになると信じられます。
 

申し訳ありません

 投稿者:弱き者  投稿日:2004年 2月23日(月)22時04分1秒
  嵯峨野教会牧師様、とても気になったのでご質問しました。
少々、飛躍してしまいましたでしょうか(苦笑)。

私は、「イエス・キリストを十字架にかけたのは私達だ。」と教えられた時、
とても新鮮な発見だった事を今でも良く覚えています。
それ以来、イエス・キリストを十字架にかけたのは、ユダヤの方々だけでなく、
本当は私自身がイエス・キリストを十字架にかけたのだと思うようになりました。

確かに、イエス・キリストを実際に十字架にかけ、手足に釘を打ち付けたのはユダヤの方々でした。

ひとつ質問でよく理解できなかったことは、
キリストの死についてサタン以外の誰かが責められるべきであるという考え方がどこかにあるのでしょうか。キリストはあなたの為に死なれたというのはよろしいですが、
キリストはあなたに殺されたのだと教える人があるのでしょうか。


このご質問に関してですが、「イエス・キリストを十字架にかけて殺したのは、
私達一人一人なんだ。ユダヤ人だけが殺したのではない。」という事を、誰かに学びました。これは、ほぼ確実にSDAの方から学んだ事です。

“イエス・キリストは私達の為に死なれた”という表現と、
“イエス・キリストは私達が殺した”という表現は大きな違いですね。
今、この両者の違いを再認識しましたが・・・。

イエス・キリストを殺したのは誰なのでしょうか。
良く分からなくなってきました・・・。

追伸:
今回、この件が気になったのは、朝テレビのニュースで外国でイエス・キリストを題材にした映画が製作され、この映画が上映されたら反ユダヤの渦が大きくなるという話を耳にした事がきっかけでした。

ユダヤ人が迫害されるのは、イエス・キリストを実際に十字架にかけて殺した事に端を発すると認識しています。
ただ、もしもイエス・キリストを十字架にかけて殺したのが私達一人一人であったとするならば、この反ユダヤの理由は間違いという事になります。

今まで、イエス・キリストを十字架にかけたのは私自身だと思っていました。
でも、間違いなんですよね・・・(苦笑)。
 

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